経済・政治・国際

2025年5月12日 (月)

音楽備忘録2094 爆音歌唱に纏わる色々➓

続いては俺言い「Overdriveシャウト」時の子音の明瞭さについてで、オペラ唱法で分かり易いが体の共鳴をフル活用するとこの面ではかなり不利になる件ざます。
又英語等と違って強弱のとても少ない日本語だと、ベテランの杜撰大王でさえ未だに悩みのタネなんだ。

最も簡単な方法は矢沢永吉みたいに強調するのだが、彼は元が不良風イメージを売りにしてただけにあまり違和感無く使えてる。
んが不良は不良でも’50’s派生俺言い「短髪族」なら未だしも、容姿的には風前の灯となったにしても’60’s以降をルーツの中心とした是又俺言い「長髪族」で同じ様にやっては何か違う感があるんだよね。

所詮はRockだから何系何族だろうと大人しFolk等と比べりゃ、何で何時も怒鳴ってんの怒ってんの吠えてんのな感じは拭えんけどさ。
改めてこの問題を再検討してみると、やはり対話平均距離の相違が鍵っぽい。

加えてコミュニケーション方法での言葉の比重にも差がある様で、近年はそんなでも無くなって来たけど昔はオーバーなゼスチャーをしてたら外人かなの認識があったん。
それを今劣化本邦では声量をセーブする事で代替手段としてるみたいだけど、それではグローバルスタンダード環境下では確実に困窮するん。

のが端的に表出してると思しきが狭隘舞台でのコロガシ(個別モニタ)の常用で、変な習慣或は舞台の定形に囚われてる日本人以外こんなに近きゃ聴こえるから良いやと全然必要性を感じてない処。
本来狭隘舞台で必須じゃないコロガシは場所塞ぎの方が損失が大きいのに、すっかりPAに飼い慣らされた生楽器や声量不足のせいで元に戻れなく(不要PAレス)なっちまったとは情けないったらありゃしない。

そんなじゃ万一折角グローバルウケしてもそのままの体制で海外展開が出来ず、って最もその可能性の低い杜撰大王が言ったってあまりにも説得力に欠けるだろうけどさ。
そんな私境遇でも最高でここ迄しか到達出来ませんとなるのと、運が向きさえすりゃ無限の可能性がありますでは夢の見られる次元が違うってんでぃ。

究極的にはこんな箇所に迄影響がある訳で、さりとて杜撰君まだ解決策の決定打は掴めてねんだけどな。😓
取敢えずの策としてはアナウンス等放送界の発音で、本来声と言葉で伝えるにはどんな用途のでもある程度必要なものだ。

永ちゃんの強調策にしても標準をロクに知らなかったら適確には出来ない訳で、先ず無知と演出が全く別物なのを理解しませう。
標準語圏で育ってそこそこ何時も気に掛けてでさえ、かつて杜撰君は動物の熊のイントネーションが↓↑では無く逆にしていた。

私感ではずっと正規の方にどうにも違和感があったからでもあるんだが、単語だけで熊(Bear)が誰にでも認識されるのは正規の方なんだよね。
たまたま今迄は自作詞等に出て来んかったから大怪我はしてないが、どんな理由であれ下手に定着しちまって修正するのが結構大変だっただよ。

言語って単純な発音だけで伝わるもんじゃ無く、全くそんな感じはしなくても一流の歌手は知らずに歌っちゃいねんですよ。
それを個人的には英語圏の歌手で認知したが訛りの強い昔の黒人でさえ、単語自体が違わん限りは予想外にちゃんとした発音・イントネーションに良く聴いてみたらなってたんよ。

感触は飽く迄癖最強でベタな話しなんだが、実際本気で物真似でもしようとしないと案外そんな処迄聴けちゃいねんですわ。
注意力って不明瞭な時は上昇するけど何不自由無く楽に聴けちゃうと、油断したつもりは更々無いのに何処か脇が甘くなっとん。(まさか杜撰君だけなのけ?)

=つづく=

2025年5月11日 (日)

音楽備忘録2093 ’70年代Rockの浦島太郎㊾

自称浦島太郎が言うのは何とも奇妙だが、前回末尾の通り今劣化本邦の多くは原理段階で多分遅れを取ってんだ。
って又世間のディスりかっよたら一寸様相が異なり、要は自覚不足が大問題なんすよ。

最先端のデザイナーや技術者でも生活の何処か一部には、カビの生えた様な習慣が残ってたりするもんだ。
又祖父母を尊敬するあまり幼少時でも驚く程古い処のあるのも居るし、杜撰大王みたいに人生折り返し地点を過ぎた者なら遅れを取って当り前だ。

