奏法

2024年9月 6日 (金)

音楽備忘録1847 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➋

続いてはメカ低感高奏法が音楽に、具体的にはどんな効果があるのかざんす。
歌で言うならコブシやそれに準ずるの等で、演歌や各国の民謡等では胸に付けた名札みたいなのに近い。

歌手の場合各人の声色だって当然個性と直結してはいるが、それだけで通用するのは「誰とも似てない声」の持ち主限定だ。
が現実には人間と犬の声ならハッキリ違う代わり、同族同士ならそんなに極端に異なるのはほぼ存在しない。

にも拘らず似てないと感じる例もあるのは、例えば声と体躯の組合せが正反対だったり片方は標準語・もう片方は方言でしかしゃべらなかったりするからだ。
前者は声量・息継ぎ間隔・強さ等に大抵は差異を生じるし、後者は外国語でも良いがそもそも発音が一々違ってたりするからね。

もしその方言さんが標準語もしゃべってくれたら、あら実はあの人と声がクリソツだったのねと分かるんだろうけどさ。
こんなの(使い方)が一般的には声色より音色巾の狭い楽器なんかじゃ、もっと重要な個人特定要素になって来るですよ。

でこの個人ってのは単にパーソナリティの特定なんかより、表現自体の特徴により影響があるねん。
全く同じ旋律でも何処にコブシ(装飾音)が入るかで、聴いた感じは時に別物になったりする。

因みに世間では常時・杜撰大王でも普段は装飾音と表現してるが、マクロ視点に立てば旋律自体が異なっている。
唯これ等は時間的に物凄く短いとか、同じ様に料理する人が少数か居ないので便宜上旋律と装飾音に分類してるに過ぎないんだ。

この辺がどの程度感覚で捉えるか理屈で捉えるかの差で、あらゆる聴き方されるのを優先するならどんな些細な相違もホントは許しちゃ駄目なのよ。
けれど必ずしも誰でもは真似出来なかったり、それが個人のアイデンティティだったりするから妥協してんの。

但しその「妥協の仕方」が凄く問題で、何処かに不足が生じたらそれを最善の方法で補っとかんとね。
それでも聴き専ヲタにしてみれば、実際気に入ったのとは違うんだから違うんだけどさ。

んで明白だから聴き専ヲタとしただけで、ド素人の一見さんだって敏感な人だと雰囲気の僅かな差を感知する人も居るんすよ。
そうして色々限定されると実数こそ小さくなるが、少なくとも雰囲気を最優先にするなら決して無視は出来ねんだ。

だが理屈を優先する世情もあってある程度迄は仕方無いものの、今劣化本邦みたいに流石にガン無視は無いと思うのよね。
しかもそれが奇妙なのは、過去にはほぼ雰囲気のみのなんかが地域的な独自主流だったからだ。

或は長らくそうして来たのが飽きられたのかも分からんが、西欧と比べると譜面で分かる様に向うの方が論理化は遥かに優性だったからねえ。
もしかしたら戦死で相対的にセンスの無い奴が増えて、って勝ちたきゃ能力・感覚共に優れる方から戦地へ送り出すべ。

今劣化本邦では敗戦の負の遺産についてちゃんと検証してないか、してても壺の都合でお蔵入りさせてるか知らんけど。
文化程度も戻らずこんなで平然としてたら、さぞかし外国から見たら蔑まれる材料になってんだろうよ。

-続く-

2024年9月 2日 (月)

音楽備忘録1843 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➊

拙ブログでは以前にも限定的に言及してるが、奏法に依る評価の不当な差異への問題提起でやんす。
その中で普段から杜撰大王が着目してるのが、音楽に対する効果は絶大で感覚的には高難度なのにメカニクス的に低難度なヤツの扱いざんす。

私感では昔から日本でだけ不当低評価されてる感じで、恐らくそれも表現巾等に悪影響を及ぼしてると思うんだ。
具体的には過去述重複もあるが俺言い「一筆弾き」やバスドラのSlide Double等がそれで、実際用途不一致だと不明瞭になったりするだけなんだけどね。

