音楽

2024年12月 9日 (月)

音楽備忘録1941 ’70年代Rockの浦島太郎⓫

今回は「標準的な楽器で色んな音色を奏でる」を副題に据えるが、私感ではコレ結構大事なのよね。
少なくともそれを経ないでジャンル特化させたつもりでも、ツールは兎も角奏者の方がそれじゃ成り切れてねんですよ。

’70年代当時だって最終的にはカスタマイズを加えて各ジャンルに特化させてってるけど、後にレジェンド奏者となった殆どは登場時点では殆どそんな真似してなかったのだ。
その意味する処が奏者にとっちゃ影響大で、楽器より主に扱い方で特徴的な音色を出してた訳さね。

さて実はもうこの時期楽器類はジャンル特化型が出始めてたのにどうして↑(人力依存)が断然主流だったかってば、スキル習得にはそれなりに時間が掛かるからだ。
つまりは取組み始めた時は特化型楽器未登場だったんで、求める音色は弾き方・扱い方で得るものって認識しか無かったんよ。

確かに一時的に○○風にしたい時ゃ特化型の他打込み音源なんて狡い位簡単で良いが、音色だけでジャンルが決定するなら大昔のFuzzだって全部Metalの先祖だ。
音色だって重要素にゃ違いねえが、少なくとも同等な位使い方や表現方法にも左右されんねん。

なのでリアルタイム体験不可の世代が後年聴いたら、何でこの程度の軽い歪みのがHard系なんてされてたんだろうと思っても不思議じゃない。
だがそれは表面的な事象だけで判断するからで、音楽的内容の過激さ等からしたら今のMetalの方が全然緩かったりするんすよ。

特に今劣化本邦じゃどんな音楽過激派でも、裏金議員を皆殺し血祭りに上げろなんてのが全然出て来やしてねえじゃん。
幾ら何とかコードがあるにしたって生活苦に我慢し切れなくなって、せめて罰が当たってざまあ見ろ程度のが1つ位は出そうなもんだがね。

まあそれは兎も角道具依存の音色って外す心配こそ無いけど、ジャンル特有の演奏力養成に大きな障害になってんすよ。
しっかり弾き切らなくても平気となると、肝心な時の音の存在感や通り・抜けが足りなくなるん。

差し詰め日米プロ野球の相違みたいなもんで、常に馬鹿力に頼るのはアホだが同じ位要領だけに頼るのも愚なんすわ。
野球に限らずパワーとテクは状況に応じて使い分けたり比率を変えるべきもんで、獲得可能な範囲のパワー迄放棄するなんてな愚の骨頂。

Classic系は未だしも今劣化本邦ポピュラー系では勘違いしてる奴がかなり多く、電気楽器も「半分は生」なのを忘れてるんだよ。
幾らエレキの威力が絶大に感じても、音量は兎も角音色の質には大きく影響があるのだ。

それで一寸罪なのが最初からフルに弾いた感じが出せるEffectorで、実際は似て非なる物なのに騙されてる人が多いん。
そりゃ背景が絶好の環境だったらそんなに差は出ないが、苦境になる程元が「どう弾いてるか」の差が拡大するねん。

の実用上の弊害としては最低限のバランス時に全部聴き取れるかとか、埋もれないで済んでるか等に現れるんよ。
つまり機器依存でエエ加減に弾いたのだと、そんな際レベルを大き目にしなきゃなんなくなるん。

それが単独主役時なら良いが、アンサンブル内では少々迷惑な存在に成り下がってしまうんだ。
或はちっともそんな意識は無いのに、ナルシスGuitaristと濡れ衣を着せられるかも知れねえよ。

=つづく=

2024年12月 8日 (日)

音楽備忘録1940 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑤

過去のアーティストのパフォーマンス程残された記録に実力が現れ難い件、具体例を幾つか掲げてもうちょい掘ってみよう。
前回はその原因の内無茶苦茶なスケジュールとコンディションだけ提示したが、他にも数多の原因のお陰で必ずしもベストパフォーマンスが記録に残せてないケースがあったんだ。

最初に現在迄で最も上手かったのは恐らくBeatlesと敢えて半ば断言しとくが、飽く迄「総合得点」観点で見た場合だ。
只それですら証拠が残ってて判明してる分限定で、内容が素晴らしくてもあまりウケ無かったのなんかには録音機会が少くて確証が持てないのが幾らでもおま。

