文化・芸術

2019年6月26日 (水)

プロの定義② 基準の内容編

前回は音楽を演る側にとっての相応しい自覚等で、世間の経済面だけの呼称に振り回されるなみたいなのを記した。
そして結局は当事者にとっては実力等の飽く迄「内容」が重要なのを少し示したつもりだが、その具体的な部分へ進めて行こう。

実際楽器演奏に必要な部分も目的次第で違いが色々あるが、プロ・アマで一番違うべきなのは上手さでは無い。
それよりもどれ位要望に応えられるかが本来の分水嶺で、リクエストに一切答えられない様ならどんな凄腕でもそれはアマチュアだ。
現実的にはどんな達人プロでも限界はあるけれど、スポーツの記録等と音楽の価値が違うのは明確な基準が音楽には無い処なのだ。

今では生演奏の仕事が激減したのとジャンルの多様化もあって、昔よりは何でも弾けるニーズは目に見え辛くなっている。
だがClassic系等より楽譜に頼れないRock系では、少なくとも世界標準のスタンダードも知らないのでは話しすら始められない。

どうした事か近年本邦でだけスタンダードナンバー軽視の傾向が見られるが、音楽だけの特権的共通言語でもあるのでこれは実に勿体無い。
山と言われたら川と答えるのと一緒なのでこれが駄目だと本来とても合う仲間と出逢えてても見分けが付けられず、仲間を作るのすら大変になっちゃうんだがね。

生楽器で基本的に楽器には音色加工をしない物なら、初見(しょけん:譜面を見ると同時に弾ける)が利けば何とか出来る。
だが旧来からの楽譜には電気楽器等の歪ませ具合等を定量的に表す規格が無く、どんなに譜面が得意でもそれだけでは音色を合せるのが不可能だ。

一方Classicやオケ系では譜面が全く読めないとアマ楽団にだって参加困難とかになるけれど、それだって「楽器が弾ける」のに「譜面が無いから弾けない」は非関係者には全く合点が行かない理由となる。
ジャンルや種類に無関係に音程が出せる楽器だったら、ドミソドミソって演ってとか言われて出来ない「奏者」は滅多に居ないんだからさ。

アマなら個人の密かな趣味だから弾ける弾けないに関わらず今ここでは嫌と言っても通るけど、プロの現場では後ででもお金を貰うんだからその分を弾かない訳には行かない。
そしてこう云う部分について近年本邦の呼称や雇用形態には、大きな瑕疵があるのが要警戒なのだ。

メジャー系のプロモータは今の流行りに合ってる連中を探して来て契約するが、ブームの続いてる間は稼ぐ面だけでは商売になるだろう。
しかし流行りが変わった時に着いて来れなかったりどこかしらが不適合になれば、アッと言う間に契約終了若しくは破棄される。

これは当初は雇う側が人権無視だっただけだが、最近では雇われる側にも大いに問題点が散見される様になって来た。
つまり余りにも演れる事が少な過ぎたのに、それを放置したり改善させる気を持ってなかったりしたからだ。
その一因にプロのプライドだとか自覚が大いに影響してるのは確かで、「稼げたからプロ」「稼げてるからこのままで構わん」って認識の過ちだ。

絶対評価基準が持てなく生活必需品でも無い音楽は、元来ロクに商売にならない分野なのは最初から判明してる事実だ。
普通に真面目にコツコツやってれば長く継続の保証がある分野とは違うんだから、同列視するのにそもそも無理があったのだ。

見掛け上一時的に巨大ビジネス化したからって、所詮は祭りの屋台が偶然大繁盛しちゃっただけなのよ。
祭りがあるよと訊いて売れる物があるのに屋台を出さん手は無いけれど、どう見たって「祭りをやってない日」の方が普通は圧倒的に多い。

そんな状況下では技術や知識等の専門性を堅持して、いつ祭りが開催されてもすぐに屋台を出せる様な継続性こそがプロなんじゃないかな。
それも将来開催される祭りがどんなのになるかはその時になってからじゃないと分からないんだから、ある程度近い未来の以外は予測して備えるのも無理になる。

それでも確実に力になるのはベーシックな実力で、それを突詰めれば簡単でも構わんから兎に角「弾けるか」が問題になるのでは。
これ等を敢えてシンプルにまとめると音楽のプロとは、何とか要望に対して納得してもらえる音を出せるかどうかって事に尽きるのでは。

<この項一旦終り>

2019年6月25日 (火)

プロの定義① 基準編

益々身分不相応拡張著しいが、一石を投じさせて頂きたい。
キッカケは認知度ではメジャー在籍経験がこれを支配するのは納得だが、専門的スキル不足のままでプロと呼んだりそう捉えて構わんとは思えない処だ。

免許証等がある分野だったら良し悪しは別として、兎に角分類は簡単だ。
だが芸術みたいに絶対評価が不可能なものだと、何らかの資格制度を設けた処で実質的にはそれすら曖昧なライセンスとなってしまう。

現代本邦は資本主義社会なのでそれに則れば収入面からの判別をするのが当然だし、英語のProfessionalを意味も含めてそのまま使ってるならこの話しはこれでお終いになる

だが日本語でのプロって言葉の中には専門家等の意味も大きく含まれてるので、幾ら儲かっててもスキル不足の者迄含めるのは本来お門違いってもんだろう。

英語を採り入れるなら知識や実力が達人ってのに対応するExpertとかSpecialistってのがあるが、現状の本邦でそれを簡略化したエキとかスぺなんてのは無いから使い辛い。
音楽でもそうだがコピーして勉強になるのは不都合でもそれも含めた場合で、都合の良い処だけ安易に失敬して来りゃこんなもんだわね。

「食えてるからプロ」で不味いのは音楽ビジネスとしてならとても立派でも、ミュージシャンや音楽家としてはアマチュアの足元にすら及ばない者迄含まれてしまうからだ。
売れたらプロの音楽家では無くそれだけだったらスターやタレントとかアイドルと呼ぶのが相応しく、全く売れて無くても人並み外れて専門性や技術力があってもそんなのはどうでも良い事になっちまう。

これは世間で職業を訊かれ会社員なんて答えるのが一般化してるのと同様で、うやむやに出来て都合が良いなんて面だけに気を取られてるのと一緒だ。
だがそれだとヤバイ会社で社名を言い辛い場合等も含まれてる訳で、相手はこっちが思ってる程何時も都合良く解釈してくれてるとは限らない。

またこれはプライド(誇り)の面でも顕著で、過去のとは違うが妙な職種差別もプンプン臭って来て臭くて堪らん。
音楽ビジネスのプロだってとても凄い事なのに、どうも音楽界だとミュージシャンの方が良く思われてる節がある。
ミュージシャンは自らが立ち上げた企業で大儲けとならん限り、世間一般で言う社長とか重役なんて呼び名とは本来無縁なものだ。

なので音楽ビジネスのプロならそう云うのを前面に出すのが本来一番恰好が付く筈で、無理して音楽家ぶる必要なんて無いんだけどねぇ。
一方プロミュージシャンの99%以上はもし晴れて社長と名乗れても、ビジネス界観点では零細企業主の域を脱し得ない。

それと現在はミュージシャンも経済活動の一種と認知されてるが何時の時代もそうだった訳じゃ無く、今でもマイナージャンルのみに携わってたらどんな凄腕・大天才でもそれだけからの収入では暮らせて無いだろう。
しかしそんじゃ専門家に足りないのかってばそんな苦境でも続けられてる位だから、超専門家である可能性が高い。

世間に悪影響の無い範囲でならどう称したって構わんけれど、そんなのでその立場の人が劣化する様なら考えなきゃいかん。
収入観点では本邦では役職名や企業名でもそれを表せるのでそっちにして貰って、こう云う業界のはスキルに対する呼称と是非して頂きたいもんだ。