しかし何を置いても釘を刺しときたいのが、その楽器でしか不可能な表現・技のが結構含まれてる点なんだ。
理想は人力生だけど予算事情が許さん時ゃ打込みで、なんて邪な考えを持つとこんなのお邪魔かも知れんがね。

だが再三吠えも「今更生身の肉体で奏でる」なら、寧ろなるべくその特権を使わなきゃ意味ねんじゃねっとね。
是又頻吠え安定度・正確度では所詮人間如きは、チープな機械にすら完敗なのだよ。

と理屈はたいがいにしといて、先ずはもっとその利点を再検証しませう。
音楽表現で何に奏でさせるかを撤廃して最も肝要になるのは、ムード・ニュアンスなんかなんすよ。

作者・奏者が音楽にしようと思わなきゃ、音自体は音楽のだって唯の音に過ぎんのどす。
古い言葉では「作ってる物に職人が魂を入れる」なんてのがあるが、そう云う目に見えないけど必須のプロセスを経ないと音楽にはならない。

でその際最も扱いの面倒なのは、数値化とか出来ないヤツなんだ。
音階とリズムはもう譜面で明確化されて久しいが、「記譜するのに馴染まない」のは耳や想像で対処するしかない。

更に追い打ちを掛けるのが作者からの伝達すらままならん処で、該当するのがありゃ例示可能にしてもそのものズバリの音意外基本抽象的な言葉位しか手段が存在しないんすよ。
にも拘らず杜撰大王としてはそここそが核心だと考えてて、これは各自の個性面でもとっても大事な役割を担ってんだ。

肉声歌唱なら声色の違いがあれば自然と出てくれるけど、楽器は大抵は同じのを誰かが持ってて似たように奏でてたりするかんねえ。
折角エレキみたいに種類と組合せが無尽蔵に近く豊富でも、人気や好みの事情で限られた定番のどれかになってる事も多いじゃん。

そんな中でマトモな奏者同士ならそれなりの差異が出るのは、計測困難な程の音の強弱や発音タイミングの相違があるからだ。
本来芸術は創作者の加減がほぼ全てな物なんだが、近年は定量化→明確化→誰でも楽に確実に手に入れられるのばかりが脚光を浴びてる様だ。

んが大袈裟に言やこれ最早経済産業と芸術との戦いで、その首謀者は名ばかりの芸術擬きでボロ儲けしようだなんてなんと腹黒い。
ってかそんなの一時的にしか騙されて貰えないのは明白で、芸術産業自体の自殺行為なんだよね。

尤も従事者は生活が掛かってんで従うしかない側面もあるけど、本気でそうしちゃったらアーティスト寿命を無くしちゃうよ。
呉々もせめて
「フリ」をするに留めといて、裏ではしっかり修行しとかんとあきまへんで。

-続く-

2024年8月31日 (土)

音楽備忘録1841 J-POPでの無駄な苛烈サウンドに異議あり⓮

何でもやり過ぎなのを指摘するのがクドい杜撰大王とは皮肉でしかないが、未だに俺言い「これで足りてるか不安症候群」は自身も完全寛解には程遠い。
だからこんな老害でも気持ちだけは誰より知ってる自負があって、しかしどうやら主に2つの原因があるらしい。

その1は古い世代だとリアル人力音源の音が基準になってるせいで、Line録り以降デジタル音源も含め音の存在感に脆弱性を感じる処から始まっている。
旧来の録音ではほぼ必ずMicを使用してたんで、どんなにOnセッティングにしようと背景雑音を完全に無くす事は出来なかった。

その頃は他の録音関連機器も低性能だったから、もっと欲しい音だけクッキリ録れんもんかと何時も思ってた。
のがいざ可能になってみればクリアになったは良いが、どうもアッサリし過ぎてて何か物足りなく感じられたんよ。

のは意識外にあっても空間の残響音等も含めたのを「○○のサウンド」と認識してるからで、それは今でも楽器に疎い人だと姿で視認出来ないと何の音だか分からない時も少なくないだしょ。
私感では1980年頃がこの新懸案の発生境界で、レジェンドの模倣をしようにも金満プロじゃないと例えばデジリバを使えなかったのも一因してんのよ。

