芸能・アイドル

2025年1月 1日 (水)

音楽備忘録1964 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑪

賀正:今年も宜しくだうぞ…と挨拶も極小にしんがりは、独断と偏見Maxで英のThe Sweetをゴリ推しすっべ。
又々しつこく登場させるにはそれなりに理由があって、リアルタイムでの人気や曲や演奏の実力の割に余りにも今劣化本邦じゃスルーされてっからだ。

大体に於いて杜撰大王みたいな胡散臭い奴がクソガキ当時に知れたからには、FMラジオでそこそこ掛かってたからに他ならない。
のに強いて敗因を挙げるとすれば当時カテゴライズされたのにしては巾が広過ぎたのと、その後に目立った活躍が無かったからだろう。

で何処に入れられてたかったら当時全盛期のGlam Rockだったんだが、当初はアイドルコーラスの扱いだったのから本格派Hard系へ移行する途中でそう外野には判断されてたんだ。
尤もHardってもPower Pop的要素も解散迄維持してたから、後年のHard系からも洩れちまったんだろうな。

だがしかし当時の平凡な大衆の多くはいきなりZep等に入れ込めた訳じゃ無く、もう少し「聴くのが楽」(つまり曲がPops寄り)な存在があったからこそその多くが馴染めたんすよ。
杜撰君の場合当時10歳位上から同世代のプチヲタ迄付合いがあったから、Hard系の存在自体はリアルタイムで出た順番に知っては居たんだけどさ。

その頃悪戯盛りだったからより身近に感じられたのはGlamの方で、細部の精巧さよりサウンド全体の面白さの方がピンと来てたん。
ほいでこの件でチト興味深いのが、生粋のHard系だって少しはヒットしないと活動資金が枯渇する処でな。

或は俺の方が有名とか欲しかったのか知らんが、Hard系が普及してひと段落した辺りで「揺り戻し」のあった事だ。
つまりあれだけ名声が得られたZepやPurpleの実質的な後継Rainbowでさえ、Hard系第1次ブームが去りつつある頃になったらPopな歌物シングルなんて出してたのよ。

結局これって幾らガチのコアヲタ系を標榜してようと、ポピュラー系の1バリエーションに収める限りはある程度分かり易さと馴染み易さは堅持しなきゃなんないって現実からは逃れられんかったって訳だ。
Sweetと比べたら量的には少ないが、Zepは終始一貫して「シングルは意図してPop」にしてたやんか。

となればPopなままでヲタ要素も入れとけりゃその方が好都合で、体験的私感でそれが最も上手だったのがSweetなんだ。
純粋なHard系やPower Pop系にも良い線行ってたのが無くは無いんだが、Sweetと比べるとどうしても無理してる感があってねえ。

フル毒舌すりゃまるで今劣化本邦J-Popに似てて、サウンドと曲調が今一フィットしてねんだよ。
そう云や以前から最近の役者は、何でもすぐに怒鳴る演技に走るなんて従兄がディスってたっけ。

単純思考で怒りを演じろと命じられれば先ず大声出したり言葉遣いが荒くなるのが浮かぶが、頑固親父が不機嫌になると一切しゃべらず誰にも耳を貸さずひたすら憮然とするなんてのだって現実にあるやんか。
それと同じ様にサウンドだけ盛大に屈強にした処で、曲やメロがそれに相応しくなってないと単に大袈裟なだけと受け止められちまうん。

こう云う観点で作曲の抜きん出たサンプルなのがSweetで、サウンドに極端な変化は無いがつまりは曲自体のタイプの巾がとても広いんだ。
同じくそう云う意味での演奏力が突出してて、本当は純粋なテク観点でもDrummerのMick Tuckerは他の超人に全く遜色無いんだけどなぁ。

=つづく=

2024年12月20日 (金)

音楽備忘録1952 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑧

今となっては失礼乍ら全盛期が殆ど想像出来ない程の、劣化・老害ぶりの昭和の歌謡スター沢田研二。
唐突に提示したのは日本で早期に、メジャー系で本格的Rock唱法を使ったからなんだ。

職業Rock屋として日本での始祖はほぼ間違いなく内田裕也氏だが、その曲や唱法等は杜撰君世代には是又失礼乍ら到底受容れられる様な代物じゃなかったんだ。
若い頃は単にバカにしてたが何故かってば、所謂Rockの典型的シャウトが殆ど出て来なかったからだ。

