奏法

2025年11月12日 (水)

音楽備忘録2278 杜撰大王の怪しい作曲法㉝

自分以外からのインスパイアは何も即興だけじゃないが、最大の相違はこっち次第で相手も逐次変化してく処だ。
この辺がどんなに工夫しても個人レベルの苦しい部分で、勿論それでも手前味噌の独り擬似Bandみたいな工夫は欠かせない。

尤も杜撰大王の擬似Bandは演奏訓練の為だけで、後は編曲に少しプラスになるかどうかだ。
即興演奏自体の訓練なら相手が固定でも何にでも合わせようとすりゃOKだが、相乗効果ってのがリアルセッションじゃないと得られない。(こっちの出方次第で相手も逐次変化する)

但し作曲の足し目的だったらほぼテクも要らないし、合奏相手の腕もほぼ不問で構わない。
確かに作編曲力に長けた相手の方が色々刺激を多く頂戴するだろうけど、基本的なフレーズの意外な展開や変遷には寧ろ下手にテクなんか無い方が適してるかも知んない。

ってのもなまじ色んな技を知ってると、フレーズ基本ラインは変えずに小技で幾らでも感じが変えられるからだ。
無論それだって勉強になるには違いないが、それだと主に貢献するのは演奏力になっちまう。

この辺が紛らわしいのは例えばドミソの次がド・ミ・ソの何れかであれば通常コードやその進行を大胆に変えなくても行けるが、それ以外の音を選んだ場合従前のコードや進行では合わなくなる場合が出て来る。
そうなって来っと単なる次の音では無くなるから、装飾やバリエーション以外の意味を持つ様になる。

ので曲調を左右する音となっててそうでない5音,6音より、たった1音でも大きな責務を担う事となるんだ。
言うなれば筋肉や脂肪の量より骨の長さってなもんで、仮にマッチョでノッポには見えなかったとしても鴨居におでこをぶつかぶたないかの差となって表れるん。

そうは言うてもコロナ禍+悪政のお陰でリアルで他人とのコラボ機会は減少気味だから、中々難しい処ではあろう。
けれどコラボれる機会が訪れたらみすみす逃す手は無く、未経験或は体験不充分でメリットが良くは分からないからって軽視しちゃいかんぜよ。

結局の処「人が演る音楽」には人間界特有の性質がそのまま出るもんで、人間関係から得た感覚が最後は物を言うんだ。
但し一般人間関係と音楽で異なるのが、一般論でのコミュ障がそんなに障壁にならない処。

なまじ一般論でのコミュ力が高いとすぐに迎合したりとか、相手の意見を否定したくないが為に持論を曲げたりする事もある。
他愛もない不特定多数との会話ならそれは好ましいも、音楽ではマイナスに作用する方が多いから欠点になるだよ。

最上位の腕を持つ職人は朴訥とした人の方が多いみたいに、会話その他で上手く繋がれなくても音で共感が得られりゃ良いんだ。
のでⅡで極端な話し鼻歌の掛け合い程度のコラボでも構わなく、楽器が弾けるか弾けたら腕がどうかすら関係ねんですよ。

それに相手に上手下手の拘りが無かったり自身のレベルに釣り合いそうな人に申し出りゃ良い訳で、但し目的が目的なだけにこっちは上手下手不問かそれに近いスタンスで臨まないといけない。
又そんな覚悟を決めて望めば演奏自体はド下手でも、少し良いメロ・フレーズを相手が投げて来た際にそれを逃し難くなる。

それが妙なもんで人次第で差異は出るが期待して無い相手が出したプチ良いのなら肯定する癖に、何故か期待値が高いとついその程度かよなんて感じちゃったりするもんだ。
んがこの手の言うなればサンプル採集では、感情は置いといて客観的に集めないと取れ高が悪いのだ。

-続く-

2025年11月10日 (月)

音楽備忘録2276 Drum椅子と座り方⓭

汎用・応用の利く座り方は俺言い「旧標準」たる膝中心が座面と同等か、それより少し下になる程度なのは未来永劫不変だと思う
では特定の奏法しか使わないならどうかったら、確かにそんなら踵が下りてる時太腿が殆ど傾斜しない程度の高さに座っても取敢えずは行けちまう。

その一例として今回は自身を生贄に顛末を記してみるが、杜撰大王の場合事の発端はSlide奏法の天才!?だった事だ。
って自分で言うなんて厚かましいにも程があるが、何の事は無いその裏には足首ダブルには全く才能に恵まれて無かっただけなのだ。