Line録りでもトランス入りダイレクトボックス等が同様で、昔からのスタンダードなAmpでは最低1回はトランスを経由してからの音だかんね。
確かに純音響的には省けた方が何かと有利なんだけど、あまりに経路が異なると楽器の音色形成を構成してる要素迄道連れでレスになるだよ。

かと言って何でもノイズ迄拾っといたんじゃ曇って濁ってでアカンしで、実は背景音の最適含有量は物凄くシビアで微妙なバランスを要求されるもんだったんだ。
録り場所が自由に選べない+あってもポンコツなデジリバで、尚且つ大抵は当然Mixで匠の技も持ってねえと来りゃそりゃあんまり上手く行く訳ゃねえっての。

ので却ってローテクで旧式な録音方法にした方がまだマシになる確率が高いんだが、自分達だけ望んでもないのに古臭い音じゃ
やだもんねえ。
ほいでアイテムやツールは兎に角揃えてみるんだが、昭和のサラリーマン父ちゃんの無駄に多いゴルフ用品みたいな事に。

母ちゃんにはほぼ例外なく叱られるが、それでも趣味だったら家庭内案件で収まるからまだ良いんだ。
素人相手でこれといった実績の無い録音屋がお客にアピールするには、一通り揃ってる方が安心感はあるでしょ。

けど同傾向になれば「高級な素人」は凌駕出来ても、「低級なプロ」にすらなれなくなるコースなんすよ。
一応頭じゃ分かっててもお客に来て貰わん事には商売が成り立たないからか、段々このウイルスみたいな奴が高級なプロの方まで感染してっちゃったのかな。

要するに木乃伊取りが木乃伊になるみたいなもんで、段々無垢な素人の時の感性を忘れてっちゃうんだ。
更に良くないのがそんな連中普段は仕事上で、ホントのズブの素人とは接点がねえべ。

そうしてる内にトウシロウは余計な口出すんじゃねえとなって、自分達の方がイカレてるのがもう分かんなくなる。
でその傾向が今劣化本邦でだけ強く出るのも、赤信号皆で渡れば怖くないなんて言葉が出る国だからなぁ。

=つづく=

2024年8月25日 (日)

音楽備忘録1835 過小評価で忘れられつつある人々㉝

Adrian Gurvitzの2回目は、Baker Gurvitz Armyと彼の兄弟の話しだ。
BGAについては先ずよりRockでキレッキレなGinger先生が聴けて、Jazz出身でもちゃんとRock Drummerだったのが良く分かった。

概述の如くCreamのコンセプトはJazzなんで、かなりHardだが敢えて非Rock的な叩き方をしてたらしい。
のに皆が勘違いし易いのはBassがエレキで、Guitarの人はHard Bluesのまんまだったからだろう。

かく言う杜撰君自身かつてはそれが分かってなくて、Ginger Bakerって個性はお釣りが来るけど何かもっさりしてて音色もあんま恰好良く無いなと思ってたよ。
まあ音色の件はこれも概述友人のお陰で、割かし早期に録音のせいだと判明したけどね。

でもどうも欧米のと日本での評価が乖離気味で、長らくどっちが正解なのかと思ってたんだ。
髭爺の話しはこれ位にしてGurvitz兄弟のへ進めると、比較的常に同行してたPaul Gurvitz(Bass:他での本職はGuitar)の存在も結構耳に留まった。

この人詳細は情報が乏しくあまり分からないが、拙ブログではお馴染みオーソドックス弾きのみで何でも熟しちゃうタイプみたいでね。
因みに杜撰君は元来独自個性弾きしてるのの方が好きで、けどそんなのは自然と注聴を集めて少しは印象に残るもんだ。

それを無しに何かが残ってるのって、音楽内容がその分優れてる証拠なんじゃないかな。
BGAではちょっぴりアフリカンなRock系・兄弟のソロ作ではAOR路線と、だいぶ違うのに全くスムーズに対応しちゃってるんだよ。

今迄紹介して来たそれ系の人と同じくナルシステクには目もくれず、音楽理解の深さとセンスの良さに主軸を置いてないとそんな真似は出来ねんだ。
上記の通り杜撰大王は目立とう精神も旺盛なんで独自のプチナルシステクは放棄出来ないけど、それでもそれを噛ますのは曲が求めてると思った場合限定ですわ。