だが才能の他に大いに考慮すべきが言語の相違で、当時日本語でのシャウトったら歌間のセリフみたいなのとか極一部の演出的なのしか存在しなかったんよ。
日本のRockが正式にメジャー系に属せたのは凡そ1975年頃になってからで、その寸前にキャロルが人気を博したのがキッカケでね。

つまりそれ迄は表向き社会的には何か別のを装うしか道が無く、それには暴力的では無くとても美しく音楽的なシャウトじゃないと通用しなかったん。
当時アホガキイカレポンチの杜撰君はそんな事情は全く知らず、勝手に何だよ日本のってダサいのばっかだなあなんてずっと暫く思ってた。

処へ少しおやと思わせたのがGSが終ってからの沢田研二で、一般人が聴けば若きアイドルスターなのがRock愛好者が聴くとRock歌手に聴こえるっつうある種の離れ業を実現してたんすよ。
結局日本のRock路線は矢沢永吉の潮流の方が直接その後には繋がってるけど、「日本語でシャウト」の条件を付けたら一寸始祖とは言い難いんじゃないかな。

ってのもキャロルってヤンキー系Bandだったから、日本語自体がドノーマルのとは少し違ってたかんね。
具体的には通常不要でも巻き舌になるとか、そう云うのが少なくなかったからなぁ。

勿論それも1つの文化の具現化ではあったんだけど、純粋にRockシャウトで全ての迫力が賄えてた訳じゃねえと。
それなのに意外にも思いもしない処から、本格派Rockシャウトが聴こえて来たのよ。

因みに当時の日本でのRockへの偏見は想像を絶する程で、それ故Beatles等のスタイルの連中に対し無理矢理「グループ・サウンズ」なんて珍妙な名前が与えられたんだ。
そんじゃBandに満たない人達はっつうと当時メジャー系では非自前の伴奏が入ると、強引にRock色が薄められるのもあってかFolkなんかへ是又強制加入させられてただよ。

でGSでは伴奏にあまり注文を付けられん代わり、アイドルなんだからと曲の方を可愛らしいのしか許可しなかってん。
それ故本当は商売っ気より実力派の連中も、TV・ラジオ等ではちっともそれを発揮出来ずに居たんだ。

その結果英語のカバーは未だしも単にシャウトの機会ばかりか 、特に日本語詞でのシャウトをする場面がメジャー系には存在せんかったん。
そんな状況下でいち早く消化して自身のモノにしてたのが彼で、他に挑み続けてた者より安定度が抜群だったんだ。

して私感としては意外にソロ初期にそんなのが多く、本人としちゃ歌謡曲アイドルを容認した代償だったのかねえ。
それと門外漢にはタイガースからいきなりソロになった感があるが、実際には伝説のPYGっつうBand期が間にあった。

正確にはソロ初期と結構ダブってたんだが、Liveへ行けないか行かない外野にとっちゃ触れる機会がとても少なかった様だ。
それ故Ⅱで如何に専門外とは言え最近迄その事実を知らず、だからこそ杜撰大王なんだろうけどね。

=つづく=

2024年12月 1日 (日)

音楽備忘録1933 ’70年代Rockの浦島太郎➒

杜撰大王は現時点迄ではカルチャーにとっちゃ栄光の’70年代と思ってっけど、その後で一番悪い方へ変わっちまったのの1つに歌唱力がある。
と溢せば皆上手くなったのにと多分異論噴出だろうが、上辺のテクじゃなく基礎力の方が酷く劣化したんすよ。

今劣化本邦って宗教に寛容な代わり無関心だが、一面でこれが悪影響してんのかな。
個人の主義はどうでも自由だが、国にちゃんとした宗教があるとさ。

式典とかで皆賛美歌とか歌うニーズがあり、その際大抵は体裁気にして他人に聴こえない様小声なんかで歌うと大目玉を喰らう。
「誰もが互いに聴こえる様に歌う」事自体が賛美だったりし、音程感やリズムの良し悪しは賛美には直接は関係ねんですよ。

今劣化本邦でだって元旦とかなら、誰でもお互い最低あけおめ程度は言い合うべ。
何等かの理由で恥ずかしがったりはあるだろうけど兎に角「反応する」のが重要で、はっきりしなかったら折角勇気を出して挨拶したのにシカトされたみたいな状況になるやんか。