だが人の性(さが)としては遅れたくないのが山々で、服を纏って陰部を隠すが如く自然と隠蔽しようとするもんだ。
その隠蔽した部分が解消せず蓄積してく内に、頭の中の夫々の常識が化石化して行く。

又その行為はややもすれば日常に少しづつ無意識下で行われてしまってるから、何処がどれだけ遅れてるかの把握も再検証レスでは不可能だ。
日本人の場合で対処法の参考になるとしたら明治時代ので、体制を含め数多の急速な変容に誰もが即刻対処しなきゃなんなかったからだ。

今当時の人達の対処法の特徴をみると知識はどんどん刷新しても、自身は最低限の意識変容に留めてた処じゃないかな。
に対して昭和最後の10年位から現在に至る方では、原理知識の刷新は漸次減少し心理面ばかりが暴走してる気がしてならない。

例えば高齢者の多くがスマホ操作で躓く一因に、従来からのアナログ機器で身に付いた因習があるんじゃないかな。
アナログならツマミ目盛りの大体中間とか、様子を伺いながらの微小調節が効く。
がデジタルは冒頭述の如くどんなに外見上は複雑に見えても、極論すりゃ「おびただしい数のOn/Off SWの集合体」に過ぎねんですよ。

極力デジ君特有の弱点を緩和すべく今は恐ろしくレゾリューションを上げてるが、結局は小数点の一定以下の桁は1と0つまりOnかOffしか存在しねえんだ。
私的にこれを巧く表現してた例として、かなりニッチだがウルトラホーク1号の分割したどれかの操縦方式がそうなってたんだ。

操縦席にタンブラSWが左右に夫々10個以上横並びになってて、急旋回時にモロボシダンが指の爪側で撫でる様に一斉に倒すシーンがあってね。
長らくは唯ふーんとしか思ってなかったんだけど、デジタルの世になってみてあれはデジタル制御になってんだぞって意味だったのねと。

今電車の制御装置を始め多くの電気機器でインバータとあるのは、電力をわざと半導体でコマ切れにして一定時間辺りの所望電力量を得てるん。
杜撰流例えをするなら所望照度を得たいがオンオフしか出来ない際、明滅反応の緩慢な電球で細かく電気を入り切りしてバーチャル半点灯で誤魔化す様なもんだ。

ってよりゃ僅かな塵を掃除機で吸うのに瞬間的にOnにして、Off後のモータの惰性回転力を利用とか俺だけか分からんが結構してるなぁ。
これ大工や工員の電動ドリルでは半ば常套手段で、作業時に何回も断続的にウィンウィンと音がするヤツだ。

金属穴加工でドリルを使えば大抵は開けた穴の縁に所謂バリってのが残るが、それを手動でヤスリを掛けるのを面倒な時電動ドリルで軽く短く刃先を当てるのなんかもそう。
尤もデジタルは電子回路内で完結してるんで、上記例の手加減の分は無効化されるがね。

一度耳にして覚えてられたら極簡単な原理なんだが、どうも今劣化本邦では所謂スキルや偏差値に直結しないからっておざなりにし過ぎなんだよ。
1を学んで10を知るには最重要なんだが、庶民如きにあまり利口になられると困るって政策なのかよってな。

-終-

2025年5月10日 (土)

音楽備忘録2092 今更米ポピュラー音楽から学べる事⑪

このお題10回経過した処でここでの米の定義を再確認しとくと、過去日本での典型的Yankee的風俗とはかなり別物だ。
今劣化本邦でヤンキーっつったら死語称:不良・今ならワルの事だが、改めてググってみたら元はもっと狭義の別称だとさ。

語源自体はキリスト教の有名人Jan(原語でヨハネ)から来てるそうだが、今に近い使われ方は米南北戦争当時の南軍なんだとよ。
北軍の白人を揶揄する目的だったそうで、南部人や黒人は含まないんだって。

その後一部白人が半自虐ネタとして自称したのが広まって今に至ってるが、チャラく派手なイメージばかりが真の米の姿では無い。
この事実…と言っても日本が大正から昭和の時代のだが、杜撰大王は母方の祖父が留学してた際の様々な逸話を直接色々訊いたんだ。

それに依れば独程では無いにしても一般庶民はかなり実直且つ質実剛健で、真面目且つストイックな者が多かったそうだ。
にも拘らずその頃以降人気・観光政策もあったのか、安易な楽しさだけを強力にアピールしたもんだからねえ。

杜撰君も含め清原世代の野球選手(国際試合経験もあるのに)位迄、かなり実像では無く虚像の方をイメージしてたみたいなんだよ。
音楽面でのその影響はってばスタータレントばかり有名で、実際には黒人系Jazz Bigbandとか作編曲家の貢献の方が何倍も大きかったのにさ。