Recordingにしても予算や人材供給の都合次第で、一体何%本人or本人達のニーズが達成されてたか分かりゃしない。
それ故人気やウケが今一だった人は、例えば本人の作品より誰か有名人のLiveへ飛び入りしたのなんかの方が信憑性があったりもするんじゃないかな。

今だって録音技師等のレベル差は残ってるが、取敢えずデジタルならクリッピングにさえ気を付けとけば事後処理でどうにでもなる。
因みにクリッピングとは過大入力で「音波波形の頂点が頭打ち」する事で、アナログだって歪ませないに越した事は無いがそれだと雑音が目立ったりダイナミックレンジが足りなかったり…。

戻ってそれより機材差が顕著で超高額なのを筆頭に、可搬性・操作に必要な人員等数多の制約があったんだ。
のに対し今だと最小はノートPCとUSBインターフェイスさえありゃ、開幕寸前にポチっとしときゃ技師レスでさえ録れちまう。

加えてLiveやSession時のデフォルト環境もあり、今みたいに全部にMicを構えといてPAを常用してなんか居なかったからねえ。
ので普段よりMicが林立してたり様子の違うのが、パフォーマンス全発揮を阻害してる可能性もあった。

そんな中一般認識ではZEPよりPurpleの方が整った演奏の記録が残ってるが、ブートレッグ等へも耳を向けると少なくとも腕前に大差は無かったのが知れるだろう。
又Hard系の中での最大のウリに両者は少し違いがあって、前者は観客の反応(盛上がり)が後者はインプロビセーションの秀逸さを優先してた様だ。

のでⅡでLive盤発売に際し、前者は演者のパフォーマンスがベストでは無かった可能性が濃厚だ。
のに対しⅡで後者も何時もアドリブが完遂してた訳じゃ無いのに、不出来なのは公式盤として決して出さなかったかんね。

又演奏のテクレベルの差は象徴的なのだと誰にも分かり易いが、それに惑わされて過去の者・物を低く見るのは浅はかだ。
鳴らすのに一苦労・臨んだ表現にするのに一苦労・所望音色を得るのがとってもセンシティブ…等、あらゆる面で今とは段違いの環境下でのパフォーマンスだったんだよ。

現代EffectorでのFuzzサウンドって初心者でも難なく出せるけど、初期のヤツはゲインが不充分だったり足りたと思ったら今度は途端にグジャグジャに潰れちまったり…。
杜撰大王は貧もあってジミヘンの使ってたの自体は未体験だが、電気的には同じ回路の自作模造品でこっ酷い目に遭っただよ。

-続く-

2024年12月 7日 (土)

音楽備忘録1939 楽器音色一般のイメージと実際の違い➍

続いてはDrumsetの内先ずはCymbalについてだが、私的には録るのに悪戦苦闘がずっと継続している。
当初はマイキングにだって問題多々だったが、Micも含め何より貧機材との闘いだった。

厳密には高域だけ拾えりゃ良いってもんじゃないが、そこが必要なだけ拾えん事にゃ話が始まんない。
だがアナログテープ時代は何しろ高域が苦手で、録ると削れてそれを再生すると又削れてだから到底無補償なんかじゃやってけなかった。

そこから編み出されたのが過去述目立つ倍音の死守で、実際には守り切れなんかしないからEQで事前盛りをしてやる事となる。
んが上記2点が解消してもまだ問題があって、それが生耳聴きで最適化された音色や指向特性ざんす。

’70~’80年代の一時期にレコーディング専用と銘打ったモデルもあったが、当時の主流録音システムに合わせた物だから今じゃ大してそうなってくんない。
結局現時点迄で生耳聴きの音色を犠牲にしたのなんか出ておらず、PAを通したり録音を経ると違う音になってまうん。

まあ普段一般庶民にとっちゃそんなに詳しく知れる必要も無いのが救いではあるが、生演奏の盆踊り等の祭・チンドン屋等が生活から遠のいたのは残念だ。
ラッパにしたってそうなんだけどチャルメラを色んなシチュエーションでリアル体験してるかどうかって、基本楽器音色情報案件としてはかなり深刻化してんすよ。

その1は爆音に不慣れだと音色印象は音量次第で左右されるで、同じラッパでも豆腐屋のと屋台ラーメンのじゃだいぶ印象が違った。
昭和生活だと夕刻は干してた洗濯物や布団の取り込みをしてたから、家の開口部の何処かが開いてる場合が多かった。

