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2025年1月

2025年1月31日 (金)

音楽備忘録1994 音楽でのアイデアの実現方法⑭

前回文系・理系等人の性質ワードが出て来たが、訓練して補填は可能でも得意を引っ繰り返す迄には先ず至れない。
もし自身のタイプが望みと逆だったら悲しいが、こればっかりは当座受容れるしかない。

んが自身の好みを除外した他人の観点に立つと、それこそが個性の源泉なんすよ。
前回両方ある程度のレベルに持ってかないと音楽するには厳しいと書いたのは事実だが、その一方で苦手克服ばかりに精を出すのも少々不自然な行為なのだ。

ってのも初動アプローチの仕方は本人のタイプにほぼ依存してて、特に閃き等のプロセス自体は自然発生的なもんだからね。
強引に変えられなくも無いんだろうが、この段階でそれをしては感情のダイレクトな吐露が阻害されちまう。

尤も行き過ぎると文系で独善的に閃いた文言だけをそのまま歌詞にしたりして、少なくとも理系人には完全に意味不になり通じなくなったりするがね。
只このケースは後の処理に問題があったからで、例えば日本語の歌詞を思案してのにたまたまロシア語が思い浮かんだ様なもんだ。

そんな際は1に翻訳2に補填をしてやりゃ良く、後者はよりキーワードの意味を特定する文言の追加とかだ。
自身のその時のフィーリングとして合致するのが都合の良い言語とは限らず、けれど唯それだけを言ったんじゃ意図通りに伝わらんなんてのはままある事。

実例としては電車の主電動機がぁなんて言うと鉄ヲタには好ましく思われても、今時一般人が訊いた途端にハッキリ理解出来るのは極少数じゃないかな。
コレ単に車を動かす為のモータの事なんだが詳細には他にもモータは使われてて、分かり易い処では電気式の自動ドアやエアコンなんかにも沢山使ってるんで区別として用いられるのが常套化したのかな。

のでこれを生贄にすれば駅に止まるとウィーンとならドアの、走り出すと唸りが上がりなら走行用と想像が容易く付く訳よ。
まさか今時モータって何か知らん奴は居ねえだろうが、上記例みたいにしときゃそれでも雰囲気とか環境設定は堅持される。

って何でこんな稚拙な話しをしてるかったら、まだ幼い子が乗り物に興味を深める段階では恐らく誰もが体験してる感覚だからなんすよ。
対象は乗り物に限らず少し風変りだったら何でも御座れで、個人的には名鉄パノラマカーの主電動機音は何とも未来感があって恰好良かったねえ。

これが印象深く残ったのはキモいと心地良いの境界線に近かったからで、自分内では大昔初めてエレキで歪んでるのに何故かとても美しいと感じたのと似てるよ。
是又の昔語りで今では想像し難くなってるだろうけど、杜撰君世代の幼少時は歪む=汚いって認識しか日本には存在しなかったんだ。

それ故誰が聴いたって美しさを感じられる筈が、俺より上の世代になる程、歪みを感知した途端あ〜これは駄目だ残念なんて受け止め方をされてたんだよ。
今からしたらそっちの方が異常だが、昔はずっと音関係では常時歪みに悩まされ続けてたからさ。

根拠こそあってもこうした既成概念には知らず知らず束縛されてるもんで、今劣化本邦では上記に変って俺随時頻言い「硬過ぎ警報」や「過圧縮警報」が絶賛発令中でんがな。😓
かつてはこの位平気だろうと油断してた人工着色料等が、何十年か経過後にヤバい代物だったと判明したみたいな事にならなきゃ良いがね。

-つづく-

2025年1月30日 (木)

音楽備忘録1993 ’70年代Rockの浦島太郎㉔

さてさて強いだけじゃ駄目ってんならどうやってバランスを取ってくかだが、覚悟さえ決めてしまえば方法は無限に近くあるんだ。
強い音と言えば生古典楽器を始めリアルに強く奏でるのが先ず思い浮かぶが、電気・電子楽器以降のでは過激な音色ってのもありまんねん。

それは一聴とても音楽には使えそうに無い類ので、しかし上手く用いるとそんな雑音とか騒音みたいなのでも嵌る場所ってのがあるんだ。
その一典型例がFuzzで、当初暫くはずっとトランプのJoker的役割しかしてなかったん。

俺知りでその常識を覆したのはErnie Isleyで、やっと普通の音色の選択肢になったんだ。
尤もジミヘンの愛弟子たる彼ですら安定してそう出来たのは1970頃になってからで、その方面では致命的に遅れてた日本では1980年頃迄Rock以外では恥ずかし乍らずっとキワモノ扱いでしてん。

それより下手を打っても幾らか綺麗なAmp歪ませでさえ、今では信じられんだろうがBeatlesでやっと市民権を得るキッカケになった程度だ。
これはテルミンなんかもっと酷くて今はオタマトーンがその初心者モデルみたいになってるが、世間一般認識としては幽霊サウンドとしてしか殆ど認知されてない。

テルミンの実態は単に音程に縛られないSynthe(唯の発振器の方が近いか?)なだけなんだけど、性質的にはTromboneとかと一緒なだけなんすよ。
登場時電気を使って電子合成するのが奇異だったからか、それを使って普通に奏でる気にはなれなかったのかな。

非音楽音(今迄は使えると思えなかった)の近年の利用ったら杜撰君的には、Metal系での「明確な音程のない怒鳴った様な声」が印象にある。
俺は古い奴だから全面使用には否定的だが、あらゆるシャウトの出尽くした感のある中で人耳を惹くには効果的には違いない。

現時点では完成形には至れてない気もするが、Rapからヒントを貰ったか歌で明確な音程に一々依存しなくしたのはプチ革命とも言える。
唯の先祖返りじゃんと言われればそうかもだが、歌以外は音程・和声・リズム共太古の昔のみたいに曖昧じゃない。

少なくとも従前には未登場なコンビネーションな訳で、但し’70年代よりアホなのは上手なブレンドが出来て無い処だ。
これの発案・実行者にも疑念が無くは無いが、杜撰大王的には周囲環境の影響の方が大きい気がするんだ。

多方面の大勢が冒険心に満ち溢れ様々な挑戦をしてるのと、近年みたいに悪く云や守勢に回ってるのは正反対だかんね。
そんな空気が充満してりゃ、どうしたって攻めに集中し難いじゃん。

社会的にも突飛なのは今一理解されず受容れられずで、それでいて攻めが足りなきゃつまんないなんて無責任な反応をしやがる。
そんな1つの逆境ではより認められる迄しつこく続ける必要があるが、実はそれって本当は’70年代の方が桁違いに苛烈だったのよね。

Rock系の場合当時はまだまだホントに新参者で、「Rock演ってます」→「何それやたら煩いだけでそれでも音楽なん?」なんて反応も珍しくなかったかんね。
要は実情に見合ったアウトローの意識があるかどうかで、かなり緩和したと言え貴族系Classicと比べたら今だって盛大にアウトローなままなんだよ。

-続く-

2025年1月29日 (水)

音楽備忘録1992 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑯

さあKaren Carpenterの2回目は、彼女の持てる才能と一般評価の是非から行こう。
何分ポピュラー系であるが為に先ずは歌唱力と声質で、次に容姿若しくは雰囲気とか若さなんじゃないかな。

気楽に歌物を聴きたい層にとっちゃ個別楽器には、強大なキッカケか必然性を感じないと耳が向かねんだ。
ので愛好家以前だったら別にそのままで批難なんかしないけど、アマでもミュージシャンとか評論家がそんなこっちゃとっても困るだよ。

ってのもDrumsetを叩きながらで最初の関門は、どんなに美声でも一定以上の声量が無きゃ無理な処。
特にKaren先生の場合女性としてはかなり低い音程が頻繁に使われてて、低い方で声量を稼ぐのはかなり難度が高い。

次にポピュラー系で折角Micが常用出来ても、所謂Micワークの自由度がかなり制限されて厄介なんだ。
これは手前味噌でも体験してて、BandでLiveの予定が入ってるのに突如Drummerが脱退しちゃってさ。

Vocalの奴が下手でも一応Guitarを鳴らせたのもあって、急遽Lead GuitarからDrumへコンバートですわ。
で杜撰君が最優先でChorusも担ってたし、マトモなGuitarが不在になる分余計にChorusを省けなくなっただよ。

何か楽器を奏で乍ら歌う事自体には慣れ捲ってたんだが、今迄Micワークで補填してたのが殆どパーに…。
で杜撰君何に一番困ったかったら意識的に遠ざけるヤツで、頭部だけ遠ざけ様にも首が短いっ!!。

ならばと代わりに横を向くのも何だか見てる人に不機嫌と思われそうだし、変に指向軸から外せば歌詞が不明瞭になっちゃっうし…。
そりゃ叩き乍らの都合に合わせりゃまだ何とかなるが、Karen先生のは叩く都合なんてガン無視で豊かな表現に没入してんじゃん。

是又私感だがメロパート楽器なら割と一緒に盛り上がり盛り下がりゃ良いんだが、伴奏系は対比を維持すべく片方は知らん顔みたいにしなきゃなんない事が少なくないんすわ。
そのせいかリズム隊兼業歌手の方が、歌だけでも上手な人が多い気がするがどんだろね。

勿論ホントの歌専業にも偉大なのは一杯居るけど、ポピュラー系小編成アンサンブルではダイナミック過ぎて今一合わないケースだってあるん。
つまり舞台で殆ど叩かない時でも本人にDrummer自覚がある限り、それがもたらしてた影響はかなり大きいんじゃないかな。

つう事って歌唱だけに着目してもDrummerが結構作用してて、それでいて逆は殆ど無いのが又凄いんよ。
因みにBassでもMcCartney・Entwistle・Squire氏等に顕著で、奴等は歌ってる時の方がBassでも難しい事を演る率が高い。

兼業演奏家としては杜撰君も経験は膨大だが、たまには専念したらもっと上手く歌えるのではと試した事がある。
処が確かに余裕は増えたんだけど余計な事を意識する余裕も増えちゃって、今迄の段階ではどっちらけだった。

尚且つ伴奏と喧嘩或は輻輳する箇所が発生し易くなり、少なくともシンプル歌物系ではどうも好結果に結び付かない様だった。
楽器の代わりに踊り等へリソースを振ればどうか分からんが、今度は果たして「聴くだけ」で満足出来る代物になるか大いに疑問でやんす。

-続く-

2025年1月28日 (火)

音楽備忘録1991 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓱

さてアナログテープでのギミックには必然と意図的なのの2手に大別され、前者はテープコンプ等・後者は前回述切り貼りの他逆回転等が有名だ。
現代ではそれ等のデジタルシミュレートも大部進んで、テープだったら出来たのにはそこそこ解消されつつある。

だが全数同列に扱えるには未だ至って居らず、そのせいで無精な杜撰君なんかは使用を憚られる事もあるのが現状だ。
最初は逆回転Reverbを取上げるが、テープの場合その多くは残響なんかじゃなくて正体は実音の残響だ。

言うなれば唯の逆回転再生の1つ上級技で、アタック音部を除外した逆回転を正回転アタックの前に追加してんだ。
そすうっと明確なアタックが無いが為に、日常感覚的には残響っぽく認識されるってヤツだ。

劣化必然のアナログテープ時代にはほ最小劣化に実施可能なほぼ唯一の方法で、但しLiveでテープを回しといてタイミングを図って実演し出すのは音質的にも厳しかった。
のが無劣化デジタルの登場で潮目が変わるかと思ったっけ、ちっともそうは行かなかったのは残念だ。

まあ良く考えりゃ必ず鳴らしたからプロセスは開始されるんだから、そんなの虫の良過ぎる稚拙な発想なんだけどね。
わ兎も角案外録音でも昔程用いられなくなったのは、恐らくあまりにも無劣化過ぎて却って残響っぽく聴こえなくなったからなんじゃないかな。

Delayと考えればそれで良いんだが、Reverbだと単に無劣化なだけじゃ駄目なんだ。
最も典型的なのだと源音より少し籠らせるのなんかで、それは天然状態では実音と一緒に響いてるから最低限の区別を付けたかったからだ。

それを逆手に取ったか偶然かはワシャ良くは知らんが、デジリバ普及期にはわざと残響の方をBrightにしてたのなんかもそこそこあったっけか。
のは当時はプロでもその他大勢側に属してたら、デジリバはあってもデジタル録音機は未導入だったんよ。

加えて生楽器奏者が従前のアナログとはニュアンスの変わるのを嫌って抵抗したとか、そんな事情もあったかも知れない。
それがココでは2番手になったが、本当は最大の長所かも知れない所謂テープコンプだ。

これって音響物理的にはちっとも褒められた性質じゃねんだが、生耳に聴こえた感じには最新のデジタルプロセスより全然近似だったんすよ。
勿論詳細に聴き込めば変ってる箇所もあるんだけど、全体の感じでだと現時点では他に明らかに優れたのは未登場なんだわ。

その核心は以前述「音の硬さ」で、自然空間では間に介在する空気に依る緩和作用が必ず働いとん。
でひねた発想だが人耳ってヘッドホンやインナーイヤー用になんか至極当然の如くなっちゃ居らんから、近年のはまるで専門外の仕事を無理に押し付けられてる様なもんすよ。

にも拘らず悪流行り等で現実生音より明瞭度に勝るのが売られてるが、聴くのが短時間なら良くても一定時間を越したらそんなのやたら疲れさせられるだけなんだよね。
のが音色の場合早期に飽きられるとか、好感からすぐさま苦痛に変わったりするんすよ。

-続く-

2025年1月27日 (月)