例えば相撲とレスリングを比較すると近年劣勢のプロレスですら、実質的な業績ではレスリングの方が遥かに上を行っている。
伝統芸能などを社会で支援するのは良い事だけどこれや税制の優遇等をもし全部排除して比べたら、恐らく相撲も歌舞伎も廃線検討すべきローカル線並に成り下がると思う。

更に別視点からとするなら学校の公立・私立なんかの学費と上記を比べりゃ一目瞭然で、公立系の相撲の方が大抵観戦チケットが高額なんだから随分妙な話しだ。
俺的には国技を広め親しんで貰うには寧ろ大巾値下げして、子供が小遣いでも見られる様にする方が将来の繁栄に繋がると思うんだけどねえ。

角度を変えて格闘家としての「本質」で比較すれば相撲に他流試合が無いのもあって、現況だと恐らく相撲以外の方が平均スキルは高いだろう。
でもだからって相撲の価値が減るもんでもなく、減るとしたら今相撲をとってる力士や協会がだらしないだけだろう。

概吠えだが実際の仕事内容が何であれ就業形態のみで「会社員」って馬鹿かじゃないが、そんな呼称を最優先するのは「金持ちじゃなきゃ偉くない」とか「金持ちだったらどんなロクでなしでも偉い」と認めてる様なもんじゃんか。
それじゃあ幾ら暴対法でヤクザさんを居なくしたって、国民全員がコソ泥化しても無理無いでしょうよ。

ここで特技を持ってない只のサラリーマンでは難しいけれど、何か技的なものを持ってる人なら違う呼称が使える。
それは楽器が弾ける者だったら担当パートの呼称で、PianistだのGuitaristってのだ。
世間での呼称や認識はこちらで操縦不可だからそれは諦めたとして、上手くなりたいのに良い意味での自覚が持てる呼称を放棄するのは勿体無い。

どう名乗りどう呼ばれどう思ったとしても、それで実力が落ちなきゃ結構ですがね。
そして意識の持ち方次第でアプローチ等に後から違いが出て来るのも考え処で、少なくとも「実際にやって見せる」必要がある分野では「名実ともに」じゃないと無理みたいですけど…。

<続>

2018年12月25日 (火)

真実の音質とは⑭ 音量と音質の関係性 オマケ編

前回の今更Bee Geesもかなりだが、今はその呼称でなくなって久しいFEN等を出してしまった。
概知の方には退屈かもだがその場合懐かしんででも貰って、一応これらのプチ用語解説みたいなのを開催しますだ。

1.FEN(Far East Network)
現在はAFN(American Forces Network)と呼称が変わったが、要するにアメリカ進駐軍兵士向けに始められたAMラジオ放送だ。
俺が生まれた時点ではまだ
正規FM放送開始前で、幼少時にタダで日常的に洋楽を聴けるのはこれしか無かった。

俺の親父がセンスに乏しい大正生まれの軍隊上がりだったからか、舶来指向は無かったが本邦音楽にダサさを感じていた。
その当時の俺的にオシャレさと親近感を抱いたのはRock系だったが、本邦のラジオ・テレビでは取扱いがほぼ皆無。

本土在住の一定以上の世代で幼少時から洋楽に親しんでた者には、恐らく例外は無いと思われる。

2.ラジカセ(ラジオカセット)
名前の通りラジオとカセットテープレコーダが一緒になってるだけだが、これが出る前後で使われ方に結構違いが出たのだ。
オープンリール時代は取扱い難易度の他に高価なのもあって、一般人が使うのは必要時中心であった。
カセットテープが出て誰もが用いられる様になったが、録音には別の手間も掛ったのでまだ誰でもでは無かった。

自動録音レベルが付く様になるとこれもクリアされたが、チープ音質のラジオを同じく低性能の内臓Micで録れば音が悪いし周辺雑音も入る。
かと言って当時の素人に有線接続は困難かつ面倒だったのが、これの登場で簡単になったのだ。
個人的には幼少時よりヲタだったから手間や知識には困らなかったが、お金の掛かる接続ケーブル購入がネックだったのだ。

それにラジオは一方向通信で個人の都合に合わせて放送されてはいないので、聴いてて録りたくなってから線を繋いででは間に合わなかったりもしたのだ。
これを予め録っても良いテープを入れて置けば、ボタン一押しでいざ鎌倉が可能になった。
今なら無知の新曲はネット経由が多いから取敢えずブックマークしとけば済むが、昔はこんなのじゃないと一部概略保存すら出来なかった。

3.昔の一般向け音機器の性能実態
音響とかオーディオと呼ばないのは主に性能面からで、応接間に置かれてた管球式ステレオですらミニコンポに届くかどうかであった。
真空管物は人耳馴染みの良さ等では今よりずっと秀でてたが、シビアにだと良かったのは雰囲気だけとも言える。

石(半導体)物だと今の百均のにも負けそうに貧相で、今だったら音切れだけ起きない携帯電話とでも比喩出来るかだった。
そんな時代でも業務用や専門家向けオーディオならそれなりの性能を持ってたが、如何せん超高価でVIP専用状態だった。
レコードも洋物は高価且つ入手難だし、子供にとってはたまにのシングル程度で精一杯だった。

だがしかし平民が音楽を軽く楽しむって観点に立つと良い面もあって、頼れないだけにしても物理的音質以外がもっと重視されていたのだ。
音質は良いに越した事無いし、誰でも知ってしまって入手負担が軽ければそっちへ行きたがるだろう。
でもオーディオマニアじゃない人には、それよりホントは「感性的」性能の方が大切な筈なのだ。

幾ら高音質でも作品の持ってる雰囲気や世界観が、少しでも違って聴こえたら印象が違ってしまう。
音と云っても分析や解明では無く
食べ物じゃないのに味ってのも何だが、味だとか匂いだとかを連想したり出来る方が大切だ。

鉄道ファンなら電車を見てあれは強制空気圧振り子付の50000形VSEだのと認識するが、普通人は小田急の特急かとかせいぜいロマンスカーと思う位だろう。
でも実質的に乗り間違えせずに済むならその程度で充分事足りるし、それより忘れ物や食事等の心配の方が旅には大事だ。

嘆かわしき本邦現況に「雑音の気にし過ぎ」もある気がするが、そいつぁデジタルの奴隷になった様なもんだ。
誰にでも雑音が感知し易くなったのは確かだが、雑音皆無でも音楽自体が魅力不足ではちっとも楽しめないではないか。
乱暴に言ったらつまらん聴きたくならない物にだと、聴かないんだから雑音の有無等無関係となる。

音楽技術面でも現況の方向性は大きな誤りで、ありのままが記録出来る様になったからこそ加工は要らなくなった筈なのだ。
音質の問題で聴き取り補填がどうしても必要だったから、昔は弄らざるを得なかっただけ。
尤もかつては思った程は弄れなかったんだが、だからって猫も杓子もで弄り倒しても仕方無かろう。

そしてデジタルはそのまま記録の他に、音色加工機器の超小型化(低廉で)ってメリットがある。
よりもっと聴者の好みで弄れる様にするのが簡単に可能なので、元ソースに掛けとく必然と価値はもう無い。

後から出来るのに先にやっちゃって、聴者の弄る余地を無くすのに変な訳でもあんのかなぁ?。

もっと一般的なのに置換すれば、昨今では腕時計をしてる人が随分減ったのと類似例であるべき処なのだ。
ガラケーやスマホに時計が入ってるから腕時計をしなくても平気だが、だからと云って手首に何も付けられなくなっちゃいないよね。
何でJ-POPだけそうなってんのかなぁ、可笑しいなぁ、不思議だなぁ?。

2018年12月18日 (火)

日本のポピュラー音楽って何なのさ③ (歌唱力がヤバっ!?編)