体験的にSlideかダブルのどっちも不向きに生まれついた例は無く、無訓練状態でもゆっくりなら大抵どっちかは早期に出来ちゃう様なんだ。
ってのもDrumペダル上では中々上手く行かなくても、日常生活でもし本当にどっちかの動作しか出来なかったら障碍者認定を貰えてるだろうかんね。

例えばショボいEffectorのフットSWみたいなヤツは、迂闊に体重が乗っかったら壊れたりする。
その逆に幼児にとっちゃ激重のフルコンGrandのダンパペダルなんかだと、到底足首だけじゃ充分踏み込めない。

ので子供ピアノ教室では悪い癖が付くのも嫌って、一定の体格に達する迄敢えてペダル不使用の曲しか演らせないのも少なくない。
わ兎も角当分の間杜撰君は短間隔で2つ鳴らそうとしたら、奏法選択の余地が無かったんだ。

当然遅い目のダブルには本来は足首ダブルの方が向いてたんだが、そんな事を考える知恵も余裕も無く過ごしてただよ。
2連打に対し地球上で超高速足首ダブルと超遅速Slideは夫々原理的に不可能に近く、もし月面で演ったとしても引力が減少であまり状況は変わらない気がするがどうなんだろう。

元はパートタイムDrummerだったからにしても、結局改善の兆しが訪れたのは50過ぎにLudwig Speedkingを偶然入手してからとえらい遅くなってもうた。
その原因は足首ダブル苦手思い込みもあったにせよ、今思えば目一杯低く座るのに拘ってたからって気がする。

更にその理由がペダルフットボードの傾斜具合と純Slide奏法のやり易さの関係で、爪先の蹴りだけで1打目を鳴らすには傾きが一定以上強い方が相応しい。
因みに自身では無自覚ももう一寸足首ダブルとの混合技になってたなら、そんなに傾斜角が強く無くても無問題なんだけどね。

それが飽く迄私感に過ぎないが時代が下る程フットボード平均傾斜角が緩くなった様で、過去に感覚だけで演ってた時期にはそれを勘案してより低く座る方向へずっと進んでたん。
それもこれも本職Drummerだったら未だしもこっちは他も色々沢山やんなきゃなんないから、時間無制限で色んな椅子の高さや座り方を試す気にはなれなかったん。

結果的に今思えばスローン高さと座り方を殆ど固定させてた事で、当初から折角得意な脚足奏法の上達や展開をかなり自らスポイルしてたんだよ。
こんなのも一種の硬直化と言え、ベストを追求するにはお邪魔だったんだ。

-つづく-

2025年11月 8日 (土)

音楽備忘録2274 杜撰大王の怪しい作曲法㉜

即興演奏と作曲の関係そのⅡは、作詞に即興はどの位効果があるのかざんす。
ここを掘っとこうと思ったのは今劣化本邦歌物界隈で、歌や歌詞のアドリブが過去比で極端に減ったと感じてるからだ。

ちょっち拗ねた考え方だがRock Vocalistにガチで踊れる者が少なかった昔、Liveで盛り上がって即興大会になれば歌で応戦する以外あまり方法が無かった。
例えば客席ダイブ等もそこそこ後年になる迄、お客が不慣れな内は事故に繋がり易いからおいそれとは実施出来ない。

し今だってそう云うのが不似合なジャンル・スタイルのもある訳なんだが、爆売れした奴を追い駆けるばかりでオリジナルスタイルを創作する連中の少なくなった事…。
わ兎も角こんなに実体験者がレアになれば、即興が作詞に貢献したりその度合いも分からない人が多いんじゃないかな。

作詞にも超古典例では植木等(クレージーキャッツ)の歌物等で結構あって、本人の口癖を作詞担当の青島幸男はかなり引用していた。
彼等クレージーのメンバーは元はJazz屋なだけだったが、突発的に言葉に依る一発ギャグを噛ますのってJazzのインタープレイとかなり相通ずる処があるねん。

それと比べるとまだ意地悪ばあさんも演じてない若造の青島幸男が、自身だけで考案するより既にメンバーが発した言葉の中にネタの宝庫があった訳だ。
一般感覚でメロやフレーズなら奇抜な思い付きの流用は想像に難くないだろうが、コミックバンドが廃れた今意外と歌詞にだって即興は大いにアイデアの宝庫なのを失念してるんだ。

又この件に関しちゃBluesセッション体験の希少化も考えられ、そもそもガチのドBluesマンはその場その時の心情を歌詞にだってダイレクトに反映させるのがデフォだった。
から日常的に歌詞のプチ即興創作が至極当然で、後年歌詞内の地名をLive開催地に即興変更するのなんかに残ってるんだ。