のに対し夜間帯がメインのチャルメラの方は気密性が低かったにせよ、雨戸迄びっちり閉じられてたかんね。
それに対応させたか私感に過ぎんが、眼前だとチャルメラの方が倍位の音量を出してた覚えがあるねん。

尤も背景雑音が夜間の方が圧倒的に少ないんで定かじゃないが、これ等程度の最大音量なら聴く距離でそんなに音色印象は変わらない。
チンドン屋にしても同様だが、やぐらの上のデカい和太鼓となると俄然話しは違って来る。

適度に離れれば一部を除き全体の音色が把握可能だが、眼前でドォンと演られるとその音圧が一般人耳では飽和して今一釈然としなくなる。
但しローエンドに関しては逆で、物凄い振動としてその圧を嫌でも体感させられる。

でCymbalへ戻るとストリート用小径の以外常人には爆音のばかりなので、一定以上の距離が取れないと音色の素性が理解し辛い。
処が離れれば周囲雑音や残響の影響が大抵加わるから、昔じゃなくても元々正確に把握する機会は少なかったん。

それプラス生楽器は奏者の腕と楽器の質でも大きく左右されるんで、これ等が劣ると本来の音色が得られてないケースがあるん。
そこへデジタル音源なんかが普及してそっちの方が良さげに聴こえりゃ、そちらを基準としてしまうん。

更にはそれ等音源でさえウケ狙いで耳慣れた(完パケに入ってる加工済みの音)方を主に登用するもんだから、差し詰め無理が通れば道理が引っ込む状態に陥ってんすよ。
そうこうする内今度はリアルCymbal自体の音色味付けが変な方向へ行き出して、何が何だか訳が分からなくなってるのが現況なんじゃないかな。

=つづく=

2024年12月 6日 (金)

音楽備忘録1938 エレキBassのCreamyな音色の魅力⓱

この項ラストは、「エレキBassは誰にでも少しはCreamyさが要求される」をお送りしよう。
当節明瞭度と高音質は必須条件ではあるが、それだけに気を取られるとBassってロクな結果にならないんすよ。

さて現行音響システムでの各楽器の高音質化は、大凡1990年代には完了している。
但し↑はオーディオ的聴点からのであって、実際のアンサンブルでは却ってマイナスになったのも少なくなかった。

過去述重複も含めそれは単体音とアンサンブル内での相違に、配慮が足りなかったか或は単体音に過忖度したからざんす。
それをやってまあまあ成功した少数例もあるにはあって、一部FusionやSmooth Jazz等の作品だ。

その基本条件は既存の音色に全く拘らず、全パート音響聴点で最高音質を目指したもの。
を暴論気味端的表現をすれば変にケバくなろうと存在感が薄まろうと、一般聴者の典型的イメージから掛離れた音色になろうとお構いなしに徹底した感じ。

それであまりアンサンブルに違和感の出ないのが↑で、尚且つ肉声不在のインスト物であればどうにかって状況だった。
近年だとボカロ作品でオールバーチャル(つまり全打込み
)等が近似で、言うなれば全て2次元で統一されてるから「そう云うもん」として受容れられるっつう按配だ。

が生歌(肉声)が入るだけでもうそのバランスは崩壊が始まり、アンサンブルの何処かでオーソドックスな音色ニーズがあるとどうにも分離感が酷くなっちまう。
今では慣れや世相もあって違和感を覚える者が減った様だが、デジタルサンプリングの普及期にはそれ故わざとHi-Fiより存在感やアンサンブル内での馴染み良さを優先したのもあったでよお。

流石に当時よりPA音質が向上したから今じゃそれ等はニッチ用途にしか使えなくなったが、「音色の整合性」はほぼ永遠の課題なのだ。
手前味噌では過去にエレキGuitarのクリーンカッティングだけLine録りとか演ったが、極論するとアンサンブル内で別にエレキGuitarに聴こえなくても構わない等特定条件に恵まれてた場合に限る。

他の殆どの過去作でも斬新さだけが欲しい等で特定パート限定での利用に留まってて、それがBassの場合は最も希少例になる事が多いのよ。
以前述の如くエレキBassってContrabass+Celloの他兼務な立場のが多く、音域等の都合で両方の音色イメージを常に含ませとかんとならんのよ。