恐らく生きてる内に完全にエゴレスにはなれそうにないけど、感覚的な気持ち良さが絶対に優先すべきもんっしょ。
わ兎も角純粋に感覚リスナー耳で聴いた際に、彼のBassは最適解の1つになってたんだ。

この手は玄人好みの一種と言えなくはないが、楽しむだけならド素人にも充分行けるのが少しレアなんだ。
但しファーストインプレッションのインパクトは往々にして少々弱く、偶然何回か耳にする機会が無いとその魅力の分かり難いのが難点だ。

彼のソロ作についてだとその歌声が決して強くはないし特別個性的でもないから、我々外国人にとっては歌詞の理解が浅い分余計に気に留まり難いだろう。
普通歌物なら歌に耳が行くのは当然だからそうなっちまうが、歌も含めたサウンド全体へ耳を傾けると色んな加点ポイントが見つかったりするんだ。

時には歌ばかりを追わない聴き方をしてみるのも、埋もれた佳作の発掘・理解に対しては有効なんじゃないかな。
その場合は寧ろ外国語の方が有難い位で、たまたま歌詞に気に食わない箇所があってすぐ分かっちゃったらちょっち素直に聴けなくなったりしてな。

=つづく=

2024年8月21日 (水)

音楽備忘録1831 過小評価で忘れられつつある人々㉜

今日紹介するのは今劣化本邦ではハイパーニッチと化した英のAdrian Gurvitz、もし良く知ってる人が居たらそりゃガチヲタ間違いなしだ。
って位の本人はレアな存在だろうが杜撰大王如きが知れたのは例の聴き専ヲタ親友のお陰も、あのGinger BakerがCream後にやってたBandに居たからなんだ。

そのグループ名はBaker Gurvitz Armyで、主に’70年代中期に何でもアリなRockを演ってて一寸気に入ったんだ。
DrummerとしてRockでのGinger Bakerってどんななのか知りたくてが発端で、ってのもCreamはJack Bruceに依れば「Jazz Band」だって言ったからだ。

Gingerの変態性は生来のものにしても、どの位普通な叩き方もするのかと思ってさ。
このBandの話しは次回以降に譲るとして、Guitar・VocalのAdrian Gurvitzって人も同じかそれ以上に気になったのよ。

結局現時点で気に入ってるのは’70年代末のソロ1,2作目だけなんだが、彼のジャンル遍歴が一寸面白くてね。
当初はPsychedelic Blues Rockからスタートしてサイケが取れて少しHardが付いた迄は分かるが、その後により歌がメインなAOR系に行ってるんだよ。

因みに表層的にはSteve Lukather等だって似てるか知らんが、彼の場合若い時の請負仕事のニーズの関係がとても大きかった。
本人自身は飽く迄Rockでも世はAOR全盛で、まだその頃は他の有名人みたいにHardとかMetalとかのイメージも付いてなかったからねえ。

処がAdrianの場合は自ら企図してAORに参戦した様で、そりゃ根底には売れたい願望もあったんだろうけど。
どうやら最大の理由はより巾広い曲調を扱えるからだったらしく、歌中心であり乍らしれっとインストも入ってるんだ。

それ迄の作品でも実は作曲能力が最も長けてるのではって兆候があったが、対外的には歌えるGuitaristの領域から脱せずに居たんだ。
但し意欲的だったソロ2作でプチブレークして以降は、守りの姿勢に転じた感じで杜撰君としてはもう興味を持てなくなってるがね。

わ兎も角玄人耳で聴くと音楽的に中々奥が深かって、聴くのは楽だが作るのは至難そうな処に一目置かざるを得ないんだ。
因みにⅡで杜撰君のAOR全体評は編曲が作曲に勝ってて、その予定調和的部分のせいで飽きの来るのが割と早い印象でね。

だからハーモニーの美麗さ等では秀逸さを感じたが、「汚いのに美しい」等の欠けてるのが物足りない。
のが彼の手に掛かると突如IsleyみたいなFuzz使用法も出て来たりで、他の凡庸なAORとは一味も二味も違って面白かったんだ。