それ故昭和当時の日本でSammy Davis Jr.はTVCMでもお馴染みだったのに、古くから来日公演もしてたDuke Ellingtonはその筋の者でしか顔も分かりゃしねえ。(悔しいがMe Too😓)
だから俺等世代の旧常識からしたらさながら裏歴史と云った体で、この件でもレコードヲタの親友と出逢わなかったらきっと是正が遅々として進まなかっただろうな。

そんなだから実効性はグンバツでも至って情報自体は地味なのが多く、自ら少し深掘りに乗り出さないと今ですら向うからはやって来ねんですよ。
こういうのは他国・地域の情報にだって、少しは近似傾向にあるんだろうけどね。

更に思ったのが今劣化本邦の情報採取の認識で、何時からかは分からんが長らく受け身傾向の強い処。
欧米由来の生粋な資本主義では、儲からん情報は一々親切に流したりしない。

って事ぁ99%嘘だろうとボロ儲け出来そうな情報だけが、世間に満ち溢れてる公算が高い。
そんなのをこっち独自の解釈で捉えてちゃ、そりゃバカにもされるし真実に到達出来なくても当たり前なんだよ。

と云う裏事情から拙ブログで例示するアーティストは、こっちではどマイナーだが本国ではそこそこ知られてるのが多くなる。
差し詰め今向こうでなら大谷翔平は誰もが分かるが、地域が異なったりすると今永昇太等はまだ知らなくても当たり前といった感じだ。

しかしプロ投手志望の者には後者の方が勉強になる点が遥かに多く、又唯の追っかけと目標ではターゲットが違って来るのも本来は当然なんすよ。
更に杜撰君みたいなチビには後者でも178㎝あるから圏外で、辛うじて俺より4.5㎝大きい167㎝のホセ・アルトゥーベでどうにかってな感じでやんなっちゃう。

幸いミュージシャンなら西欧圏でもPrinceの158㎝等俺以下(但し誠に残念乍ら身長のみ)も居て助かってるが、そう云う個人特有の必須情報は端っから巷に溢れちゃ居ない。
個性・独創性の観点に立つと一々集め深掘りせんでも情報が間に合ってるって、裏を返せばあなたが没個性で凡庸を意味してるかも知れんから安穏としてられまへんでぇ。

=つづく=

2025年5月 7日 (水)

音楽備忘録2089 ’70年代Rockの浦島太郎㊽

前回末尾に「デジタルの原理は2択(1か0か)」と書いたが、もしや今劣化本邦の極端な2極化傾向は←に大衆が踊らされてる結果なのかとの仮説が浮かんだ。
仮に当たってるとすると未だデジタルを上手に利用出来て無い事となり、前代未聞の近年駄目政府と言えどどうりで拙速なデジタル化に一々失敗する訳だ。

音に関する上記観点では雰囲気や艶の逸失があるが、かなり妥協したものの各種デジタルフォーマットでそれなりに対策は施されてんだ。
厳密に云や欠落があると分かってるデータでぼったくろうってんだから微妙だが、大昔のソノシート並みの安売値だったら誰からも文句は出ないだろう。

しかし現実の程遠さからするとちゃんとは理解してねえみたいで、或は儲けの為にシラを切ってるか知らんがね。
CDが売れなくなった理由は1にスペースファクタなのには違いないだろうが、利便性を別とすれば究極環境で保存してもせいぜい100年しか持たなさそうとか勝手に妥協された音ってのも決して無関係じゃないんじゃね?。

要は向き不向きやコスパ次第でグレードをもっと選べるべきだし、更にはデジタルかアナログかの選択肢も現況如きじゃまだまだ精査すべき状況なんすよ。
その一例として電車運転士の携行「懐中時計」は、未だにどの会社でも完全デジタルのをワシャ見た事がないよ。

まあ一番の理由は恐らく「指針表示」で、運転中にチラ見で把握するには3本の針の角度の方が適してる。
最新車両ではグラスコックピットと言って表示部はLCD画面オンリーのも多いが、スピードメータ等は擬似指針表示のがデフォ化しとる。

これ自家用車でもデジタル表示黎明期は数字だったのに、今では殆どのが瞬間視認性の都合で擬似指針表示へ言わば逆戻りだ。
つまり元来は幾らデジタルを利用しようと適材適所で構わなく、こっち迄俺言い「デジタルメソッド頭」なんかになるのは全く不要なんだよ。

そこで再参考に絶好なのが一時期少し流行ったエロ本自販機や俗称オートレストランで、前者は購入時の恥じらいがほぼ不要になる利点を突いた商売だ。
尤も対象年齢未達の者が購入出来てしまう欠点とか、設置場所周囲の風紀等の問題もあって愛好研究家に依ると最早風前の灯だそうだ。