要するに歌うって行為には意思表示≒コミュニケーションの役割もあって、極論すりゃメガホンで全員に伝わる様に指示出すのなんかに近い要素も内包しとん。
でこれを実践するのには歌としての発声が必須で、しゃべり声との最大差は声が「遠鳴り」してくれる事。

殆どの場合声量(音量)や音域も違って来るのは当然だが、実はそれより声色や指向特性の影響の方が断然大きいんすよ。
歌唱発声の基本には例外時以外先ず軟口蓋(喉の入り口部)を持ち上げ、次に口自体を大き目に開けるのが鉄則となっている。

これをすると一般会話時より声帯から口の出口迄の経路での干渉が低減するんで、 音声の指向軸から外れても明瞭度が落ち難くなる等色々な違いがあるねん。
これは歌に限らず大勢を相手に話す際にも有用で眼前の数名には唾ぺっぺな上喧しいが、両端や奥の者には何言ってるか分からんなんてのを最小化出来んの。

って事はご想像の通り普段からOperaみたいな発声しか出来ん奴は、内緒話しに不向きですぐ周りに洩れてバレたりしてるっしょ。
要するに全然歌手なんかじゃなくても状況に応じ発声を最適化させるニーズって、殆どどんな人にも本来は必須スキルなんすよ。

なのにあべこべになってんのが普段は体裁やら何やら気にして声量を抑えてるのに、徒党を組んで大興奮したり泥酔した時だけ羞恥心が吹っ飛んで絶叫する様な奴等。
昨今は大きい歌声(日本以外では至って普通扱い)に慣れてない人に配慮したりとか、個人でのストレス発散のニーズは確かにあるけどさ。

悪い意味で習慣化定着してっと、自身のLive歌唱ですら俺言い「しゃべり声」になって聴き辛いったらありゃしない。
上述した如く声量に関しちゃ今はネ申PAのお陰で何とかなっても、声色や発音が他人に聴いて貰う向けにちっともなってねんですよ。

唯でさえ歌詞主軸の潮流に勝手に乗ってるってのに、それを聴き取る徒労が聴衆依存って一体何様なのってな。
恐らくその大多数は傲慢では無く見落としの結果なんだろうけど、折角の内容が伝わり難いのはどっちのせいだろうと誰にも損だ。

=つづく=

2024年11月23日 (土)

音楽備忘録1925 ’70年代Rockの浦島太郎➐

近年はアイドル系の若いネーちゃんでターゲットをオジ専に据えてるのも居るが、どんどん進む少子化停滞社会情勢が根底原因なんだろう。
上がり続ける酷税に対し収入はロクに上がらんとなりゃ、小遣いに困らんのは資産持ち(過去に稼いだ)しかねえもんな。

でそんな風に本来の王道から外れるのもアリってんなら、かつて学生運動に従事した世代向けには敢えて政治や社会問題を多く取り上げるのも一興なんじゃないかねえ。
ってのも不幸にして容姿に恵まれなきゃアイドル路線は無理だし、しゃべりが苦手だと普通の配信も厳しい。

今流行りの路線がどれも不適合だからって、じゃあそんな者は唯黙して大人しくしてろってのも立派な差別で忌々しいぞ。
現実は厳しいって言葉は昔からあったが、近年になる程その「何処が」ってのがどんどんおかしくなってんのよ。

ウケなくても我慢しろでは本当は言葉足らずで、その前に「簡単には」って付くんすよ。
幾ら時流と偶然合致したにせよプロテストソングとかパンクは突然変異でも何でも無く、誰にも相手にされなくてもずっと以前からその方面で頑張ってた奴等が居たんだ。

私感で’70年代Rockに政治・社会問題色のが登場したのって、まだBluesに根差したままでもあったからなんじゃないかな。
色恋沙汰だって歌われては居たけど、反リア充の者達には夢に近かったりする。

プチ遠距離恋愛になったとして足代を払えなきゃデートは出来ないし、ネットが無かったから通信するのにもその都度お金が掛かる。
つまり恋愛ひとつとってもその自由度を上げるには先ず生活の向上が必要で、しかし苛烈な差別からスキルアップもままならずじゃ理想の恋愛≒今なら宇宙旅行みたいなもんだったんじゃね。