コロナ禍でより個人活動が活発化したし仲間に恵まれ難くなってるが、独りで勝手に歌うのとソロでも観客が居るのとでこの件ではかなりの相違がある。
同僚だろうとお客だろうと誰かそこに同席してたら、どうせなら共感し易いワードを用いた方が良いし場が盛り上がる。

捉え方次第じゃ贅沢っつうか傲慢だが、作詞テストに皆に参加して貰った方がリアルな反応がダイレクトに返って来る。
時間が掛かっても構わなきゃ孤独に夜鍋したのをYoutube等に上げても反応自体は得られるが、誰かが親切な書き込みでもしてくれないと方向性が合ってるのか分からない。

のが相手が眼前に座してたらニヤッとしたり眉間にしわが寄ったり、表情からも反応が読み取れるんだ。
より感性が鋭敏だったら「場の空気感」だけでも成否が分かり、更には1番でコケても2番の時に取り返せる等のメリットもリアルLiveにならある。

又自国内であれば音より言葉の方が相手を選ばぬ側面が強いから、寧ろセリフ(歌詞)の修行にこそリアルLiveは最適と言えるんじゃないかな。
しかしこれを有効利用するには用意された歌詞を歌うだけでは足りないし、歌にアドリブ要素が加わっても大丈夫な体制が要る。

今劣化本邦等些細なミスも忌避する様では難しく、でもノーミスだけが至高と考えるならLiveを演る意義は半分以下になるんだがね。
踊りだの語りでパーソナリティが分かったって悪かねえが、本業歌手の本職でそれが顕在化し易いのが歌詞の即興なんだけどなぁ。

-つづく-

2025年11月 6日 (木)

音楽備忘録2272 Drum椅子と座り方⓬

ほんだら少なくとも特定(Speed king等俺称"速度反応型")ペダルでは高目に座った方が、足首踏みがし易いし意外とパワーが出せたの内容詳細だ。
加えて過去述と部分重複するが見た感じと実際との違いも、念の為にそれこそ念押ししとこう。

9
さてさていきなりのヘンテコ上図は人の膝から下の脚足の最略概念図で、平均的な足首の可動角度を描いたつもりのものだ。
爪先をそれぞれ左は限界迄上げた・中は同じく限界迄下げた状況で、右が最大可動域の凡そ中間だ。

この中で真ん中の状態の時が最も全脚重を乗せ易くなるが、この時だけ脛とほぼ直線になっている。
真下へベクトル全てを向かわせたい時、この状態なら足首が余計なクッションになる事をほぼ避けられる。

一方左でも真の限界に達してればもうそれ以上は動かんから、同じくクッション作用はしなくなる。
が大抵はそんな角度でペダルは踏めないとなると、人次第で程度差こそあれなまじ柔軟性が残存してる為に幾らかパワーをロスしてんすよ。

そんな関係からか純Slide奏法以外では想像以上に上図真ん中のバレリーナみたいなフォームに、演ってる内に段々となってった奏者が少なくない様だ。(パワーやタイトさを追求してた場合)
が残された画像や見た記憶の足元が見え難いのが多いから、膝・太腿の位置が最高に踵を上げた状態の時のってのが中々把握し辛い。

のを踵が地面に付いてる或は少し上げた程度でそんな膝高さと誤認し易く、踵を最高迄持ち上げるとそれだけで5~10㎝とかなり高くなるん。
過去述の如く杜撰君も見事に上記に騙された口で、ってホントは勝手に目測を誤ってただけなんだけどね。

印象って時に恐ろしい程事実を歪めるもんで
、ついRockでそんな高く座ったら大昔じゃあるまいしカッコ悪いとの思い込みが強かってん。
又スマホが普及する迄自分が叩いてる姿の動画を横から録れるケースが、アマチュアレベルでは殆ど無かったのも災いしてるかも知れない。

録画≒最低でもテープ代位は必ず掛かったってのもあったし、舞台袖にカメラを設置するのも狭くて厳しきゃ感度が足りるか分からなかった。
勢いド下手な自身の叩く醜いであろう姿なんかより、憧れのあのお方の画像ばっか頻繁に見ちゃってんたん。

そのレジェンドが国内在住でDrum専門誌等にフォーム画像があったなら未だしも、こっちがその気になった頃にはもうBONZO等は居なかったから後でそんなのが見られる可能性は無きに等しい。
わ兎も角何とかして慣れられればどんな奏法も使用可能で、そのどれもでメカニクス的にパワーが出せる高さにしといた方がお得なんじゃないだろうか。