後者にしても美味しさの難から似た様な状況だが、近年登場の無人レジ等を考えれば衰退は妙な感じでもある。
日本の構造的人材難が一層苛烈化し長編成電車でもワンマン化から自動運転へと向かってるのからすれば、食事処だけ時代に逆らってる感じだ。

だが水面下(厨房内)での機械化併用率なら劇的に上昇してて、この功名な共存にこそ大きなヒントがあるんじゃないかな。
私的に鉄道で危惧してるのは経営環境の顕著な悪化があるにせよJRの様な闇雲な人減らしで、車掌レスにするなら無人駅や保線員を減らすのは危険なんだよね。

多分そんな配慮不足の失態が携帯ショップの年配者行列に顕在化してて、凡人用日常道具としては操作性を煩雑化し過ぎてんだ。
実用上ではデジタルかアナログかなんてほぼ無関係なのに、「洗練度を伴わない拙速なデジタル化」で大多数は盲目のまま何とかCPU君の命に従おうとしてるとはいとおかしに他ならんですわ。

-つづく-

2025年5月 3日 (土)

音楽備忘録2085 ’70年代Rockの浦島太郎㊼

時代の趨勢は裏に様々事情があっての事だが、カラフルからモノトーン一辺倒だとデザイン・美術・音楽等には少々逆風だ。
何故ならカラフル→何色でもOKって事ぁモノトーンだって含まれてるのに、↑は白黒とその中間色しか含まないからだ。

写真・印刷等が珍しかった頃なら白黒だって映ってただけで喜ばれたが、散々カラフルなのを浴びてて淡泊なのだけを強要されるのは堪らんよ。
流行にサイクルが生じるのは暫く経つと飽きられるからだが、それが成立するには少数派になっても常に対極のがあっての事じゃね。

バブル期の浮かれぽんちは色彩にも及んで、ビビッドカラーなる刺激的な蛍光色なんかも席捲し捲ってた。
それが崩壊して不景気まっしぐらだっつうのにケバい色のままじゃ不似合いで、超シンプル回帰に至った訳だよね。

けど不似合いなケバケバの中でのモノトーンだったら映えるが、度が過ぎて皆一様に白黒になったんじゃ白黒TV時代に逆戻りしたのかってぇの。
それならそれでコピー機・プリンタ・LCDモニタも、白黒主流にすりゃ安上がりで助かるぞっと。

わ皮肉が過ぎるとしても拙ブログでは随時吠え「音楽は比較芸術」なばかりか、流行が本当に価値を得る為には非流行の存在が絶対必要なん。
誰かが何かに直感で心酔するにはピンポイントでの琴線に触れなきゃなんないが、感性が完全に一致する人なんて居やしない。

そればかりか世の中の半分は平均より感性の鈍い人達なんで、彼等には単体で示されたってそれこそピンとは来ねんですよ。
のが対極に近い別物を1つでも同時に示し、どっちが好みかと問えばその過半数はあっちとここっちと即答出来る。

又戦後カラフル路線がそこそこ長続きしたのにも理由があり、単に平和になって良かったとか景気が良いのに合ってる以外に重要素があったと思える。
その一端に大昔述「電車の色」があり、一見派手目な様でいて今からすれば随分と濃い目だったりくすんだ色だったりしたってのがね。

日向の明るい場所での発色とかペンキの色抜けや汚損対策もあった様だが、他に比べ比較的長期間変更が無いってのが最大の理由だ。
孤立した路線ならコロコロ変色しても利用者に実害は無いが、常時同じホームに発着したりするヤツは赤がA線ので青がB線のなんて識別任務がある。

中には地味過ぎくすませ過ぎて冴えないのもあったけど、刺激が強すぎたら皆を3日程度でお腹一杯にしてまう。
そんなじゃとても5年10年とは持たせられず、更には独自性の付与も難しくなる。
これとは別に切磋琢磨するライバルの存在は大切で、スポーツ等では「あの凄い奴に勝った」なんてのが素人に対して王者の価値を明確化してるっしょ。

だからって普通わざわざ次点になりたいとは誰も思わんが、王座に君臨出来るのは唯1人だけ。
だいいち彗星の如く現れた別次元の天才以外は、2位にもなれんのが1位なんか先ず獲れる訳ゃ無い。

少なくとも現在ランキング圏外だったらそこへ入れるのが先決で、優勝出来なきゃ負けなんて吹聴する奴等に惑わされてちゃ駄目。
本人の意識は実際そうだったんだろうけど、そんなの他人は本来知ったこっちゃねんですよ。

理性的に考えるとそれなら何故表彰されるのがたった1人じゃないのかが変ってもんで、そう云う極端な考え方が適合するのはデジタル回路だけなんよ。
デジタルフォーマットならその原点は「あるか無いか」(1か0か)で働いてんで、ぴったり中間の1.5なんて言われたらどっちに編入させるか困っちゃうけどさ。

