文化・芸術

2024年10月10日 (木)

音楽備忘録1881 折角弾けるのに勿体無い④

っつう事って現状不満な奏力での恥について掘ってみたけど、評価が相手の勝手なだけに色々腐心しても大した意味が無いのはご理解頂けたでせうか?。
あと1つだけこの件で追記しときたいのが、エゴやナルシズムの上手な処理の仕方ざんす。

生身の非聖人君主に熟練僧侶みたいなレベルの達観は無理ってもんで、けれど身勝手で過剰な期待を抱く等の手前なら誰でも手に負えるでよ。
こう云うのってエンターテインメントの基本条項で、どんなに狙ってて全くウケなくても平然と受け止めなきゃアカン。

その点お笑い芸人と比べるとミュージシャンって尊大なのが多く、尤もお笑い芸人だって舞台裏じゃ酷いのが結構居るけどな。
何故突然エンタ話しを持ち出したかってば、演じるのが何であれ必ずウケる保障なんて無いもんだからだ。

こちとら下品で低俗なギャグと違って…って崇高な意識で居たって、お客さんの趣味嗜好は千差万別な上随時流動性があっても不思議じゃない。
かと言って常時宝くじみたいにギャンブルフルでは弱っちゃうが、それを克服出来るとしたらその時のお客さん達の要望を少しでも読み取るのしか無いよ。

仮にバリバリ洋モノメタラーだったとしても顔立ちや容姿事情で和ぽかったら、相手は何処となく和の要素が出て来るのを期待するかも知れない。
その一具体例としては来日した外タレが開口一番下手クソでも日本語で挨拶してくれたりすると、たったそれだけで妙に観客が喜び興奮したりするアレだ。

のをベーシックなコミュニケーション視点で捉えれば、一方的になるのを半ば覚悟してたが相手からのささやかでも歩み寄りがあった事を喜んでる訳だよね。
のをもし自分のジャンルだけに頑なになってると、そんな場面では対応力を封殺してる事になるだよ。

先ずは挑戦してみるのがとっても大事で、上記例で言うと例え何と言ったか分からなくても決して減点にはならないでしょ。
何せ外人の発言なんだから分からないのが普通で、少しでも理解出来たら儲けもんなのさ。

そんなウケたら儲けもん・外しても損失無しのを見つけるのもコツの内で、相手にとってもこっちにとっても「偶然拾った宝くじ」みたいなもんなのさ。
一介のメタラーへの観客の例えば演歌期待値はゼロに等しく、最初からそれらしく奏でられる必要なんて全くおまへんと。

現実には専門のの方が少し怪しいだけでも大問題で、安易にひけらかすと事故の元だったりするけどな。😵
結局はまだ達人じゃねんだから下手だと思われたって当然、専門外のは上手く通じなくても是又当然とかって覚悟が最初に持ててないとさぁ。

ってかそもそも練習初期段階では出来ない方よりか、何か1つでも成功の片鱗が見えただけでも喜んでたんじゃない?。
杜撰大王流究極の体裁は呼吸で周囲の空気すら汚さないだが、生きてりゃ無理だし死んだら死んだで腐敗でもっと迷惑を掛けるんだってな。

=つづく=

2024年10月 9日 (水)

音楽備忘録1880 映画・TV等への専門家が作った音楽⑬

例に依って大回りになっちまうが前回後部述「名人と素人の距離感が近い」のって、どんな分野でも結構大事なんだよ。
無論名人の舞台裏ではかなり異なるものも多いだろうが、原点の感覚的共有がさ。

映画音楽っつう分野はこれが顕著に出る1つの典型で、技を見せたり論理で唸らせたりするのはずっと下位に位置してるからなんだ。
ってか一部ヲタ以外向けではそもそもそんなのが存在しないんだが、最大派閥の庶民感覚・感情に疎かったら世間の共感が得られないもの。

この部分ではJazzでもヲタ向けとは正反対の方向を向いていて、そこが担当分野に詳しくなってく程結構難しい。
今劣化本邦の悪政は根源こそ壺にあるも、政治屋二世三世が主流にあるのも又よろしくない。