音楽備忘録1990 音楽でのアイデアの実現方法⑬

今日は音楽にとっての歌詞の重要性を論じるが、歌物で語り調だったら最重要になるのは当然だわな。
そして古くから日本は歌詞を尊重して来たのは良い処に違いないが、昨今サウンドの方が私感ではあるものの琵琶法師以下ってな到底許せんぜよ。

そこで再確認願いたいのがかつて隆盛を極めた国産Folkで、派手なのは少ないしあまり目立たなかったが伴奏にも一切手を抜いて無かったのをね。
尤もアリスやチャゲアスなんかがド派手・大袈裟に演り過ぎたのがケチの付き始めで、オワコンを早めた気がしないでも無いが…。

それが杜撰君としては意外な事にメジャーストリームには上がって来てないが、多少毛色は違えど今の若者で結構かつてのFolkみたいなのに嵌ってる人達が少なくなかったんだ。
彼・彼女等は皆個別活動してて現況有名フォーラムみたいのも皆無になったから、目立たないし全数を把握される事が無いらしいが。

わさて置き通常ガチの歌物でも伴奏より歌の方が長いとか、量的に上回ってる曲なんてのは物凄く希少ざます。
にも拘わらず俺言い「印象派文系」の方々はどうやら上記事実の認識が無いか足らん様で、歌のそれも歌詞を頑張りゃ他は大した影響力が無いとタカを括ってる節がある。

特に文系オンリーで固まってる連中が最悪で、内部には錯誤是正作用が働かないんだよ。
って文系自体をディスてんじゃなく、印象派であるが為に実際は音としてどうなってるかに気付けないのがさ。

つまり聴く側は純印象派文系でも何の損失も出ないが、作る・演る側は最低でも自身の弱点に気付いて何等かの手段で補えないとこっちのイメージが全然相手に伝わり切ってないんすよ。
しかも聴者が俺みたいなゴリゴリ理系だったら尚更で、あまりにも音が下らないと歌詞が聴こえて来る前に堪えられなくなってシャットダウンですから。

本来なら理系のお前にこんな歌詞は書けないだろうと誇って構わないし、極度の文学音痴でもこりゃ素晴らしいとなる筈のでもだから実に勿体無いよ。
すべからく聴く分には印象的・情緒的な音楽も、作るとなると理性を一定以上発動する必要があるんすわ。

これは逆も又真なりで小節数を始め符割は整然としてても人間感情への訴求が足りないとそれも駄目で、しかしこれは理系でも誤字脱字や誤読が酷いままだと数学や物理でも大いに悪影響が出るのと同じだ。
当節今劣化本邦では文系・理系の大別が大枠となってるが、実はこれこそが諸悪の根源なんざます。

正規学術体系的にはその上位に博学ってのが厳然と存在してて、学問的なそれはクイズ王なんかの一般的物知りとはちょいと内容が違うんだ。
理系・文系とか肉体派・頭脳派等色々な分類と性質があるが、得意を最大限に発揮するには一定以上の苦手克服が必定を掘り下げた様な代物なんすよ。

次回は分不相応にも博学観念について語っちゃうが、音楽界的にはプロデュース・現代一般社会的にはマネージメント力と言い換えても良いかも知れない。
これの偏りが酷いとアイデアの実現には最も障害になり、素晴らしいアイデアと下らない現実の乖離に苦悩させられる事となるですよ。

=つづく=

2025年1月26日 (日)

音楽備忘録1989 ’70年代Rockの浦島太郎㉓

次なる愚痴!?はテンポと平均音圧についてだが、今迄にも拙ブログでは散々嘆いて来た。
んでまだ語ってない面を綴るとして、強弱バランスに関してざんす。

音楽は比較芸術の側面が強い以上全部フォルテで押し通すのは愚の骨頂で、その根底には人の「慣れ」と疲労がある。
前者は俗に言う「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、耳にだって近似傾向があるんすよ。

但し一部が異なってて喉の過高温には飲むのを止めたり吐き出す手があるものの、耳ではせいぜい手で塞ぐ位しか代替手段が無い。
さりとてそのままじゃ即難聴を発症するんで、大した威力は持たぬも聴神経を無意識下で意図的に鈍化させるのがあるねん。

すると幾ら強さや爆音アピールをしたくとも、聴者に上記を発動させちゃったら無効化しちゃうんすよ。
そこで考慮すべきが隙間が充分あるなら一時的爆音があっても良いが、一瞬の休みも無かったら別の方法で攻めなきゃアカンの。

そのベーシックとしては絶え間ない感じになる程テンポを速くするなら軽く、逆にスカスカになる程遅けりゃ部分的にガツンと入れとかんと意図しなくても退屈な子守歌様になっちまうだよ。
これの前者を体現したのがCountryで、後者はMetalの祖たるHeavy Rockなのだ。

要するに音楽的100%は物理的100%になって無いと思や良く、これを承服出来ない奴は「聴き方」に問題があるんだわ。
自分が関る作品には愛着等が自然と生じるが、音圧や密度の検聴には僅かでもそれが残存してると判断をゆがめちまうの。

もしかしたら若干喧騒かも知れんけど、他がこんなに良い出来栄えなんだから大丈夫だろう。
とか検聴では神経Maxに使ってっから疲れるだけで、気楽に聴けば過負担程には行かんだろうとかさ。

百歩譲ってそう云う側面で補えるとしても、一般聴者は常に好環境下で聴けるとは限らんのどす。
作品のせいじゃなくてもちょっち歪むとかノイジー(背景雑音含む)だとか、作る側では想定し切れない何かしらのお邪魔要素が加わんねん。

この事実が機材各部等殆どの信頼性が低く気紛れ要素のあった内は、特に意識しなくても自然とマージンを配慮出来てたんだけどね。
例えばあそこはリミットにはまだ達してないが聴く際盛大に歪むと嫌だから、少し遠慮しとくかなんてな。

実際レコードの盤質とプレスその他が劣悪だと、テープより更に簡単に音がどんどんバリバリ割れたもんでしてな。
かつて従兄が自作品をシングル1枚だけレコード化した事があったんだが、感覚的にはマスターテープより数倍は歪んだ音になっちまってただよ。

そんな事から数多の障害を受けてもなるべく「心地良さ」が保てるのを第1として、細部の前に骨格を重視した作りになってたんだ。
すると稀な好環境下で聴かれたらポテンシャルが最大には発揮出来んけど、その代わり聴く環境差程音の印象変化はせずに済ませられる訳ですわ。

昔程劣悪環境なのは殆ど無くなったが、近年は良い方がかなり向上してる。
だからってこう云う配慮はまだまだ全く不要にはなって無く、もう少し良い意味での最大公約数を目指せないもんだろうか。

=つづく=

2025年1月25日 (土)

音楽備忘録1988 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑰

前回の流れを受け本日は女性Drummerにフォーカスしてくが、日本は未だしも海外ではかなり昔から凄腕がそこそこ居たんだ。
処が不遜な理由に依って散々持て囃しといて忘却、或は一般の記憶からほぼ抹消されたのが枚挙に暇ないのだ。

人権的に不遜とは言えそんな傾向が中々収まらんのは、芸能の世界では必然の容姿が深く関係してる。
登場時になまじ若く美しいとついその印象が固着し、そこが変容してくと大多数の男性は何時しか眼中に無くなっちゃうんだよ。

こればっかりは動物としての本能が根底にあるんで仕方無いが、腕前も評価してたのに一緒に忘れるってな無責任だよね。
近年欧米ではBassのCarol Kaye等を筆頭に、徐々に再評価され出してんだがね。

この方面でも今劣化本邦はかなり遅れてて、表に出ない男尊女卑のせいで昔に本当はレジェンドでも居場所を与えられなかったからなのかな。
日本人でキチンと記録が残ってるのは主に米で活躍した者だけで、親近感に劣るのが又苦しい処ではある。

が今や庶民レベルでは積年の反動からかとっくに極度の女尊男卑になってるってぇのに、未だ名前程度しか語られてないのに一石を投じてくれたる。
なぁんて実際はそんな大袈裟にしたい訳じゃねえんだが、杜撰大王内では才能や腕前と容姿やキャラは元から別々に評価してたんだ。

その根底には恥かし乍ら無限に湧出する性欲があり、例え才能・腕前はからっきしでも容姿を気に入った女性は自動的に記憶に残っちまってて。
この件で最悪なのは判定基準が曖昧で中途半端な奴で、容姿でノックアウトされたのに何時しか腕や才も中々だったと誤認する連中な。

そんでCarol Kayeは名を馳せ出した時点で既にシンママだったからまだマシで、恐らく現在迄の最大の被害者はKaren Carpenterだ。
当時は世界一進んだ国の米と言えど差別・偏見と保守思想はかなりのもんで、彼女はDrummerの歌手なのが一番凄かったのにさ。

プロダクションは人前ではDrumから引き離し、悪辣な外野は出る杭は打たれる式でデブの田舎者と誹謗中傷。
まあここ迄なら昭和芸能界じゃ万国共通の「有名税」で片付けられてたが、旧態依然保守思想固執の母親が何もかも最後迄認めなかったってなひでえわ。

結局今からすれば拒食症の誤った性急な治療で、それに心臓が対応し切れず早逝しちゃったんだけどね。
私感では上記3つの内どれか1つでも違ったらと感じられ、当時でも最も可能性のあったのが「Drummerの」だと思うんよ。

今回これを綴るに際し改めて「叩いてる動画」を精査した処、従兄が唱える「閉じた柔らかい手」も「小指支点」もとっくにバッチリマスターしてるじゃありませんか。
しかも歌に専心してロクに手元や太鼓に目をやりもしねんだから、こりゃ本当に大したタマですぜ旦那。

担当ディレクタやプロデューサがDrumに少々疎かったか知らんが、こんなのに代役を立てて何とかなるとは到底考えられないんだがね。
強いて擁護するとしたら層の分厚い米だったのが不運で、その時期演ってたのがテクが最小で賄えるPopsだったのもね。

-続く-

2025年1月24日 (金)

音楽備忘録1987 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓰

前回末尾の繋がりで今回は過去作での、良く聴けば不自然・理屈に合わない例から行ってみよう。
流石は何でも大雑把な昔、低音質にかまけて随分といい加減なブレンドが結構されてたんだ。

その1は明らかに違う場所で録ったのを強引に混ぜるで、大ホールLiveでの粗相を後からちっこいスタジオで録ったのに部分的に差し替える等だ。
尤も最上位グレードのになると同じ場所・同じ機材で翌日録り直したのもあったが、如何せん観客の様子が「突如変わる」のを感知されたらバレバレだったけどね。

その2は一定以上に収音方法が異なるのを強引に纏めた代物で、マルチMic発展途上期にはかなり頻繁にみられたヤツ。
どゆ事かってば小柄な楽器や電気楽器は各パートワンポイント収音でも、近接可能な為周辺雑音や残響音は拾わない。

のに大柄な楽器はブースも↑よりゃ広くせざるを得ないのと、Micもそんなに接近させられぬ事からの音場差異が。
特にDrumset等に構えられる本数が少な目だったんで、無響室以外では結構それこそ場違い感があったのよ。

尤もⅡで極限迄各楽器毎に全部近接させると、今度はDrum全体の響きは奏者耳とは大抵掛離れる不自然さを生じるんだけどね。
これは中々デジリバ等でも補償困難で、Drummerと音響技師の両面で秀でてる上機材にも恵まれない限り違和感を払拭出来ない。

その3は繋がりをロクに審査せずの編集で、当時はアナログテープを文字通りホントに随意箇所で切断して繋いでたん。
後期Beatlesみたいに編集を予見して予め繋げ易い編曲・演奏をすれば寛解したが、収録後にプロデューサや技師が勝手に強引に施すと↑になるねん。

コレ専門学校の実習で経験したがそれよりずっと前から既に習得してたんだけど、個人のテープでは再利用時等に不利になるからやらなかった。
ってつまり他人のテープなら平然とバッサリ出来た訳で、場合に依っちゃ人間性や性格を疑われるんだろうけどね。

わ兎も角実習時はなるべく自然な繋がりを命題としてたが、それは主にサウンド面で音楽内容面は従となってたな。
で具体的にどんなのが切り貼りの枷になるかったら、切る寸前の箇所でだけ余韻の長いのが鳴ってたりするケースだ。

無加工であれば次の小節にも余韻は残るのが、突如鳴り止むからおかしくなるん。
別観点ではもうこの時代から音楽家には音響スキルの一部が必要だったとも言え、幾ら演奏だけが上手くても良い録音作品はそれだけじゃ作れなかったん。

ではどれもそんなに不自然さや違和感が目立ったのかってばそうでも無く、低音質にかなり助けられてたとは言え重箱の隅を突く様な真似をしなきゃ容認出来た。
ってか全楽器・全奏者の生音を熟知してる聴者なんて先ず居ないんで、一般的にあの人のはそう云うサウンドと認識してたんだよねえ。

そもそも杜撰大王にしても真のLudwigのサウンドが明確に記憶されたのは、自身で所持して数年経った後でしてん。
何しろ垂涎だが滅多にお目に掛かれなかったし、例え見掛けても昔はおいそれとは試奏なんて申し出られなかったから。

その意味でかつて一趣味者如きと達人プロとの機材差は、今では想像も出来ない位異なってた背景があったんすよ

一概に甲乙付けられるもんでも無いが、何れにしても打込みオンリーでは発生しない案件だ。

今この件で問題となるのは加工済みのに憧れちゃって、それを知らず実演したくなった時だ。
っつう事って次回はアナログテープ録音専売特許的、サウンド変容について綴ってみっべ。

-つづぐ-

2025年1月22日 (水)