-続く-

2025年4月29日 (火)

音楽備忘録2081 ’70年代Rockの浦島太郎㊻

この項だいぶ長くなり愚痴のオンパレードになったが、一応’70年代Rock的思考をしてるとこんな風になったの一例でやんす。
とは言え締めに進めるに辺り後ろ向きのままでは相応しく無いんで、独断と偏見に過ぎぬが永久に不滅なポイントを綴ってみよう。

杜撰大王は酷く大雑把若しくは象徴的存在として「’70年代Rock」としているがRockに限らず音楽に限らず、本質的にはあらゆる分野で大きく発展した現在迄の最後の時期と捉えている。
技術面でも色々あったものの特筆すべきは文化面で、私的にはデザインやカラースキームの多様展開が印象深い。

それ等を羨む層の1つが令和ではネオ昭和なんて潮流となって表れてて、しかし惜しむらくも不況の今劣化本邦では実現が厳しくなってもうた。
デザインではそれ迄ずっとムードだけか実用性一点張りの2択だったのが改まり、尚且つ多様な価値観の建造物がどんどん作られてってた。

服飾では所謂ファッションヲタじゃなくてもGパン(デニムパンツ)に、様々なシルエットや色のが普及した。
因みに突然な超ニッチ情報になるがクソガキ当時の杜撰君が愛用したのがBig Johnってブランドで、ベルボトムなのは当然として明るい緑のコーデュロイのだった。

して世間がそんななら音楽にも呼応するののニーズが生じ、当時の従来とは一線を画す商品CMにはそれに相応しいサウンドが要るかんね。
映画・ドラマ等でも宇宙なんかテーマにすると、当時音でのそれっぽさアシストは今よりずっと必定だったん。

何せ人類の殆どが実際訪れた経験は無いし、情報にしたって写真も通信もデジタルじゃ無かって桁違いに少なかったしね。
ので銀河英雄伝説みたいなホントは未来の空想話しなのに、過去の歴史物的切り口で描かれても一般に共感され出したのはずっと後年になってからだ。

わ兎も角今はカラフルがモノトーンメインになった他で最も気になるのが「心地良さ」で、現代のは斬新なのは良いとしても生物感覚的に幾ら何でも気持ち悪いのが多過ぎると感じる。
斬新とか独創って気持ち悪くて構わんならいとも簡単で、唯今迄に世に出てないヘンテコな形にしてやりゃ良い。

だが何でも既成概念が勝ってた当時にそれを認めて貰うには、例え大嫌いな人に対しても毒が強すぎたら全然通用しない。
からかどうか真相は良く分からんが、今よりゃ遥かに許容範囲に収められてたのは確かだ。

それがポピュラー系音楽には最適な傾向で、ジャンジャン冒険はするがソフトランディングだからヲタじゃ無くても気軽に楽しめたっつう。
のがデザインその他と’70年代:今比と近似で、更にはコアヲタ専用とうたいつつ近年のは深度が浅い。

恐らく’70年代のヲタ向けは大勢が大衆を意識して上手く立ち回ってる中で、敢えて無視してたから思い切った振り切りが可能だったんじゃないかな。
今以上に別に本業があって、それ等はホンマもんの趣味で演ってた人が多かった。

それが通用したのも完全な反新自由主義で暮す人達も大勢居たからで、今じゃ核心不理解なアホでもやれタイパだのコスパだのを妙に皆意識してるからねえ。
あと異なるったら当時時点では、まだ打込みじゃ万人向けの普通の音楽は作れなかったんだ。

-続く-

2025年4月16日 (水)

音楽備忘録2068 今更米ポピュラー音楽から学べる事⑤

さて4回過ぎた半端なタイミングかも知れないけど、杜撰大王は決して米にだけ心酔してる訳ではないで。
仏のお洒落さや英の安定感等も同等評価且つ気に入ってんだが、コードやその進行の斬新さに限定すると学べる量が米は無尽蔵なんすよ。

ってかこっちが日本人だからそう感じる面もあるんだろうが、やはり古来からの民族音楽じゃないのを演る黒人が大勢居るのが恐らく原因だ。
本来なら世界各地の音楽を順に学べばより良いんだろうけど、聴くのと分析するのに膨大な手間暇を取られてちゃ作れる時間が削られるっしょ。

かと言って自国内流行等だけを追っかけてては、それこそずっと後追いから脱却出来ない。
これについては一家言ケチを付けさせて頂くが、日本古来の民謡や邦楽に携わる方々があまりにも閉塞的過ぎるのも良くねんだ。