一世の教育論が良好ならまだ二世には伝えるだけはするだろうが、世代が進むにつれその独特で世間から隔絶した感覚にどんどん蝕まれて行くからねえ。
要するにそんな裸の王様みたいなのが、映画音楽では最も全く通用してくれねんだ。

杜撰大王が米でも近年のHollywood物やDisney物音楽の評価が、一般世間に逆らって低いのはこれもあるんだ。
尤も初代だけが世間の認知を得る突破力を桁違いに必要とし、後発になる程踏襲するだけでセーフになったりするのはどちらさんでも同様ですがね。

で柔軟性・対応力に関して合衆国だとその多様性の点で明らかに有利で、しかし年々その効力が弱まったのは国としての米の権威が上がったり安定した仇だろう。
若者だと多分実感し辛いだろうが’60年代位迄、深層心理では米は欧に舐められてたんだよ。

米って第2次大戦前後から目覚ましい発展をしたものの、音楽界では誰かさん達のせいで起きたBritish Invasionのせいで欧覇権の寿命が延長されたんじゃないかな。
Rock自体の発明・発祥で米は折角リードしたのに、その後足踏みしてる内にBeatles等に根こそぎ持ってかれちゃってたからねえ。

と云う様なバックグラウンドがあっての米の台頭なんで、結果を素直に尊重してるだけで杜撰君は決して米至上主義等では無いんでやんす。
なので今更変な思い込みしてる人は殆ど居ないと思うけど、国が何処だからってのと映画音楽への杜撰流評価には一切関係はおまへん。

この件での好条件がたまたま揃ったかの地で、その有効活用が大成功を収めたに過ぎないと思っとりゃーす。
この現象は他にも色々実在してるが、要は強力なライバルが身近に常時存在してたからなんじゃないかな。

何より今では確固たるアメリカ風とか流が確率してっけど、当時は歴の浅さから100年物のスタンダードには至れてなかったからね。
それを成すのに旧来ネタの方が多かったりすると、新米流じゃなく欧とかアジアの焼き直しとか亜流と見下されちまう。

っつう事ってアイデアの拝借先も実に斬新且つ豊富で、とってもインスタントなのから本格的なの迄実に様々だ。
その結果現代グローバル感覚にはもうそぐわなくなっちまったのもあるが、異質な物の融合方法としては未だ有効なんじゃないかな。

=つづく=

2024年10月 8日 (火)

音楽備忘録1879 人力生演奏のススメ➊

以前から打込みの方法が進化しないならで述べて来たが、今回はある曲を聴いてまざまざと感じたのの件だ。
思っていたより遥かに躍動感に溢れてて、思っていたより遥かにRock色が強く時代の先端を行ってたんだ。

のは訊いてズッコケないでおくんなまし、科学忍者隊ガッチャマンのOPだ。
歌はFunkyな子門真人だからまだ分かるとして、作曲が小林亜星なのにどうしてああなったかは今の感覚だと一寸不思議。

日本でも’70年代の子供向けは斬新さや当時の最先端流行がふんだんに取り入れられてたんだが、その頃普段はAl Green等の黒系やGlam・Hard系等を愛聴してたもんだから取り立てて気にはならなかった。
大人向け王道作品だとそこ迄じゃなかったのは、もしコケたら困るから大胆な冒険がし辛かったのかな。

ってのも事後検証で炙り出されただけで、リアルタイムでは単に好き嫌いやカッコ良い悪いだのだけだったんだけどね。
そもそもたまたまその頃子供だったから身近だっただけで、今のアニソンヲタみたいなのは俺には欠片も無かったん。

何れにせよ上記の様な傾向・背景があった様なんで、当時のアニソンや子供向けは比較すれば元気なのとか挑戦的なのが多くはあった。
が録音やアンサンブルの編成等欧米比では明らかに古臭かったし、サウンドの個性・独自性でも劣るっつうか時代遅れな部分があったのは確かだった。

私的なその嚆矢はDrumサウンドで、例えばローピッチやハードミュートされたSnare等が用いられるのはもっとずっと後になってからだ。
Guitarにしてもワウペダルのチャカポコなんかは大流行で入ってるが、肝心の歪みは殆どがFuzz系依存で明確にAmpをOverdriveさせてたのはこの系統だと記憶に無い。