以前従兄の太鼓の先生から訊いた、歌手の声量が落ちたから太鼓奏者が非力化したの独自考察だ。
POP好きの彼的には近年J-POPのは兎に角歌に魅力が感じられんそうで、声量のみならず歌自体が下手になったのではと勘ぐっている様だ。
そうだとした前提で、原因を考えてみた。

個人事情で大凡10〜20年前に偶然知った事だが、小中学生が学校の音楽で歌う際のある状況にとても驚愕させられた。
最近は若者の男女の声の音域差が縮まって来た様に感じてたが、それの元凶かもと思しき事態に遭遇したのだ。
女の子は今だって男よりは高い音程が出せるのに、教師の指導で基本的に歌の全部をファルセット(裏声)で歌ってるじゃありませんか!!!。


子供なんですよ、他の誰より地声で一番高い音が出る出せる時期にですぜ。
そんじゃもし大人になって少し声域が下がったら、高い所はマライア・キャリーみたく「裏の裏の声」で歌うんですかっての。
それ
幾ら頑張っても才能と適正無いと、誰にでも出せるもんじゃないんスけど。
出なくなったら歌うなとでも…!?。

一体何時頃からそう変ったのか目的も何もワシャ知らんし何となく知りたく無い気も湧いてるが、こんなの自動車教習所へ入って最初の練習がいきなりバックみたいなもんで絶対変でんがな。
素人向け歌唱の基本として先ずは地声で、それが高くなって出せなくなったら裏声でって順にやるのが理に適って居ります。
特にポピュラーではMiwa等表現上の理由での特例を除くと、地声で歌えなくなっては好きなのをカラオケで演れなくなっちゃうじゃんか。

も少し掘ってくと通常条件下では地声より裏声は声量が小さいもので、大きくなって超えるのはその人が出せる高域限界域に近付いてからだ。
特に低い側では極端な声量低下がみられるが、これは地声でも同様。
しかし幸いな事に裏にはまだ地が下にあるので、普通は同じ調子で歌ってデフォルト声量が出せる方へ切り替えれば解決だ。
そうすればこそ「楽に歌える」で、素人にこそ必要なものと思ってたがねぇ。

この文言はあるクイズの超サービスヒントとなるが、
ファルセット(裏声)の特技とは何ですかってのだ。
地声で出せる高い音程はギリギリに近付くと、かなり大声にしないと出せなくなる。
それをもし
ファルセット(裏声)にすると、大抵はかなり小さな声量で高さが出せちゃう。(息も断然楽)
って事はある意味小音量用の秘密兵器で、大きく出したい時に用いるのはあべこべのおバカさんなのです。

ここで歌声の正しい作り方とでも云うのを説明すると、最初は地声でなるべく大きな声を出すようにする。
但し不用意に喉を絞ったりして危険な負担は絶対に掛けず、普通にしゃべる時より少し綺麗目な声を目指してだ。
下手に体に見合った声量が得られる前に「声色」を加えると、物真似は得意になれてもそれで歌おうとした時に喉を壊す危険が生じる。

特に人に請われて調子付いたりして歌えば、ついもっと大きな声を出そうとしたりしちまうからだ。
地声でのシャウト唱法は普通に歌うより高負荷になるので、普通の声で大きくも出来ない内からやれば安全な加減が出来ない。
昔の野球部員等で張り切り過ぎて喉を潰したりしたのは、こう云う状態を無理に続けた結果なのだ。

もし上記の様なベーシック歌唱を入部迄に習得出来てたら、喉を潰す確率は激的に低下する。
大人つまり成長期が過ぎたって練習で歌唱力は上げられるが、声域や喉の強度は通常僅かな伸びしろしか無い。
この後者の部分は成長期に正しく取組めればかなりの向上が見込める上、喉が強くなれば風邪予防等にさえ効能をもたらす。

近年本邦では真昼間に子供が大きい声を出すのすら困難化しているが、健全成長の為にはとんでもない状況だ。
これが社会情勢で仕方無い面があるってんなら、せめて学校の音楽室等でだけでもやらせてあげないとイカンです。
特定の感情の時以外にそれなりの大きい声が出せなくなるとどうなるかっつうと、歌わせると蚊の鳴き声より小さく弱いのに友達とはしゃぐ時だけバカでかいなんてね。

昔よりそんな光景にしょっちゅう出くわすなと感じるのは、気のせいなんですかね?。
こっちからすると要は声の制御力が低下して声を出すのもだが、特に自分の出したのの大きさ判定が殆ど出来なくなってる様に伺えますな。
普段に気持ち以外で声量を加減する機会が普通orたまに内緒話し位しか経験出来ないんじゃ、感覚的に会得出来る訳無いんだわさ。

こんな処迄又2極化ですかいで問題になるのは、歌唱力の「中間層」が居なくなる処だ。
こんな不適切環境にめげずに抜群の歌唱力だったら凄いけれど、見方によってはそれだけ歌唱にしか興味が無いのかも知れない。
これが正統派オペラとかになら申し分無いんだが、ポピュラーとなると少し不都合も出て来るのだ。

音楽には違いないがそれ以外、流行・文化・趣味的要素等が不足だと音楽ヲタ専用と化す。
ポピュラーでは親しみ易さ第一なので下手過ぎては困るが、同程度の才能の持ち主でも「配分箇所」が増えれば単一能力は当然下がるからだ。
なのでポピュラー有望株になるのはちょっとオシャレで面白い奴で、普通より少し歌が上手なんてのが向いてる。
これを歌唱力のみで分類すると、中間層となるって寸法なのだ。

尤もそれが近年J-POPみたいに行き過ぎては、聴き取る段階でお客さんは疲れ切っちまうからOUT。
音程
・リズム・発音の正確さは大事だが、それは先ず歌声が「聴こえてから」の話しだ。
或は声量不足のまま無理に大声を出そうとすれば手一杯になって、普段の制御力が発揮出来なくなったりもするだろう。
全ては生演奏の前で普通に歌って「普通に聴こえる」様になってからなのだ。

2018年11月27日 (火)

Speedkingよもやま話⑬1足3連余談Ⅱ

前回の補足プラス図説主体になるが、その前に少々。
俺は割と強めの表現が多そうなので何だけど、実際誰がどうするかに対して固執はありませぬ。
少なくとも求める音に対して過不足等が無くて、結果が得られるなら一向に構わないと実は思っとりますです。

けれども只単に何でもOKって言っちまうと、時に「後で不具合」が出たりもするのを避けたいんですわ。

復唱になっけど太鼓は個人的には体格・体質差等からの影響大と感じてて、俺に良くても他人に駄目とかその逆があっても不思議じゃないと思うんです。
とは云えこの紙上では各個人の個性は不明なので、論理的観点からの優先順位で吠えてるのでありんす。
何せ外見と本人意識が正反対なんてのもあるんで、最適値を求めるにはマンツーマンじゃないと難しいと思います。

Photo
久々でいきなり出ましたが、題して「押出し踏み」と命名させて頂きやす。
先ず黄緑の線が膝より体側からの力の向きで、青線が
カカトを「支点」にした時の足首からの位置関係を示したつもりだす。
足各部の距離関係は人次第でまちまちだが、そこが正に個人差なので一例としての概念図と思われたしざんす。

で現実的な力には膝で前へ押す分もあるが、上から下へのそれと比べたらかなり非力だと思われる。
脚の重さは「作為的な動作」が無ければ近い方中心に掛り、つまりくるぶしから爪先・カカトそれぞれへの距離割合で大凡分配されるだろう。
加えて基本的にカカトは固定なので、他の奏法よりどうしても動作範囲は狭くなる。

だから俺的には絶対的必要性が無ければ用いて無いが、単純原始的な爪先踏みよりはパワーが出せるのも確かだ。
上図左は踏む直前で右は直後を描いたが、カカト固定の癖に足が何故か前へ少し移動してるのに着目されたしある。(描画は誇張気味)
これの度合いもまた人次第でまちまちだが、余程極端に「カカトが長い!?」主で無い限り押出さないと爪先へ重量モーメントを持って行けないからなのだ。