長い時間が経過すれば言葉を始め色んな変化が必定で、現代に暮す庶民に分かり易いのも提示してかないとね。
いや決して伝統的なのを演っちゃいけねってんじゃなくて、今現在プロミュージシャンやってんなら今の音楽(そのジャンルなりの)をロクに演らねえのは怠慢でしかないと考えてんだ。

お上が価値を認めると色々お布施が来るが、それ抜きで継続させらるのを絶え間なく真剣に模索してるか怪しい。
これは何も雅楽とかだけじゃ無く、音大系派閥依存のClassic系も同様だ。

楽曲ダウンロード数やコンサート動員人数に比べ、妙にギャラが高くて食ってけるって上級国民なのかよってな。
確かに芸術的価値は安定してるが貧しいのが急激に増えつつある今、その大多数が普段聴きしたいのは高級で御大層なのなんかじゃねえ。

その面で米では欧や日本程Classic系は殿様扱いしてなく、自国で大躍進を遂げたJazzでさえ米の事務所が潰れて大御所が日本バブル期にはこっちに移籍した位だ。
それ迄の業績からしたら見捨てられた感が拭えなくもないけど、エンタメ≒見世物商売として考えるとその方がずっと公平ではあるんすよ。

そんなの中々厳しいには違いないが、悪い余裕は独自新開発の意欲を削ぐん。
恐らくそんなだから何とかして誰もやってないのにどんどん挑戦してった結果が、コードやその進行でも多彩なのを編み出す原動力になってたんじゃないかな。

故に本当の処は米だからじゃ無く時期を限定すりゃ、英ならBritish Invasion期等他国でも過半数が本気になりゃ得られる環境なんよ。
唯たまたまポピュラー音楽でコードとその進行が躍進する時期に、そんな環境が米ではずっと続いてただけなんす。

所詮は今劣化本邦なんてディスり捲ってる現況だから活発な競争は見られないけど、一時期よりは少しは工夫しようとしてる奴等が増えてる感じはするな。
けど多分勉強量が不足のまま踏み出す者が多いせいか、今度は無駄にコードチェンジや転調するのが増えてもうた。

そんな際に米のポピュラー系は絶好のサンプルで、案外コードに凝り過ぎたのは少ねんですよ。
その背景には今はちっとも売れなくなった凝り捲ったJazzの存在があり、未だ日常生活空間の端々で掛かってて比較的若年層にもそんなのが簡単に知れるからだ。

対して今劣化本邦では例えばStevie WonderやAl Greenはレジェンド認定こそされてるも、普段そんなに各方面からは流されて来てないじゃん。
リアル体験世代にとっちゃ百も承知で飽き飽きしてても、後の世代からそれでは知る機会を奪ってんだよなぁ。

=つづく=

2025年4月13日 (日)

音楽備忘録2065 ’70年代Rockの浦島太郎㊷

令和の昨今は益々昭和根性が嫌われてるが、根性の根の字が目に入っただけで無暗に忌避するのはどうかと思うで。
実際根拠薄弱な猛進は俺等世代の
当時時点から否定的で、心底惚れ込んでた中心は戦前世代が中心だったん。

にも拘わらず全面否定されると憤慨したくなるのは、逆方向に全振りしては弱点の場所が入れ替わるだけだからなんだよ。
さて広義の自分自身で良く考えて行動するの中には、ある程度は心理的意欲が絶対必要なのだ。

大抵は客観視や俯瞰ばかりが語られちまうが、気持ちが他力本願では少し面倒と感じたら頭だって深掘りを止めてしまう。
それがのぉ齢取ると普通は全てが昔より億劫に感じるもんだから、実行力の為の気持ちの萎えが年々日々痛感させられる事が多くなったんよ。

これは気力・体力の減退も当然あるが、それと同じ位「直接の競争相手」が段々居なくなるのも大きいんじゃないかな。
よっぽどストイックな性格なら別だが、凡人は真に独りで闘い抜けたりしてねんですよ。

なので理性で妙な平衡状態に陥った際、打破するには何かしらの熱意が必要になる。
にも拘らず安易に根性論に含まれる熱意迄拒絶しちまうと、とっても都合が悪くなるん。

まあ散々戦前世代の残党が横暴を振るったからイメージはすこぶる悪いが、これとて客観的に考察すると根性論自体が主犯では無いのだ。
杜撰君は父親が↑の典型だったから実感があり余ってて、悪く云や能力の高くないのだけが生き延びとったん。

勝とうとしたら優れた順に戦地へ赴かせるのは至極当然で、特に上層部が脳筋カルトでは戦略や作戦に勝ち目はねえですから。
本来なら下らん作戦遂行には捨て駒を充当すべきが、現場でそれこそ根性で何とかしろとやった訳だ。