のに久々で耳にして一体何処にノックアウトを喰らったかったら、リズム・スピード感・躍動感でかなり秀でてたんすよ。
サウンドだって時代性を無視したらそんなに悪かねえんだが、アンサンブルの熱気(それは主にノリにハッキリ現れてる
)が現代作品だと到底比肩するのが見つからなかったんだよ。

正味な話し演奏の緻密さや精度では明らかに今に劣ってるけど、それだけが音楽・曲の優劣を付けるもんじゃないしトータルで魅力的か否かってったらさ。
繊細なBallade等なら未だしも、この手のは幾ら緻密・正確でもついつられる様な勢いが無かったら駄目じゃんか。

要するに少なくとも杜撰君内では欠点を魅力が遥かに上回ってて、それが曲や作品の好評価に直結してたん
だよ。
今時分だとバーチャルゲーム等の方が身近な人も増えたんで、ニーズとしては生の躍動感はそんなに求められてないかも知れないけどねえ。

だが同じ編曲同じフレーズだったら、この曲程度になると打込みじゃどう頑張ってもここ迄には出来ないんだよ。
処がそもそも生躍動感の典型的実演に触れた経験が
無いと、「何処迄盛り上がれるか」の限界点も分からない。

かく語る杜撰君でさえちゃんと聴くのは久々にして、あれこんなにイケイケだったかなあと思った始末で。
奏者の立場にある者が欠点極小化方向へだけ耳を傾けてると、偶然でもここ迄は多分演れない。

流石に普段の録音技師やプロデューサはそうは行けないが、彼等は彼等で魅力の創出は作者・奏者程には実行出来ない。
今劣化本邦の現況って差し詰め遅球投手と剛速球捕手のコンビみたいなもんで、やるべき仕事があべこべになっちゃってんじゃない?。

-続く-

2024年10月 7日 (月)

音楽備忘録1878 エレキBassのCreamyな音色の魅力➋

前回末尾の「オクターヴ上」とはエレキBassで出せる各音での最低音程の1つ上なんだが、アンサンブルでの最低限の使命「ルート明示」だけだったらそんなの使う義理は無い。
但しそれが成立するのは他の各パート全てが、「被らない音域」だけを使用してるのが条件だ。

鍵盤と違って弦は遠く離れた2つの音程を同時に鳴らすのが苦手だから、普段上へ寄せれば上・下へ寄せれば下の比較的狭い音域を使う事となるんだ。
ので鍵盤不在で例えばGuitarがGuitarとしての中音程域を使ってたら、Viola音域は賄えるがCello音域が出せなくなってる。

その時少し中抜けして構わないなら良いが、塊り感が要求されたらBassも上の方へ移行するのがベター。
等実際のアンサンブル内ではそんな事も起きるから、単純に楽器の音域だけで棲み分けさせりゃ大丈夫とは行かねんだ。

寧ろ音色差からの棲み分けの方が重要で、古くはClassicオケで既にその具体例が多数見られる。
それからするとGuitar系メインのアンサンブルで、エレキBassには差し詰めContrabassとCelloの両方の音色が初期段階では要求されてるって事った。

のがエレキBass黎明期に王座に付いたヤツがたまたま中域中心の音色だったが為に、Hi-Fi化し出す迄は注意する必要が無かったんだよ。
或はそれが分かってて音色形成されてた可能性もあるが、何れにせよ各方面とも熟成が未達だったから到底Contrabassのローエンド等には対抗出来てなかったと思うよ。

又アコースティック発音の金物系以外では高域量も出せる限界が低く、今ではより煌びやかなエレキも当時のは意図的に倍音を目立たせられる程度でさ。
実際には生楽器よりかなり所謂狭帯域で、その代わり纏まりって点では扱いが楽になったかな。

わ兎も角電気楽器でGuitarや鍵盤のデフォルトメロ音域の方がより高域が必要だからか、或は足りない低音を相対的に目立たせる為かBassは「ハイを出さない」音色が中心になっただよ。
のとJazzでより好ましい音色を求めてかFlat Wound弦がデフォになったが、恐らく技術的にはRoundより後発の進化形なんだ。

杜撰君は世代的にFlatデフォの末期世代だから意外だったが、製造技術難度を考えれば当然の結果だった。
断面が☐の線を巻くとか○線を巻いてから表面を平らに削るとかしなきゃ、表面ツルツルにはなってくんないかんね。