こんなんでどうして「
Slide」意識を持たぬかっつうと、それをすると「カカト支点」が機能し難くなり易いからだ。(移動しなけりゃSlideじゃないので)
それと「踏む前」に爪先がしっかり上がってないとビータストローク不足→パワー不足となって、唯の
慌てた爪先踏み」に成り下がっちまう。
よって目一杯勢いを付けようとはするが、
Slideと思わぬ方が大抵はベタ―なんじゃないかと思われる。
一番単純な思考では「目一杯威勢の良い爪先踏み」をしようとしたら、近い状況が得られる場合もありそうだ。

欠点は是迄に綴った通りだが、では利点は何か。
奏法的には大きな動作が不要なんで、「何か演った直後」に用いるのには有益だ。
それと他の奏法と足・脚の動作箇所と向きが少し異なるのも、複数ストローク用として有利だろう。

複数ストロークと称する多くは手足の基本の「振り」が一回で複数音を出すと解釈してるが、それを可能とするのは大抵は「違う場所を動かす」ので得ている。
だが増やせる数に限界と制約があり、パワーを要する場合個人的には3つ位が限度と感じられている。
工夫の余地は無限かも知れぬがそれ故、現状俺では4つは2+2で賄う等となっている。

基本手足一緒論の俺と云えどペダルとバチの相違を無視はせずで、ペダルは最低でもフットボードの分がバチより多いとなっている。
その影響はやはり応答性に現れてて、手より脚では複数ストロークの数的限界が下がってると感じられている。

またRock系では常時フルのバスドラサウンドが要求されがちなので、「パワーを伴わない速さ」だとご利益僅少だ。
こうなると手で言う処のバズ系の技法は、もし足で出来ても用途不一致だ。
もしツーバスとかでバズロールが出来たとして、使い道が少なそうなのも確かなのである。

これ等から俺言い「押出し踏み」の適正を考察すると、最適なのは「Slide Double直後」って判定になっている。(つまりSlide Triple)
個人差で極度に足首が非力とか遅いとか、何らかの事情で
Slideが不可な場合だったら採用に意義は出て来る。
けれども物理的に最適解で無いのが検証済みなので、特に「これから脚のDoubleに挑戦」ってんなら非推奨なのだ。

もし試すなら他の方法を暫く訓練した後、もし余りにも結果が芳しく無かったらそれからにするのが良いんじゃないかと思う。
尤も
高純度のSlide Tripleに挑戦するなら必須となるだろうけど、それはSlide Doubleを充分習得後での話し。
因みにこの高純度と称してるのは、速度・パワーが得やすいのが「全部違う動作」の組合せだからだ。

体自体もだがそれだけでは限界が近く、前に述べた通り「指令速度」も大事だ。
「頭を楽にする」のにも同じのを繰り返すより、
「全部違う動作」を順番にやるだけの方が普通は低負荷だと思うのだ。
既に目一杯押してるのに更にもっと押せったって無理な相談でしょ、でも「違う注文」だったり「前のは気にしなくて良い」となったら余地も出て来るんじゃない。

ドラムの神様ってばBuddy Richだと思ってるが、従兄の先生の分析では今のが違って聴こえても
技術面では越せてる者は見当たらないそうだ。
その
Buddy Rich実際に途方もないレベルだが案外「簡単な意識」で演奏してた様で、複雑なHi-Hatでのアクセント等を主にバチの「当てる角度」だけで実現していた様だ。
どうやら高度な演奏をしたい程、不要な際は「簡便化」が重要らしいのだ。

2018年11月15日 (木)

日本のRockって何だろう③暴言みたいでもホントマジな話し

今週は従兄が復活してツーバスの微細セッティングの研究をしたが、とある情報を伝えられ驚愕しちまった。
それは従兄も推してる新進女流ドラマー「ミカナベ」さんが、落されたコンテストの件だ。
てっきりとても厳しい審査で落されたのかと思いきや、審査員の模範演技動画の下手さ酷さ加減を見て「これはヤクザより悪い商売」だと痛感させられたのだ。

個人主観に過ぎんと仰せられるか知らんが、こっも伊達に長年音のプロを貫いて来ちゃ居らん。
それプラス誤認回避の前提として、俺はミカナベ氏を評価はしてるが特に好みでは無い。
だがミカナベ氏を3とすれば偽師範供のは1って位、力量差が明白だったから論を待つ迄も無いだろう。

またどう云う理由か不明だが偽連中の「録音された音」が妙で、使用楽器・叩き方等どれもが異なるのに同じ音になってたのがとうにも不可解だった。
しかも「出せそうに無い音」になってて、しかしミカナベ氏の方はちゃんと見た通りの音となっていた。
例えばブランドもサイズも(恐らくチューニングピッチも)違うバスドラで、低域のピークが同じ周波数になるなんてあり得ないからだ。

この時もし楽器のスイートスポットを犠牲にしてでも周波数(音程)を合せたら、今度は音色に大きな差が生じてしまうものだがそれも無い。
音量はマルチMic録りなら・周波数毎のバランス等なら矯正可能だが、ピークの出るタイミング迄弄るのは不可能なので何らかの相違は必ず残ってしまう。
であるからして偽連中のは「当て振り」の疑念すら拭えず、そこ迄で無いにしても無添加純正では得られない音であった。

加えて駄目押しになるのが定評のある録音屋が録ったのなのに、メモ録りでカメラ付きMicで拾ったのの方が良い音だったんだわ。
これは実は俺も経験してるんで分かるんだが、無理加工を施した場合に起きる現象なのだ。
かれこれ30年程前録音時に正規のバンドドラマーが不在になった時、今以上に大した腕でなかった俺が叩いたのでこれを施した事があった。

バンドの楽曲最優先で太鼓の瑕疵を半ば隠蔽しようとして、何とかそれだけはクリアさせた。
だがそれで全体としては聴ける状況になったものの、太鼓だけに耳を傾けたら何とも不自然で妙な音になってしまったのだ。
対して過去記事に記した従兄に叩いて貰ったコンプレス録音の如く、腕が良い程只叩いただけでもう完成品の音が出るものなを体験済みなのだ。

一部に立場上とても不都合になる犠牲者を出す事になるが、敢えて吠えよう「クソ野郎!!」。
この中身が伴ってない審査員供の何が問題かっつうと、バランス等が非現実的で滅茶苦茶なのである。
つまりPA無しでは他楽器との合奏に支障を来す様な有様で、自分より上手い奴を落しとき乍ら金を稼いでいるのが犯罪級なのだ。

単に趣味で演ってんならまだ只の偽物で済まされるが、嘘或は間違いを正当化した上それで金を取ろうってんだから許す訳には行かんぞなもし。
追求しても騙される方が悪い等と言い逃れしそうだが、好きな音楽に対してすら不誠実とはものの哀れの極致だ。
挙句の果てに自己保身の為に(悪・嘘を貫くのに)正しく出来てる方の人を排斥、つまり「わざと」不合格とする事で世間の無知な者へ対してアピールしている。

しかしそんなんでも間違ってでも一応成立してたって事は、かなり狭い世界だが「世論」が不足してるせいなのも否定出来ない処だろう。
現代本邦の異常環境即ち俺言い「不要PA」が、この「悪さ」の根源にある気がして止まない。
要するにそのせいで素人が生本に接する機会を損ねてて、実際はどんなもんかを知るのが困難になってるからだ。
もしやこの段階から悪意図的になされてでもいるのだろうか?。

で更に「不要PA」の源を辿ると、稚拙な西洋の模倣からの「恥ずかしい勘違い」があるとしか思えないのだ。
コンプで本家元祖はOn Mic録りの対生耳補正が主目的だったのが、J-POPでは異常音圧獲得の為だったり。
頑張れば奏法と楽器だけで得られる低音を、EQで持ち上げて誤魔化したり。