故に若干邪道だが良質なPopsとかRockだと思って聴いてて、AORファンが期待して聴いたらもしかして肩透しを喰らうかも知れぬ。
のに日本語カテゴライズではAORに固執してるから、それで余計に
マイナー扱いされてるのかな。

=つづく=

2024年8月17日 (土)

音楽備忘録1827 過小評価で忘れられつつある人々㉛

今回は人と言うよりカテゴリ全体に近くなるが、かつての映画・TV等で職人が手掛けた音楽の名作についてだ。
今でも皆無になったと迄は申さぬが、昔のと比べると本職とは到底呼べない物ばかりに変わっちまったんだ。

そう言うと編成等の規模差の事かと思われるだろうが、それ以上に曲のクウォリティ等に歴然の差が感じられるんだよ。
具体的には単に曲レベルの高低だけじゃなく編曲も含めた「巾の広さの相違」が、楽しむのみならず参考にする際のお役立ち度に雲泥の差を生じとん。

のをなるべく多角的に検証してくとして、本日の生贄は米のTVドラマThe Magician(’73)のOP曲ざます。
どうせ例示するならもっと知名度のあるのにすべきなのに↑なのは、他ので中々お目に掛かれない要素が入ってるからなんだ。

先に補足しとくと主演のBill Bixbyは数年後、変身前の超人ハルクを演じてた名優だ。
加えて当時アホガキの俺が知ってた位だから’74に日本でも放送されてて、只それが東京12チャンネル(テレビ東京)だったから今一知名度で損してるかも。


で全体としては’70年代のだからBig Bandの流れが濃厚だが、お題が奇術→魔法の親戚と考えたかでアラビアンテイストが加わってたんだ。
っつっても出だしの主旋律をTrumpetか何かで、一寸それっぽく吹いてるだけなんだけどね。

けどストーリーも登場人物も一切中近東レスなのに、それに依って醸し出される不思議感が妙に内容にマッチしてたん。
要するに本職の専門家が手掛けてると演奏・サウンド面では未だしも、音楽の内容の広大さとか節操無さの部分でおいそれとは太刀打ち出来ん違いがあったんだ。

今風に換言すりゃこれぞグローバルってなもんで、芝居なだけにあらゆるジャンルを1つも欠ける事無く熟さなきゃなんないっしょ。
魔法や怪獣・宇宙人とか空想のですら「実音化」する必要があり、寧ろ実音化出来てるからこそ視聴者があり得る話しかもと思えるんだからね。

その意味では純粋な名曲となったのとは差異が出るのも当然で、決して唯の名曲が参考にならない訳じゃないんだけどね。
既存のとは何処かが違う新表現・新感覚を求めてる際、ダイレクトに参考になるのはこっちなんだ。

でⅡで大して人気は得られずともこう云う独自性があるのは稀有なんで、今劣化本邦でももう少し大事にしたら良いんじゃないかと思うんだけどさ。
又こんな件では大胆不敵にも客に文句を付けるが、壺や電通に踊らされて「楽しみの種類や巾を狭めてる」のに悔しくないのかな。

もっと言うなら教育の場で少しは教えないと嘘で、やれベートーベンがモーツァルトがなんてのよりよっぽど一般人には必要不可欠なんだよ。
音楽の楽しみ方とか聴き方って自身が演る演らないに無関係に誰にも必要で、そうしとかんと趣味にするかしないかさえ
ちゃんと選べないんだから。

=つづく=

2024年8月16日 (金)

音楽備忘録1826 打倒閉塞感➌

音楽作品は経年劣化が殆ど無いを続けて補強しとくが、これは文学等でも同傾向にある。
尤も勘違いし易いのが流行等で、作られた時代特有のだと確かにその部分はマッチしなくなったりする。

だがそれはディテールであって内容の骨格では無く、どうせ丸パクリはご法度でしないんだからさして深刻な問題じゃないんだ。
それが最も分かり易いのがネタ元は男性で、引用するのは女性なんて場合だ。