結果的に体力・知力・勇気に秀でた者から戦死させる事となったが、戦中迄は大した事無かった連中が上のつかえが取れた途端に威張り出したんよ。
そう云う低俗な輩だから確たる根拠は持って無いし、細かい処を追求され出したら困る。

そこで大多数はアホだから無自覚だったろうが、根性論を魔用してたんすよ。
その証拠に普段あんなに威張り散らしてたのが、いざ危うくなったら見事な「手のひら返し」をしてましたな。

まるでかつての無能上官が雲行きが怪しくなったら、真っ先に逃亡したのをモロに真似たみたいにさ。
強いて擁護するとすりゃ案外簡単に手のひら返しをしてた処で、表向きは認めずとも過ちをそのままにはしとかなかった処かね。

その根底には天皇が神だの神風が吹くから絶対負けないとか大嘘教育を強要された挙句、信じて戦地に赴いたのに原爆迄落されてボロ負けしたって天地が引っ繰り返った体験があるのかな。
それとこっちは強いてじゃ無く擁護しときたいのが、初期平時には暴君的態度な割にいざピンチになったら手厚いフォローがあった事だ。

これを総合すると情緒的に過ぎたと言うべきで、根性論なんかよりずっと先に問題視すべき案件だったんだけどね。
それでか時代の影響か知らんが、今度は情緒に大巾に欠けた奴等が大増殖中じゃん。

それでもモデルケースが一杯ある仕事なら猿真似でもやり過ごせるだろうが、独立して希少な仕事はそんなじゃちっとも熟せやしねえですよ。
完成する迄はアイツ何アホさらしとんとディスられるのを、堪え抜く根性が先ず要るじゃないさ。

=つづく=

2025年3月12日 (水)

音楽備忘録2033 ’70年代Rockの浦島太郎㉞

最近ネオ昭和なるサブカルが勃興し少し脚光を浴びるのは嬉しいけど、浅はかな年寄りが安易に乗っかろうとしないか心配だ。
実体験がある価値は揺るがないが、心身共に当時を維持・継続してる人は稀。

無論加齢や時間経過に依る必然性のある変容は仕方無いが、厄介なのは「変わった自覚が無い」若しくは実情より希薄なのがねえ。
そんなバイアスが無意識・無自覚の内に掛かる原因として、案外「強烈な原体験がある」事の副作用なのではと考えてんだ。

記憶に焼き付いた自分以外のもの全ては永遠に不変なんで、まさか自身が別人に見える程変化してるとは認め難いのだ。
特に昭和当時絶好調でその後に何のインパクトも無く過ごした場合が危険で、一般論では所謂「過去の栄光に依存」してるパターンだ。

杜撰大王は今も続く貧の数少ない利点で今現在を生きざるを得なくなってるが、若い頃の夢は沢山見てももっと年老いてからのは今ん処殆ど見ないから充分予備軍的資質は備わっちゃってんだ。
この様な現象は恐らく順当なもので、実際可能性は齢を取る程減ってる訳だからねえ。

けど最高潮の時期が昭和だったからって、何でもかんでもリンクさせて考えちゃ不味いんよ。
音楽その他の作品とかで想い出≒思い入れが他を上回り、それに愛着を持ち続けるだけなら罪にならんがね。

もしそれをそのまま他世代に分かれと言ったら典型的な暴言で、尚且つ理解不足の人に向かって残念なんて態度をしちゃうのも不遜すわ。
いや俺だって全く残念と思わん訳じゃねえんだが、それは飽く迄こっちの私的案件で世間全体の認識とは別物なんだよなぁ。

別表現をするなら好きと良いは独立させるべきもんで、その根底にもしか世間評価が低い物に対して個人的には好きなんだっつう勇気不足があるのかな。
日本って普段は体裁や見栄に不必要にうるさく、それでいて呑みの席になったら何でも無礼講が罷り通るみたいに皆で勘違いしてる国だよねえ。

そこから外れると「あいつは変わり者だ」なんてレッテル張られてたが、今生き残ってる昔の人は昭和の本音と建て前の真相理解が足りなくなってんだ。
人と違うのを変わってないと言うと認識が変と勘繰られるから取敢えず表面上そう言ってただけで、それだって少々無責任だが個人的にどう思ってるか迄は言及してねんですよ。

なんて今では杜撰君こんな風に語ってるが昭和当時には堅く考え過ぎてて、一方向から眺めた理不尽さに最大限反抗してた口ざんす。
のは周囲が感覚で掴めばかりで、誰一人としてそんなアルゴリズムを教えてくれなかったからなんよ。

その内自然と分かると言われたが、成人するのと昭和が終る迄には結局分からなかったやないかい。💢
こっちだってアホの自覚はあったが、お陰で酷く生き辛い思いを散々させられましてん。