生ピだったら音色不変で途中での音楽内容的用途変更は幾らでもアリだけど、しかし実際には意図的に低音域だけ強目に弾く等で対処してるケースも少なくない。
が1ステージ通してずっとなんて事ぁ無く多くて数曲だけとか、主に録音時にMic位置をズラすのと併せて実施する等やはりこの手の裏技はたまにしか使えねんだ。

プチ余談としてあのHöfnerのバイオリンベースにはSolo/Rhythmなんてヘンテコな音色切替SWが付いてるが、少なくとも杜撰君には実用的じゃなかったよ。
又別の手にPUを切替えるなんてのもあるが、同じエレキでもGuitarとアンサンブル内での用途が違うんでそんなには使えない。

大体「伴奏の途中の任意の箇所」でニーズが生じるし、うわものと違い切替時に音が途切れたりするのも不味い。
これ等を総合するとより汎用性の高い音色設定が望まれ、特に音色都合でのフレーズの自由度も考慮するとね。

=終わり=

2024年12月 5日 (木)

音楽備忘録1937 ’70年代Rockの浦島太郎➓

前回から発声の件をぼやき出したが、単なる老害発言とは違う証拠として今の方が優れる点を先に指摘しとこう。
音程・リズムに対しての一般平均はかなり良くなり、完全な音痴の人以外は大凡聴くに堪え得る様になった。

’70年代って日本は昭和の真っ只中で、その頃はドラえもんのジャイアンみたいなのは別に珍しくなんかなかったんだ。
最も味って点に限ったら本当はアリだったんだが、耳の肥えてる者以外には歌ってる内容がそんなじゃ皆に良くは分からなかった。

多分その後のカラオケの普及が↑な欠点は殲滅させたんだろうが、一般ピーポーは別に歌が上手くなんかなくても全然構わないのをちょっち忘れてやしないかな。
そりゃ上手に越した事ぁねえが、一般平均より下手だと減点みたいな心理は全くどうかと思うさね。

私的に問題を感じるのは少し位上手でも所詮「素人にしては」で、幾ら音程・リズム等が良くても所謂「歌声」になってないのは食えんですわ。
又カラオケ等のお陰で一般論としては皆がMic慣れしたが、ちゃんと理解した上でそこそこに扱えてる人は寧ろ減ったね。

これはMicの昔より性能・扱い易さの向上も功罪相半ばってなもんで、最近は口を近付け過ぎたからって音割れ(歪み)するのなんて滅多にねえや。
のが1990年頃迄のではそんなのが多数あって、又1980年頃迄は無指向性のもかなり多かった。

↑の影響で安全圏を保ちたきゃあまりMicに近接出来んが、そうなると今比平均での低感度とか無指向性での周囲雑音の混入にも配慮しなきゃなんない。
差し詰めカメラのフィルム時代と今のスマホ主流時代の差みたいな感じで、一般人にとっちゃMicは常に助力になる様な存在じゃなかったん。

尤もMicの原理・基本構造は今でも何等変わって無く、フル活用したきゃ必須スキルにも差は全然無いんだけどね。
だが「一応使えりゃ良い」素人となると、知識・慣れの他かなりハードルが段違いだったんだ。

で発声・唱法がそのままだったらMic関連の進化は、涙がちょちょ切れる程有難かったんだがね。
中々どうして世間一般は開発者の思惑通りには行かんもんで、Mic関連が良くなった分歌う方を手抜きしてレベル低下を引き起こしちまった。

尤もⅡで自ら人前で歌いたがったりしないならそれでも良いんだけど、末端でも歌手の端くれを自認する奴がそんなじゃアカンがな。
これが前回述の理由でそれじゃあ勝手に聴かせたいのに、聴者に負担を強いてるやおまへんか。

んなじゃ音程・リズムでは良くなってても、それって無自覚な内にニュータイプのジャイアン登場ってなもんだぞ。
確かに気持ち悪い音を垂れ流すよりゃマシだろうけど、もし強制的に聞き耳を立てさせ様としてたらそれだって罪ですぜ。

近年はメジャーPops系のLiveへ一般人は二の足を踏み、ヲタだけが執拗に足を運ぶなんてのはこのせいもあるんじゃないかな。
過去みたいな万人ウケヒットが出難くなってるのは何もネタ切れとかばっかじゃなく、こんなのも一因だとしたら実にアホらしい自殺行為でんがな。