けどそれって保冷車をサブエンジンで走らそうとする様なもんで、どうにも無理があり過ぎる。
因みにこのサブエンジンってのは荷室を冷やす冷凍機の動力で、トラックが停車してメインエンジンがアイドリング(低回転)になったり止めたりしても温度を保つ為のもの。
わざわざ走るのの他に小さいエンジンを、追加搭載してるヤツだ。

日本古来の美学としては「自然をそのまま生かす」が得意な反面、考え様に依っちゃ西洋的演出は下手な部類だと思う。
しかし「ものの本質」に立ち返れば洋の東西なんて無関係で、結局は「源がどうか」が最終的に左右するもんだろう。
それを何時からか表面ディテールの模倣だけに走る様になってしまい、「見た目から入る」と「見た目だけ」の区別が出来なくなってる様に感じられる。

この恥ずべき勘違いからの脱却方法は、そもそも演出とは何かを正しく認識する処から始まる。
彼等西洋系の演出の豊富さを初めて知ると少しビックリさせられたれもするが、そこで盲目になると今みたいな不始末をやらかしちまう。
あたかも「今時やんなきゃ時代遅れ」的な焦燥感に駆られるが、ここで焦りが出るのは本邦じゃ「演出無し」がデフォルトだったり「一緒じゃないと不安心理」からだろう。

そこで本家たる西洋人達はどんな気持ちで演出を施してるのか、ここを観察熟考してみるのだ。
こっちと違ってするのが当たり前って事ぁ大凡平常心が保たれてそうで、焦って視野が狭まったりはしてないだろう。
そして肝心なのは当たり前だからやっただけで、こっちが勝手に想像する程別に演出になんか大して頼っていないのだ。

また演出ってのは本来強調等はするにしても、変身させる様な術では無いしそう云う効力を持合せていない。
ここら辺りを本家のご仁は皆熟知した上でやってるだけで、結局は「源が」を決して忘れちゃいないんですわ。
街では傍目にゃ化粧だけが目立ってても、家ではしっかり毎日美肌もやってましたってな具合だ。

機械文明の導入も早かったからどっかで既に経験済みなのか、自然を機械で置換える無意味を知ってるんだと思う。
かつてアメリカ車社会に我が国が不要に看過されたりしてたが、これも大幅な環境差を見逃しての失敗だ。
向うじゃ広くて遠距離で人口密度が桁違いに低くって、人に頼んで移動するのが困難なだけだ。

だから鉄道斜陽のあちらでも大都市の地下鉄等は健在な訳で、「違って見える気がした」のは実際には交通手段じゃ無く町の方なのだ。
地図を眺めて「ここは狭い路地」とどうして思えるかってば、他にそれより太く交差点間隔の広い道が
描かれてるのと比べたんじゃないのか。
つまり地図の「縮尺感」って普通は全然分かんないから、「対比」で想像してるに過ぎないと思うのだ。

その内試しにアメリカの田舎の人と北海道の郊外の人と、知らない所の距離が載って無い地図を眺めてその距離を当てっこでもしてみたい。
「次の角までの距離」の
推察は北海道の人は俺より一桁、アメリカの人はもしかしたら二桁多く見積もったりするかも知れない。
因みに現環境下の俺は10m以内を真っ先に主張するだろう。😓

2018年11月13日 (火)

日本のRockって何だろう②何で甲斐バンド編

飽く迄一例に過ぎず限定されるものでも無いが、何故今更の甲斐バンドかを説明させて頂こう。
個人主観に過ぎないが活動開始時期が早かったとか、幾つかの原因が選択理由にある。
もし参考にしようとするなら’70年代のライブ音源が推奨で、彼等はまだ現役だが
失礼乍らやり方等を変えてしまった様で現状は参考にし辛いのも併記させて貰う。

この趣旨に今のじゃ駄目なのは上手くなり過ぎたからで、メンバーチェンジ等に伴って変貌してしまった。
甲斐よしひろ氏には海外先達の翻訳なだけとの不評もあるが、単に訳しただけならあんなに当時の地方の場末ムードには持ってけない処に注意されたい。
それとこれも歴史を知らぬが故の誤解なんだが、アメリカ以外ではRock初期には何処でももっと露骨なカバーだらけだったのも強く指摘しとこう。

近年本邦では一部権利者の既得権益だけの為に行き過ぎ著作権横行でカバーが廃れたが、実際に体験してみる意義は霞む事無く大きいものだ。
いきなりオリジナルの全てが悪くは無いが、先に世界観を会得してた方が手戻りが無いのは明白だ。
だいいちいきなり知らない曲でノレってのは無理な話しで、作曲だけの人なら未だしもどんなバンドか等を知って好きになって貰うのが先に必要だと思う。

ある意味カバーを演るのは「お近づきの印し」的要素があって、本来なら王道且つ登竜門であるべき処なのだ。
で次の段階で有効なのは特定フォーマットに則った作品で、例えばストーンズが好きな人の大多数には好まれそうだとかってパターンだ。
カバーにはそれ以外にもとても大きな効能があるんだが、スタンダード会得によって初対面の者とのセッションが著しく演り易くなるのだ。

奏者同士に限らぬが「同じ曲」をどう「料理する」のかで、各々の個性が明瞭になる上とても分り易くなったりもする。
個人の修練としてならコピーは有益だが、対外的には出来不出来の評価程度に終始する。
だからコピーじゃ無くカバーなんだがそれの日本での黎明者に甲斐よしひろ辺りが該当してると言え、引用だったからこそ寧ろそれが成立してたとも考えられるのだ。

またこれも失礼だがテクニックレベルが高くないのも味噌で、それは演奏力等に頼らずにRockにしてた証と捉えられる。
特にこの点が近年のJ-POPとは正反対で、近年本邦のに俺が興味を削がれる最大要因ともなっている。
つまりひ弱なフォーク或は歌謡メロなのに、メタルテクとパンク音色で無理盛りすんなって聴こえちまうのだ。

俺には甲斐バンドを丸腰の勇者とすれば、
J-POPは廃棄されたモビルスーツの様に映ってしまう。
ビジュアルや体裁は大事だけど恰好に目が行くのは最初だけ、回数が重なってけば自ずと内部へ視点は移動するものだ。
その時に上るか下がるかの威力は絶大だし、如何せん所詮は音楽であってグラビアモデルでは無いのだ。

演奏が上手いに越した事は無いけれど、一般聴者の多くは初期段階でそこへ一番の興味を持ってる訳じゃ無い。
どんなに予備知識が無くても何かしらにそそられて、興味を持たれてからじゃないとそもそも上手いか下手かすら聴いて貰えない。
それにはある意味奏力に無関係な部分が問われてて、基本的な曲やアレンジの力が問題になるのだ。

奏力頼みで脅しを利かすのは「小手先」で地力とは違い、この俺言い「地力」の分かり易いのがバイブルにはうってつけだと思うのだ。
あからさまに凄く聴こえるのはそれとして、「大して上手くもないのに何で良いんだろう」に着目するのが秘訣なのだ。
エゴがゼロの奏者なんて滅多に居ないし必ずしもそれが良くも無いが、だからこそ余程気を付け続けてないと何時の間にか曲全体に対しては疎かになってしまってるものなのだ。

ひねくれ者と見られるかも知れんしある程度実際そうかもだが、近年のでは敢えて○○を語らない者に却って本格派を感じる始末だ。
アイドルと銘打ったBABAY METALが案外メタルしてんじゃんとか、コミックと銘打ったピコ太郎に結構ファンクしてんじゃんと思わされる。
してこの「中身が上」案件は本邦では未だしも、海外での評価には実際如実に反映されてますねぇ。