そうして初めて得られたCreamyな音色が、コンバス一択当時では選択肢に無かったフレージングを可能化したんすよ。
だからって今更高価なFlatを全推しはしないけど、それで成立するようになったフレーズは決して無視は出来ませんって。

明瞭度や現代ニーズ全体では勝るRoundも、この面でだけは代用するにはそこそこ音色の工夫が必要でさ。
直接中域を増やさない迄も、「中域を感じさせる」エレキBassでの高域の下の方とかで補填しないとならないんだ。

具体的側面は例に依って長くなるから次回送りとするが、かつて出せなかった・拾い切れなかった低域を特定中高域で感じさせるのなんかと大体同じだ。
最典型例としてはBeatles時代のRingoのDrumサウンドで、意図的に「皮が揺れてる」成分を前面に押し出してたよね。

=つづく=

2024年10月 6日 (日)

音楽備忘録1877 折角弾けるのに勿体無い③

現況の諸悪の根源は悪政なのにその理不尽をSNS等の暴言で発散するのが多いから、誰もが他人に隙を見せまいとなるのは仕方無い。
だがある程度は勇気を出してそんなのを打ち破らないと、自身に必要なプレゼンさえ出来なくしちまうよ。

いや飽く迄個人の秘密の趣味だからとか上手くなれなくても独学でやるからなんて思ってる人、どんなに慎重に事を進めても他人にバレたり関わりを途絶するのは無理でげすぜ。
を例に依って敢えて秘密主義肯定論から考察してみると、先ず楽器や関連道具の入手はネット通販にすればほぼ心配は無い。

但し大柄な生楽器は例外で生ピ等は専門の運送・設置を業者に依存しなきゃなんないし、運んだ時の振動等の悪影響から逃れられないから最低でも初回だけは調律師にも世話にならなきゃなんない。
仮にそれはクリアしたとして今回考えて欲しいのは、所謂「独学」の正体なのだ。

狭義の概念では個人だけで熟せるが、実際には様々な場面で他人の助力があって初めて成立するもんなのだ。
その1として教わるのを極力避ければ教師の世話にゃならずに済むが、間接的ではあってもマニュアルやテキストは誰か先人がこしらえた物。

それを幾ら読んでも分からなかった時一般学校受験のなら参考書等豊富だが、個別楽器の演奏のだと書籍だけに頼り切れないのがちょこちょこ出て来ちまう。
そうなると知識の段階で例えSNSを通してだろうと、質問する等誰かとのやり取りの必要性が生じる。

それ処か演奏って「実技」なんで全く実地訓練レスってのは厳し過ぎ、運転免許だったら教習所のコースも仮免での練習もせずに免許を与えて大丈夫なのかってなもんだ。
それ故結局趣味でも有意義なものにしようとしたり僅かでも向上させたいと思ってたら、独学だから講師不要なんて考えたら大違いなんだよ。

一般感覚的に先生居ませんと感じるのはアリでも、年下の友人からプチアドバイスを貰うだけだってミクロ先生が実際には居たも同然でっせ。
独学と習ってるの実際の差は特定の練習日時・場所・講師の有無程度で、俺言い活発な独学をしてたら寧ろ先生の人数は何時しか桁違いに膨大になってる筈だ。

なのでもう練習の時点から一定数の他人にネタバレしてる訳で、唯その各人に何度もは聴かれてないからきっとあまり自覚が残ってないんだよ。
それって思春期の男の子がエロ本を上手く隠し通せてると勝手に思ってて、狡猾な親は状況把握の為にとっくにバレてるのを黙ってるだけみたいなもんすよ。

ひた隠しにしようとするよりバレてる前提の対応を考えとくべきもので、それに有する勇気はほぼ初回1回のみ。
何より正式に習ってない人への期待度は低いから、よっぽと変態的な失態を演じない限り他人は逐一詳細になんか覚えてないさ。