=つづく=

2024年12月 4日 (水)

音楽備忘録1936 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ④

さてさて3回経過した処で本日の生贄発表のその前に、アーティスト情報自体に関してのお話しおば。
言い訳と真相半々になるが、聴き専やガチヲタさんならもっと早期に全貌を把握してる人は居るよ。

けど演ってもいる立場となるとスペックなんかより音自体の聴き込みに忙しく、今でこそネットで即座に見られるが以前は大きな書店とか図書館にでも出向かなきゃならなかった。
閲覧の実時間はせいぜい数分程度の案件だって、往復と目的の本を探すので中々時間を取られたんよ。

その間もし出掛けずに聴き続けたら何回聴けるかと考えると、真似したり再現したりしようとしてたらスペックどうこう考えてる暇が馬鹿らしくなるねん。
そんな事からネット前夜時代に惚れてマイブームを迎えた連中のって、スペック関係はかなり遅れて知ったんだ。

↑な体験も含めて再考するとレコード(メディア)付属のデータ以外は、当座聴くのには不要な情報なんすよ。
他人からしたらこんなゴッツイ奴が繊細でメロウなの演ってるのが面白いとか思ったりもすっけど、演者がどんな奴か不問で気に入って欲しくて非公表にしてたかも知れねんだ。

その意味でジャニー喜多川辺りに端を発した「容姿で聴く」とかってな全く邪道で、そりゃ音が同じだったら容姿や経歴も華麗な方が夢が沢山見られるけどさ。
音が圏外だったら美人だろうとブスだろうと無関係で、AKB商法でも握手券欲しさに何枚もCD買って貰ってもその分余計に沢山聴いてくれる訳じゃねんだから。

なので最近俺言い「音楽タレント」なる呼称を新開発して、杜撰君内では分けて考えてんだ。
ビジネスとして成立してる以上はそこは認めるべきたが、音楽とか芸術の端くれとてしては辛辣だがハッキリ言って無価値ざます。

強いて云やそのビジネス手法が芸術的ってなもんで、ロクに売れる筈の無い物から膨大な利益を生み出したんだから…と毒を吐いとくか。😓
そんなこんなで漸くの本題のお出ましだが、今日は個人単位じゃなく「真の腕前」についてでやんす。

正味な話し微に入り細に入り完璧を目指した人・作品については今の人の方が完成度は高いが、その手合いって音楽演者の場合だとガンプラの神製作者みたいなもんなのだ。
既存の曲だけを演りゃ良いなら幾らでも練習出来るし、それが既に古典になってたら公開迄の時間も自由になる。

がポピュラー系≒流行歌(実際どの位成功するかは別)と捉えると、最低でも季節物っつうか最高では公開するタイミングが殆どピンポイントになったりもする。
つまり前者を漬物とか煮込み料理と例えるなら、後者は刺身とか生もの料理に価する。

尚且つ即興要素の強いのだと俺言い「専門の練習」をしとくのは不可能で、そりゃあ勿論下ごしらえだけなら徹底しとけるけどね。
そして最も考慮すべきが演者のコンディションやスケジュールで、誰だって酷い2日酔いや睡眠不足だったりしたら本領発揮は困難になるっしょ。

今だって劣悪マネージャは居なくなった訳じゃねえが、口パクや当て振りの可否が過去よりゃだいぶ自由になってるさね。
等々の裏事情から古物程実力の発揮度が懐疑的で、単純に今手元にあるソースのクウォリティを真に受けらんねんだ。

-続く-

2024年12月 3日 (火)

音楽備忘録1935 楽器音色一般のイメージと実際の違い➌

Piano2回目は前回後部の続き、構造的観点も含めて考察してみよう。
物理的構造に対し意外な音色を醸し出すケースが無い訳じゃないが、かと言って生ピの場合はアコギと明確な差別化は必須だ。

宅に来たGrandをまじまじ眺めて思ったのが、板厚・サイズこそかなり違うが想像以上にアコギと近似だった事だ。
無論発音方法は全然異なるが、響板(弦の下部)なんか材質や木目やその向き色合い迄クリソツやんけ。
にも拘らずアコギでもClassicに使えるのは、金属弦の所謂Folkタイプじゃなくガットタイプじゃないとマッチしない。