=つづく=

2025年11月 4日 (火)

音楽備忘録2270 杜撰大王の怪しい作曲法㉛

この項も大詰めを迎えつつあるが、今回は即興演奏と作曲の関係についてだす。
今劣化本邦等では即興演奏と作曲は比較的別物視されてっけど、オリジナリティを含む即興は広義の作曲に他ならねんですよ。

飽く迄私感に過ぎないも近年器楽奏者から優秀な作曲家が出難くなったのって、あまり即興を演ないからなんじないかと考えてん。
そこで作曲の起源について再考察してみると、そもそも作曲とか編曲の概念が生まれたのは音よりずっと後なんだよ。

先ずは声を出さないと歌になんないし、楽器若しくはそれらしき物だって奏でない事にはフレーズもへったくれもありゃしない。
そうして歌手や器楽奏者と認識される存在が誕生した後、彼・彼女等が何時も演るのなんかを指して作曲だの編曲だのと誰かが呼び出したんじゃね。

今でこそIT機器の発達のお陰でデジタルバーチャルでいきなり音を鳴らせる様になったけど、譜面登場以前は脳内に浮かんだフレーズを他人に伝えるには鼻歌なり何なりで自身が実音を出すしか方法は無かった。(録音なんてもっと後)
この事を現代に当て嵌めると極例ではあるが、平均律12音階に縛られない音楽のコミュニティがかなり衰退してるんじゃなかろうか。

無論不慣れな音律は理解に時間が掛かるから滅多に流行りゃしないだろうが、本人の脳内イメージを無改変でアウトプットしようとしたらそんなになっちまう可能性は誰でも持ってるに違いない。
その端的例が従兄から過去に依頼されたギターリフイメージに漏れ出てて、音階的には絶対同じ音にしか出来ないのに鼻歌を聴いた限りでは別の音としか感じられなかったなんてのがあった。

尤も上記は本人のイメージが曖昧な段階だったからその後そんなに追及して無いが、厳密に分析したら本当は⅜音だとかだったのかも知れない。
別有名例では映画に残されたBeatles I’ve Got a Feelingの創作シーンで、歌間のエレキチョーキングの加減を手の高さでPaulが指示してたのが印象深い。

8分音符で2個目から10個目進む間に連続的且つ滑らかに半音だけ下降させたかったらしく、こう云う欲が出ちゃうとPianoなんかじゃ到底表現し切れない。
現代の打込みですらそんな欲が出た際は、音階じゃ無く一定時間でのピッチベンドを線でマウス手書きするか数値入力したりする必要がある。

んだけどなまじ楽器が弾けると実演より感覚ダイレクトの手加減が出来ねえのが億劫で、杜撰君今迄殆ど打込みでは実践していない。
おっと横道に逸れたから元に戻すが上記みたいなレアケースも、即興を沢山演ってるとあんまレアじゃ無くなって来るんだよん。

Paulみたいにエレキギターならではの音を出そうとなんかしてなくても、即興での合奏時には共感の一手段としてこれみよがしに出音に合わせた態度となるケースがしばしばある。
例えばある箇所のチョーキングをアピールしたくて実際は大した負荷も掛かってないのに、凄い形相をしたりとかままあるじゃんか。

AIとの合奏だと普通相手の表情なんて無いけれど、人間対人間の合奏では表情等と云う視覚情報が実際は伴ってる。
そんな相乗効果とプレッシャーに晒されると、全く普段はしない演奏方法を試みるニーズが突発的に生じたりするん。

或は正反対に自分のソロの番が来るまでやたらと影を潜めといて、いざソロが来た際のコントラストを最強にしてやろうかとかさ。
但しこれが有効化するのは自分以外の他パートが伴奏に必要な要素を奏でてる場合で、極例では殆どソロしか担えない楽器は全休符になるなんてのがあるやん。

これ等意表を突くアイデアや不要なら思い切って排除する勇気って、作曲でもかなり大事なスキルなんだ。
だが編曲スキルレスの人だと実合奏しないと不安感が拭いきれず、つい余計なのを曲に最初から入れちまったりするんだよなぁ。

=つづく=

2025年11月 2日 (日)

音楽備忘録2268 Drum椅子と座り方⓫

さてさて皆さんお待ちかね…かどうかは定かじゃないが、ペダルやその常用奏法如何でも相応しいスローン高さが異なってる。
杜撰君大した腕とは言えないも一応スイベル以外の奏法は実用体験豊富なんで、この件に限っちゃ一家言を吐露しときたい。