音楽備忘録1986 音楽でのアイデアの実現方法⑫

諸事情から天然も人工も足踏みしてるのは分からなくも無いが、その中で杜撰大王が不可解なのは合成に関しての進展の無さだ。
そう感じる発端にボカロがあり、皆さんは日本語での正式呼称をご存じだろうか。

その名は音声合成で殆ど世間には浸透してないが、心臓部たる電子部品にはちゃんと「音声合成LSI」の名が冠されてんだ。
これ今のはデジタル領域でそれが為されてるが、発想自体はかなり古くからあったもんなん。

しかもアナログで電気的に加算するよりずっと昔に、異なる数種の楽器の合奏って形でアンサンブルの技としては寧ろ王道としてさ。
こっから杜撰な推測にはなるが、最初は楽器性能の低さが発端なんじゃないかと考えてんだ。

例えば今のPianoや太鼓はアタックが強烈とは言え、そこそこ余韻も長く鳴ってくれる。
のが100年程度遡ると多くは随分アッサリ鳴り止んでた様で、しかも今だとこの感じなら後何十秒位はって感覚に反して「もう終りかい」みたいな風にね。

片や持続音系のは殆どアタック音が感じられなかったりと、現代に置換したら何枚使っても良いが楽器はCymbalだけで演ってみたいな感じだったんじゃないかな。
その端的例はClassic系オケで、キメの1発だけのCymbalなんてのに残ってるじゃん。

言うなれば音楽の人海戦術と云った処で、生活や各種作業のあらゆる場面で昔の日本なんか得意だったよな。
まあそうは言っても同じ歌手の声のままで広大な音域なんてのは無理で、それを実現したのがボーカロイドではあるんだけどね。

だが真に自由になるのは特定の声色で何でも出来るだけで、俺言い「アーウーChorus」だけでも良いから声質を自由に変えられる方は依然出ていない。
因みに上記俺言いとはBack Chorus等のニーズで、男か女かそれが何人位でどんな声色かなんてケースだ。

零細の場合知り合いを集め様にもその選択肢がかなり限られ、その頻度が低いと薄給では尚更召喚し辛いじゃないすか。
参加する方だって演目の⅓以下しか歌わないんじゃロクに修行にもなんないし、スタイルに合致したとして踊りに自信でも無いと手持無沙汰も良い処になっちまうかんね。

実は杜撰君過去に一度はChorus専属人員を2名程維持してた時期もあって、しかし彼女等の力量に充分応えるだけの楽曲数を編み出せなかった事がありましてん。
それ故未だ正式には解約してないも、正に自然消滅の典型を辿っただよ。

これがStrings系だと真っ赤な偽物にしても名器Solina String Ensembleなんてのが、かなり昔からあるやんか。
楽器屋サイドには何かひた隠しにしてる事情があるか知らんが、どうも21世紀に入ってから世間は音色に無頓着過ぎていけねえよ。

半分は身勝手な意見だが歌詞偏重で文系音楽家だけが持て囃されるのが我慢ならず、ってのも音楽って本来は感性豊かな理系の方が向いてるからなんよ。
だってさぁ言葉だけじゃ表現不可能なのも表現可能なのが、美術や音楽の利点じゃないさ。

=続く=

音楽備忘録1985 ’70年代Rockの浦島太郎㉒

環境が悪いから後進が健全に育たないなんて老害らしからぬ持論を展開すると、もっと上の世代からは何甘い事言ってんだと叱られそうだ。
が先ず正しい位置関係とか重要度を知れねば、その後如何に努力しても中々軌道のズレ修正が困難化するのは明白なのだぁ。

但し手放しで下世代を擁護してる訳じゃ無く、例え過半は老害でもその中にある真実を見抜けず聞き入れないのは容認してまへん。
色々致し方無い面があるとは言え、親方日の丸の発言なら確固たる根拠も無く盲信する処もあるのにさ。

手前味噌体験では学校等の先生の言う事なら何でも訊くのに、両親の言葉は右から左へなんてZ世代が居ったがな。
本来は相手が誰だろうと訊くだけ聞いて覚えといて、じっくり時間を掛けて自身で検証すべきなんだけどね。

神レベルの人は居ても神が誰にでも分かる形で実在しない以上、100%正解や間違いが語られる事は先ずねんですよ。
それと近年の若年世代へ力説しときたいのが、状況次第で正解は変動する方が多い事。

或は基礎国語力の低下等から、そもそもテキストやマニュアルが何者なのか理解不足なのかな。
真摯な製作者はなるべく多様な想定をして書いてるけど、読者が理解可能な範囲に纏めるにはトレードオフの関係にあるし限界がある。

のでドンズバの記述があればそれを指標とすべきも、類似例が皆無の際等は自身で考えて決断しなきゃ駄目なのよ。
これも世代間2極化・分断化の典型例で、逆に年寄りは読む負担が辛いからって全く読まずに携帯ショップなんかへ下らん質問しに行くんじゃどうしようもないがね。

向学の為に何故そんなのが多いかっつうと決して無理由では無く、それだけ昔の取説等には誤植も含め間違いが多かったんだよ。
或は本来この手は両方理解してる所謂文理系が担うべきなのに、ヲタ系理系技師が一般人には到底理解不可な文章を記して勝手に悦に入ってたり…。(それを支持・容認する一部ヲタも共犯)

加えて未だ今劣化本邦での悪癖として、日本語表記にするか外来語由来表記にするかの曖昧さってのがある。
今世間一般では電気を喰らわせると回るアレはモーターと称してるが、電鉄業界等では未だ電動機のままだ。

中には訳ありで別称にしてる場合もあるが、分別の仕方に国内全体での統一指標がねえんだよ。
因みに普段杜撰君がモーターをモータと綴るのは技師の矜持もあるが、少しでも字数をケチりたいからだ。

のでヲタ向けPCパーツのとかだったら業界用語で固めるのも良いが、一般人向けに格好付けたつもりでやれストレージがぁとか言うのはホントはダサいんだ。
少なくとも理解を遅延させる原因には間違いなくなってるし、近年は基礎レベルの解説が個人レベル以外では壊滅的だかんね。

但し同時にそんなのに唯甘んじるだけで居るのも考えもので、元が外国由来の代物だと最初に翻訳する人はどれだけ苦労したか分からんさね。
例えば英語理解の黎明期はまだ辞書なんてありゃしねえから、動作と音声の関係をひたすら観察して関係性を紐解いてたじゃない。

中でも厄介なのが忌避ワード「Fuck」で、識者に真面目に問えば犯すになる。
が実生活では畜生(江戸下町口語:ちきしょー)みたいな場面で米人は頻繁に用い、本来の意味で使われる方がレアケースだ。

-続く-

2025年1月21日 (火)

音楽備忘録1984 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑯

さて聴いた感じよりかなりしっかり演奏してたのは何も歌手だけじゃなく、ポピュラー系の器楽奏者全般に言える。
杜撰君的その筆頭が随時出のRingo Starrで、容姿や残ってる動画の印象だけで多くの者が誤解している。

だが不可解なのはBONZOだってLiveの一部映像以外は、そんなにシャカリキには演ってる様に見えないのに何故判断が2分してるのかな。
っと世間に問えばそりゃ音が違うからじゃんと来るだろうが、いやいやRingoだって同時期の並のDrummerとは一線を画した音を出してたのにこれ如何にでごんす。

実際体格的には真逆に近いが、あのBuddy Richの方が数センチ程Ringoより小柄だったんだがね。
飽く迄私感に過ぎんがDrumsetって体格的に身長では、165㎝以上あればほぼノーハンデになる様だ。

惜しくも杜撰大王は↑に1.5㎝程満たないが、Drumで体格不利を自覚させられるのは胴体(背骨)の長さ不足だけ。
幾ら図々しくても適性面で致命的な問題があったなら、そのパートの楽器になけなしの資金・時間・労力なんか投入出来るかっての。

それ故運や縁もあろうが管楽器には手を出す気にはなれず、師匠(本業sax)を始め身近に持ってる人が居ても触らせてとも思わなかった。
数回だけ子供に強硬に促されてFluteを試し吹きした事があったが、案の定全くそもそも音自体が鳴らせず仕舞いであった。

わ兎も角ここで精査すべきは素手で叩く楽器じゃない処と、久々出「西洋太鼓は速度反応型」な処だ。
これにはBassの方で実体感がテンコ盛りで、コンバスだとピック弾きは先ずしないっつうか普通出来ないかんね。

もしかしたらそれも新鮮かも分からんが、別称「アップライトBass」状態ではエレキ等とは向きが違うからピックを持つの自体が難しい。
さりとて楽器を横倒しにして抱え込めるにはStanley Clarke程度の体格が必須の様で、これはかつて彼のJazzだけ時代の画像だか動画でそんなのがあっただよ。

ってかそもそもそれ迄はコンバスをアコギみたいに構えて弾けるなんて夢にも思って無く、せいぜい奏者が高い椅子に腰掛けられる程度で限界だと考えてたわ。
の様な観点から考察すればDrumに高身長は不要で、体格よりか手脚の速さがある程度以上無いとどんなに力が強くても不向きでんがな。

どうも今劣化本邦では速度とパワーの両面で多くの人が勘違いを正せて無い様で、私感としては非力でも扱えるのでは力等を・剛力を要求されるのでは速度を軽視し過ぎてんじゃないかな。
例えば唐突な比喩だがキムタクや田村正和は所謂高身長では無いが、圧倒的に高身長っぽいイメージを持っている。

多分細身+頭が小さ目+手脚長目だからなんだろうが、容姿端麗要素だけに絞れば幾らデカくたってみっともないのがぎょうさん居るんじゃい。
ってみっともないチビが語れたもんじゃねえが、低身長と悪スタイルはちゃんと別々に自覚してんの。😢

まあ兎に角適切な比較対象が映ってない動画・画像では、楽器に対する体格適性は正しくは判定出来ねえって事った。
それと速度についても単なる解像度等の他に、野球の投球みたいに初速と終速の落差等が大いに考えられる。

Eric Claptonの異名スローハンドなんかが典型の1つで、当時としては音は最速なのに手はゆっくりにしか見えなかった訳だから。
尤も楽器と出音に対する動作に詳しくなれば、↑を見抜くのも不可能じゃないんだけどね。

=つづく=

2025年1月20日 (月)

音楽備忘録1983 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓯

実際影響は小さくないし必須だが又抽象方向へ行き過ぎたんで、例示を含めた具体的な方へ回帰させよう。
そもそも一般と実際の差が生じる原因に限度は無いが、幾つかは起き易い現象に左右されてんだ。

1.マスキング
端的にはチビがノッポのガリがデブの後ろに回り見えなくなる系統だが、俺言い「目立つ倍音」が半分以上重複しても並立・併存は困難化する。
Guitarも鍵盤も煌びやかに行きたいが、精細にバランスを加減してもずくにどっちかが埋没するなんてケースだ。

尤もアナログ録音時代だとこれを魔用して、エレキGuitarとクラビをわざと紛らわしく使ったなんてのもあった。
今だとクラビの超ハイインピーダンスでの早期高域頭打ちを解消させたら、良くも悪くも相違は分かり易くなるかなぁ。

尤もⅡでハイインピに依る変容が大きいからこそ、あああの聴き慣れたクラビだと感じられてるんだけどね。
俺の杜撰な私記憶ではStratoハーフトーンのクリーンとクラビの競演してるのが思い出せず、自身も含めクラビっぽいのの代用に前者を用いる事も少なくないな。

2.違うジャンルで常用されてる楽器の併存
ポピュラー系でもClassic由来のStrings等は良く導入されてるが、本当にClassicのままのダイナミックレンジで演られたらとっても整合性が悪くなる。
音色・表現にはらしさ全開でも演奏自体からダイナミクスはかなり圧縮しないと、出過ぎたり聴こえなくなったりするだよ。

今では極気楽に演られてる様に感じられるが、Rock系での成功にはあのGeorge Martinの築いた方法論や加減のお陰か大きい。
時にはBeatlesの誰か自身がタクトを振ったりしてて、纏まる迄には両者でプチ論議なんかもしてた様だ。

こればっかりは主役と脇役の立場をハッキリさせて、どちらかがどちらかへ全面的に寄り添う姿勢を作らないと厳しい様だ。
のでゲストで呼ぶ場合最高の腕の持ち主より、最高の「協力者」を求めなくてはならない。

3.意図的じゃない音質的時代性の不一致
私感では近年になる程熟慮が要る処で、何故なら大昔はどれも分け隔てなく超Lo-Hiになってたかんね。
これは高音質とか現代性とかの定義にも左右され、幾ら単曲単位で聴かれる事が多くなっても整合性の問題が残ってん。

極論すりゃ全然サウンドが違ったら別人の作品と思われたりするからで、そこ迄差を出すとAが好きな人はBを・Bが好きな人は頑なにAを拒絶なんてのが起きる。
結局は高音質化一辺倒に走らず、自身の曲に合うサウンドを選び抜くのが大切なんじゃないかな。

だがそれこそ
が現実には中々難しく、なまじ何でもアリなだけに全数選んで決定するのがねえ。
サウンドを音色と捉えれば新旧融合は有効だが、音質と解釈すると例えば1発録りなのに期せずしてリモートみたいな感じを与えたりするだよ。

Guitarはひなびた三畳間で弾いてる感じがOrganは大教会堂でみたいな、同一アンサンブルなのにまるで時空が歪んだ様な異空間が…。
更に厄介なのはそれをワープ中の宇宙戦艦ヤマトの船内みたいと容認するのも居りゃ、出入り口が崩落した洞窟様で受容れ難いとかさぁ。

