音楽備忘録1993 ’70年代Rockの浦島太郎㉔
さてさて強いだけじゃ駄目ってんならどうやってバランスを取ってくかだが、覚悟さえ決めてしまえば方法は無限に近くあるんだ。
強い音と言えば生古典楽器を始めリアルに強く奏でるのが先ず思い浮かぶが、電気・電子楽器以降のでは過激な音色ってのもありまんねん。
それは一聴とても音楽には使えそうに無い類ので、しかし上手く用いるとそんな雑音とか騒音みたいなのでも嵌る場所ってのがあるんだ。
その一典型例がFuzzで、当初暫くはずっとトランプのJoker的役割しかしてなかったん。
俺知りでその常識を覆したのはErnie Isleyで、やっと普通の音色の選択肢になったんだ。
尤もジミヘンの愛弟子たる彼ですら安定してそう出来たのは1970頃になってからで、その方面では致命的に遅れてた日本では1980年頃迄Rock以外では恥ずかし乍らずっとキワモノ扱いでしてん。
それより下手を打っても幾らか綺麗なAmp歪ませでさえ、今では信じられんだろうがBeatlesでやっと市民権を得るキッカケになった程度だ。
これはテルミンなんかもっと酷くて今はオタマトーンがその初心者モデルみたいになってるが、世間一般認識としては幽霊サウンドとしてしか殆ど認知されてない。
テルミンの実態は単に音程に縛られないSynthe(唯の発振器の方が近いか?)なだけなんだけど、性質的にはTromboneとかと一緒なだけなんすよ。
登場時電気を使って電子合成するのが奇異だったからか、それを使って普通に奏でる気にはなれなかったのかな。
非音楽音(今迄は使えると思えなかった)の近年の利用ったら杜撰君的には、Metal系での「明確な音程のない怒鳴った様な声」が印象にある。
俺は古い奴だから全面使用には否定的だが、あらゆるシャウトの出尽くした感のある中で人耳を惹くには効果的には違いない。
現時点では完成形には至れてない気もするが、Rapからヒントを貰ったか歌で明確な音程に一々依存しなくしたのはプチ革命とも言える。
唯の先祖返りじゃんと言われればそうかもだが、歌以外は音程・和声・リズム共太古の昔のみたいに曖昧じゃない。
少なくとも従前には未登場なコンビネーションな訳で、但し’70年代よりアホなのは上手なブレンドが出来て無い処だ。
これの発案・実行者にも疑念が無くは無いが、杜撰大王的には周囲環境の影響の方が大きい気がするんだ。
多方面の大勢が冒険心に満ち溢れ様々な挑戦をしてるのと、近年みたいに悪く云や守勢に回ってるのは正反対だかんね。
そんな空気が充満してりゃ、どうしたって攻めに集中し難いじゃん。
社会的にも突飛なのは今一理解されず受容れられずで、それでいて攻めが足りなきゃつまんないなんて無責任な反応をしやがる。
そんな1つの逆境ではより認められる迄しつこく続ける必要があるが、実はそれって本当は’70年代の方が桁違いに苛烈だったのよね。
Rock系の場合当時はまだまだホントに新参者で、「Rock演ってます」→「何それやたら煩いだけでそれでも音楽なん?」なんて反応も珍しくなかったかんね。
要は実情に見合ったアウトローの意識があるかどうかで、かなり緩和したと言え貴族系Classicと比べたら今だって盛大にアウトローなままなんだよ。
-続く-
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