何せ今日日はツインペダルの普及で、悪い意味でそれを使ってその場を凌いでる奴が多いかんね。
と妙に拘るのはまるで手テクと脚テクを差別してるみたいな、偏りがあっても殆ど誰も意に介してねえからだ。

毎度の遠回り比喩になるが諸君は自動車でパワーアシストレスの、ハンドルやブレーキペダルを踏んだ体験はおありだろうか?。
上記前者の場合少しでも車が動いてたら何とか手に負えるが、据え切り(停止状態で前輪の向きだけ変える)をしようとしたら剛腕じゃない限りフルパワーを要求され忽ち汗だくになるんだ。

のを和太鼓等とすりゃ西洋太鼓は差し詰めパワーアシスト付きってなもんで、それが手でも脚でもダブルストロークを容易且つ常用可能にしてる特権があるんすよ。
尤も近代ペダルではゴツくデカくしたフットボードを速く戻したくて、戻しバネを弱く出来ず足首踏みにかなり不利なのが多いがね。

これってバチの重さ長さとほぼ同じで、テクレスでもパワーを出したきゃそりゃヘヴィーな方が向いてっけどな。
でもそうした処でごっつい和太鼓程単打でのパワーは出せず、何たって胴も皮も断然和太鼓の方がヘヴィーなのがあるかんね。

だが一般的に両者を実演比較出来る機会は少なく、録音作品だけで比べるから中々気付けねんですよ。
わさて置き足首踏みで技術や練度のみでパワーが出せるのはある程度高く座った場合に限られ、その方が体重を乗せ易いからだ。

他方純Slideだけに忖度した過去杜撰君等の場合、蹴りの速さと強さが命脈を握るから低い程向いてたんだろうね。
のを過去自動車に当て嵌めると大型車と小型車の条件差と近似で、大型はトランスミッション等も大柄だからペダルは重くストロークもより長くなってた。

ので理想は速さもだが何より先ず踏み込み切れん事にゃ、クラッチ板を完全に離せなくて変速時ギアを傷めちまう。
基本性質はDrumペダルでも一緒なんだが、どデカいクラッチ板と比べるとビータなんて遥かに小さく軽量だ。

それ故足首踏みでの原理的遅さはかなりキャンセルされるし、それ以上の高速を望むならSlideだのスイベルだので演りゃ良い。
その方面では自称権威たる杜撰君は非常識レベル迄の実体験結果から、最適ペダルでの純Slideは最高速に関し他の追随を許さないのをとっくに確認済みざます。

では純スラ最適ペダルはってば大昔記述の如く、遠い昔に体験した人生初Drum Setが鍵になっとりま。
Drum奏法に関し殆ど無知・完全無練度の状態なのに、何故か初めて踏んだ時からいきなりSlide擬きが出来ちゃったんだ。

その時のペダルがたまたまLudwig Speedkingだったが、正直な処印象が良さげなだけで以降長い間実用面では大して意に介して無かったん。
のをⅡで偶然約35年振りに再会した際こんなに踏力が軽いなら、もしか苦手な足首踏みが出来る様になれるかもと思ったのがこの件でも始まりなん。

そこで我流研究に勤しむと新たな気付きがあり、想像してたより高目に座った方が足首踏みがし易いのが判明。
詳細は例によって次回に譲るが、パワーの点でも意外にも低過ぎない方が好結果だったん。

-つづく-

2025年10月31日 (金)

音楽備忘録2266 杜撰大王の怪しい作曲法㉚

あなたがなりたい作曲家像とは異なってしまうかも知れないが、一般的認識の主旋律がこしらえられないと作曲とは呼べないのかが本日のお題。
現況王道の形は昔とそんなに変わっちゃ居ないが、形態に拘り過ぎるのは考えものなのだ。

歌物を作りたいのにヒーリングミュージックみたいなインストが出来ちゃったとして、当分は一般公開こそ控えるにしても誰にも聴かせない程頑なに否定拒絶すんのもねえ。
その逆に遅々として進まず公開出来て無いが直近の自作インストのサビ部、実は思い付いた当初は丸っきり歌物だったなんて例がある。

それが曲構成や編曲を思案した最終段階で初めてインストにするかと決まったもので、それ迄はちっともインストで出す気なんか無かったんだ。
しかも見方に依っちゃ作詞に苦手意識があってまだ手付かずだったのが、たまたま怪我の功名になったと言っても過言ではない。