=つづく=

2025年1月19日 (日)

音楽備忘録1982 音楽でのアイデアの実現方法⑪

続いては新音の源泉を人工或は合成のに求めるか、実在音から編み出すかについてだ。
どちらも当然古くから色々挑戦されてるが、先ずは夫々に未だ障害となってる要素を挙げてみるとしよう。

今日日は雨音が欲しけりゃ無料素材を利用するのが手っ取り早いし、生録音の難しさ厳しさから滅多に素材を自前収録するって訳には行かなくなってる。
この件大昔に従兄主導で当時流行った「生録ブーム」に参加してて、俺は彼と違ってロクな機材を持って無かったが趣味の電車の走行音等を録ってみてたんだ。

と書き出すからには自分の期待と実際の結果の乖離り挫折したんだが、私的には車内放送が一番の邪魔になったんだ。
人間には耳に弁別能があるし聴きたい音だけに集中する脳力もあるが、AIなんて言葉すら存在しない当時に機械はそんな都合の良い忖度はしてくれん。

ので自身の記憶にあるイメージの音が良く考えりゃ当り前だったんだが、全然録れなくて大層ガッカリしたんよ。
その敗因はターゲットの音量が左程大きく無く、それ以外の数多の雑音音量がターゲットを凌駕してたからだ。

田舎のローカル線で閑散期に一般客にとっちゃ騒音の激しい車だったら何とかなったかも知れぬが、何時も込み合う路線の静かな電車じゃそらどうにもならん訳だよねえ。
ので自然界の音となるとこの国じゃ人口密度の高いのが仇となって、余計な音が入らない環境は先ず得られない。

実はかつて一時期その界隈では一番山奥の別荘で暮らした事があるんだが、虫や野生動物の声は未だしも1㎞位離れた鉄工所の音が谷間にこだまして音環境的にはちっともムードが無かったりしたのよ。
それ故特に条件無くば、もしかしたらド田舎のポツンと一軒家さん提供の無料素材が好適なんだけどさ。

例えば歌詞に沿って「ハイ、ここから雨脚が一層強まる」なんてのが困難で、最低でも人工若しくは合成音とのハイブリッドに活路を見出すしかないんすよ。
この件に限っちゃ普段は有難くしかない全体の高音質化が恨めしく、昔より随分と騙し難くなっちまった。

ここで誤解無き様説明しとくが、騙すってのは理論便宜上敢えてそう書いたん。
印象に対してのSE(効果音)ってそれが何者かより、聴感上の感覚が遥かに大事なんすよ。

幾らモノホンを用いたってイメージした世界観にならなきゃ明白にアウト、何しろ音だけじゃ微風は兎も角光や水分なんて生成出来ねんだからね。
これが芝居の舞台だったら火と水は使用不可でも、光の具合でまあまあ代用可能。

変にリアルに拘って客席にも実雨が降ろうもんなら、却って観客には迷惑ってもんだ。
特に困るのは場面が変わってカラッカラの日向にしたい時等で、一旦濡れた観客は即座に乾いたりしないかんね。

何れにしても過去の手法が通用し難くなったからって、それが知られ無さ過ぎる様になったのは問題よ。
新開発するにも基礎データを逸失する訳で、天然も合成も駄目じゃ八方塞がりになるんや。

結局こんなのがStrings系・Horn系等、所謂「系」の付く音色の新開発にも影を落としてんじゃね。
それと最近作曲AIなんかが開発され音楽は先ず曲なのは異論を挟む余地無くも、こう音色がずうっと膠着したままじゃあねえ。

一定時間以上聴き続ければ曲も分かるが、瞬間的に数秒聴こえただけで分かるのは音色の方なんだよ。
のでスコア譜販売のみの作曲家ならいざ知らず、具体的な音を付けるヤツって音色も同じ位重要だと思うのよ。

今の杜撰君は齢取って少し歌うのが億劫になってるけど、そもそも歌より音色に執心し出したのは上記理由からなんだ。
歌手の立場としては歌声ってそう簡単には変えられんし、唱法だってそうだ。

のでⅡで少なくとも何か新声・新唱法が完成する迄の間、音色の刷新でお客はんを繋ぎ止めたいんすわ。
わ身勝手な言い分だとしても、音的なインスパイアの材料としての効果は間違い無くあるですよ。

-続く-

2025年1月18日 (土)

音楽備忘録1981 ’70年代Rockの浦島太郎㉑

前回の続き末尾のは包括的に言えば「理想と現実」の一形態で、何時でもどの分野にでも存在する。
のをこの枠で綴るのはそれだけ昔は夢に満ちてた反面、実現方法は全く定まってなんか居なかったからだ。

その一方で今よりずっと将来が安定してる選択肢もあり、国の方策もあった所謂サラリーマンだ。
尤も当時それを信じて従った連中は、今頃老境に至って騙されたと感じてるのも少なくないんだろうがね。

けれど化けの皮が剥がれる迄は理不尽と引換に安定を享受してて、俺等みたいなアウトローはずっと社会から存在を半ば無視されて来てたんだ。
今は壺忖度野郎以外は一様に酷い目を見させられてるが、かつて偽りの安定に異議を唱え続けてた身としては現況はどうにも我慢ならん。

とは言え何れにしても違う価値観の時代を知ってたからこそ、どちらも不平等・理不尽等に抗えるのには違いない。
その点平成以降生まれの人が可哀想なのは、マニュアルに載ってない手段は殆ど効果が無い或は存在しないと思い込まされてるからだ。

この弊害がいよいよ顕著に表れ出したと痛感してて、特に創作・開発・発明等の分野では致命傷なんすよ。
確かに普段の日常生活では成功確率や確実性は大事で、鉄道運転士はレーサーとは違い事故は絶対避けねばならない。

にも拘わらずかつてより安全が気持ち的に軽く考える者が出たりするのは、結局は思考の範囲が狭まってるからじゃないかな。
今時もし咥えタバコでもしようもんなら途端に動画を揚げられ、不評を買い怒られもするだろう。

がそれより怖いのが運転中にスマホやゲームに興じる方で、同列にけしからんとされてる風潮には同意出来ない。
信じられん人も居るだろうが、大昔の電車ってスピードメータが付いてないのも珍しく無かったん。

ではどうやって判断してたかったら、景色や音から把握してたんだ。
レールの継ぎ目で一々ガタンゴトン言わない所謂ロングレールは後年の実用・普及だし、その他の走行に関する音も格段に大きかったからそれでも大体分かったんだ。

のが微弱化した今視覚情報の重要度は段違いに上がってんで、まるで幼子の面倒を見てる際じゃないが「目を切る」ってのの方が断然ヤバくなってんすよ。
ので極論すりゃ目さえ切らず即応出来るなら、何をしてようと大して心配しなくて良いんだけどね。

斯様に各要素毎に重要度は違い更にそれが流動的に変化するのの方が多いんだが、体験巾が狭いと少なくとも実感が持てなくなるだよ。
近々の世間の話題の1つに熊の襲来があるが、現地の苦労をロクに考えもせず殺すのは可哀想なんて無責任発言を平気でする奴等が湧きやがる。

その根底には自然界の厳しさに全く触れてなく知らんからだと思うが、熊さんを目の前にして同じ事を言ってみなっての。
きっとそんな連中はもし銃を持ってたら即座に乱れ撃ちし、助けが遅いだの何だのと騒ぐに違いねえさ。

一方殺処分を已む無く決定する人達は、実際はほぼ即座に射殺なんかしてないのよ。
山中で遠くに見掛けりゃ最警戒こそすれこっちへ向かって来なきゃスルーするのが普通で、そんなのを何十回と繰り返してるのが想像出来ねんだろう。

結局人って実体験しないとモノの程度ってのが掴み難く、豊富な体験の場が損なわれた結果なんじゃないかな。
学校等でクラシックカーを復元するなんてのがその為で、せめて一度はそんなのの何かを漏れ無く全員が体験出来ると良いんだけどな。

-つづく-

2025年1月17日 (金)

音楽備忘録1980 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑮

歌唱自体の真相は別稿に任せるとして、今昔問わず喉のキー(音域)は強弱の印象にかなり影響するもんだ。
個人的に国内男性で高く美しいのにハッキリ逞しさを感じたのはMetal系を除けば小田和正位で、それ以外の皆は声質が細いが故にシャウトしてでさえ何となく軽い。

のが必ずしも悪い訳じゃないが、Rock系の場合だと海外も含めやはりかなり苦労した様だ。
純然たる歌手じゃないがSteve Lukatherにもそんな素振りが感じられ、尤も当時若さにルックスの甘さも加勢して却って女子には大人気になったがね。

がNeil Sedakaを筆頭にその手の個性の持ち主が、手抜きして歌ったらその歌声はもっと脆弱且つ存在感希薄になってたろう。
特にSmokey Robinsonに至っては地声で歌ってても大多数には裏声と誤認されてて、ってこれはレコードヲタの親友からの受け売りで未だ信じ難いんだが。

その方面を徹底的に掘った者の判断なんで多分何かコツがあったんだろうが、残念乍らそれを訊きそびれたまま音信不通になって久しい。
今分かる範囲で想定されるのは国内Live時の声質で、’90年代以降は一部特例を除き大体使用Mic(58系)が統一されてたから他人との比較には好都合だ。

杜撰君がリアル体験で明瞭に記憶に残ってるのはNeil Sedakaだけだが、レコードで聴かれるより遥かに倍音豊富で予想と違って
上出小田和正なんかと同系統の歌唱法だったよ。
さて杜撰大王としての今劣化本邦の声量不足の問題出発点は、デジタルピアノやカラオケのややもすれば過度な普及だと考えとる。

歌い手の自由度・楽さでは好都合だけど、それが独りで楽しむだけなら良かったんだがね。
どんなに駆け出しのアマチュアだろうと、他人に聴いて貰うとなれば↑じゃ大事な条件が欠けちまうだよ。

その最も身近なヒントはご家庭用タイプの楽器音量にあり、最大公約数的ではあるが長年を経て一応最適化されてんすよ。
のでそれより声が大きい分には他の心配をしてりゃ良いが、もし小さかったり足りなかったりしたら見直し必須と分かるのさ。

因みに↑俺言い「最大公約数音量」は非爆音・非プロ歌手のMic不使用時を想定してて、それを同じ部屋に居る俄か観客が聴くってシチュエーションな。
生楽器が基準の内は無意識でもそれが自動発動してたんだが、こんなに各々が好き勝手な音量を選べるようになるとねえ。

せめて腕試しを兼ねてのど自慢大会にでも出てみりゃ少しはそこで気付けるが、不幸な事に既にこの件を分かってる年寄り程参加してんだよね。
又以前述だがそっち系の部活以外では、後ろ向きな喉保護の教育姿勢も大変な間違いだ。

真の喉保護には鍛錬と加減の両方が必須で歌で絶対絶叫しなくったって、思わず興奮して奇声を発した際が対策レスになっとるぞ。
底意地悪く勘繰りゃ果ては教育要綱を定める奴が、ちっとも現実を分かってねえんじゃね。

こんなに教育に錯誤や不足があったんじゃ過去レジェンドを計り違えてても仕方無いが、一介のでも歌手を目指す者は自身で気を付けなきゃ。
何せ壺や米の言いなりで出来てる現行教育って、基本的に使用者・管理者に好都合なサラリーマン専用だからね。

-続く-

2025年1月16日 (木)

音楽備忘録1979 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓮

したっけ恒例の前回補遺に続いて、今度はやらない方が良いのを綴るとしよう。
具体的には普通の歌バックでは少しだけCembalo風になり、サビ部分はアルペジオでGuitarらしくなったんだ。

そのBand「あくび」(名前)は割と粗野で、歌詞は過激・サウンドは割と王道Rockだった。
そこへ曲調が珍しく上品で静かだから空間余裕も欲しかったし、男所帯にもっと珍しく女性ゲストボーカルが入る事となったからだ。

しかもその女性は美声の持ち主だが当時はまだ歌手じゃなく、けれど世間にプロとして認知されてた写真家でね。
それ故普段の荒っぽい感じは到底合わないし、かと言って単に大人しく弾いたのでは他曲に埋没し兼ねない。

で割とすぐに決まりはしたが、一応違うアプローチから色々思案してみたですよ。
それ故今は上記でCembalo風とか語っちゃってるけど、録音時点ではそんな意識は杜撰君にはこれっぽっちも無かったん。

唯アンサンブルに必要な和音と流れを作った結果が、後で他人に説明するとしたらって感じなんすよ。
今は兎も角その頃の杜撰君は鍵盤との奏力差が結構あったが、細々とは時々弾いてたから鍵盤フレーズの概念程度は身に付いてたらしい。

それに対し勝手な外野の妄想に過ぎないけどVan Halenのは、何で鍵盤でなら苦労レスで弾けるフレーズが本職のGuitarじゃ出来ないんだよとでも思ったのが出発点だったんじゃないかな。
彼程のレベルに凡人は先ず到達出来んだろうけど、何某かのVisionを先に持つだけなら幾らでも真似出来る。

それを一々口外なんかしない方が多いから察知し辛いが、前回話しの杜撰君みたいに幸運な偶然を利用する以外では結構大事なポイントなんだ。
稀には弾く方が想像するより上なんて人も居るかも分からんが、普通は脳内のより実演奏の方が力量が劣るもんじゃん。

これって昔メディアの主流がレコードだった時代のレコーディングみたいなもんで、最終段階では必ず削れたり劣化する箇所があるから逆算して収録しとくみたいなもんすよ。
今Remasterする奴が無神経だとへんてこりんなサウンドバランスになってるのがあるが、残されたMasterは↑の分増し盛りしてあったのをそのまま出しちまうからアホなんや。