話の乗り心地の悪さを反省してここから本筋だけで行くが、海外のに遜色無いのを基準とすれば俺的には甲斐バンドは該当していない。
誰かと云えばJohnny,Louis&Charだとなるが、Rock要素が常に他要素の過半数でレベル自体が高度って基準からの選定だ。
けれど日本的とか本邦独自へ軸足を向ければ、J,L&Cは外国の外人でも実現の可能性が残されてる様に思える。

だが甲斐バンドみたいな昭和の地方の場末感ともなると流石に現地人でなければ無理そうで、その点かつてブームになったレゲエの模倣と本場物の違いと似てる気がする。
Bob Marleyって普段は気さくなのに妙な処だけ急に俺様化するのが不思議だったが、後から当時の現地事情を知るにつれ合点が行った。

同様に東京在住の俺には甲斐バンドの兄ちゃん達若いのに、何であんなに出稼ぎオヤジみたいな感性で歌うかねと感じられていた。

これらの「ローカル色」ってのはダサかったりもするけれど、カッコイイだけにすると何故か軽薄で没個性になっちまうもんだ。
本邦ではすっかり廃れたお国訛りであるが、本家本国では古くから重要戦略の1つとの位置付けがなされている。
前出レゲエもだが過ってのLAサウンドとか、Southern Rockなんてのはその最たる証拠だろう。

最初からRockで来てる俺にとって特に初期段階では、甲斐バンドのどフォークやド演歌っぽい曲にはドン引きした。
当時はどーしてRockって言っといてそんなん演るかねと、日本のって何処迄行ってもダサいんかいと幻滅したものだった。
実際今だって俺の好みに変化は無いが、「他に無かった」のを鑑みるとその点を無視出来なくなって来たのだ。

俺的には甲斐バンド自体ではそれらをRockとして消化し切れなかった様に伺えてるが、新たなネタへ挑戦しないと進化や独自性を育めないのも確かだろう。
そしてもう一つこれと逆の観点から眺めて、Rock純度の高いのはどれ位迄行ってるかも見てみないと不公平だ。
俺的評価では個人的には余計なのもあるがその代りか、王道モノでの純度の高さは当時では傑出していたとなっている。

それで好みに合致せずとも歴史的に無視は出来ぬって結論に達してて、不十分であろうと避けては通れぬ道の様に認識している。
参考にする側の勝手もあるから嫌いな処はスルーして、好きな処だけ取り入れりゃ良いんだからさ。
それも音自体を真似たりせず考え方だけに絞ったって、何らかの役には必ず立つだろうしね。

現代ではどうすりゃRockになるかは皆知ってるから、こんなのは余計な戯言みたいに感じるだろう。
だがある意味「守りに入る」度が過ぎると副作用が強く出て、毒にも薬にもならない没個性なのしか作れなくなるのだ。
例え条件面だけクリアしてても優等生タイプってのはRockに相応しくなく、それをJ-POPと呼称だけ変更した処で新味に乏しい事実は消えちゃくれないのだ。

甲斐バンド以外でも
捉え間違い等さえしなきゃ、他の誰でも構わない。
彼等の真の奏力は披露して無いだけかも知れんけど、少な目な技だけであれだけ色んなのをこなせてしまっていたのには気付いといて欲しい。
近年本邦の多くは対西洋比だと半端に非シンプルなのばかりで、かと言って深みのある複雑さもすっかりなりを潜めてしまった様な…。

2018年11月11日 (日)

日本のRockって何だろう①伝承断絶編

最近齢のせいか今更なテーマが気になってるが、今回の発端は2つ。
従兄がかつて一番手に馴染んでたStimmungのドラムスティック、改めて解析したいらしく自らのドラム教室のサイトhttps://twitter.com/StudioLiteDrum で情報を募ってる最中だ。
数十年前の常識!?とは云え
Stimmungのバチはあれだけ有名且つありふれたものだったのに、ネットによる情報氾濫時代にも拘わらずロクにヒットしないからだ。
その彼が風邪気味で活動が休みになったが、偶然出来た時間に気紛れで甲斐バンドの古いライブ音源を聴いてみた。

時にフォークっぽかったり演歌チックだったりもして特に好きでもないし、テクニック的にも奏法的にも左程のオリジナリティがあるでもない。
世間的にだって余り今の日本のRockの(特にBand)ルーツと認識されてない様だが、敢えてそれへ大きな一石を投じたくなった。
Rockで止まらずに&Rollが付いて良いなら、キャロル(矢沢永吉)なんかが該当するのに異論は無い。

それより以前に目を向ければロカビリーを経てGS(グループサウンズ)からの流れが本流だろうけど、多分に特定のスタイル等の維持に終始してた感が拭えないのだ。
つまりコーラス取ったらもうGSじゃなくなるし、歌を取ったらエレキブームのテケテケの残党に見えてしまう。
いや別にお好きな方達への非難じゃないんだ、只それだけだとその後の発展性に対する「枠」が狭過ぎだと指摘したいのよ。

主題に行くが日本のRockルーツにしても
Stimmungのバチ案件にしても、歴史や情報の断絶とか分断が原因と思えてならないのだ。
別に知らなくたって死にゃあせんけど、最悪努力が徒労に終わる危険だってある。
本人は引用のつもりでも他人からはコピーとか模倣と思われ兼ねなく、知ってさえ居たならもっと上手くやれるものをだ。

一介のヘボオヤジが語るには随分大それた話しだけれど、この手の「悪しき分断」の悪影響は何も音楽界に限った事ではない。
最近の台湾での鉄道事故に日本製の電車の設計ミスが多少なりとも加担しちまったみたいだが、過去比較だと何とも解せない事例だ。
新幹線の台車亀裂もそうだったが、今日ではこの業界でも規格化が格段に進んでいるのだ。

昔の日本製電車はオーダーメイド主流で、造る度毎回全部が違ったからさぞ大変だったろう。
それが前出規格化で注意点がかなり絞られたにも拘わらず、下らないミスが頻発したのは全く矛盾しているのだ。
この結果から導き出される原因は唯一つ、単に「造るのが下手になった」以外考えられないのだ。
どんなに省力化で機械化率が上がった処で、その源は人の「した事」が反映されてるだけだからね。

以前出来てたのが駄目になったとなるとちゃんと教えられる人を無神経にクビにし過ぎたのか、「使える電車の造り方」の伝承に失敗と云う事なんだと思う。
それの更に源を辿れば「行き過ぎた学歴偏重」もありそうで、企業の体裁としてはやむを得ないにしても本当に勉強が出来るだけで何でも出来りゃ誰も苦労せんわいっての。

今日ではどの分野でもパソコンだけは弄れないと困るけれど、肝心なそこは本邦の学校教育では殆ど手つかず状態だ。
それでもせめて各分野別の実践的な教育が足りてれば及第点だが、テストの点に貢献するだけで実務に対しては相変わらずサッパリだ。
近年の企業系での根本的な「あ~ぁ勘違い」は、先ず○○屋ならそれにだけは詳しくないと話しが始まらないのがどっかへすっ飛んじまってる部分だ。

ここから幾つか
個人体験談へ移るが、最初は成功例で長い付合いのあった自動車販売会社の営業マン氏だ。
彼は営業職の在籍だったが整備士の資格も持っていて、つまりセールスマンの前に単に「自動車屋のオジサン
だった訳だ。
知合ったのは彼の就職間もなくで俺は当時中学生、そもそも元の顧客は父であった。

以来
彼の定年迄の間我が家の「車の世話」をして貰ったが、当時クソガキだった俺に対しても「プロの自動車屋」として付合ってくれたのがキッカケだったと思う。
先を見越した営業戦略だってあっただろうけど、それだけで長続きするもんじゃない。
人間性の内でもあろうが車に関しては
どんな相談にも真摯に応じてくれ、その信頼が揺ぎ無かったのが決め手だ。
彼が定年後の担当者の引継ぎを1年掛けてしっかりやっといてくれたお陰で、その後継者に対してこちらは何の変化も要せずに済んでいる。