こんな経緯を辿ったのやそれを作者が一々種明かししてるのは少なそうだけど、作曲プロセスに公開義務なんかねえから本当の処どれ位どうだったのかは当事者のみぞ知るなのだ。
その意味で好きなのが作れるのと曲を作れるのってかなり別物で、たまたま一致してたらラッキー・不一致だったらガッカリなのは確かだ。

けどそこで完全に諦めたり捨ててしまっては、万一将来ニーズが発生した時に大損するんだ。
なしてってば音楽だと全てのジャンル・新旧に、必ず何処かしら繋がりがあって成立してるから。

聴いた感じがとても似ててジャンルも時代も果てはメロも全く違うのがありゃその逆のもと、何処かが少し変わるだけ異なるだけでガラっと印象が変わっちゃうポイントがあるねん。
あまりにもベタだけどほぼ同じメロでPops・Rock・Bluesにしたい時、Pops以外ではなるべくマイナーコードを使わずその上で可能箇所を所謂ブルーノートにすれば取敢えずはBlues擬きに聴こえてくれる。

実際は伝統とか典型的スタイルにするにはもっと色んな要素があるが、普段気付かないだけでニアミスはしょっちゅう起きてんだ。
杜撰君100%では無いにしても今迄歌物かインストかはある程度先に決めてたんだけど、歌・楽器夫々で余程奏で難いの以外メロに一々○○様専用なんてねんですよ。

そんで自身初の上記を演ってみたんだが、意識したってだけで多分今までのだって似た様な状況のはきっとあったんだ。
相棒の従兄ですらこっちが言う迄想定外だったみたいだし、少しは驚かれると思ったっけ「ふーんそうなんだ」で見事に憤死。

で改めて歌かインストか何より、コンセプトとかテーマの方が断然大事だと思ったんよ。
今回のでは元は黒人コーラスグループの曲で出て来そうなのを一寸意識して、その流れからサビ部を近年では珍しくリアル鼻歌で創作したん。

相変らず黒っぽい曲は歌なり楽器なりの実演で作ってっけど、それ以外のは脳内イメージからの打込みが中心になっててさ。
のわ何か無理があったりした際打込みの方が即座に不具合が分かるからなんだが、歌ならコブシの癖っつうかメロに少し遊びや装飾をする際に自分の個性が漏れ出易いらしい。

のわⅡで最早廃業寸前迄劣化してるが一応唯の歌手としてもそこそこ演って来た内に、歌い回し等での杜撰大王節みたいなのが何時の間にか構築されてたらしいんだ。
桑田佳祐氏の独特のなんて彼が歌って作んなきゃあんなの出来そうに無く、結局最初は望んで無かった癖(個性)も馬鹿と鋏は使いようみたいなもんなんじゃね?。

-つづく-

2025年10月29日 (水)

音楽備忘録2264 Drum椅子と座り方➓

前回とは逆に、今度は一部制約から解放又は緩和されるケースを綴ってみよう。
体格等に恵まれて上記に該当してる人は、その分だけでも天賦の才があったと言ったら大袈裟か。

①一定以上背骨長さがある方
単なる胴長だと多少それでの不便もあろうが、基本的にほぼ座ってしか演奏出来ないとなるとこれは大事だ。
この件に限っちゃ吹鳴系以外多くの楽器を扱った体験を有す杜撰大王の実感で、手の大きさだってあるがBassに腕が短かったり極端に肩幅が狭いと不利っつうか無理がある。

半分以上は偶然か分からんが、中3でBassを始めた当初はショートスケールしか腕が届かなかった。
のをまだ成長期だったのを利して、根性で届かそうとしてたら数年後どうにか足りる長さになった。

それで無くてもエレキギターを凄く低く構えたいのに腕短かだと、楽器の傾けを強めたり等色々策を講じてもやっぱり苦しい。
そんな面からは弾けなくて構えるだけでも良いから、他楽器だとどうなるかも一寸体験してみると良いかも知んない。

因みに身長の高低は①が一定を越してたら第一ハードルクリアで、例えば腕短かはバチを長くするのでも一応は補える。
では極端な短足だとどうなんだってばSnareが近くなるのは半分諦めねばならんが、それ以外のは遠ざけるのがそんなに難しく無いからセーフなんじゃないかな。(第一義的にはバスドラを近くする副作用でそうなる)

②偶然一寸珍しい叩き方がマッチしてる人
こっちは半分かそれ以上は創意工夫で後天的に獲得可能だが、故Cozy Powell氏のMetalなのにレギュラーグリップにちょっち思う処が近年出て来た。