それって昔の人は雨が降ると分かってても皆傘も持たずに出掛けてたと考えてる様なもんで、んな訳あるかいっての。
映画やTVの時代劇で傘不所持の旅人がそこそこ出て来るのは濡れても平気だからじゃ無くて、諸事情で装備不足だったとか未舗装道路のぬかるみが酷くなってマトモに進めないから雨宿りするしか無かっただけっすわ。

音の事だとつぶさには釈然としないのが少なくないが、何時土砂崩れが起きてもおかしくない峠道に赴く様な真似はしねえべさ。
とてもそうとは思えない国道を酷道なんて揶揄するのがあるが如く、そもそも規制値越えの降雨量になると通行止めで通れなくなるっしょ。

音だと眼に見えないし直ちに駄目とは聴こえなくても、ピッタリ嵌ったって感じにならない位は誰でも何となく感じ取れんじゃね。
時間一杯悩んで最適解が見つからん事もあるだろうけど、そこで追及を止めるならせめて保留にしないとさ。

その心情を黒比喩するならずっと囚われの身で、どうにかして脱獄してやろぞみたいな野心は持ち続けなきゃね。
それには誰のアイデアだからとかエゴったり、ムキになって石頭化すると遠のいてまう。

全くどんなチープなのでも創作って取れ高やタイムリミットと相性最悪なんで、気合や熱意だけで覆せる様なもんじゃ無い。
だが理解した上でなら対処のしようもあるってもんで、そんな時上記の保留にしといたのが役立ったりするん。

=続く=

2025年1月15日 (水)

音楽備忘録1978 音楽でのアイデアの実現方法⑩

プチ前回補遺を挟み、今日は実現させ易いのについて綴ってこう。
楽器又はそれに準ずる音の出る物は、物理的スペック等より俺言い「目立つ倍音」等へ着目せよなのだ。

但しそうは言っても昔より録音等が高音質化したから、許容範囲がだいぶ狭まっちまった。
それ故概実在楽器のEnvelopeを別物化する手法が、かつてよりゃ効果的じゃ無くなってもうた。

特に高域ワイドなのが苦しく、最低でも今迄誰もトライしてないのを探し当てないと厳しいかも知れない。
がそれは長目の減衰音や持続音が欲しけりゃで、音程コントロールも完全じゃなきゃの場合なんだ。

その点昔から幾らでもあったにせよ、パーカッションとしてなら今だって無尽蔵なままなんだ。
それ等の特殊条件としては先ず音程不問が挙げられようが、私的には容姿と音が全く非リンクでも構わないのこそと思ってんだ。

近年ではカホンに着想を得てこれを応用した、皮の張って無い擬似Conga「ラップトップコンガ」が商品化されてる。
杜撰流疑問点に何故打楽器系だけ旧来のまんまで皆気にならないのかってのがあり、最も主流であろうGuitarの4ピースBandではサウンドの最低¼は司ってるってのにさ。

既存の太鼓へ古くはPhaserやFlanger、その後はGate Reverb等駆使する程新しいのを求めてるってのにね。
奇抜な音の太鼓への渇望も近年はすっかり萎えてる感じで、いい加減でここへもメスを入れるべきなんじゃないかな。

老害と迄は行かずとも変な苦言を呈すと物議を醸すだろうが、この部分でもBeatlesは実に公平だったっすよ。
非楽器アイテムを楽器として利用するのも常態化してたのに、効果音等とボーダーレスだったせいで皆失念してるのかな。

彼等には長年そこそこヲタな杜撰君でさえ未だに正体不明のも少なくない位で、アフターBeatlesのも含めると作品数が膨大なだけに死ぬまでに全解明出来る自信なんて到底持てんすわ。
但しその「変な音」の記憶はどれも鮮明で、それがした途端にあの曲だと即座に反応してる。

のわ恐らく曲に対して最もフィットするのを選んでたからで、どの楽器かよりどの曲にどんな音かの方が大切なのを暗示してるんじゃないかな。
そんなのを実現するには何でも音がする物はストックしといて、何時でもいざって時にすぐ出せる様にしてるんだろうね。

そのなののとっかかりみたいなのは実は誰でも幼少時等に体験してるもんで、事後検証しても理由は判然としないが何故かその時は少し固執したなんてのがあるっしょ。
そんなのの端的例として都営浅草線の過去車両5300形には、異質で煩い走行音と車体色に因んで「白い悪魔」なんて異名が付いたなんてのがある。

冷静に考えると大事故を起こしたとか全然無いんだが、その音がまるで悪魔の咆哮みたいだと誰か想像力の豊かな人が感じたのに端を発してる様だ。
こう云うのって幼稚とも安易とも言えなくないんだけど、どう使うかに依っちゃコロンブスの卵に化けるだよ。

音楽ではその手の想像力が創造力に直結する事も少なくなく、それこそ感性が要求される場面なんすよ。
打楽器奏者の方もし普段はそんな風に感じてるのに、体裁とかを気にして録音時等に提案しないでいたら勿体無いよ。

実際採用確率は高くないだろうけど、何が功を奏すか分かりまへんのやで。
加えて電子鍵盤奏者等の方最早旧態依然の手法ではあるが、そんなのをサンプリングして音程を与えてやれるのは今でも他パートには無い特権ですぜ。

-続く-

2025年1月14日 (火)

音楽備忘録1977 ’70年代Rockの浦島太郎⓴

さて前回末尾「歌うのと作るのが同一人物の時だけより周到に立ち回れる利点」の続きで、そう言いつつも杜撰大王は実際には理想との狭間でかなり葛藤があった。
Hard系や俺言い「女子供ウケ」路線で行きたい場合、やはり歌は少しでもハイトーンな方が好ましいとかあるじゃん。

実はコレ過去レジェンドでも少なからず抱えてた問題で、録音とLiveでは歌が相当異なるなんてのがザラにある。
絶対安全圏を守るには加齢劣化後も想定してマージンを取っとくと良いだろうが、上り坂の若い日々からあまりに守りに入っては声域拡張を阻害する。

し何より迫真の緊迫感が中々得られず、何故か今一説得力・訴求力を欠くものとなってしまいそいうだ。
表現力には技や技術が必要だが、100%演技(つまり嘘っぱち)では楽する分のデメリットが確実に存在するん。

但しRock等でのこのニーズって要はその時の限界に迫る姿とかなんで、必ずしも一般論での高い音程とかが重要な訳じゃない。
例えばオカルトチックなMetal系なら断末魔的ボイス等のニーズがあるが、それが小動物のか恐竜のか迄常に指定があるもんじゃない。

そのヒントは娘っ子の悲鳴にあり、非日常感が一定を越せれば取敢えずは事足りるんすよ。
一寸シュールだがわざと自分自身をビックリさせて、その時どんな声が上がるのか試してみるのも一興だ。

杜撰君みたいにすぐエキサイトする奴だったら豊富な経験から選べるが、常時冷静沈着な人なんかだとそうでもしないと中々自分の本当の素にはお目に掛かれないかも。
で選べると言ったのは1発で喉を荒らす様なのは不向きだからで、その点娘っ子の悲鳴は殆どエンドレスに出せるんだから見上げたもんだ。

その原因は恐らく裏声になる事が多いからだろうが、何故か残念乍ら現況それを因みに活用してる歌手が殆ど居ないな。
って何が言いたいかったらそんな女性の方が、裏声シャウトが男より格段に上達しそうだからさ。

わ兎も角私体験からは体質等に依って、地声シャウトか裏声シャウトかどっちかが誰でも優位性を持ってんだ。
それ一般傾向としてはプラス喉のキーの高目の人は上記前者、低目の人は後者がどうやら向いてるらしい。

更には過去日本特有の事例だが歌謡曲を筆頭にポピュラーソングで男の歌手が裏声使うのが嫌われてて、技術的稚拙さもあったろうがすぐに本当はあいつオカマかなんてディスられちゃって。
のが近年では完全払拭されてるから、地声だけが自分の声域と考えるのはナンセンスになって来た。

但し米黒人なんかと比べるとかなり技術的に劣勢のままで、一度は本格的にPrince等の完コピをやらなきゃ駄目だけどね。
わ兎も角Ⅱでもし今歌唱音域拡張真っ只中だったとしても、せいぜい作る際は高い方も低い方も調子が悪い時でも出る音程程度にしといた方が良いだろう。

それが嫌なら思い切って他人に歌って貰う覚悟をすべきで、さもなくば十中八九永遠に見果てぬ夢と化す公算が高い。
ってのも曲視点では自分で歌えないのばかりが増えて行き、折角歌唱と両方出来るのに実際はどっちか片方を選ばなきゃならなくなったりするからだ。

俺知りであまりにも典型パターンなんで又もや従兄に生贄になって貰えば、彼の作曲家の顔と演奏家では得意や好みが少しズレちゃってんすよ。
その意味で杜撰大王視点では持てる才能や実力を未だフルに発揮出来て居らず、これが解消してたらもっと大成してたかもと思うのよ。

=続く=

2025年1月13日 (月)

音楽備忘録1976 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑭

さて前回からの過去歌手案件、特に既に亡くなった人達の判定には注意が要る。
その中で実聴不可ってのは言われてる程凄くなかった可能性だってあるが、逆も又真なりなのを忘れると大変ざます。

少なくとも検証困難な箇所については両面から公平に見るべきで、その中で今回のテーマは声色の印象の細い・弱い・優しい・穏やか等だ。
と言いつつ杜撰大王はそっち系の興味が弱目なんで、そんなにリアル体験はしてないのは何なんだけどさ。

だがその少ない中からでも糸口となってるのは、歌唱ピークの刺激度なんだ。
一口に歌声が大きいってもタイプが色々あるもんで、杜撰君自身一応の完成をする迄はピークとか母音だけが強いとかが多かったん。

要するにアベレージの声量は全然で、苦し紛れで瞬間的にだけ大きく出してたんすよ。
その段階では必然的に大声を出し難い発音のは小さいままで、爆音内でだと時々は歌声が聴こえたって按配だった。

至極当然乍らその状況では聴者が歌詞を把握するのは一苦労で、良く聴こえない箇所は想像力で補って貰う事となる。(なんて他力本願なんだッ!!)
そうすると地の感覚が近い人は正しく理解してくれるけど、そうじゃない人は誤解したり誤信してたりがあったんだ。

そう云う面で過去レジェンドには誰でも楽に聴けたって事実があり、その主因は歌の一番弱くなる・小さくなる箇所も良く聴き取れたからっすよ。
その裏には昔程無駄な刺激を求められてなかったのもあろうが、Micや放送機器その他のダイナミックレンジが狭かったから無理ゲーでしかなかったってのも想い出さんとね。

生で全然平気な小さい方は雑音に掻き消されたり拾い切れて無かったり、大き目な方は歪んだり潰れたり。
それが音色が変わるレベルならジャンル次第じゃ演出だと誤魔化せもするが、最良のでも元が今比だと低音質なんだからもう音楽音の形を保ててないんよ。

強いて現代で近いのったら歪ませたエレキGuitarで、音量表現の半分以上を音色で代替えしてるっしょ。
それって感覚では静かと感じたのが実際は静かっぽいだけなんだが、そこそこ背景雑音のある環境下では却って全部聴き取れて都合が良かったり。

それってⅡで一般大衆生活圏の日常で、基本的には相手を選ばないポピュラー系では元々向いてるんだ。
更には人耳の性質や感性の影響も加わって、物理的なリニアは人間様にとっちゃ全然リニアに感じられねんだ。

これの実験の1つに正弦波の音量だけ変えてどう聴こえるか試すのがあり、音量しか弄らなくても大抵は多小音色も変化した様に聴こえるってのがね。
んな事ぁ無いぞなあーた「音量だけ変えます」と先に知ってるからそう思い込まされてるだけで、音色だけ変えますと告げられてたらきっと密かに両方弄ったと感じるから。

尤も厳密には完全に音量だけ変化させられる再生装置が存在しないんだが、それを割引いても耳感度自体が音量次第で結構変化してるからなんすよ。(つまり僅かには違って聴こえた人の方が健康体)
又平均音圧高めのRock等のジャンルではかつての歌だけ主役のと違って、わざわざ邪魔はしないにしても伴奏は常に大き目になる。

対極にある物静かな弾き語りFolkだったら伴奏は最大でも歌の半分程度の音量なのが、Lead Guitarとのダブル主役とかになれば平気でしばしばイーブンになる。
それ故歌は最大音量より最小音量時にどれだけ出せてるかが大問題になり、例外時以外飽く迄聴こえる限りで最小じゃなくちゃなんないんだよ。

-続く-

2025年1月12日 (日)

音楽備忘録1975 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓭

そもそも聴く環境次第で色々に聴こえたりするもんだが、年々視覚と聴覚の非リンクが進んでる。
一般人に対してのその顕著な始まりは映像と音声の別録りだろうが、それだけで済みゃ比較的傾向があったからそんなに解析するのは難しく無かったんだけどね。

その後Effector類の俺言い「不適切使用」のお陰で、滅茶苦茶になってもうただよ。
たまの意外性なら許せたが、是又俺言い「絶対バレない嘘」には新たな弊害があるんすよ。

無理が通れば道理が引っ込むとは良く言ったもんで、場所や形は年毎に移れど正に不死鳥ですわ。
そこで想像と全く違っても良いのと悪いのを私的に仕分けしてみるが、何で奏でたかが不問なものは前者に該当する。

自前過去体験では本来鍵盤が欲しかったがLive Bandのメンバーに鍵盤奏者不在だったから、Live時は録音作品程騙せなくなったとしてもGuitarで代用した。
いやそれがね俺がGuitarを弾かなくて済みゃ、単にお得意の随時パートチェンジするだけで良かったんだけどさ。