のが生ピは前者の方に圧倒的に近く、それでいてClassicに最適と逆転現象みたいになってる。
発音方法の相違が最大要因には違いないが、音色がアコギより丸みがありながら倍音の帯域巾・量共に圧倒してるのは直接は関係ない。

っつうのもアコギでブリッジスレスレをピック弾きすりゃ出るには出るが、それでもまだ生ピに全然敵わないじゃないすか。
だが普段この事実に気付き難いのは、生ピは録るとこれを拾い切れてないからなんじゃないかな。

さてこの無尽蔵な倍音は普段左程目立ちはしてないが、DrumやCymbalと共にそのお陰でほぼジャンルレスになってると思っている。
アンサンブルの相手が変われば「被る帯域」も変化してくが、上記2種は殆どの組合せで「被ってない帯域の倍音」があると見た。

それがあるとどんな組合せになっても入ってるか入ってないかが明確に分かり、その貢献度は必ずしも高くは無いがアンサンブル全体の音色を左右はする。
楽器の出す周波数帯域って広狭どちらにも夫々良さがあって、広い方はコンビの相手を選ばず狭い方は散漫にならず相手の邪魔になり難い。

上記後者から敢えて帯域制限を掛けたり特定帯域を強調するのが始まったが、本来こう云うのは例外的使用法なんすよ。
それの行き過ぎとデジピの席捲での副作用が、生よりデジピの方が「ピアノの音色」現象を起こしてんじゃないかな。

加えてClassic系ですら悪流行から使えればPA常用なんてする様になったから、聴覚的には生の音を直に一般庶民が聴ける機会が激減しちっただよ。
尤も私感ではCongaよりゃ遥かにマシで、自身で触れてみっと記憶より遥かに深く重い低域成分を実際は豊富に醸し出してんだ。

音色にだって演出を加えて悪いって事ぁねえが、それが意味を為してたのは原典があってこそ。
同調圧力国家日本では心理的に「赤信号、皆で渡れば…」は分かるけど、目立つ何処かに本来の音色を残しとかなきゃわざわざ演出したってそれが無効化するねん。

杜撰大王だってBrightな音色への魅力は今でもあるけど、山の様に沢山聴いて来て記憶に残ってるのはそんなのじゃなかったよ。
それがBeatlesのに入ってるPianoで、加工度の高いのは記憶にはあっても生ピの引出しには入ってない。

何処へ行ったかと探したら「唯のキーボード」で今ではほぼ懐かしさだけのSolina(ストリングアンサンブル)とか、黎明期のチープな電子Organとかに紛れ込んでやんの。
強いて擁護すりゃピアノ系(減衰音)の音色が欲しかっただけで、全く生ピ固有の長所が要らん時はそれでも良いかも知れんがね。

=つづく=

2024年12月 2日 (月)

音楽備忘録1934 エレキBassのCreamyな音色の魅力⓰

エレキPUの複数並列接続で独特な音色になるのは、主にお馴染みインピーダンスと共振の様子が変わるのに依る。
ののこのテーマとの関係は純粋な音色だけじゃ無しに、寧ろ硬さや響きに大きな変容があるからなんだ。

杜撰大王はリッケン真党!?なんで先ずそれで語ったが、原因は多少違えど他のタイプだってPUを複数使えば同傾向になってるんだ。
Bassの場合ミックスポジションだと先ず例外無く硬目になり、ひいてはそのせいで高音程域が細くなったりしている。

確かにレンジの広さやリッチさではミックスの方が有利だが、音程の高低で若干音色の俺言い「分離現象」は避けられねんだ。
っつうか実際は低い側も硬質化してんだけどそっちは明瞭度や音程の聴き取り易さに対し、元が少々軟弱過ぎるから寧ろ好都合だったりする。

処でGuitarではあまりそうは感じられないのは、求められる音色の違いと音域が1オクターヴ高いからだ。
物理的には要するに「共振ポイント」がほぼオクターヴ上へシフトしてるんで、音域守備範囲の途中で変容してないのさ。

典型例はStratoの所謂ハーフトーンで、最もダイエット効果!?があるのは低音側じゃん。(上が痩せても下がもっと痩せるからバランスする)
未だシングルPUのプレベタイプや所謂PJタイプ(フロントはプレベのままでリアにPUを追加)が使われてるのに、杜撰君はこれもあると考えている。