その様な状況下では不謹慎白人みたいに「今晩お前の体が欲しい」等とは到底歌えず、夢を抱くにしても全然違うのよ。
現況今劣化本邦のメジャー系では相変らずのしか出さないが、こう不景気が続き過酷な若い世代には安易な絵空事は全く日常じゃ無くなってんだ。

けれど恐らく’70年代の手法にあんまり馴染みが無いから、燻った状態が続いてるんじゃないかな。
’70年代って漸く戦禍から復興が完成し物理面が充足したのに対し、心理面が著しく遅れててそれへ当時の若者が反発してたんだ。

杜撰君自身戦時中よりゃマシと思ったが、何か上の世代が説く理想とは自分達の置かれた環境はかなり違うじゃんって感じてたよ。
にも拘らず周囲の同世代は団塊世代みたいな熱意も萎えちゃってて、アウトローに落ちてしか抵抗出来なかったんだ。

リッチなのは何等かで壺と繋がりある者のみで、他は虐げられてるなんてまるでかつての米の白人支配者vs奴隷黒人と同じ構図やんか。
ので形式・形態は兎も角、スピリットや遡上に上る題材等は全くBluesなんだよね。

一見何の関係も無さそうなヒッピー文化やフラワー・サイケ等、殆ど見えない深層部ではBluesから受け継いでた箇所があるんすよ。
勿論自分が好きだから巷で話題にならなくなったのも惜しんじゃいるが、作詞技術面でも実害が出てるのが見過ごせねんだ。

-続く-

2024年11月18日 (月)

音楽備忘録1920 映画・TV等への専門家が作った音楽㉓

今迄紹介した他にも色んな人が居たが、杜撰大王がパッと思い付く範囲ではざっとこんな様相だ。
んで〆にあたり大して詳しくもないのに取上げた訳と、総括行ってみよう。

映画・TV等への専門家が作った音楽に触れた際、割と何時も感じるのは職人技も勿論あるがその柔軟性なんだ。
そして時代が進むにつれ閉塞感つうか分断感つうか、何だか夢が減ったとか面白味が少なくなってる気がしたんだ。

で杜撰大王なりに考察してみると世間一般論の「やり尽された」のも確かにあるとは思うが、それより何より硬直化とか石頭化してるのではってのが杜撰流の回答なんだ。
それで思うのの1つ目はジャンルで、本来こんなものは好みを探す時の便宜上の仮分類に過ぎないって事った。

ってのもClassic全盛当時、それをクラシックだなんて多分誰も呼んで無かったっしょ。
だって幾ら将来大スタンダードになる予感がしたって、その時点では「最新の」なんだからさ。

その次にJazzが生まれた時点にしたって、もしかしたらたった1人位はそれよりRockぽいのもあったかも知れねんだ。
が当然Rockなんて名称は生まれて無いし、流行の主流からはかなり外れてるだろうからせいぜい変態Jazz程度の扱いをされた事だろう。

ほんでジャンル名称はあっても現時点で最も内容の巾が広いのの1つに、杜撰君としてはBluesを挙げときたい。
これが分かり易いのが歌謡曲や演歌ですら、曲タイトルが「○○ブルース」なんてのが一杯あったべ。

つまりジャンルでもあり乍らTango・Waltz・Balladeその他みたく、リズムだの曲のスタイルだのとしても存在してんのよね。
この件過去にも述べたが長らくJohnny WinterがガチのBluesとは思えなくて、名曲スタンダードのドブロでのカバーは未だしもエレキで当時時点では超絶速弾きなんかしてたからさ。

のが今になってみっとHard系やRock好きに親近感が高いってだけで、スピリットは骨の髄までドBluesだったんだよなぁ。
別物で比喩るなら屈強な青年が軍服着てるから兵隊だと思ったら、古着で買っただけで全然軟弱温厚な一般庶民だったみたいなね。

典型的存在になりたいなら外見と内容は一致してるべきだろうが、フォーマルパーティーでのドレスコード程の縛りのあるのは極少ないんだよ。
かつてサイケやGSでミリタリールックが流行ったが、その殆どは多分兵隊になんか行った事の無い奴等だ。

寧ろ軍隊上がりってばジミヘンは羽で飾り付けたり、Southern系では海兵隊上がりなのに典型的カウボーイの恰好しかしない奴が居たりね。
Latinイメージでリゾート感の強いSteve Gaddが、実は軍楽隊上がりでしかもかなりその方面で実績を上げてたなんてのも。