そのグループではGuitarとBassが基盤のアンサンブルだったんで、その2つは絶対に休暇が貰えんかったんよ。
遅れて入ったり途中で抜けたり…は勿論あったんだが、1曲中未登場って訳には行かなかってん。

ハッキリ暴露すりゃ4人中Guitar・BassとVocal(Guitar)・Drumsの間にかなりの奏力差があったし、前者は本来マルチだったが後者は自パートのみで精一杯だったんだ。
のでGuitarが1本で構わなくて鍵盤が簡単な白玉とかなら可能性はあったんだけど、終ぞそう云う編曲がフィットする曲は出なかっただよ。

それともう2つ重要だったのがたまたま杜撰君はしばしば鍵盤も弾いてたから、鍵盤特有のフレーズとか表現方法を大体一通り知ってたってのもね。
で残りはそれを再現するのに当時は今より拙い乍らも、指で弾けたからこその営団…もとい英断だったんだ。

こう云う裏技杜撰大王だって最初から出来た訳じゃ無く、Liveで生ピの弾き語り等を経て10年以上後になってからっすよ。
そして何より当初から鍵盤っぽくする意図なんか全く無くて、単にアレンジを思案してたら結果的にそうなっただけなん。

何れにしても多方面の情況からの選択で、こう云う際はGuitarらしさが全然出なくったって問題無い。
がもしGuitaristがわざわざ大して上手くも無いKeyboardへ移ったとか、曲にフィットしないのに目先を変えたいだけで演ったりしたらブチ壊しだ。

この件で興味深い一例外がVan HalenのJumpで、Guitarでタッピングが自在なせいかSyntheを弾いてもその効果は音色だけに留まっている。
杜撰大王ですから何回か聴く迄は気付かなかったが、フレージングが普段のGuitarの時と殆ど一緒。😃

彼は正規にピアノを習ってて恐らくGuitarより先に好きに弾けてたんだろうが、要するに作編曲家として彼のアプローチ・フレーズがああって事なんだろうね。
それからすりゃ杜撰君の裏技は1枚上手と自慢もしたくなるが、実際は弾いてみたら鍵盤ぽく聴こえただけ。

加えてCountryやJazzが第一線から退いてるから珍しくなっただけで、詳細に調べたらきっと過去に既に鍵盤っぽい音色のGuitarって多分あっただろう。
強いて擁護すりゃ現代音質下で実行した位だが、音色としては一応新種なのかなと思ってる。

-つづく-

2025年1月11日 (土)

音楽備忘録1974 音楽でのアイデアの実現方法⑨

さてさて又々余談から入るが、老人大国となった今もしかしたら耳よりな話しから参ろう。
本項前回末尾で「還暦以上世代の平均可聴限界 は12kHz」と吐露したが、そうなると音楽も含めた世の中に存在する音はどんな風に聴こえるのかだ。

視覚にしても聴覚にしても個人の感覚だから、きっと千差万別であらゆるパターンがあるんだろうな。
けど物凄く大雑把に言えば、本人意識としてはあまりそうなる以前と変わり映えしない。

ってのが少なくとも杜撰大王の感想で、特殊な音を除けばざんす。
ではその特殊っつうのはってぇとブラウン管の動作音とか所謂モスキート音等、他の周波数帯域を伴わない超高音だ。

但しその帯域の耳感度が著しく低下したのみで、現状杜撰君の場合は爆音になればまだ少しは聴こえてんだ。
何れは完全Cut Offされる日が訪れるやも知れぬが、昔想像してたのとは一寸違ったよ。

現実にはあり得ないけど目の前でも高周波で悪口言われたら、全く聴こえなくって無反応みたいになるかと思ってたんだ。
極論すれば例えば両方鳴らしてるのに、Cymbalだけ聴こえなくなって太鼓ばっか聴こえるとかさ。

処がそんな事は全く起らず、音楽や楽器の音色等は何等変化無く何時ものままに聴こえたん。
ほんでこの体験が新音色開発の1つのヒントになりそうで、耳の加齢劣化をアンサンブルの過酷度に置き換えて考えるのもアリかと思ったんよ。

逞しいにせよ高音質にせよ楽曲やアンサンブルに最適化された音色って、そうじゃないのと比べると断然印象が激変したりなんかしないじゃん。
特にそこそこ昔に発明された音色なんかがそうで、出てる周波数の上下が記録では明らかに削れてる筈なのに印象の代表的部分は変わらない。

厳密にはほぼ生耳でしか充分には堪能出来ない部分だってあるんだが、その領域になると現行音響システムですらあんまり再現出来てないし。
ってかそもそもあらゆるLiveで理想の音色を再現するのが至難で、俺知りで最も頑張っててBrian May辺りで限界かねえ。

’70年代当時でも最早大舞台用では無くなってたVOX AC-30に固執して、必要台数を並列接続して使ってたん。
因みにこの方法の制約は33W単位でしか音圧調節出来ない処で、比較的早期に大舞台に恵まれたから助かってたんだ。

もし33Wでは不足だが66Wでは過多とかだったら、ゴリ押そうにも不可能だったんだよ。
出力音圧ってW数とリニアな変化じゃ無く倍々ゲーム
で、その結果小さ目の方でAmp最大出力依存の音量調整は困難を極めるだよ。

わ兎も角1に資金2に手間や輸送も大いに影響するから、仮に↑案件をクリアしてもおいそれと誰もが真似なんか出来ねんだ。
只そんでも電気楽器はマシな口で、爆音スタイルのDrumなんかだともっとてえへんなのだ。

特に今はOld Type Ludwigが主流じゃないから、サイズが変わってもほぼ同じ音色ってのがかなり難しくなっちゃったよ。
因みにⅡでかつてマイセット購入で24か22かで迷った際、カノウプスの神店員から殆ど最大音量が違うだけと教えられ実際その通りでしてな。

それ故音色って必ずしも音響や物理とはリンクしてないもんで、これを忘れて開発しても実用に堪えないのが少なくないんすよ。
スペックより実聴感、その上色んな環境下で変容の少ないのの中から抽出するのがコツなんじゃない?

-続く-

2025年1月10日 (金)

音楽備忘録1973 ’70年代Rockの浦島太郎⓳

唱法に依る一般感覚と結果の相違多分?!3回目は、恐らく今最も気にされてるであろう声質との関係ざんす。
歌の楽しみ方って大昔は「それでは皆さんご一緒に」が主流だったのが、スマホ普及等で独りきりで聴く方がデフォになってるのかな。

それプラス音響機器のアシスト量が激増可になったのと相まって、物静かな会話時や耳元で囁く時の声質をより身近に感じる様になったか。
歌なのにそんな声質ってかつては不可能だったから、その点でも新鮮味や現代感覚に合ってるかも知れない。

んがてっきり殆どのが裏声だと思ったSmokey Robinsonや白木みのるのが、実際は地声だったみたいなのが糸口になるんすよ。
ほいから会話時に声の音程が低く太いと感じられる人にも大別して2タイプあって、ホントにそう云う声質の持ち主なのの他に演出(本人自覚の有無不問)のせいでそう聴こえてるのもあるん。

コレ大正以前生まれの日本男性(所謂戦前世代)では結構普通で、男の威厳を誇張すべく…あっ今なら北朝鮮の名物おばちゃんアナウンサーが何時もそんな声でやってるよね。
で前者はそうするのが男らしさの1つとか思い込んじゃってたから、オッサンになる頃にはスッカリ板に付いちゃってて虚を突かれた時以外はずっとそんな声質を維持してたん。

のを昔の喜劇映画なんかじゃ意識的に利用して、容姿に不似合な力無い奇声を突如発して大衆を笑かしてたっけか。(現在その残像が僅かに明石家さんまに!?)
一方女性の猫撫で声等は、営業方面では絶賛現役続行中だ。

となると営業時にしか会わない人には薄々気付き乍らも、取敢えずだった筈の高く可愛らしい声色が何時しか代名詞よろしく刷り込まれてるよね。
この様に普段耳にするその人的に素だと思ってた声質が、必ずしもそうとは限らんのどす。

にも拘らず判別を付け辛いのは、たまに素の声質でそんな人も居るからなんだよ。
この事自体は本人の内心を別として普段は一々感知すべき程のもんじゃねえが、誰かの声に憧れてそれを歌唱に取り入れる際は深掘り研究せんと危ねんですよ。

まあまあ太い声と思ってたミュージカル役者が、トーク番組で静々と語ったら全然違ったとかあるやんか。
そう云や近頃の若い女性で仕事モードでは勇ましくオフモードではか弱っぽいとか、インフルエンサーの過半数はその逆だとかさ。

最終的には人工だろうと天然だろうと狙った声色が得られりゃ良いんだが、そこに至るプロセスを誤ると最悪は喉等をぶっ壊しちまうん。
残念乍ら人体的物理特性上大声量で可愛い・か弱い声質とか、極小声量で図太い・滑らかな声質ってのは原理的に出せんのどす。

それ故トウシロウから歌手になれる前段階で、声質を憧れの中から選ぶ時点で知恵が必要なんざます。
素の喉よりマトモに歌えば太目・強目になるのが至極当然なんで、然るべき逆算をせなアカンのよ。

音域に関しても大抵は会話:歌唱では、実用音域がやはり少し上へシフトする。
ので例えば自室で渋く弾き語りして作ったのを、Bandへそのま持込むと歌が埋もれて全然目立たなくなったりがある。

ならばと相対音感優性者は安易に移調したりするが、絶対音感優性者にしてみりゃ雰囲気が初期イメージから掛離れて凡庸に劣化したとか感じちまう。
それを避けるには本番時の自身の歌唱の美味しい領域を用いて作るべきで、歌うのと作るのが同一人物の時だけより周到に立ち回れる利点があるん。

-続く-

2025年1月 9日 (木)

音楽備忘録1972 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑬

再び隅っこ掘り再開の始めはかなりぼやけたお題となるが、過去の歌手についてだ。
その中で先ずは屈強には聴こえない方々の実情で、随時頻吠えの如くそんな人達でも実際はかなり大声を出してた件でやんす。

いきなり遠回りな入り方になるがこないだ従兄の処でもYMOの事を話題にしてたが、機械演奏っぽく聴こえて実際は殆ど全部人力演奏されたのと似てんねん。
現代で最もそんなのが残存してるのが芝居の生舞台で、近頃じゃ大して広くも無いのに遂にピンMicなんか仕込んじまってるがね。

それでもミュージカル系の役者を中心に、普通の会話シーンでもかなり大きな声を出してるね。
尤も近年はそれが普段の生活との距離感が広大になったせいか、完全には演じ切れず心なしか大袈裟な発音でキツイ感じに聴こえるのは全く残念だわい。

今時は何でもかんでも明瞭度一択忖度時代だからにしても、おぬし等皆矢沢組の者なんかってな按配だ。
↑は日本語でのRock歌唱に最適化を図るべく、永ちゃんが編み出したわざと子音を強調する唱法の事や。

もしヤンキー集団の物語だったらまだセーフだったが、物静かな人物のセリフ迄があんなじゃ不自然極まり無いっての。
その根底には大きな声を継続的に出すのが、昔の人より慣れて無くて下手になったからかも知れない。

それに加えて離れた人に「普通の感じの声」で話す機会とか、少し騒々しい環境下で相手を刺激せぬ様に穏やかな口調で話すとかね。
日常生活でそんな場面が滅多に訪れないとなりゃ、発声方法に関してはかなり影響があるんじゃないかな。

ので若い世代程マスターするのにきっと苦労はするだろうが、声量と声色って元来はかなり独立してコントロール出来るもんなんすよ。
過去述重複になるけど内緒話での驚いた時の声真似なんかが好例で、極力声量を上げずにパニクった様な声色をシミュレートしてんじゃない。

まあそれをRockの実舞台で使った日にゃあべこべだが、そんな事ってあるんだと思えないと過去歌手の実態をも誤認するだよ。
私感ではあるがかのRoy Orbisonこっちから殆ど目が見えないグラサン掛けててチョイ悪風だが、ずっと続く細かいビブラートと相まってか生まれたばかりの小鹿が初めて立つ的な感じにしか聴こえんのよね。

他にも俺達言い「女子供ウケ」系の甘く高い声の男性は、何かか細かったり非力な感じを受けたりもするよね。
でも昔の低感度Micのすぐ傍で生伴奏してた訳だから、本当に今劣化本邦感覚の聴感そのままの声量だったら全然聴こえる訳ゃねえんですよ。

つまり現代固有の常識のみで過去を判断するのが愚で、先ずはそんな処に気付けないとお話しにならんのどす。
この点で近年の常時生伴奏は伴わないメジャーアイドル系は罪で、尚且つ口パクしてる映像なんか全く参考にしちゃ駄目なのよ。

仮にレコーディングではそこそこ歌えてたとして、同時に踊ったりにこやかな表情をするのは多分そんな奴等には無理だから。
尤も唯のアイドルに歌唱力は必須ではないんで、提供する側より受け手が気を付けるべき問題なんだけどね。

-続く-

2025年1月 8日 (水)

音楽備忘録1971 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓬

続いては「慣れる迄大変」なのを論じてくが、先ずは非日常的な爆音だ。
併せて「聴く場所」次第で、かなり異なって聴こえる件も。

近年でこそ一部レジャー施設等のお陰で一般人も爆音環境に触れられる様になったが、かつての殆どの爆音は一部ヲタ以外には仕方無く浴びてた代物だったのだ。
確かに大音響自体には今よりちったあ耐性があったやも知れんが、一般家庭やカーステレオ等の脆弱な最大音量がそれを示している。

日本より平均的距離感の遠かった欧米でさえ、すべからくBeatlesやStonesの隆盛迄100Wに達するエレキAmpさえ未登場だった位だ。
彼等当時としてはニュータイプのインフルエンサーが流行る迄、音楽を聴こうってのに幾ら興奮しようと絶叫するなんてアホだかんね。

Classicのコンサートみたいに大勢が一斉に大人しくするのは例外にしても、「良く聴きたいなら静かにする」のが世間の常識だったん。
んがその頃でさえ奏者の耳にはPA未普及等もあって、既に非日常的な爆音になってたんだ。

その様な爆音に晒されれば当然従来の「普通の音色」では無くなってるが、一般聴者は知る由もない代物であった。
そして奏者にどう聴こえてると観客にはどう聴こえるかに詳しくなるのも腕の内で、杜撰君師匠言い「トーン派」にとっちゃそこが死活案件ですらあったん。

管楽器奏者だった彼の音色って眼前で聴いても良かったが、真価が分かるのは遠く離れて洩れ聴こえて来た時だったよ。
この際は生での調整だったがTV等でのOn Mic時には、多分過去述Eric Claptonのウーマントーンみたいにそれ用の異なる手法を持っていただろう。(楽器本体迄行かなくても適したリードに交換位は常識だったのかな?)