因みに前後の出力が近い時だけ共振の変容は現れ、どっちかの楽器本体ボリウムを絞るか絞れればこの現象は起こらない。
但し折角ミックスポジションにした固有音色の特徴は殆ど損なわれ、シングルポジション+お情け程度の音色変化となる。

又少し前にFender系と一纏めに綴ったのは元々音色が柔らか目だからで、しかしその中で比べるとジャズベの高音程弦はミックスポジ時は結構痩せる。
故にリッケン等程では無いだけで、拘ったら近似傾向が問題化する事もそこそこあるのだ。

近年はこの問題より音色のリッチさを優先してミックスポジが頻用されてっけど、オクターヴ上フレーズの衰退とどちらが先だったか杜撰大王としては甚だ疑わしい。
Line収録や非球Amp経由が増加・デフォ化する内に、高音程弦だけ音色が痩せてったかんね。

確固たる理由が無くば古臭い音で録りたいとは思わなく、それが徐々に進行してったせいで新たな弱点の発見が遅れたんじゃないかな。
何しろ杜撰大王だから他人事ってよりそんなのの典型を体験して、あんまりいい加減だったから却って早目に気付けたのかなぁ。

これとは別に年々自身で問題化してたのが、望まずに弦がフレット等に接触した際に発する雑音だ。
下手に完全排除すると弦楽器らしさを損ねるけど、過大だと不要にギスギスするし音程感が目立たなくなって困る。

結局エレキBassにとっての超高域って単体音色としては閉塞感こそ完全解消出来るけど、アンサンブル内ではマスクされて殆ど効果がねえんすよ。
これとフレージングの自由度等を天秤に掛けてみると、少なくとも杜撰君的には後者の方を優先した方がお得かと。

=つづく=

2024年12月 1日 (日)

音楽備忘録1933 ’70年代Rockの浦島太郎➒

杜撰大王は現時点迄ではカルチャーにとっちゃ栄光の’70年代と思ってっけど、その後で一番悪い方へ変わっちまったのの1つに歌唱力がある。
と溢せば皆上手くなったのにと多分異論噴出だろうが、上辺のテクじゃなく基礎力の方が酷く劣化したんすよ。

今劣化本邦って宗教に寛容な代わり無関心だが、一面でこれが悪影響してんのかな。
個人の主義はどうでも自由だが、国にちゃんとした宗教があるとさ。

式典とかで皆賛美歌とか歌うニーズがあり、その際大抵は体裁気にして他人に聴こえない様小声なんかで歌うと大目玉を喰らう。
「誰もが互いに聴こえる様に歌う」事自体が賛美だったりし、音程感やリズムの良し悪しは賛美には直接は関係ねんですよ。

今劣化本邦でだって元旦とかなら、誰でもお互い最低あけおめ程度は言い合うべ。
何等かの理由で恥ずかしがったりはあるだろうけど兎に角「反応する」のが重要で、はっきりしなかったら折角勇気を出して挨拶したのにシカトされたみたいな状況になるやんか。

要するに歌うって行為には意思表示≒コミュニケーションの役割もあって、極論すりゃメガホンで全員に伝わる様に指示出すのなんかに近い要素も内包しとん。
でこれを実践するのには歌としての発声が必須で、しゃべり声との最大差は声が「遠鳴り」してくれる事。

殆どの場合声量(音量)や音域も違って来るのは当然だが、実はそれより声色や指向特性の影響の方が断然大きいんすよ。
歌唱発声の基本には例外時以外先ず軟口蓋(喉の入り口部)を持ち上げ、次に口自体を大き目に開けるのが鉄則となっている。

これをすると一般会話時より声帯から口の出口迄の経路での干渉が低減するんで、 音声の指向軸から外れても明瞭度が落ち難くなる等色々な違いがあるねん。
これは歌に限らず大勢を相手に話す際にも有用で眼前の数名には唾ぺっぺな上喧しいが、両端や奥の者には何言ってるか分からんなんてのを最小化出来んの。

って事はご想像の通り普段からOperaみたいな発声しか出来ん奴は、内緒話しに不向きですぐ周りに洩れてバレたりしてるっしょ。
要するに全然歌手なんかじゃなくても状況に応じ発声を最適化させるニーズって、殆どどんな人にも本来は必須スキルなんすよ。