まあ白人社会では相変らず差別が横行してるみたいで、何処にだって大きな欠点が残ったままだけどな。
只そんな昭和当時は少数派の苦体験をしたんで、時既に遅しだけど真相に辿り着けたんすよ。

これも失敗しなきゃ学べないのの1つで、つまり昭和当時にイケイケだった連中の方が老害化が進んでも自認出来難いんじゃないかな。
あと分かった処で直接即自分の得にはならないのもあって、中々一歩目を踏み出せないのかも知れないね。

=つづく=

2025年3月 4日 (火)

音楽備忘録2025 ’70年代Rockの浦島太郎㉜

続いては同世代以上の主に拘り派男性へ絞ってくが、副題は「こっそり専業主婦のオバチャンから要領を盗んじゃおう」ざます。
っつうのも定年退職したオッサンが覇気を無くすのと比べると、その専業主婦は加齢の衰えは同様にある筈なのに却って元気になってるやん。

主因は間違いなく環境の急変にあるだろうが、折角痛勤や残業から解放されたにしては消沈し過ぎじゃない?。
そこで一寸した趣味とかのアプローチに着目したら、どうやらオバチャン逹とは真逆に近いのが不味いらしいんだよ。

音楽の場合大前提として提示出来る何かが必須なのは確かだけど、実はその視点って現実一般社会では狭隘過ぎたん。
部外者にとって重要なのは資金・日時や場所の方が先で、突如隣家の庭先なんかで演り出されたら敵わんやろ。

私的にその発端は仕事なら妙に許されるとか、泥酔者の粗相にだけ甘過ぎるのがある気がするが…。
実際裏金議員は逮捕・起訴はおろか議員資格停止や剥奪すらされんのに、一介の無職老人が菓子パンたった1つ失敬した程度でもまるで大悪党とさして変わらず厳しく扱われる。

更にその根底には国策でサラリーマンを優遇し過ぎたからと思ってるが、ここでの争点に経済や身分保障等は一切含まれてない。(生粋の反体制でもマトモなリーマンには決して敵視なんかしまへんで)
問題なのは他人に対するコミュ力不足・礼儀・思いやりの欠如を許し過ぎた処で、昭和の昔なら緑ナンバー(営業自動車)だとマッポ(警官の死俗称)の応対が露骨に違ったもんな。

特に有名企業やその名刺の威を借りてたからの待遇が、本来はフラットに戻っただけなのにそれが正確に捉え切れて無いんじゃないかな。(苦闘の挙句にやっと入手した気持ちは分かるが…)
社員時代は会社の若い女の子がお疲れ様とお茶を淹れてくれてた(本当は職務上のお義理)のが、退職した途端かあちゃんにオイお茶と言ったらドヤされるとかさ。

で長年お前らの為に苦労して来たのに…は事実なんだけど、向こうからすりゃ今の時点で淹れてやったら代わりにブランドバッグの1つも買ってくれる訳じゃ無いんだよ。
そんなに立派な企業戦士だったなら退社後は自身がミクロ雇い主と考えて、会社が出してた給料の代わりの何かをちゃんと出してやらなきゃ同じ待遇なんて端っから期待する方がおかしいん。

でⅡで社員時代に取締役(つまり経営に一部でも参画)してたなら未だしも、大多数は真に自己責任で主体性を持って事を運んだ経験は無い。
のに対し一介の主婦如きでも個人商店の経営に近い体験はベテラン級なんだから、他力本願と迄は言わずとも変な依存体質が染みついてるかも位はせめて気付かんとねえ。

これって言うなれば基準点自体がズレちゃってんだから、そのままで幾ら熟考したって実現度・有効度が下がっちゃってんすよ。
それと夢ばっか語ってる様で居て女ってな実にしたたかだから、腹の内では密かにもっと具体的に狙ってる事が多いんだ。

その意味で似た様な言葉を発してても男は唯の理想論で、女性のには裏に現実が内包されてると言え様。
但し強いて男性的思考の長所を挙げるとしたら、実現率こそかなり低いが成功した暁には成果が大きい。

それ故長期展望の方向性ならそのままで良いが、日常の些末な案件にはそんな大それた思考が多分合ってないんだ。
それにはメンタル的に小さな失敗を毛嫌いすると駄目で、変なプライドに縛られるのが最も枷になる。

のに対して加齢は絶好の逃げ口で、本当になっちゃヤバいがボケたり衰えたフリが出来るのよ。
これが一般論の現役世代だと単に信頼性を損ねるから長年不可能だったのが、定年退職すると一気に解禁になってんのよ。

普段はお前は定年無くて良いなと言われる杜撰君だが、こんな処はホンマ羨ましいで。

-つづく-

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