それが俺言い「1億総マニュアル化」以降、育った家庭の社会的地位や経済で進路コースがかなり限定されて。
それにつられたか音楽でも裏道・抜け道がどんどん消失したみたいに、目的地への到達ルートが凄く少なくなってんよ。

そんな状況に一矢報いてると思われるのが、音楽ジャンルより芝居のテーマや環境に沿ったこの手の音楽っつう訳さね。
だからその筋の職人を目指してる者以外こそ、ふーんそんな方法もあった程度で良いから一応耳にするとお得なんじゃねって話しどした。

~わをん~

2024年10月30日 (水)

音楽備忘録1901 ’70年代Rockの浦島太郎➊

冒頭にお断りしとくけどこれから綴るのは、飽く迄一老害の記憶と感覚に基づくから正確性に自信は無い。
にも拘わらず近年闊歩してる情報にいちゃもん付けたくなったのは、どう譲歩してもヘンテコなのが罷り通ってたりするからだ。

元来芸能関係の情報に「盛り」は付き物でそもそもの信憑性が怪しいものの、一応プロだから整合性だけは考慮してあったのよ。
かつての日本のタレントのサバ読みは常態化も同然だったけど、今以上に何かのTV番組とかで並び立つ機会は断然多かった。

からその際にサバ読みの凸凹具合が合わんといかんから、誰か最初の人が5cm盛ったなら後に続く人も皆大凡同じだけ盛っとくって具合にね。
現在ネット上で割と↑な証拠の残ってるのがプロレスラーで、杜撰君みたいなチビにとっちゃ実際は5cm位高かろうと低かろうと皆巨大なだけだから殆ど無影響なんだけどね。😖

わ兎も角近年ネット上を賑わすRockレジェンドの身長で、明らかにおかしなのを発見してちょっくら驚いてんだ。
時が経ち本人が亡くなって実見不能になった結果ではあるだろうが、Brian Jonesが何処を覗いても168㎝ってのは爺にはどうもねえ。

ってのもそれでBill Wymanと同じっつうのが変で、もしかしたら写真に残ってるBrianが何時も背を丸めてた可能性は僅かにはあるけどさ。
Guitar等の楽器からの比率からすると誰かさん(俺)とやたら近似で、その飽きる程見慣れた景色からしたらあって165㎝止まりじゃないとああなんねーっつの。

ってのもⅡで過去の全員健在当時の横並び画像を見進めてけば、各人の身長はバラけてたのが分かりそうなもんだがね。
特に今劣化本邦での情報が怪しく、恐らくフィート・インチからメートル・センチに換算する辺りから誤差を生じたんだろう。

誤差のある数値へ実見した感覚を加味する等する内、実数からどんどん拡大・乖離してったんじゃないかな。
又相応な加齢後には背の縮む人も珍しく無く、特に60歳以降のだと最高で-7㎝位迄は考えられるんだ。

それでも海外レジェンドのはまだマシな方で、国内のが何か別の意図があるか知らんが尚酷い。
これ等時間が経っての誤差は何故か国内-欧州-米の順に酷く、米は歴史が浅い故に史実に執着した研究や記録が多いからなのかな。

或は凄く小さいのから大きいの迄色々混在してるからか分からんが、「差別をしない人」のレベルがとうやら米が最も高いらしきは皮肉な現象だ。
何れにしてもMichael Jackson以降のは大体一定してるし情報の新旧での差が見られないが、それ以前のだとかなりリアルタイムとは様相を異にしてる様だ。

でこんなのが背丈だけの話しなら一部ヲタ以外にはそんなに副作用は無いが、少しでも音に関するのだととても深刻なんだよ。
絶対にそんな奏法じゃ出せない音が、出せる事になってたりするからねえ。

結局根底には近年になる程、取敢えずなら原理に疎くても演れちゃうのが原因なんじゃないかな。
表面上どんなに簡便になっても「唯の音」を音楽にするには、才能もだが先ず努力と感性が必要なんだよなぁ。

=つづく=

2024年10月25日 (金)