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って局面で怒涛の連続描画上拙図の登場、先ず彼の全盛期に今みたいな真のツーバス専用Hi-Hatスタンドは未登場だったのも関係ありそうなんだ。
ツーバスじゃ無くツインペダルだったりケーブルHatが使えたら、上図濃い色の方の位置にHatを持って来れる。

従兄宅で一寸ノーマルHat Standでツーバスを試すと、普段の慣れもあろうがやっぱHatは近い方が断然楽だと痛感した。
現行デフォセッティングの場合バチ位置は緑みたいな感じになり、グリップがレギュラーだろうとマッチドだろうとバチ交差は深目になってまう。

のが赤で描いた昔の遠い位置(薄い色の方のHat)で更にレギュラーグリップだと、Snareを叩くバチの交差はかなり根元の方且つ浅く出来るのよね。
マッチドでもそれなりの効果はあるが、赤の状況を作れるとSnareバチの振り上げ範囲を常時高く取れるのがミソなのだ。

飽く迄現況推論の域を出ないけど、ハンデを利点に変えたとしたらコロンブスの卵並じゃないすか。
まあそこ迄しなくてもHatの方の腕を変態的に曲げたり、叩く位置が普通じゃ無くても平気にすれば近い事を実践してる人は今も散見されるがね。

只それだって非常識な奏法選択しても無問題だとか、手首が並より柔らかい等何かしらの適性が無ければ厳しい。
因みにⅡで従兄談「達人級になれたら実はレギュラーの方がパワーを出せる」そうだが、誰と比べてもパワフルな音が出せてないと見栄え観点から拒絶される可能性が拭えない。

純粋なRock系Drummerでレギュラーグリップが容認されたのってぇとCozy以外にCharlie Wattsが思い浮かぶが、グリップ如何に関らずその時点でパワフルさで名を成した御仁だ。
何れにしてもそんな強みが持てない限り、スローン位置・高さはこんなのからも影響を受けるであるよ。

-つづく-

2025年10月28日 (火)

音楽備忘録2263 テープレコーダのよもやま話④

俺知りではカセットデッキ2台多重の実態はあまり詳細が公表されて無い様なんで、この際だからも少し掘ってみよう。
又どの程度の音質が得られるかに関し、「録り方」「録る順番」等が大影響を及ぼすのが今とは全く違った。

何せ今は事実上トラック数無制限となったデジタル時代だから、普段誰も上記案件なんか気にして無いんじゃないかな。
そこで文面だけじゃ分かり難そうだから、今回は表を作ってみたからそれを先ず眺めておくんなまし。

2mtr1
上表は奏者単独時と複数時の比較も兼ねたもので、最低ダビング回数で最大パート数(ここでは12と仮定)を狙った際の状況だ。
無論8tr以上のMTR使用時より色々不利な面は多いが、奏者複数時に弾き語り可能だったら思った程何回もダビングしなくても到達出来たんだ。

幸運にもこんな最低回数で凌げちゃうと業務用オープンと民生用カセットの差こそあれ、4trオープン×3(同期運用)のアルバムSgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band(Beatles)の劣化具合と酷くは劣らない。

っと言っても無ダビングでも非業務用アナログの大した事無い音質だから、劣化してもそんなに目立たなかったってのも当然あっただろうけどね。
わ兎も角単独でやると最低7回繰り返さないとならないのが、2人になるだけで4回で同パート数以上録れちゃうのがミソなん。

杜撰大王身内ではこの方法で2~4人で録ったのが多く、その際6回以上やった事は殆ど無かったんじゃないかな。
只それも今から思えば真のバラ録り体験皆無だったからとも言え、今なら余程ライブ感を出したい時以外そもそも録音でもバカ正直に弾き語りする奴なんて殆ど居ないよな。(スピリットだけじゃ無く機材事情もある)

しかし最低人員でLiveも熟す事を考慮に入れてれば、弾き乍ら歌うのは当たり前の行為なんだよねえ。
普段からそうしときゃ例えば歌い乍らに窮するフレージングにする不始末が避けられ、録音→好評獲得→なるべく早期にLiveでもってなってもほぼ即応可能となるんだ。

まあどう言い訳した処でこんなの所詮は次善策の域を出ないが、大体に於いて関連設備の充実はアーティストのピークからそこそこ遅れてやって来るもんなのだ。
普通よっぽど金余り君じゃない限り、有効に使えるかまだ分からん物に莫大な投資はしない・出来ないでしょ。

自分のは未だしも早逝親友がラジカセ2台しか無い頃から多重作品を残してくれたのには、彼のサウンド嗜好等を今でも確認出来て大助かりしてるよ。
これで最も印象深いのが編曲家・演奏家としての彼の力量が分かる処で、純粋に編曲家・演奏家として他人作品に名を連ねる事は殆ど無かったからだ。