を逆典型例の提示で補強しとくとある時桐朋音大現役生と知らされてそのViolinの腕前に期待したっけ、オタマトーンやテルミンより音程が曖昧で悪い意味で強烈に印象に残っとりま。(容姿端麗で音程以外は全てハイスペック!!)
肩書で勝手に想像するのは俺も含め今劣化本邦人の悪い癖だが、少なくとも音が良くは分かってない一般人がスペックを頼るのは仕方無いけど同時に「恥ずかしい音になる」のも仕方無いぞ。(現況はあまりに度が過ぎてるが…)

=つづく=

2024年10月 5日 (土)

音楽備忘録1876 映画・TV等への専門家が作った音楽⑫

さて絶妙なムードとか独自の雰囲気では一歩譲る米だが、それ以外や全体としての力はやはり上だ。
この辺は専門家以外で携わる人に違いのあるのも関係してそうで、又オケにしても長い伝統を持ち得なかった米ではJazz系等の方が質・量共に勝ってたのもね。

一面で映画音楽と最も結び付きのあったのがJazzとも看做せ、全盛時期的なものの他Jazzは「制約が最小」なのも大いにあったろう。
その時期毎に流行りや王道のスタイルっつうのはあったけど、ちゃっかりウケ狙いしてただけでJazzは本来全く自由なのよ。

寧ろ昔前衛音楽の存在を一般市民が非認知の方が多かった頃は、訳の分からん音楽は乱雑にも皆Jazzの括りに入れて片付けたりしてた位でね。
Rockでも発展途上期には同様に難解なヤツは、何でもプログレだなんて今からすりゃ何といい加減で雑な分類で。

こんなのは主に知識と経験の不足してたトウシロ中心の反応に過ぎないが、世の中時々そんなアホで単純なのが決め手になる事もあんの。
音楽のドキュメンタリー映画ならいざ知らず、それ以外の膨大な映画の音楽ってな基本音楽家や音楽ファン以外がメインターゲットになるよね。

その為自ずと理屈や技とその理解なんかより、圧倒的に雰囲気だの世界観だのが勝負の分かれ目になるですよ。
端的に言やドレミかシレソのどっちかより、怖いか抱腹絶倒か殺伐かハッピーか等の方がさ。

もしかムードだけの方が簡単と思うかもだが、実際寸分違わずのイメージを出そうとすると他の何より大変でっせ。
昨日と同じ量の塩をちゃんと計って入れたのに、食べる人の体調や気分次第で昨日は薄いと言ったのが今日は濃いなんてのが平気で起こる訳だからね。

そりゃなるべく大勢に認めて貰うのに音程やリズムは良い程良いけど、全く出鱈目でもイメージピッタリならどんなに酷い演奏だってその方がマシと。
まあ実際のアンサンブルの録り現場では譜面も指揮者も使ったりゃするが、Classicより遥かに目安でしかなく感性最優先なのは確かずら。

そんな情景で思い浮かぶのは例えば実際あったかどうかは知らんが、岡本太郎が「芸術は爆発だ」と吠えそれを受けた山下洋輔が訳の分からん変なのを即興で応じるみたいなね。
米Jazzの全盛期はエンタメの絶頂期とも重なってたんで、上手く実例は上げられないけど日常的にShowでそんな真似も演られてたんだ。

その残像?!が杜撰君世代では当時は知る由も無かったが、TVCMでも人気を博したSammy Davis Jr.ですわ。
後にJazz全盛時のミュージカル映画を覗いてみると、彼以外の超大物も次から次へと止めど無く出て来て色々やらかすは…。

これ実は日本でも’60年代を中心に、名優・名奏者から芸人・アイドル迄が混然一体となって出演してたんだよなぁ。
つまり現時点迄で雲の上の人と一般庶民の距離感が、実質無かったような状態で。

今で例えるなら日曜のローカルなリトルリーグの試合に突如大谷翔平が現れて、全く当然な顔と態度で試合に参加する様なもんすよ。
恐らくそんな調子だったから、素人(部外者)の無茶な注文に応えるのに今より全然慣れてたんじゃないかな。

=つづく=

2024年10月 4日 (金)

音楽備忘録1875 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➒

この項は久方ぶりでサクッとまとめに入って、ダラダラ続くのを防止する事にしよう。
何しろ小技で珍しいのも全部含めるとなるとキリが無いし、そもそも杜撰大王如きが全数を把握してるとはとても思えないしね。