次は失敗例で最近困ってる俺の歯の健康問題で、不可抗力とは云え主治医が急逝してしまったからだ。
それはドラム教室の先生とは又別の7歳程年上の近隣在住だった従兄で、彼は祖父が開業したのを継いだ三代目の歯医者だった。
俺は彼の父(つまり伯父)の代からそこへ世話になってて、下の代の従姉弟達が医師見習いで来てた時分には実験台を務めた事もあった。

彼は高卒後すぐには医大へ行かず、ベーシストとして暫く仕事をしてた異色の経歴の持ち主でもあった。
親戚且つ同業且つ兄代わり…とあらゆる点で俺を熟知してたので、とって代われる人は皆無に近い。
候補足り得る可能性があったのは
四代目で本来ならそこへ任せたい処だが、三代目が想定外に急逝したのでカルテに記せない個人情報の伝承が間に合わなかった。

俺から四代目へ伝えればと思われるかも知れないが、
外から見た客観的姿は本人には分からない違いが埋められない。
加えて三代目は俺の親も診ていたので遺伝的推察も出来たが、俺の親はもうこの世に居ないからこれも体験不可だ。
更に人的面を妥協しても治療方法も最先端を行っていたのでそれだけでも厄介で
、こっちも誰にも足りるだけの伝承が出来ぬ間に逝ってしまった。
今の処適したのがどうにも見つからず、箸にも棒にも状態だ。

一時と比べれば近年は子供側本人の選択で世襲がまた増えて来た感じを受けるが、経済活力を逸した中では消去法の結果かもの懸念も拭い切れない。
昭和の後期生まれ世代は若年期の前世代からの筋の通らない無理強いに辟易してたので、自ら進んで次世代へ教えるのを躊躇し気味な処がある。
教えないのが悪いと言われればその通りの面もあろうが、伝承って本来は教わる側の問題なのは動かぬ処だ。

年寄りは後は死ぬだけでどんどん無関係になってくが、これからやってかなきゃならない人達には死活問題なのだから。
「歌は世につれ…」ってのがある通りで、とりわけメジャー路線なら世間との整合性は保たねばならない。
しかしそれは歌われる物語等についてであって、制作サイドの手法迄わざわざ改悪するには及ばない筈だ。
独自性に影響が無い様な部分なら昔にあったからって避ける必要も無く、良い物はジャンジャン放り込んじゃってOKなんだ。

<続けちまえ>

2018年10月30日 (火)

ドラムのパワーとトーンの関係性考察(若干ヲタ)⑧

人の問題・道具の問題と来たから、録音面に突入するぞっと。
先ずは個人的に印象深いBeatles後期のRingoのFloor Tomについてで、有名な濡れタオルミュートを施した「のでない」のを取り上げる。
目的はズバリ「皮の振動の仕方」による低音の表現で、それが為かTom2つをミュートしてるのにFloorは無しってのが幾つかあった。
因みにバスドラはノーミュートだと鳴り過ぎて却って皮振動が目立ち難くなる様で、初期の作品とCome Togetherのを聴き比べだら一目瞭然だ。

俺個人はFloor音色としてはTomより低い音域の鳴りを出すのが好みだが、そのやり方だと万能ではない。
特にチューニングがローピッチだとかなり低音程になるので、周りの音次第で目立たせるのが困難になる。
でもそれを前述の
「皮の振動の仕方」で賄えば、実際の周波数は高いので埋もれる心配は激減するのだ。

この
「皮の振動の仕方」は高次倍音(基音から掛け離れる位高い周波数)に現れるが、ピッチが低い程皮の振動がゆっくりになるので結構如実に現れる。
だからメロタムやSnare等になるとピッチが高いので、殆ど「揺れ感」が分からなくなり言わば低いのの特権なのである。
またこの性質があったから現代の太鼓みたいに最低音部が大きく鳴らなくても、昔でも大口径・低音程の判別が可能だったのだ。

今の太鼓にしても電子音源と比べたら低域量は桁違いに少ないし、その出方の持続性だって断然劣っている。
けれどもサンプリングでも用いないと中々「皮揺れ感」は再現困難で、実用上は利点と苦肉の策の半々って処だ。
純電子音源は音程・音色では低域盛り沢山だが、サイズ感は鳴り方を遅くしたりする程度しか方式上含められない。

サイズ感若しくはスケール感は音程からの影響も少しはあるが、それより音の出方・鳴り方等の依存度が圧倒的に高い。
そうじゃないとCymbalの大きさ違いが無意味になるが、どんな素人にだってサイズ違いを順に鳴らせば誰にでも簡単に判られるのはこれが原因だ。
Beatlesの場合は音響的に当時でも制約or制限は軽重だったと思うが、それ以外の昔の録音現場ではこれしか表現方法が無かった事だろう。

体験的に近代TAMAと骨董Ludwigは弄り倒せたので知ったんだが、バスドラをSimon Pillipsみたいなウルトラローピッチにすると集音扱いに顕著な差が出た。
Tomより上では平気だがFloor Tomでも半分位は影響があり、その主因は設計ピッチの違いがもたらしている様だ。
骨董サイドはPA無しでも大きく鳴らせる必要があるので、口径毎に胴よりは皮の大音量になる音域に鳴るポイントが来るように調整されてる模様。

なので骨董で設計想定よりローピッチにすると音量低下の他基音と倍音のバランスが大きく変化し、基音に頼った集音をすると
そのままではTomより上との整合性が崩れる様だ。
それを
「皮揺れ感」へシフトすると解決するのは、皮の揺れ方自体は全体より違いが少ないからだ。
胴の影響はあるにせよ少なくともピッチ自体は口径と張りで決められてる訳で、特定の音程を出す揺れ方に相違は出様が無い。

そして
「皮揺れ感」には音程の他に音量にも関係性があり、揺れ幅は音量そのものなのだ。
弱く叩くと揺れると言うより最早僅かな震えとなり、
「皮揺れ感」は殆ど無くなる。
だから元は低音域のある意味擬似再現目的だが、音量の大小もそこに現れているのだ。
「風圧を感じる様なバスドラサウンド」なんてのもこれの典型で、ターゲットは眼前の生なら体感出来る空気の圧迫感だ。

だがMicは音は拾えても風は正しく拾えないし、音響録音装置は風は記録不可能。
今では映画鑑賞用等で超低音の振動を再生するイスなんてのもあるが、普段皆が何時もそれで音楽を聴いてくれはしない。
これの代替案発想で、風→何かが動く→太鼓の場合は
「皮の揺れ」へ辿り着いているのだ。

パワー面でこれに着目して最大活用された例がJohn Bonhamで、如何に大音量かを表現する目的だとZepのメンバーが言及している。
彼の録音でのドラムサウンドは随分広い部屋で演ってる印象があるが、響き(残響・反響)は出音に正比例し「太鼓本体以外で音量に依って音が変わる」大きなポイントだからだ。
つまり広い程「差」が強調される訳で、
もし狭かったり響きが無かったらどうなるかを想像してみるがいい。

実際に中期作品の幾つかでルームマイク不使用だったりしたのがあるが、聴き取り良好で高音質になった代わり個性は激減している。
では非力な凡人でも巨大な響く部屋で叩けばパワフルに聴こえるか!?、最初のほんの一瞬だけYesかもと答えとこう。
出だしの「ポン」が「ボワン」とか拡がるが、多分以降は響きに元音が負けて何演ってるのかさっぱり分からなくなるだろう。

BONZOの太鼓のエコーが大きいのは部屋の響きが多いからじゃ無く、元音の大きさにつれて大きくなってるだけなのだ。
差し詰め「普通の部屋でもこんなに響きます」アピールをしてるだけで、叩き手が変わればあんなに響かせるのは不可能なのだ。
Ringoは音色BONZOはパワーと目的は異なるが所謂1つの革命だったが、何とか「実際を聴者の耳迄届けよう」が根底にある。