今劣化本邦では女の子が自称を俺とか僕なんて呼ぶのもプチ流行してるけど、それは飽く迄例外で性不一致の人以外本気で男になったつもりで歌う奴人なんてあんまり居ないでしょ。
音の方でも同様かそれ以上に、表面的スタイルより内容に注聴すればね。

これはバーチャルな存在にだけ与えられてて、幾らミントコンディションなんて言っても現物だと経年劣化から完全に開放されるのは無理ってもんだ。
近頃一部で昭和ヲタが流行ってて、彼彼女等はリアル昭和アイテムに細心の注意を払って愛用している。

がしかし実際の昭和では今よりゃ物は何でも大事にしてたけど、↑みたいに後生大事になんか全然してなかったんだよ。
例の過去述俺言い「真空管爆弾遊び」とかが典型の一部で、実際に電気ヲタの俺以上に悪友は全く罪の意識皆無で平然とガシャンバァンとやってたんだから。

すべからくその時どう思ってるかで、人間の反応や行動なんて簡単に変わるもんなのよ。
さてここからは若者はもし分からなくても当然で、ある程度齢取ると無意識でも皆なってしまうお話しだ。

自分の知己に現在進行形が多く過去のが少ない内は、昔のの存在は何でもちょっちレアだ。
のが概所持知己が逆転すれば印象もアッサリ翻るもんで、それでも残るのはリアル体験の有無だ。

から50位迄はそれが強く作用してたんだが、過去には体験可でも不可能になって久しくなって来ると未体験ののと差が縮まる。
特に体験機会が少なかったのとか当時あまり興味が無かったのだと、想い出だって段々希薄になって行くんだ。

そうなって初めて人の時代感覚のいい加減さを思い知り、つまりは喉元過ぎれば熱さを忘れると似た様なものと悟らされるの。
で今どう感じるかもどうでも良か無いが、今どれを選ぶかみたいな直接的なものじゃなきゃ時間軸は大した意味なんて持ってねんだ。

但し私体験で影響を感じるのが若くから過去モノに触れてたか否かで、触れてない人程どうも心情変化が大きいみたいだ。
杜撰君音楽のフェイバリットに出逢ってから10年以上聴き専だったんで、いざや演ろうとした頃には周りと合わないし今更とか言われて当時は辛酸を舐めさせられた。

これがClassicとかJazzだったら、もう現在進行形の方が少なくなってたからきっと違ってたんだろうけどね。
当時Rockは日進月歩の時期だったから、変な話し今より好みの古さで年寄り呼ばわりされたりしてたんだわ。

その意味で「古っ」と言われて、今の方が全然嫌な思いをしなくなったんだから奇妙なもんだよねえ。
誰かとの共感目的なら流行の踏襲にも意味があるけど、各個人内レベルではそんなもんなんすよ。

-つづく-

2024年8月13日 (火)

音楽備忘録1823 過小評価で忘れられつつある人々㉚

ここで一寸恐らくそこそこ概知の人達を、今更取上げる意図に触れときたい。
杜撰大王の知識なんて聴き専ヲタ強者に劣るのは自覚してても、ベテランとなればそれなりにニッチな人達だって少しは知ってる。

ので何時か気が向いたら突然それも出すけど、可能ならその前に学ぶ為の聴き方をある程度マスターして欲しいん。
バカ犬的アホさの支配から中々逃れられない杜撰君は、情報からの習得率がかなり悪かったんだ。

のでⅡで一時期は異なるサンプルの量で補おうとしてたんだが、聴き方・分析の仕方が不適切なままでは穴(欠点)を無くせなかったんだ。
又最初から好みの以外ので集中力を保ったり、飽きずに続けるのも苦痛になって来たり。

そもそも貧に量的獲得限界は低い等色々から、聴き直しを考える様になってさ。
只元々苦手な聴点の変更は簡単じゃ無かったが、時間経過(ブランク)でこっちの状態が勝手に変わってるのが役に立ったのよ。

その間に担当パートが増えたり編曲家としての責任感等が芽生えてて、同じ自分勝手にするにしても以前よりは相手の事がちゃんと意識中に残る様になったんだ。
それが「立場の異なる人の聴点」の理解と実践に繋がり、自身は無意識下で勝手に育ってたって訳。