なのにあべこべになってんのが普段は体裁やら何やら気にして声量を抑えてるのに、徒党を組んで大興奮したり泥酔した時だけ羞恥心が吹っ飛んで絶叫する様な奴等。
昨今は大きい歌声(日本以外では至って普通扱い)に慣れてない人に配慮したりとか、個人でのストレス発散のニーズは確かにあるけどさ。

悪い意味で習慣化定着してっと、自身のLive歌唱ですら俺言い「しゃべり声」になって聴き辛いったらありゃしない。
上述した如く声量に関しちゃ今はネ申PAのお陰で何とかなっても、声色や発音が他人に聴いて貰う向けにちっともなってねんですよ。

唯でさえ歌詞主軸の潮流に勝手に乗ってるってのに、それを聴き取る徒労が聴衆依存って一体何様なのってな。
恐らくその大多数は傲慢では無く見落としの結果なんだろうけど、折角の内容が伝わり難いのはどっちのせいだろうと誰にも損だ。

=つづく=

2024年11月30日 (土)

音楽備忘録1932 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ③

今回は例のBaker Gurvitz Armyで、語り残したそこでのGinger Bakerについてざんす。
このBandもしGinger Bakerが居なかったらもっと埋もれてた可能性は拭えないが、純粋に好みに合致する人にはもっとウケてたかも知れない。

残りの2人兄Paul弟AdrianのGurvitzの内、ヒット曲にしても後の弟の成功と比べたら売れたのは無い。
けれど音楽的冒険は中々にして意外にPopな歌曲が多かったり、全員腕達者でメンバーのバランスは絶妙だったりする。

まあ一般的にはそれより「Rockの」Ginger Baker、が堪能出来る割と数少ないのだったりの方が興味の対象になるだろうけど。
のでこっちの具体面に言及すると、先ず言えるのは今劣化本邦での一般想像よりかなりタイトで正確な演奏をしてる処だ。

彼自身はアフターCreamで多分そんなに腕前を上げたりゃしてないんだろうが、あっちは概述の通りJazz Bandだそうだからね。
Claptonが何時も通りで全員ラウドに演ったからHard Rockの先祖的扱いをされてて、そのお陰でRockへJazzのまんまの人が入ってる様に勘違いされがちらしいね。

って杜撰君自身もこの件では長らく怪しい口だったが、欧米での評価からしたら少し変だとは前々から察してたん。
特に大損したのがCreamの録音音質で、あんなじゃ実際のパワー感がちゃんとは伝わる訳が無いよ。

リマスター等されたのではどうなってるか知らないけど、元のではたったのアルバム1枚以外はRock系の普通の音じゃなかったからさぁ。
又フレージングにしても曲やコンセプトに合わなかったから古臭いのばっかだっただけで、こっちを聴けば全然時代に遅れてなんかなかったのが良く分かる。

ってかご自慢のアフリカンテイストはこっちでも健在だがその比率がかなり違ってて、普通にやたら上手い上にあの独自性を兼ね備えてたのが良く分かる。
のからすると彼の欧米評にはどうやらアフターCreamのも入ってる感じで、その後のも耳にしてたかどうかで日本とは評が割れた気がするねえ。

それ以上に興味深かったのが曲調で、これを聴く以前はてっきりJack Bruceの趣味だと思ってた幾つかがGingerか共通のだった事。
のがBGAでは作曲者としてのクレジットが明記されてる処からも伺え、売れるかどうかは別として世間が思ってるより「Drumを叩くのが上手いだけの人」じゃ無かったのもね。

演奏だけ上手な人が悪い訳じゃ無いけど、作れる位曲に明るくないと本当の名演をするのは難しいんすよ。
この辺大編成が常態のと違って、小編成ポピュラー系アンサンブルでは独立した編曲者は不在の方が多いからね。

中にはそんな能力を隠すか表に出す機会の無いのが居るだけで、名演は音楽力に含まれるもんだからすよ。
野球の打者で守備時は捕手や投手の方が読みでは有利なのと同様で、更にポピュラー音楽では超絶技巧より適切なフレージングの比重が増えるから尚更なんだ。

この側面でも国内外では認識差があるみたいで、向こうの人からしたらこんなのが極当たり前になってるのかな。
決して万人ウケしたり売れそうな感じでは無いけど特別ニッチなんかじゃ無く、そんなのも再認識させられる様な全3アルバムですわ。

-続く-

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