音楽備忘録1896 映画・TV等への専門家が作った音楽⑰

今日はアニソンの始祖は誰なのかをテーマに掲げるが、不勉強な杜撰大王だから真の始祖迄の追及は勘弁で御座る。
ってのも長らくアニメは子供向け漫画映画として他より低く扱われてたし、黎明期の作品は恐らく今以上に売れてなかっただろうしね。

っつう事って本人生存時には今程の評価はされてなかっただろうが、一応メジャーな開祖として、初期Disneyお抱えのFrank Churchillを提示しとこう。
日本だと昭和ヒトケタの大昔で世界的にも前例がほぼ無く、強いて助けになったとしたら映画自体がミュージカルを2次元化した感じだった位か。

そもそもJazz Bigbandでさえ円熟期より全然前だから、童謡しかも正規のばかりじゃなく子供達の自然発生的なのも色々研究してたのかな。
その他軍靴の響きが高まる中40歳で拳銃自殺する等、今日のDisneyの隆盛からは想像も付かない様な本人としては不遇をかこってたらしい。

正直長生きしたらその分必ず得する等とは今に至っても全く思えないけど、それは早死にの方だって同じ事なんじゃないのかなぁ。
そして恐らく懸案が音楽だったら自身の音楽でどうにかして解決せん限り、あの世へ行ってでさえ〆切に追われる漫画家みたいな状況はずっと続くんじゃね?…少なくとも杜撰君にはこれを明確に否定出来る材料が見つからんわ。

そもそも作者亡き後に大ウケするのってBeethoven等昔からあった話しで、不慮の大怪我で競技断念を余儀無くされるスポーツ選手とは真逆に近いかも知れない。
杜撰君の立ち位置でも早逝した親友が居り、もっとこの事は若年層に周知徹底してかなきゃいけないな。

ってこのまま続けたら暗くなり過ぎるからこの辺で止すとして、米でホピュラー系に属してた訳だからやはりJazzの香りはそこそこある。
但しこっからが重要なんだが近年の世間が想像するJazzとは一味違ってて、過去にも述べた如くJazzがヒット曲の中心にあった頃のはかなりシンプルなんすよ。

アニソン特に昔のになる程子供をターゲットにはしてたけど、そうでなくても万人ウケ流行歌を狙うならシンプルさって必要不可欠なんざます。
ジャンル特定要素を全破棄こそしないにしても、聴いてて心地良さや面白さの邪魔になる様なら躊躇無く断捨離しないとね。

その意味で童謡を始めとする子供向けの歌とか、黎明期のDisney音楽はPopsの先祖とも
言えそうだ。
時代と地域の事情でこしらえたのがたまたまJazzの人だっただけで、例えば王道Popsの1つCarpentersなら土台はCountryやJazz等の上に建っている。

又彼の前半期とGeorge Gershwinの生存末期がダブってて、考え様に依っちゃ後者の方がよっぽどJazzっぽい気がするのは杜撰君だけだろうか?。
全くの想像だけど童謡やその類のって何時の時代のにも共通で、一般的なジャンルの枠にあまり捉われてないんじゃないかな。

随時で流行を取り入れるのはしばしばあるものの、Disneyの場合「唯画に合わせただけ」でもしアニメのコンセプトが違ってたらきっとああなってないんだよ。
もしWalt Disneyが日本人でコンセプトが違ったら、その曲も「桃太郎さん 桃太郎さん…」みたいなのだったりして…んな訳ゃねえか。

-続く-

2024年10月18日 (金)

音楽備忘録1889 折角弾けるのに勿体無い⑥

勿体無い事になってる原因にもう1つのネックが考えられ、それが演奏力だ。
但し現在一般的な観念とは異なり、難度の高いのとか速弾きが出来るのとは違う。

これって理論的には応用力・対応力とも呼べるが、根幹的には表現力の一部だし核心だ。
のが何かと言えば単純でシンプルなプチフレーズでも、喜び・悲しみ等どれだけ異なった印象を与えられるかだ。

近年はClassicでさえ今劣化本邦の主流の学校やコンクールの弊害で、↑の様な表現面が殆どフレーズに依存すると云う情けない有様だ。
それでもそんな俺言い偽物が間違って通用するのは音楽位で、パントマイムだったら全く考えられない異常現象だ。

パントマイムって簡略思考でゼスチャーの集合体とすると、事前知見レスのズブの素人の多くに同じ解釈されないと成立しない。
一面でその特化型たるお笑いでの動きにしても、今劣化本邦のは過去のと比べ無用に過激化してる気がするな。