けれど聴いた感じ・雰囲気を最重視すると、技使用の有無やそれが正統派か邪道のかなんて一切関係無いんだ。
大体に於いてその正統・邪道を誰がどんな基準で決めるのかってのと、それで最大公約数が得られたって全員が納得するとは限らない。

その上寧ろこう云うのは人次第で無限の判定がある方が自然で、感性へ訴えてる限り本当に完全一致なんかしたら気色悪いのだ。
天然状態では一卵性双生児でさえそれなりの相違が生じるんだから、近未来的思考をしたらそいつ等は最低どちらかがクローン(複製)なのを疑った方が良い位だ。

なんてのは飛躍し過ぎだとしても、言葉の上での完全一致も夫々の内面とのリンクの仕方迄明確に分かるもんじゃない。
しかし音楽での共感如きは極部分的なのでも全然OKで、たった1箇所でも「通じる」のが大切ですよ。

それは母国語の異なる同士が、数少ないごく限られた両者が知ってる単語を見つけて喜ぶ様なのが基本じゃないかな。
但し音楽でのそれは究極的には一瞬の雰囲気のみで、それが醸し出された理由すら一々知る必要が無い。

のって↑の単語共感では会話時だからスペル迄分からなくても平気なのと同様、誰がどうしたからそうなったかは不問なのだ。
そもそもある特定の雰囲気の得られる手段が唯一とは限らず、実体験過去例として一聴バスドラと思ったのがSnareのゴーストノートだったなんてのがあるでよぉ。

現行デフォルトの録音音質では滅多に幽霊は出なくなっちまったが、PA不使用の生アンサンブルならまだ守護霊は健在って感じだ。
チョイと脇道へ入るが著しく高音質化した裏で私的には、Snare音の内「ぶたれた成分」だけは年々悪化の一途を辿ってる気がするな。

物と物がぶつかりゃ高域が目立っても必ず中低域も出てる筈なんだが、どうも録るとそれがかなり削られてる様な。
それが物理的に事実だったら、そりゃ「バスドラの幽霊」(実際はSnareのゴーストノート)に聴こえなくなっても当然だからねえ。

この手の奏法にとっちゃ↑みたいな環境変化は逆境に違いないが、だからって殆どのの活用を放棄したらもっと苦境に陥るだけなんじゃないかな。
高音質化したって事ぁマイナスの方が大きいにしても、かつては効果が少なく使えなかったのが実用領域に入ってる可能性があるんだよ。

なので「んなアホな」「きっと駄目だろう」とか勝手に決め付けないで、どんなのでも実際に試してみなきゃ最終判定は下せないと思うんだけどなぁ。
そんなのこそが創作での、本当の勇気なんじゃないのかな。

-終り-

2024年10月 3日 (木)

音楽備忘録1874 エレキBassのCreamyな音色の魅力➊

個人的には昔から度々気になってた件だが、近年は随分とご無沙汰になって久しい。
取敢えずそうなった理由の考察から始めるが、Celloや鍵盤不在のアンサンブルでは大きな弱点を抱える事ともなるんすよ。

さて杜撰大王自身も含め音質向上は長年の懸案で、それが今では簡単に
実現したりより自由になったのは喜ばしい。
かつてハイエンドクラス以外のAmp使用時は、コントラバスの生での重低音には羨望しか無かったよ。

理論的にはもっとローエンドを出せる筈が、スピーカ等のせいで実際には出てくれなかったからねえ。
のが何時しか性能向上やLine収録で解消しつつある時期に、新たな問題となりそうな危惧を密かに発見したんだ。

杜撰君なまじ元オーディオヲタ且つ重低音ヲタで常用楽器の事情もあったもんだから、他人よりかなり早期に中域の質とか不足が気になり出してたんだ。
確かに主目的の暴君的重低音はどうにかなったものの、エレキBassの上半分の音域がどうも使い辛くなっちゃってさ。

同時進行で籠ってない音色が求められたり、弦のデフォルトがFlatからRound Woundへ移行したのもこの欠点をより助長してくれはりまつた。
っつうか本当はそれ以前が寧ろ普通じゃなかったんだが、昔は兎に角低域と高域をせっせと持ち上げりゃ良かったからねえ。