で具体的にはどんな変化があったかったら、前3回述迄のEarth,Wind & Fireのちゃんとコピーをし始めてたん。
って言ったって杜撰君の事だから、スイッと進まなきゃすぐ投げ出したり放置しちゃったりしてんだけどね。

けど以前だったら放置じゃなく放棄してたんだから、本人にとっちゃプチ革命なんざます。
そうなってみると以前の記憶や印象と異なる箇所が登場して、それが又結構あべこべになってるのが多くてさ。

尤もそんな各個人印象・記憶にもオリジナリティが含まれてるんで、全部書き換えたりゃしないで残しとくのも大事なんだ。
がそれだけをずっと優先してると巾とか可能な事の限界を低くしちまって、慣れない内は厳しいけど結局は両方から攻められないといけないみたいなんだ。

それが自然体の聴き専の人の方がタイミングさえ合えばフッとそうなれて、奏者の方が自身で築かれた何等の既成概念に翻弄されて壁になってるのは皮肉なもんだ。
これを克服する一手段としては「敢えて記憶を消す」のがあり、原理的にはPC・OSの再インスコでクリーンインストールをしてみるのなんかと近似ざます。

尤も人間だと僅かでも意識すると必ず弊害が出て来るんで、たまたま生じたブランク等を代わりに利用してみようって作戦だ。
それには名前位記憶に留めとかんと再聴時に手間取ると思うだろうが、自作リストを作っといて脳の記憶域を開放してやったりすりゃ良い。

って私体験では良さげだから一応落しといて、ずっと後になってこれ誰だけっけ何で落しといた?なんてなっただけなんだけどね。😓
忘却は困る方が多いけど、人間ってそうでもしないとリセット効かないから…。

=つづく=

2024年8月12日 (月)

音楽備忘録1822 打倒閉塞感➋

杜撰大王は温故知新なんて年寄り臭いセリフだから昔から好きじゃなく、かつては別の言葉にすり替えて表現してたりした。
のでもっと新鮮な感じの言い回しが見つかると良いんだが、誤解を避けようとすると難しいや。

そんな訳だから内心は堅苦しいとか形式ばったとかとは無縁で、ただただイカシた真似する奴が居たぞなんて感覚なんだ。
以前述の如く心理にとっての新旧に実時間はあまり関係無く、自分が未体験だったらそれはどれも新なのよ。

画期的な発明をして大人気になった本人は、来る日も来る日も「それ」を世間の誰からも要求されるのでかなり早くに飽きてたりするやんか。
その側面からだと温故知新の真髄は、単に作られた時期で差別しないって事なんじゃないかな。

自身内の差別撤廃の工夫その①
一般的には録音された時代に依る音質差等につい気を取られるが、今だってやろうと思えばボロいラジカセでもBandの録音は出来る。
或は幾ら全体の音質が向上したとは言え、学校の校内やビル内の放送の音質は他のに比べりゃ大して向上してない。

のを魔用して実際にはオーディオで聴いてるのに、メガホンか何かから流れて来てると仮想するのだ。
その目的は音質と音楽内容の新旧は必ずしも一致してないんで、音質に釣られて古いと誤認するのを避ける為。

その②
こう動画での新作公開がデフォになると、実は色んな弊害も随分増えとんの。
先ず本人達作の動画が無いとそれだけで古いのかと思うし、あっても静止画やモノクロだとつい昔のかと感じちまう。

そもそも音楽の内容にしかこの件で用は無いので、視覚評価を混入させるのが間違いなんだ。
強いて言えば既にネタとしての利用者が多いと、類似の容姿的スタイルの動画が纏めて出て来るの位かな。

只この辺は難しい処で全く模倣なんてしてなくても、たまたま印象が似てたら勝手にパクリ判定されたりする事もあるからねえ。
その逆に酷いのになるとモロパクリしてたのに、著作権の有効期限内にそれに誰も気付かなかったとかさ。

結局は誰もやってなさそうな味に仕上げるのが肝要で、最初は容疑が掛けられてもいざ実比較してみて違ってりゃセーフなんだ。
但し差別化が不十分だと必然的に新鮮味も少なくなるんで、効果っつう点では最適では無いですぜ。