わ兎も角音量次第で違って聴こえる原因は、主に所謂マスキング効果の発生と人耳感度周波数特性の流動性に依る。
前者は充分可聴音圧に達してるのに、それよりもっと大きいのに隠されるヤツだ。
小柄な岡村隆史の前席に大谷翔平みたいなのに座られたら、前方視界がかなり広範に遮られる様なもん。

尚且つ許容限界音圧に近付く程微かに入ってる認知出来たレベルのなんかが分からなくなり、最終的には実際出てる音の目立つどれかたった1つしか認知不可になる。
そんでこれは単に音量の大小だけじゃなく、それ以上に音色が異なって聴こえるのだ。

PAの目覚ましく発達した現代でさえ、客席ポジションの何処でも同じ音なんて殆ど達成されてない。
ので見るのがメインか聴くのがメインか次第で、適正位置が変わるんよ。

上記の如く音量がかなり違えば、感覚的のみならず物理的にも実際に同じ物が違って聴こえてるん。
そんでⅡで今ん処この件は膨大な体験をして覚えてくしか無く、どんなに机上理論に詳しくなろうと僅かな助力にしかなってくれんのどす。

リアル現場には到底想像出来ない様な要素の干渉があり、超級打者でさえ初対戦の投手なら球種を読む程度で限界なのと同じ。
実際に思い通り打ち返すには直球ならどれだけホップするのか垂れるのか、変化球でも実際の「程度」は実に多様だかんね。

しかも風に強い弱いや湿度その他での変化量も千差万別なんで、コンスタントに3割ヒットに出来たら凄いっつう訳。
それと比し音の方は更に四角や三角の球だって来る様なもんだから、「現場調整」レスなら成功確率はきっと0割3分位迄落込むよ。

-続く-

2025年1月 7日 (火)

音楽備忘録1970 音楽でのアイデアの実現方法⑧

前回語りの件デジタル化とサンプラーの登場以降停滞中の課題と考えてて、Guitar系Bandの既存のサウンドを幾ら盛った処で質が違うん。
そのヒントはアナログ録音・生演奏時代の過去名作にあり、今基準では所詮中域の域を出てないんだけどね。

その頃はどんな楽器も一様に実際より籠らされてた訳だが、それでもある傾向があったんだ。
恐ろしく反応のトロい機材だったんでアタック音やそれに付随した高域は全然拾えなかったけど、それと比べたら持続音系のは少しは拾えてたんすよ。

幾ら昔はメディアを通すと低音質だったっても、AMラジオやTV等とレコードにはかなり昔からそれなりの差はちゃんとあったん。
それが主に上記の箇所で、だからレコードではプアなプレーヤじゃなきゃずっと籠りっぱって訳じゃ無かったん。

でその正体はったらロングトーンならBrass系もそこそこ貢献してたが、最もそれを司ってたのはStrings等の擦弦系だ。
コレ単純に高域の出具合だけに耳を傾けてると気付き難いが、どれだけ太さや厚みをちゃんと録れてるかと注聴すると殆ど高域(昔基準のですが💦)しか拾えてねんですよ。

因みに疑問な方へその秘密を暴露しとくと当時のに限っちゃ、太いだの分厚いだのの印象を与えてたのはほぼ残響の仕業なんだ。
勿論始めっからそれも込みのオケサウンドではあるんだが、生では艶やかに響き渡ってる高域だけが録り込み損ねてたんすよ。

そんなの怪我の功名か偶然の産物でしか無かったんだろうが、アンサンブルでの低中高域のバランスに対しての効果は結構大きかったん。
それ故籠ってるなりにも閉塞感とかがかなり緩和されてて、実際には相当狭い周波数帯域にどの楽器も押し込まれてたのに一応「普通な感じ」で聴けてたんだ。

但しここからが今と全然違って全部が中域に集中してる分マスキング発生が殆ど避けられず、かなり大胆なバランスとしても他に誰か居ると居ないとではその影響が大きかった。
って元々録らなくったって悪環境下では似た様なもんで、それ故俺言い「純生時代」に登場した生楽器は是又俺言い「目立つ倍音」を意図的に棲み分けさせて対処してたん。

そんで被ってる帯域に関しては他の誰も出してない時ゃ擦弦系のが聴こえるが、それ以外の時は目立つ倍音だけ聴こえてりゃ良いって作戦だった訳だ。
実はこの傾向ってどんなに高音質化しても不変で、けれど目立つ倍音の帯域は登場の新しい楽器程上へシフトする傾向がある。

最大理由は単に録れる様に出せる様になったからも、それと同じ位以前からある楽器との輻輳を避ける意味もあるんじゃないかな。
処がドッコイ人耳性能はほぼ進化なんかしてねんで、音楽っつう枠内で考えるとかつて期待した程は全然有効周波数帯域は広がって無かったんだよ。

そこでかつてより以上に重要となって来るのは、物理的特性より聴感での高域の豊富さなんじゃないかな。
実際は高域限界が思いの外低かったクラビ、中低域が痩せてる対比で如何にもBrightな印象を与えてんじゃん。

因みにⅡで流石にJazz Bigband登場期の録音は上はせいぜい4kHz程度だったが、少なくとも戦後は12kHz位迄には伸びてた。
でこの12kHzって恐ろしい事に還暦世代の平均可聴限界で、つまり最高でもそれ以下の周波数で勝負しないと年寄りには殆ど感知して貰えんという…。

=続く=

2025年1月 6日 (月)

音楽備忘録1969 ’70年代Rockの浦島太郎⓲

唱法に依る一般感覚と結果の相違を続けるが、皆は発声方法の違いで声域が増減するのを充分知ってるだろうか。
若干偏見めいてるかも分からんが、昔の人なら全然気付かない人は先ず居なかったんだけどね。

それは観光バス・お座敷でのプチ演芸機会等々の環境差が影響してるらしく、昭和の途中迄はそんな場面ではMicなんか用意されてなかったんだ。(小規模宴会は個人宅での開催の方が断然多かった)
その頃のMic必須基準が講堂とか50〜100人規模が境界域で、素人が大声出しても全員が聴き取れるか位を目安にしてたんよ。

私的にはカラオケの罪も大きいが、普通の居室より狭くても必ずMicを使うなんてホンマはイカレとるんやで。
そりゃエコーとか掛けるのにはMicで拾う必要はあるが、地声だけで充分聴こえるのにわざわざ拡声器を使う訳だからねえ。

まあ時流もあるからそれは兎も角としても下手にセーブして歌うと、ポテンシャル的には出せる声域の上の方が3〜6音は出なくなって損してるんすよ。
杜撰大王はそれが枷で未だカラオケは足が遠のき気味で、得意の高音域を出そうとするとMic不使用でも狭小カラオケで一般人相手には爆音になるから自粛してるのだ。

それだって正規のオペラ歌手の半分程度たと思うんだが、何しろ世間の声量基準がかなり小さい方にシフトしてるからねえ。
もう少しわざわざ誰かの前で歌う癖に、出せるのに小さい声で歌うのは恥と世間が思ってくれりゃ良いんだがね。

わ兎も角Ⅱで少なくとも歌唱発声法をマスターしてたら、狭小カラオケじゃうるさくてMicを使う気になんか中々なれないもんなんすよ。
今劣化本邦の劣悪環境下では「普通の歌唱」=「鼻歌の音量」が誤ってデフォとなってて、確かに独り部屋で口ずさんで隣室に迷惑掛からん様にするとそんなのが相応しいわな。

のでそんな感じに聴こえた方がより生活密着度も高いだろうが、正規の音楽の現場ではそんなじゃ様々な不都合が生じるの。
声量以外にも肉体的フルには歌わないとなると、大抵は口の開きが矮小化したりで明瞭度は落ちるし遠鳴りもしなくなる。

自分だけに分かって誰にも聴かせないつもりならそれも結構だが、どんなに近くの人でも自身の口から耳よりゃ何倍かの距離になってんすよ。
でそれが音量だけならMicに助けて貰えるが、発音・共鳴・遠鳴り由来の音質・声質差迄は面倒みてくれねんだ。

して何より大きいのが喉破壊耐性の違いで、声の大きさは勿論も声を連続で出す長さにポイントがおま。
アナウンス等以外では息苦しくなったら随時で息継ぎが入れられるが、歌ではしまった息が足りなかったかと思っても大抵は無理して絞り出そうとしちまう。

元々しゃべくりより高効率な歌唱用発声法も使わないでそんなんすれば、横隔膜や腹筋以上に声帯等へ過負荷を掛けてまう。
それが月に1回しか歌わず苦し紛れもせいぜい数回なら或は回復も見込めるが、数日置きにそんなのが続いたら声帯君はとても頑張り切れるもんじゃねえ。

のを避けるべくかなり大人しく歌ってるつもりでも、ついエキサイトしたりしてリミッタが外れた際に大事故の危惧があるん。
結局はセーブして歌ってマージンを確実に稼げるのは、正規発声法・人体デフォ歌唱声量等を既にマスターしてる人に限られてんのよ。

=つづく=

2025年1月 5日 (日)

音楽備忘録1968 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑫

本日の生贄を捧げる前に、本シリーズ記事の筆者の願いを綴っとこう。
端的に述べれば「公平」「真実」「実態」で、学問と同様基礎(土台)が狂ってるとその上に構築したものの全てがズレちまうからだ。

これが今程歴が深くない昔だったらそこそこ大きな勘違いをしても、割と簡単に軌道修正出来たんだ。
が歴が深くなり情報量が膨大となった今だと、うっかりポイントを掴み損ねたらその後が大変になっちゃったんだ。

のと私的には特にRockにとって’70年代頃の飛躍がとても重要と考えてて、取捨選択する前に全貌を知って欲しいんだ。
体験からは今よりゃ流行の変遷は遅かったが、ブーム頂点を過ぎてからシングルを買おうてして昔ちょっち苦労した事があってさ。

それはMichel PolnareffのGreat Balls Of Fire(火の玉ロック:Jerry Lee Lewisのカバーで原版よりかなりソリッドな感じ)で、地元都内で見つけられず山梨の親戚へ来訪した際に甲府の小さなレコード屋で漸く発見・購入なんて事があったんよ。

近年と違いサブスクが無く現物だけとなると、まだTV・ラジオで頻繁に掛かっててもそんなケースがあったんだ。
わ兎も角これをキッカケに本日の生贄とするが、この時点ではまだ本国仏と日本でしか彼はメジャーじゃなかった。

後にグローバルにはなったものの私感で曲レベルが高かったのがこの頃迄で、恐らくその関係で米ではあまり語られなくなってんだろう。
だが少しのタイミングの差でQueenになり損ねたとも思え、今劣化本邦よりゃ当時は閉鎖的じゃなかったが欧物は憧憬だけで今みたいにまだ慣れてなんか居なかったんだ。

そんな状況でヒットしたからにゃ確実に実力が必要で、個人的にそれを実感させられたのが↑カバーシングルのB面だ。
Trumpetなるその曲は是又カバーでGeorge Gershwin-Summertimeのアレンジ版だが、変態スキャットで歌詞を一切歌って無い。

のわ肉声をバーチャルTrumpetとしたからで、アホガキ当時は本物と勘違いし掛かってた出来栄えだった。
今では音色の違いは即座に分かるが当時どうして騙され掛かったかったら、表現面ではモノホン以上だったからだ。

音量の強弱や音色の変化が実に象徴的に再現されてて、AMラジオとか低音質で聴いたら下手なラッパ吹きよりそれらしく聴こえるの請け合いだ。
プチ変余談になるが昭和40年代迄日本ではチャルメラとか豆腐屋果ては軍隊ラッパがまだそこそこ身近で、Trumpetの音色イメージも今程Brightなもんじゃ無かったんだよ。

その上クソガキが生耳でありつけたのはほぼClassic系のみだったから、典型的音色自体が恐らく今よりマイルドだったん。
この件は気になったから続きは別新項でやるとして、彼のではフォルテにシャウトを用いるのが秀逸で今でも多くはないんじゃないかな。

因みに一般的に彼と言えばPopな側面が注目それるが、少なくとも若かりし頃のRockの躍動感や勢いもかなりのもんだったで。
それで’70年代前中盤からはこっちじゃDavid BowieやT-REX等、当時の最新流行の洋楽としてGlamの連中とほぼ同列に一緒に紹介され良く流れてたん。