悲しいかな現代本邦の下手錯誤模倣ではこの大前提が忘れ去られてて、ズルはしてみたものの副作用の方が強く出て収集が付かなくなってる様でみっともないったらありゃしない。
ゲスな表現だが通常録音現場は聴者の目につかないんだから、ヘボ男でも鳴らし切れるショボイ楽器にすげ替えたら良いのだ。※卑下にあらず
フェラーリを歩かせるより軽自動車だってフルに力走させれば、その迫力はかなりのもんになるんだからね。

全くの個人見解だが俺の若い頃より本邦でモータースポーツがマイナー落ちしたと感じてるが、その一因にスポーツカーの大型化があると思っている。
アメリカと比較するとあちらでは道はだだっ広いままで車は一時期よりエコで小さく、こちらでは安全・快適性と銘打って隘路のまま大きくしちまった。
道幅一杯の車ではカーブでのコース取りもへったくれも無く、只擦らない様にスリ抜けるしか走りの選択が出来ない。

環境との兼合いで誰でも同じ走りしか出来ないとなりゃ、他以上の性能を発揮するのにサーキット以外では高速でのスピード違反位しか残って無い。
後付けの寓話か本音かは定かでないが、CharはStratoよりショートスケールのMustang使用の効能を語っている。
巨大な手の外人が使う技を、楽器が小さくなった事で可能になったと。
外見と音のどっちをより大きくしたいのかと、似た様な話しだと思うのだ。

そうして何らかの手段で兎に角「ひ弱じゃない音」が出せた時、初めて色んな音響技だって本来の効力を発揮し始めるんだ。
ジャケット写真は見た目だから、ケチらずフェラーリでもF1みたいに思い切り凄いのにしときゃ良い。
けど音は車なら容姿ではなく「走り」なんだらさ、存分に走らせられなきゃどんなスーパーカーも「スー」がとれちゃって「パー」カーに成り下がるのが分かんないのかねぇっと。

2018年10月10日 (水)

J-POPサウンドの間違い探し③

前の流れから今回は「音圧」をテーマとするが、専門職以外の者にとっては聴感上の問題となる。
最近常々俺が気になるのは無暗に何にでも深いコンプを施す点で、これは単なるローファイ化になるだけなのだ。
本邦レコード会社のお偉いさんはよっぽど昔のAMラジオやテレビの「悪い音」が好きなんだろうかと、つい勘繰りたくなってしまう。

実際力感とか密集度・一体感の点ではそれなりに効果はあるが、単なるローファイは真の明瞭度やリアルさは殆ど犠牲になってしまう。
本来プロが意図的にこれらを取り入れる場合は上の点にも注意を払い、必要部のみ限定とか丸々施す事はかつて無かった。
全部にしたら冒頭の通りで一般聴者には単に音が悪いと思われるだけとなるし、マトモなプロデューサーやパフォーマーだったら高い金払ってこれかと文句を言われるだろう。

俺的にはこの大きく初歩的な恥ずかしい錯誤は、知識不足が最大の原因だと見ている。
巧く使いこなすにはやはり「技の本質」は必修要項で、それには最初は簡単で良いから歴史を辿るのが大切だろう。
かなり以前から触れてる通り「音色創作コンプ」は、スタジオに籠ったBeatlesの「おウチでも生みたいな」対策が嚆矢だ。

ここで要注意なのが当時は機器性能の問題で、どう頑張っても現代みたいに「ありのままを収録する」のが不可能だった点だ。
コンプ使用は苦渋の決断・苦肉の次善の策だっただけの話しで、わざわざ自信を持って創り上げた音を変えたい筈が無いのに我々はもっと気付くべきだ。
演ったままと録ったのがどうにも違っちまうから、仕方無く修正しようとしただけなんだよ。

もう1つ注意すべきなのが電気楽器音の扱いで、一部例外を除き電気楽器用アンプは元から「弱いコンプが掛った音」になっている処だ。
電気楽器とオーディオの両方にそれなりに携わってないと認識し辛そうだが、楽器用は意図的になるべくそうなる様に作られている。
器楽音の認知の問題も結構「三つ子の魂百まで」が強いもんで、初めて耳にしたのの印象が強い程それに近いと「あの楽器だ」と捉えられる。

エレキの黎明期に現代比では音響は非リニアしか無かったが、それが人々へエレキの音として刷り込まれているからだ。
そして特にエレキギターの音色は歪ませる程自動的により音量
均一化が促進され、生の太鼓とは音響的に正反対の性質を持つ様になる。
なのでアンサンブルの整合性を求むるならば、生度の高い物程コンプして生度の低い物には極力コンプが掛らない様にした時程音が揃うのだ。


よってギターへ綺麗な歪みのエフェクタを掛けてるその後でコンプするのは愚の骨頂、且つ実質的には有意義な効果は全く望めない。
万一そんな事をしたくなる様ならそれはエフェクタ選択ミスが原因で、もっと雑でもワイルドな音色の機種を用いるべき状況だったってこった。
普通は何でも汚すより綺麗にする方が大変なので間違え易いが、この件では単に雑音を増やしたりするのではないから当て嵌まらない。

一たびポマードやグリースで整髪してしまうと幾ら掻きむしった処で、シャンプーしないと自然乾燥させて乱れた様な感じには出来ないのと同じなのだ。
大元が生の人の演奏では電気的後処理に出来るのは、整える方の一方通行路なのだ。
もし機械で意図的に乱すにしても奏者の意図を完全に履行するには、その為の情報を特別な手段で先に記録でもしておかなければ再現不可能。

もっとミクロな視点になるが例えばMic1つとっても、厳密には入力レベルによって周波数特性は微妙だが必ず変化する。
音を電気信号に変換する核心部分は未だ完全アナログのしかないが、アナログ機器の動作は一切の例外無く全てが「徐々に」だからだ。
そもそも音自体が空気振動で環境の影響をモロに受けるので、デジタルチックな世界観はハナッから無意味で通用しないのだ。

これらを忘れないがしろにして幾ら「無理加工」を試みた処で、所詮は「暖簾に腕押し」と虚しい結果しか招かない。
そこ迄無駄な苦労をする位だったら単純に練習する方が確実に音は良くなり、「後で無理して」に対し「最初から」なので効果も桁違いに大きくなる。
先に記した通り電気的操作は受動的作用しか持たず、能動的に柔軟に作用するのは今だって「演る方」オンリーなのだ。

こうなって来ると課題となるのは「POPに何処迄音圧が必要なのか」で、極端にひ弱にでもならなければハッキリ言って「不要」で御座居ます。
「最初」なら生の癖に打込みっぽいのも新鮮だけど、効能があるのはせいぜい3年位が限度じゃないんスカねぇ。
それに何と言っても正確さ等では機械に勝てっこないし、その逆もまた真なり。
やはりそれぞれの特徴は無理に改変するより、上手に活用するのを考えた方が利口なんじゃないのかな。

また近年のAKB48を筆頭とする「成長過程を楽しむ」アイドル文化の観点に沿えば、許容範囲の失敗はそのままとした方が可愛さアップになるのでは。
ポピュラー音楽は「親しみ易さ」命なんだから、クラシックの大御所の名手に対抗する様な真似は寧ろホントはマイナスでしかないでしょうよ。
上手い下手より綺麗汚いより、身近さとか独特の個性とかそう云った魅力にもっと注力したらもっと楽しめる物になる筈なんだよね。

或は若干無責任な提案だが打込み専門のバンドなんてどうだろう、各パート専属でって俺は未だそんな存在を知らないが。
そしてLiveでは歌はどっちでも良いがダンスパフォーマンスに専念する、俺知りでは近年の若年層では勉強よりスポーツより踊りの上手い奴が神らしいし。

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