笑かそうとした奇特な動きも過激過ぎると恐怖心が上回り、滑稽さより怪我してないかとか余計な方に神経が行っちまう。
それ故思い切り叩くにしてもハリセンとかならセーフ、本気で鉄パイプで打ち付けたりするのは先ず無いでしょ。

って今や音は大きくても痛みの少ないこれですら禁止されたが、行き過ぎた暴言が横行してる中にはもしかしたらそんなのの反動もあるのかな。
わ兎も角本来は同じフレーズでも色々に聴かせるのこそ、本当の演奏技術なんだけどねえ。

その出音が水準未満な際他人は視覚効果に判断を委ねるからか、顔芸や演出的動作に大差が無いと軽視或は無視されがち。
外野にしてみれば明らかに出音がそれらしくならないと分かって貰えなくても仕方無く、そんな音が出せる迄奏者はじっと我慢の子であるべきなんだがね。

つい余計な色気に惑わされ表層的なポーズでウケ狙いしたくなるのは分かるけど、ぬるま湯に慣れる内に表現力向上が止まっちゃっても平気なのかな。
各々「今出したい音」があったり私的にそれへ没頭するのは良いけれど、相手が居る時それだけを押し通したらコミュ障の一種だで。

例えば自分発信でHardなのばっかはアリだけど、どんなに他人から乞われても全くメロウにはしないってなどうもねえ。
人には得手不得手もあるし苦手で絶品にならなきゃ絶賛される事だって無いが、その代わりチャレンジすればたどたどしくなっても鬼の涙みたいな別の効果位はあるんだよ。

他人を飽きさせない基本手段の1つに目先を変えるってのがあるのと、ずっとHardが続く途中ならちょっぴりメロウになるだけでも落差は大きいかんね。
こんなケースでは相手は専門家のメロウなんて期待して無く、だから取敢えずは各自がその場で出来る範囲で良いんすよ。

ってな事ってこの手のささやかな歩み寄りをするのって、親近感や共感を呼び込む準備みたいなのもあるんだ。
それ故頑に拒否ってると相手との壁を作るばかりか、実像よりつまらん奴とかケチな奴とか思われ兼ねないから百害あって一利無しな行動なんじゃないかな。

=もうちょい続く=

2024年10月14日 (月)

音楽備忘録1885 折角弾けるのに勿体無い⑤

さてこの案件誤った羞恥心の訂正と柔軟な対応力を持つのが鍵の様だが、杜撰大王的にはそれ以上にサービス精神の問題なのではと思ってるんだ。
本当に暇潰しだけが目的の個人趣味なら兎も角、突如他人を楽しませる事の難かしさと天秤に掛けてご覧あれ。

誰かと暫く同席する事になった際、相手が飽きずに会話が途切れないならそれも良い。(トイレ休憩等は除く)
だが凡人でそれがある程度有効化するのは豊富な体験・知見を得てからで、それも少しでも話し方を誤ると忽ち老害認定を喰らったりする。

低音質な音通信だと会話位しかマトモに出来ないが、アマチュア無線が過去帳入りした今では滅多にそんな場面は無い。
又今劣化本邦では在留外国人が少数な上、愚民レベルでは過度同調圧力のせいか日本語以外には反応しなかったりしてるべ。

けど大陸みたいに地続きだったら、日常的に前例の無い国からの来訪者があるかも知れない。
真のグローバルを標榜するなら文章や会話だけのコミュニケーションに依存するのはお門違いで、他にももっと様々色々な方法があるじゃん。

日本視点で西欧だとゼスチャーの多いのが目立つかと思うんだけど、アレって必ずしも文盲率が高いからとかじゃねえでっせ。
もっと単純な動機の方が優勢で、要するに人と人の平均距離が遠目になり声より大袈裟な動作の方が確実だからなんだよん。

他にも大規模建築はほぼ石製オンリーでやたら残響が多かったりするから、その点でも肉声のみ依存はこっよりかなり不利なんじゃないかな。
日本式だからとか固有文化を大切にするのと、状況に応じた最善コミュニケーション手段を選ぶのは全く別の話しっしょ。