すぐに思い付くのだと杜撰大王なだけにこの程度だが、実質的な時代の影響を受けないのも音楽作品の特権なんだ。
乗り物であれば公害規制等に引っ掛かれば、どんな優れものでも封印を余儀なくされる。

茅葺き屋根等も職人が居なくなりゃ維持・更新が不能になるから、継続が日々刻々と困難化してる。
勿論音楽だって生演奏は本人没後は不可能だが、既に記録されててメディア革新等に対応済みの作品自体は殆ど影響を受けねんだ。

-つづく-

2024年8月 9日 (金)

音楽備忘録1819.5 過小評価で忘れられつつある人々㉘

※事故発生:拙ブログでは記事に通し番号を付けて整理してたんだけど、重複させたのに気付かず公開順が入れ替わってしまいまつた。
読者の皆様には大変お手間ですが、意味不等生じた際は併せてお読み下さいまし。

ついエキサイトしてグルーヴ以外具体内容を提示し損ねたんで、Earth,Wind & Fireの2回目だぁ。
さて概述の通り目立たないが良質なグルーヴが確かに入口にはなってる気がするが、メジャーの売れ線にアフリカ文化を上手に取り入れた事で色々な副産物を生んだんだ。

その中で私的最大のは曲自体・リズムパターン等で、当時は一部のコアヲタ系で微かにしか聴けなかったのが一杯出て来たんだ。
尤も唯聴くには楽でも分析しようとするとかなり面倒で、そのせいで後継者が現れず孤立した感は拭えない。

んがしかし日本人だと逐一正確に拾おうとするし、海外でも白人は理屈で理解しようとするからそうなるのかも知れない。
かなり大雑把に「○○な感じの曲」に留めて置けたら、細部ディテールより大枠に貴重なのが沢山あるのが俄然分かり易くなるんだ。

彼等はJazzや当時の映画音楽とも競ってた様だし、かなり今に近いダンスミュージックの意識も既にあった。
ので飽く迄雰囲気を堪能して貰うのが主目的で、演奏やディテールは飽きさせない為のオマケみたいなもんなのよ。

この感覚はかつては日本にも大勢居た職業作・編曲家とも似てて、そりゃあプロの職人だから仕上がれば色々と高度な技も入って来るけどね。
恐らく本人達は初期段階のイメージを音に変換する箇所に最も腐心してて、それだからこそ畑違いのニーズにも応えられてたんだよ。

そんな姿勢が根底にあるからかノリ以外のリズム面で際立つとしたら、シンコペーションを中心とした符割のずらし方が俺には耳に付く。
少なくともポピュラー系でここ迄大胆且つ頻繁にやった例は彼等より前には他に無く、来そうで来ない・来なさそうで来ると実害が無い範囲で意表を突くのが絶妙だ。

そして彼等のが頻度・箇所共に独創的なのは恐らくネタ元のせいで、アフリカ等では奇数拍子もこっちで一般的な偶数拍子と同等かそれ以上の地位と普及率に由来するのだろう。
一々カウントなんかしないで感覚で聴いてみると、↑の類もそんなに実際違和感は無かったりするんだ。

つまりココは食えねえだろうと思っても、勇気を出して試したら全然行けるなんてのが多かった訳よ。(※リズムでの「食い」とは前の小節・拍に越境させて「食い込む」事象の音楽用語!?)
だが西欧圏を中心とする従来の常識だけに捉われてると、まさか行けるとは中々気付けないもんでね。

これをアホな杜撰君は当初カリンバ使うとか、土人みたいな衣装をするとか表面的にしか分からんかって。
勿論その今で言うレイヤー並の異世界感は集団でやった分インパクトは象徴的だったが、個人でならStevie Wonder等の方が先だったんだよね。

結局彼等の派手な衣装や編成は掴み専用で、本質はとっても初歩的段階での意外性とかにあった様に思うよ。
かつて一大ムーブメントとなったストリート黒人系のRapが早期に沈静化しちまった(微妙にスマソ)のとか、アースみたいなのをもっと参考にしなかったからじゃないかな。

=つづく=

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