録音や再生の平均的音質との兼ね合いもあって、デジタル化以前は何しろ中域のオンパレードでしてな。
尤も当時リアルタイムでは殆ど誰もそうは感じて無かったが、他楽器の多くもそうだったからバランス的にさして問題にならなかったんでせう。

そんな時代がかなり続いたせいか多弦が普及する迄ローエンドの充実等はSynthe等に負けっ放しで、随分悔しい思いをしたもんだ。
から出せる様になったら即飛び付いたんだが、そしたら他の部分で思いも因らない弊害が色々噴出したんだよ。

演奏性が劣る点については音域とトレードオフの関係にあったし、それ以上に顕在化したのが弦毎の音色差の拡大だ。
これは単なる音色より音量の大小差でもあって、そうすると音域毎にフレーズの適性が違って来ちまった。

実はコントラバスでは元からあった弱点だが、従前はエレキならそんなに気にしなくて平気だったんだけどね。
JazzのウッドBassで伴奏は低域でソロになると高域へ移るのが常套手段だったのが、低音域での明瞭度がエレキで改善されてその縛りは解消された。

のも当初はエレキの高音域で音色太さと負けないか凌駕する音量があったからで、低音域の音量減少は私的には嫌だったが対抗馬不在に依って取敢えず事無きが得られてた訳っすよ。
なので上記の片方どっちかが維持されてれば良かったんだが、下がグッと出せる様になったら両方共そのままでは駆逐される様になっちまったんだ。

のを放置してると冒頭のCelloの代用が不可になり、実用的に使えるフレーズはほぼ半減するだよ。
結果的に非スラップ奏法での積極的な高音域利用が激減して、アンサンブルの汎用性にすら悪影響が及んでるのだ。

それが普段頭空っぽで演ってる杜撰大王だからこそ、本人無自覚な内に以前よりつまらないフレージングをする様になっててヤバかってん。
最初の内は他楽器と被らない音域をより重視してたのもあって、それ迄頻繁に使い分けてた「オクターヴ上」が何時の間にか殆どお留守に…。

=つづく=

2024年10月 2日 (水)

音楽備忘録1873 折角弾けるのに勿体無い②

初回はジャンルが異なるより楽器が異なる方が大変と綴ったが、この杜撰法則は打込みが市民権を得た今では必ずしも通用しなくなっちった。
が俺言い「嘘の音」を不許可としたらそんなには違わなく、幾ら音源がGuitarでも現実には押えられないコードなんかをウッカリ使っちまうとね。

最近の杜撰大王は主に作・編曲の構想を練るのに打込みを使ってるんで、実際にその楽器で弾けるかどうかの確認も併せて実施している。
決して純粋な打込みも嫌いじゃないが、中々実現困難な全部生の方に未だ興味が強いからだ。

なので嘘の音を生じさせる可能性はたまたまほぼ無いが、過去にはオーケストレーション等で危うくやらかしそうになった事もあった。
のは金管楽器の各音域の把握不足が原因で、初期にはSyntheだけで弾いてこれで良いかななんてしてたからだ。

これ等体験で思い知ったのが珍しい音の発見には打込みの方が有利だが、リアリティとかその楽器らしさでは現物を弄くった方が有利って事だった。
つまり楽器固有の音って先ずは音色だけど、負けず劣らずに出せる音域や和声等の影響も甚大だったんすよ。

近年は音楽の新作公開も動画がメインだから視覚要素も大きいけど、ずっとそれ以前から上記の条件みたいなので判別されてたんだ。
尤もどんな音がどんな楽器かを、予めある程度知ってる人限定だったけどね。

しかしこれ等と比べりゃ「弾けるのに弾けない」は些末な案件で、今迄に演った事が無いだけで尻込みなんかするのはビビりの極致でんがな。
理想としては知己があって既に試した事があるに越した事ぁねえが、例え偽物で変でもその場で試行錯誤すらしないよりゃマシだよ。

これって知己や技術よりホントは寧ろ人間性の問題で、聴いてやっても良いぞに対しどう応えるかなんじゃないかな。
確かにRockの奴が演歌趣味にウケたって仕方無いが、万一にもその人の家族・知人にRock好きが居るかも知んないんだよ。