ので例えばある程度弾ける人がド下手な口真似をするよりか、現物があったら直接弾いた方が相手に分かり易い。
って処で半恒例のプチ余談で人次第で絶対音感優勢なのと相対音感優勢なのがあるが如く、音の敏感度でもニュアンス・表情・音程・テンポ等かなり色々おま。

最終的には↑次第で伝わり易い方法が変わるが、それだからこそ一応でも「弾けるという特権」にも固有の価値が御座居。
発音が悪いから少し知ってても絶対に英語では言わないなんてのも普段は良いが、万策尽きて迄頑なにそうするのって考え様に依っちゃ悪い意味でのこっちの我儘だ。

その様な状況下で相手は発音の良し悪しなんて眼中に無く、唯々こっちの一挙手一投足から何か分からないかと観察してるだけ。
無論発音が悲惨過ぎたり基本条件を間違えてたら通じない場合もあるが、変な話し通じなかったら英語とすら相手は思ってないから恥をかく心配はご無用なのだ。😵

音楽なら異言語でも通じるったって該当する程世界的に有名な曲・メロはかなり絞られるし、ジャンル的に好みから外れてたら全然知らなかったりする。
から失敗しても減点は無く、唯残念乍ら加点にならないで終るだけなんだ。

=つづく=

2024年10月10日 (木)

音楽備忘録1881 折角弾けるのに勿体無い④

っつう事って現状不満な奏力での恥について掘ってみたけど、評価が相手の勝手なだけに色々腐心しても大した意味が無いのはご理解頂けたでせうか?。
あと1つだけこの件で追記しときたいのが、エゴやナルシズムの上手な処理の仕方ざんす。

生身の非聖人君主に熟練僧侶みたいなレベルの達観は無理ってもんで、けれど身勝手で過剰な期待を抱く等の手前なら誰でも手に負えるでよ。
こう云うのってエンターテインメントの基本条項で、どんなに狙ってて全くウケなくても平然と受け止めなきゃアカン。

その点お笑い芸人と比べるとミュージシャンって尊大なのが多く、尤もお笑い芸人だって舞台裏じゃ酷いのが結構居るけどな。
何故突然エンタ話しを持ち出したかってば、演じるのが何であれ必ずウケる保障なんて無いもんだからだ。

こちとら下品で低俗なギャグと違って…って崇高な意識で居たって、お客さんの趣味嗜好は千差万別な上随時流動性があっても不思議じゃない。
かと言って常時宝くじみたいにギャンブルフルでは弱っちゃうが、それを克服出来るとしたらその時のお客さん達の要望を少しでも読み取るのしか無いよ。

仮にバリバリ洋モノメタラーだったとしても顔立ちや容姿事情で和ぽかったら、相手は何処となく和の要素が出て来るのを期待するかも知れない。
その一具体例としては来日した外タレが開口一番下手クソでも日本語で挨拶してくれたりすると、たったそれだけで妙に観客が喜び興奮したりするアレだ。

のをベーシックなコミュニケーション視点で捉えれば、一方的になるのを半ば覚悟してたが相手からのささやかでも歩み寄りがあった事を喜んでる訳だよね。
のをもし自分のジャンルだけに頑なになってると、そんな場面では対応力を封殺してる事になるだよ。

先ずは挑戦してみるのがとっても大事で、上記例で言うと例え何と言ったか分からなくても決して減点にはならないでしょ。
何せ外人の発言なんだから分からないのが普通で、少しでも理解出来たら儲けもんなのさ。

そんなウケたら儲けもん・外しても損失無しのを見つけるのもコツの内で、相手にとってもこっちにとっても「偶然拾った宝くじ」みたいなもんなのさ。
一介のメタラーへの観客の例えば演歌期待値はゼロに等しく、最初からそれらしく奏でられる必要なんて全くおまへんと。

現実には専門のの方が少し怪しいだけでも大問題で、安易にひけらかすと事故の元だったりするけどな。😵
結局はまだ達人じゃねんだから下手だと思われたって当然、専門外のは上手く通じなくても是又当然とかって覚悟が最初に持ててないとさぁ。

ってかそもそも練習初期段階では出来ない方よりか、何か1つでも成功の片鱗が見えただけでも喜んでたんじゃない?。
杜撰大王流究極の体裁は呼吸で周囲の空気すら汚さないだが、生きてりゃ無理だし死んだら死んだで腐敗でもっと迷惑を掛けるんだってな。

=つづく=

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