杜撰君みたいに何処でも何でも参加出来して悪戯してやろうなんて思ってたら、あちこちに勝手に足跡が残ってるんだろけどさ。
本人は作曲家としてしか意識して無くても、実は編曲も演奏も中々ハイレベルだったんだと後になる程実感してんだ。

今ではほぼ無用の多重録音方式だが、少なくとも自分達世代にとっちゃかなり貢献してくれてたんじゃないかな。
そして時や環境こそ変われど創意工夫で窮地を脱するのに限っちゃ、独自アイデアの点ではこんなのも参考になるんじゃないかと。

-つづく-

2025年10月27日 (月)

音楽備忘録2262 杜撰大王の怪しい作曲法㉙

兼業のススメ第2弾は、作曲低迷時にも助け船になるって話しで御座居。
人次第じゃ完全休養が相応しい者も居ようが、多分多数派は下手に長期ブランクを作るとコンディションを元に戻すのに結構苦労した筈だ。

これも偶然かも知れんが杜撰大王それなりに長くなったキャリア中で、音楽関係の全部が酷い不調に陥った事は未だ無い。
と言っても気持ち的には一番上がって欲しい箇所が底状態だったりして、少なくともその時時点ではちっとも救われた感じはしなかったけどさ。

それが近年加齢劣化と苦闘の日々を迎えてみると、どんな形でも音楽に日常的に携われてたメリットの大きさを痛感したんだ。
作曲の場合スコア書きとか打込み専なら兎も角、やはり演奏の調子が悪かったりすると作曲にも枷になる。

直近で最も実感してるのが俺言い「指先のスタミナ」で、そこそこ長い期間金属弦との攻防をしないで居ると指先が軟化して弱るのであるぞなもし。(程度は体質や奏法次第で差異ありの公算大)
その状態だと折角作編曲意欲が高まっても思っただけ弾き続けられなくなって、尚且つ回復期間を取られる内に今度は意欲の方が減退してたりするんすよ。

編曲や演奏にだって思い付きや下りて来る瞬間が確かにあるが、少なくとも杜撰君内比では作曲関係には遠く及ばない。
のわ鼻歌なり脳内イメージの発生時点で、実際そんなのが成り立つかそのまんまで実用に耐えうるかが未明だからだ。

これが鍵盤常用だとブランク影響率はかなり下がるが、最もRockらしいリフとかはやっぱエレキギターのが王道だもんね。
普通滅茶苦茶ハイレベルなテクは不要にしても、チョーキングすら自由にならない人だと作れる質・量共に限定される。

それが歌物なら未だしもインスト物だと深刻と言っても良い程で、何時思い付くか分からないだけにコンディション維持には複雑な面があるんだ。
結局体験からだと絶好調じゃ無くても良いが、30分程度で指先にマメが出来る様では具合が悪い。

それからすると鍵盤でもギター曲が自在に作れる者を除き、コンディショニングの要る楽器がメインの作曲にはどうせ準備が必要なんすよ。
ここでプチ演奏家の側面を持つのと持たないのでは時に大差が現れ、実演は必ず他人に依頼するスタイル以外の作曲家はこの件を考えとかないとなんないんだ。

又過去身内例では作曲鍵盤メインの奴が家庭事情であまりピアノが弾けなくなったら、作曲の方も停滞気味なったってのがあった。
そう云や早逝親友君住居事情の変化と共に、自然と作曲メイン楽器が鍵盤からギター変遷してたっけ。

中学時代迄は実家の生ピで高校に上がってすぐもLiveでの担当はエレピだったのが、退学して実家を出てからは殆どがギター曲になってた。
更にその後彼にとっては最晩年の従兄宅(当時はマンション)に押掛けてた頃になると、Syntheがメインに。

それで一応は当時本人の興味に合っては居たんだろうが、本当にピッタリマッチしてたなら自身ではポリフォニックSyntheを一度も持たなかったのに疑問が残ってん。
ってのもかつて彼全盛期に使ってたエレキギターは未だちゃんと残存してて、今も従兄宅で時々誰かが弾いてんだからさ。

そう云やⅡで請負数はかなり少なかったけど、他人のプロジェクトに編曲家や演奏家として彼は参加した事もあったんだよね。
のに対し現在作曲家としてどん底状況にある別の友人は、作曲以外で他人プロジェクトへの参加経験が俺知り範囲では訊いた事が無い。

=つづく=

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