純粋に秘密の個人で演ってるんなら別だけど、どんな引っ込み思案さんだって楽器演ってるのを他人にカミングアウトしてるんならさ。
中には口外する気は全く無かった、あんまり執拗に訊かれたからなんてケースもあるだろうけどね。

強いて言い訳で眼前実演を回避出来るとしたら、まだ練習中だから暫く待って位かなぁ。
尤もⅡでそれで引っ張れるのは相手が覚えてられる時間程度で、長く待たせ過ぎたらその話しはもういいやとなってまう。

これを避けるには案件が音なだけにわざわざ失態を晒すのもなんだが、「今だとどんだけ下手か」も実演してみせない事には証明にならんとな。
んがコレ楽器だからそう云う悩み方も可能で、例えばアウトドアスポーツとかじゃほぼ不可能なんだよね。

屋外で他人の目が一切届かないとなると究極は無人島とかだろうが、それだって船や航空機で出かける処を見られたら「あらどちらへ」なんてなるだよ。
こっちの目的が観光じゃなく運動なだけに大抵は景勝地なんかじゃねえから、余程の事が無い限り誤魔化したって勘繰られるって。

-続く-

2024年10月 1日 (火)

音楽備忘録1872 映画・TV等への専門家が作った音楽⑪

さて再確認で非専門家目線での映画音楽評と念押しした上で、仏の残りと英についての独断偏見感想ざんす。
ここでご注意頂きたいのが非専門っても音楽やRockには専門な処で、所謂一般聴者のとは多分相違点があると思うだす。

仏独特な美学に溢れたコードとその進行については残念乍ら、参考にこそ大いになるがおいそれと借用出来るもんじゃない。
確かに象徴的だしそこに最大の個性がある様に伺えるが、あのロマンティックなムードを成立させてるのは飽く迄総合力・複合技なんよ。

それを痛感させられたのをFrancis LaiのUn homme et une femme(A Man and a Woman)本人バージョンで例示すると、ホレあの有名なスキャット「ダバダバダバダ…」でがんすよ。
この曲にずっと入ってるエレクトーン(もしかしたらHammond)で主旋律への装飾音の付け方1つにしても、記憶や印象と実際に施されてた箇所が中々一致してくれなくてね。

Bass(この場合足鍵)のルートも摩訶不思議な辿り方をしてて、是又予測を鮮やかに裏切ってくれる場合の多い事。
こう云うのって遊びだから普通は唯の気紛れで随意なんだが、ムードに徹底的に拘ると何処か1つでもそのタイミングが違ったらああはならなさそうなんだよ。

なので当事者以外には源イメージが無いだけに、パクるより夫々が各自なりのイカした裏切りを見つける方がまだ近付けそうなんだ。
そもそも前回迄述の通りハーモニー自体はLatinと共通のも少なくなく、人に依っちゃ仏のつもりで演ったのに南米風が出来ちゃったなんて可能性も…。

では遅まき乍ら英の総評へ進めると実際にはJazz Big Bandの影響は大きいが
、米のみたいにそれ臭さを感じられないのが最大の特徴かな。
強いて言うならClassicオケをJazz・Pops・Rockへ寄せた体で、それが同じスパイ物にしても007とスパイ大作戦との差別化にも繋がってる。

関連性は恐らく皆無だろうがこう云う相違って、AerosmithのHornの付加の仕方なんかに通じるものを感じてねえ。
楽曲全体への効果は他のと左程違わねんだが、彼等は自身のスタイルとして頑なにHornはオクターヴしか使わないんだよ。

因みにサンプリングSynthe登場期だったら、生アンサンブル内に初期機器のチープ音質を増強する目的で珍しくなかったんだけどさ。
生Hornで地域的に良い奏者があり余ってたのに、最初から敢えてそうしてたんだから。

と云う様な部分で他ジャンルのモノにも原料が転がってそうで、杜撰大王の狙いもそこにある。
今となってはかなり忘却の彼方と化してるが、かつてはエレキGuitarとSaxでフレーズの相互パクリ合いとか常套手段だったっしょ。

夫々の楽器毎に制約もあるから何でもそのままとは行かないが、現時点で自分内に無い物は外から導入しなきゃさ。
苦し紛れで目先を逸らすのに人力で打込みに対抗とかって、賞味期限がとっても短いんだよ。

=つづく=

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