-続く-

2025年1月 4日 (土)

音楽備忘録1967 楽器音色一般のイメージと実際の違い⓫

Drumサウンドを筆頭に、1つ大切な事を書き洩らしてたんで早速それをば。
毎度段取りが悪くて済まぬが、具体内容へ突っ込んでからじゃないと巧く綴れないので御座居。

で今回話題の中心は所謂「胴鳴り」だが、この表現自体が器楽音のどれが何なのかを知ってる前提なのだ。
故に専門知識未所持の人達にとっちゃ、その様な半可視化イメージなんて湧いてねんですよ。

処か自身が携わってる楽器でさえ、物理音響的側面から正確に捉えられてるとは限らないんだ。
それが専門担当者だったら別だがそれ以外の誰がそうなってたとしても、それ自体はに全く罪は無いんざんす。

例えば純粋な奏者なら自身ではどう解釈して様と、実際良い音色が出せたりしてりゃ良いっつうかそっちの方が遥かに大切ですから。
でⅡでそうした場合AとBでは何かがだいぶ異なるのは分かっても、物理・音響的には誤った原因を思い浮かべたり信じ込んだりしてるケースがあるん。

にも拘らず変に長く携わってると信奉してる誰かが1は2だなんつうと、本当は違う原因のせいでも段々頑なになってたりするんだよ。
杜撰大王的典型例のとしてはLudwig Speedkingに関する色々が正にそうで、正直世間の8割はロクにじっくり体験もしてねえのにいい加減な事言うなって思うだよ。

つまり実害が無い分にはどう思ってても良いけど、他人に間違いを伝授したりするのはアカンでしょ。
ので例えば自身のサウンドに対してとか他人のに対しても単に好き嫌い迄だったら個人の自由だが、口出しするなら正確じゃないとね。

ってイメージ的には最も相応しくない奴が吠えてる体で、正直実際に過去にはそう云うやらしをしてまつた御免なさいまし。
なのにあまり人手を借りずに修正出来たのは、色んな録音や膨大なMicセッティングを試して来たからだ。

私感としてミュージシャン兼業の技師なら思春期から始めて、大凡50歳位の年月と体験を積まないと厳しいみたいだ。
大昔なら使用可能Mic本数・Mixer卓・トラック数等どれもに限りがあったんでそこ迄掛からなかったが、現在ではトライすべき事象が膨大となってもうた。

尚且つ現代一般環境的に試し辛いとか経験し難いのも少なくなく、それ等へは千載一遇の機会が訪れるのを待たなきゃなんない。
後者は技師専業でも何処かに所属してると、そこの流儀に反するのは中々試せんし。

かと言って個人や少人数集団ではそれに依る制約で、今度は別の箇所で不遇を容認せざるを得なかったりさ。
杜撰君自身は後者に属してるが、長年やってるとレアニーズ・ケースに遭遇する事で知己が得られたりしたんだ。

普通ならお断りするであろう和太鼓のボウヤとか、狭小LivehouseでコンデンサMicが無くダイナミックタイプで純和風の三味線のPAオペレートとかかなり奇想天外なのがね。
その時は心身共に大汗かいて腐心したが、ずっと後になってみると実に全く貴重で幸運な体験だったなって。

それからするともしか舞台関係等の下働きをしてみるのが、今劣化本邦では最も生耳聴きの機会が多いかも知れないな。
杜撰大王からしたら「誤った正義」だが今時お金を払ってくれた相手には、PAを通して整えた音じゃないと失礼と思ってるらしいからねえ。😵

-続く-

2025年1月 3日 (金)

音楽備忘録1966 音楽でのアイデアの実現方法⑦

失敗は発明の母って使い古された言葉だが、若干ニュアンスは異なるが音楽でのアイデア実現にも近似側面がある。
さて今回は新音色の創作にフォーカスしてみるが、生楽器とデジタル音源はかなり大変だ。

ってまるで正反対の両極がなしてってば、ユーザーの自由になる箇所が少ないのと逆に自由過ぎて掴み処がそれこそ掴み難いからだ。
無論その筋の専門家に迄研鑽を積めば少しはやれる事が増えはするが、そっちに入れ込み過ぎれば今度は音楽的創作が疎かになっちまう。

等と語りつつ例に依って杜撰君は結構危険水域迄接近してたんだが、幸か不幸か貧がその防波堤となってくれた。
一応電気屋・音響屋・楽器屋になったから普通だったらエレキPUのCoil巻き直し等へ進むもんだが、極力自作で経費圧縮しても専用機器や材料費は当然掛かる。

ので修理での10数回解いたり追加巻きしたり程度は手掛けてるが、懐と相談してそれ以上のへは敢えて踏み出してない。
に対して様々な改造やリフォームは古くからかなり積極姿勢で、それだけでも法則を覚え合う合わないを覚えるだけでも手に余る位なんだ。

では魔改造やリフォームをする様になったキッカケはってば、杜撰君の場合は基本的には修理費用の削減から来てんだ。
修理って基本は原状回復なんだけど、それだってそれなりの額のする部品交換に迫られるケースもある。

その際ユーザーが壊れる前の状態にプチ不満があって、交換部品の選択肢に元のよりほんの一寸高額だがベストなのがあったらどうするか。
ってな事を続けてる内魔改造とかリフォーム認定を受けてるだけで、本人としては何とか使える状態にする意識しかねんですよ。

純粋に新音色を探求して普段から試行錯誤を重ねるのは当然としても、なるべく明確なヴィジョンを持ててた方が結果の成否を含め判定が下し易い。
ちょっち刺激的な言い回しになるが音楽内でフィットするケースが少なくても構わんなら良いが、そうでないならニーズと云うキッカケがとても大事だ。

例えばBrass系のが欲しいとしてその理由が倍音の豊富さなのか、或はアタック音なのかではアプローチのスタート地点が全く異なる。
前者の場合加工前の源音の含有量が高くなきゃ始まらず、Syntheなら金物系に使われてる音源のアタックを弄ってみる等が確率が高い。

実は個人的にこれが長年の懸案で、大昔と違って意図的Lo-Hi以外ではネックになっとん。
Filterが最大に開いた時ゃSynthe Brassも良いが、現代音質水準ではそれじゃあアタックの籠りが仇になってアンサンブル内で埋没するのよ。

これがBrightなStringsとの区別を曖昧にし、もしかしてそれで近年は俺言い「偽Brass系」があまり使われなくなってるのかな。
現況最適解は全く見えないが、少なくともそう云うニーズ時は得意なエレキの変身では足りなくなった様だ。

=つづく=

2025年1月 2日 (木)

音楽備忘録1965 ’70年代Rockの浦島太郎⓱

前述した歌唱の件の続きだが本項は完全な専門ではないので、技術的な側面は強く関係するのに留めて今迄あまり触れなかった主に感覚面について綴りませう。
但しその感覚っつうのも個人独自のとかじゃなく、万人に共通にする分に限ってね。

最初に条件設定だがJazzより後発のDrumの入ったアンサンブルでは、歌手の声量だけにDrum音量を合せてはくれないのが基準になる。
尤も’70年代一杯位迄は狭小日本を筆頭に、タレントショウ等では俺言い「なんちゃってRock」の場合は主役最忖度のもそこそこ散見された。

だがその類のは紅白等には先ず参加出来ず、或は全く出場を望まない等のに限った。
それ以外のはMicやチープなVocal Ampのアシストこそあれど、最低でも生伴奏内で歌ってる本人にだけはその歌声が直に聴き取れる必要があったんだ。

コレ何の事は無い観客視線の邪魔にならずそれだけの音圧を出せる装置が無かったし、ましてや高遮音性インナーイヤーなんてその片鱗すら登場してなかったんだから。
それに加え当時の世情から録音だけの恒久的アーティストは認められて居らず、これにはメディアの性能が明らかに生パフォーマンスに劣ってたってのもあったろう。

言うなればPAの立ち位置が今は主役級となってるが、飽く迄足りなかったら仕方無くって感覚だったのよ。
杜撰大王はオールドスタイル信奉者だが、どうせやるならもっと徹底したら又状況は違って来るんだけどな。

その概要ったら生音源は仕方無いとして、電気楽器から電子・デジタルの物は思い切って各楽器Ampなんか廃止すりゃ良いんだ。
であれば限られた生音源の距離を最大に取れるんで、そこそこ音量差があっても所謂音の被りをもっと減らせる。

或はどうせPAでフル加工するならDrumを電子にする等して、一定以上の爆音が出る奴は小規模ステージでは出禁にしてやりゃ良か。
であればⅡで正規の発声が未達だったり極端に声量が無いままでも、どうにかLiveに支障しなくなるんじゃないかな。

見方次第じゃ今は過渡期なのかも分からんが、新旧の良い所取りしようったってそうこっちの都合良くは行かねんだ。
わ兎も角人間の自然な行動パターンとして、この件では弾き語りが鍵を握ってん。

今時は即座に多重録音とか打込みに走るケースもあるが、人も機材もミニマムで可能なのは弾き語りだ。
作業量としてもこれが最小手段で、それ故曲作り等でプチお試ししたい時ゃ最適なのだ。

その際もし生楽器と声量をバランスさせられてりゃPA用途のMicも不要で、最初に演ってみて駄目だったらメモ録りもしないからMic何ぞに用は無い。
何よりDrum・Vocalの人で電子Drumを使いたくなきゃ、幾ら超指向性のMicを持って来たってある程度の声量が無きゃどうにもなんねえべ。

恐ろしいから想像もしたくねえが、万一電子Drumのパット打撃音にも声が負ける様だったらホンマに終いや。
っと要するに時代が進もうとあまりに声量が小さいのは、音楽するのに単純に非合理的なんすよ。

杜撰流比喩をするなら雨天時乗れない乗用車ってなもんで、折角二輪車より雨耐性が強い四輪の利点が活かせんとな。
ってか声量不足で自身の歌声が聴き取り辛いと、それだけで上手く歌うのには損してんじゃね。

-続く-

2025年1月 1日 (水)

音楽備忘録1964 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑪

賀正:今年も宜しくだうぞ…と挨拶も極小にしんがりは、独断と偏見Maxで英のThe Sweetをゴリ推しすっべ。
又々しつこく登場させるにはそれなりに理由があって、リアルタイムでの人気や曲や演奏の実力の割に余りにも今劣化本邦じゃスルーされてっからだ。

大体に於いて杜撰大王みたいな胡散臭い奴がクソガキ当時に知れたからには、FMラジオでそこそこ掛かってたからに他ならない。
のに強いて敗因を挙げるとすれば当時カテゴライズされたのにしては巾が広過ぎたのと、その後に目立った活躍が無かったからだろう。

で何処に入れられてたかったら当時全盛期のGlam Rockだったんだが、当初はアイドルコーラスの扱いだったのから本格派Hard系へ移行する途中でそう外野には判断されてたんだ。
尤もHardってもPower Pop的要素も解散迄維持してたから、後年のHard系からも洩れちまったんだろうな。

だがしかし当時の平凡な大衆の多くはいきなりZep等に入れ込めた訳じゃ無く、もう少し「聴くのが楽」(つまり曲がPops寄り)な存在があったからこそその多くが馴染めたんすよ。
杜撰君の場合当時10歳位上から同世代のプチヲタ迄付合いがあったから、Hard系の存在自体はリアルタイムで出た順番に知っては居たんだけどさ。

その頃悪戯盛りだったからより身近に感じられたのはGlamの方で、細部の精巧さよりサウンド全体の面白さの方がピンと来てたん。
ほいでこの件でチト興味深いのが、生粋のHard系だって少しはヒットしないと活動資金が枯渇する処でな。

或は俺の方が有名とか欲しかったのか知らんが、Hard系が普及してひと段落した辺りで「揺り戻し」のあった事だ。
つまりあれだけ名声が得られたZepやPurpleの実質的な後継Rainbowでさえ、Hard系第1次ブームが去りつつある頃になったらPopな歌物シングルなんて出してたのよ。

結局これって幾らガチのコアヲタ系を標榜してようと、ポピュラー系の1バリエーションに収める限りはある程度分かり易さと馴染み易さは堅持しなきゃなんないって現実からは逃れられんかったって訳だ。
Sweetと比べたら量的には少ないが、Zepは終始一貫して「シングルは意図してPop」にしてたやんか。

となればPopなままでヲタ要素も入れとけりゃその方が好都合で、体験的私感でそれが最も上手だったのがSweetなんだ。
純粋なHard系やPower Pop系にも良い線行ってたのが無くは無いんだが、Sweetと比べるとどうしても無理してる感があってねえ。

フル毒舌すりゃまるで今劣化本邦J-Popに似てて、サウンドと曲調が今一フィットしてねんだよ。
そう云や以前から最近の役者は、何でもすぐに怒鳴る演技に走るなんて従兄がディスってたっけ。

単純思考で怒りを演じろと命じられれば先ず大声出したり言葉遣いが荒くなるのが浮かぶが、頑固親父が不機嫌になると一切しゃべらず誰にも耳を貸さずひたすら憮然とするなんてのだって現実にあるやんか。
それと同じ様にサウンドだけ盛大に屈強にした処で、曲やメロがそれに相応しくなってないと単に大袈裟なだけと受け止められちまうん。

こう云う観点で作曲の抜きん出たサンプルなのがSweetで、サウンドに極端な変化は無いがつまりは曲自体のタイプの巾がとても広いんだ。
同じくそう云う意味での演奏力が突出してて、本当は純粋なテク観点でもDrummerのMick Tuckerは他の超人に全く遜色無いんだけどなぁ。

=つづく=

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