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2024年12月

2024年12月31日 (火)

音楽備忘録1963 楽器音色一般のイメージと実際の違い➓

続けてDrumsetの今度は太鼓に進ぬが、杜撰大王の着眼点は胴鳴りざんす。
近年は漸く最先端の杜撰君!?に世間が追い付いて来た様で、バスドラとSnareに関してはそれ用のMicが構えられつつある。

実際Snareについては俺も過去作に含まれてた中域を欲しがってるが、本来最も必要なのは両面張りのTom類の筈なんだよ。
単純に考えてそうしなきゃ片面張り(メロタムやロートタム等)との区別が曖昧化して、わざわざ選択した意味が薄れるやんか。(裏皮があると表皮の反応にも幾ばくか相違は現れるが)

確かに明瞭度だけを最優先させたら分離度は高い程良いんだが、直で生耳で聴いてる時ゃホントは必ず「共鳴音」が含まれてんの。
では何故録音で同等のバランスにすると音像がぼやけるかったら、2次元で収音してるからだ。

そもそも胴鳴りは皮の方向へはあまり出てない上、皮の爆音にマスキングされている。
多数派状況では一旦壁へ向かって跳ね返って来たのを耳にしてるケースが多く、前回迄述Cymbalと同様空間合成後のをTomの音色として認識しとん。

勿論他のだって音色形成メカニズムは一緒だが、Snareはピッチの高さが・バスドラだけ裏皮にしても観客の方を一応向いている。
尤もSnareでもスナッピー(響線)に関してはTomと近似で、特にハードヒッターの場合打面皮の音が通常より大きくなるんで上からだけの収音だとしばしば不足する事がある。

の対策過去例でRingoは裏にもMicを追設、BONZOは生でも不足気味だから盛大にスネアワイアの本数を増量してたよね。
但しそんなのは彼等みたいな非常識ハードヒッターしか適用せず、そうなり易い原因に日本とは床と演奏会場の残響特性の違いがあるん。

打楽器もDrumsetみたいになると多少は響かない場所も考慮されてるものの、基本的には響いて反響がある前提で作られている。
これは生楽器の宿命で、それ故諸事情からデッドな場所で録るとその時点で生とは違っちまってるんだ。

真のマルチ収音を目指すには太鼓やCymbal夫々個別に、必要なだけMicの本数を奢るべきなんだけどね。
実際生ピやDrumsetではせめてものお情けで、アンビエントを追加してるのがあるわな。

けれど根本的には所望最適音色になる場所をその都度選ぶしかなく、従って絶妙なOff Mic収録された名演作品以外厳密には嘘の音でしかないん。
音色に一定以上の腕がある奏者って、だから大抵は録音作品より最低ワンランクは上の垂涎な音色を現場では出してんすよ。

とは言え現実は厳しく大抵は理想と程遠いんだが、だからこそせめて生耳聴き時の印象だけはなるべく堅持する様にせんとね。
面白きゃ何でも良いっつうのも分かりはするが、本当にそうなら今時はリアルタイムライトさえしといたらバーチャル音源とかでも同じっすよ。

飽く迄「○○さんが叩いた音」の範囲で捏ね繰り回すのが必要で、そうしてこそ「風変りなサウンドの○○さんのドラム」となる訳さね。
今劣化本邦では未だ唯体裁を整えるのにばかり躍起になってるが、その操作をしてる連中は恐らく真の達人の生演奏を聴いた事がないんじゃないか…とつい疑っちまう。

=つづく=

2024年12月30日 (月)

音楽備忘録1962 音楽でのアイデアの実現方法⑥

アイデア誘引の1例としての鼻歌忖度の件、今回はもう少し深く掘っとこう。
全く楽器が弾けなかったら兎も角、歴が長く深くなる程大抵はその楽器固有の性質の影響を受け易い。

けどそれがプラスに働く事はそんなに多く無くて、せいぜい編曲で質問された時に答えられる程度だ。
確かに制約はらしさ・それっぽさには貢献してるが、発想の時点で縛られるとマイナスでしかない。

タッピング開発前だったらGuitarでは任意の音程の自由な組合せのトリルは実際不可だったが、それを何とか打破しようとしなかったら多分生まれなかった技でしょ。
だからってあらゆる手を尽くしても無理な場合もあるし、誰かには可能でも自分では駄目な事もある。

だがしかし自ら可能性の芽を潰すのは愚行で、新アイデアを思案する時ゃ冒頭述の性質を一旦消去した方が良いん。
既に何か演奏出来る人にとってこの第1段階は性質の異なる別楽器で試すで、現にPianoで作ってGuitarで弾くなんてのもある。

んが平均率の12音階には縛られたままで、それではテルミンみたいなののフレーズが作り辛い。
そうして深度を深めてくと実は初歩段階では恐らく誰でもそうしてたであろう、鼻歌起源に辿り着くんよ。

現況はPiano系か打込みで再現可能なのが主流を占めちゃ居るし、そんなのの方がニーズが多くはあるけどさ。
人の神経はデジタル伝送なんだそうだが、感性にドンズバなのは何故かアナログ的存在なんすよ。

どうにも「割り切れない気分」なんてのがある様に、自身のその時の気分に合致するのは必ずしも正確な音程だとかになってくれねんですよ。
但し全部が曖昧なままだと他人には伝わり難い事があるんで、作品化する際は影響の少ない箇所はなるべく定量化させてってるけどね。

妥協を許さぬ箇所が残ったら、所謂ギミック奏法とか譜面に表記し切れないグリッサンドとかのご登場となる訳。
因みに過去の偉人でPiano作品の場合だと限度はあったが、その時点でテルミンとかSyntheがあったらそっちを利用してた可能性も否めない。

ので今は予め生ピで等の前提条件が無かったら、作る前からPianoや打込みに向いてるかどうかなんて意識しちゃアカンのどす。
尤も各楽器の特徴のあるリフ等を作りたい際は真逆で、弾けるって程の腕が無くても狙った楽器でなるべくこしらえて欲しい。

ってのは数年前従兄発案のを実体化する際、その処理で苦闘した事があったんだ。
鼻歌で聴く限りは大体同じ音程でも「違う音」に聴こえた箇所が、エレキGuitarでは再現困難でさ。

ビヴラートやベンド(チョーキング)を加えてもニュアンスが異なる様にしか感じられなく、処が本人に確認してみたら同じのがダブって全然平気だとさ。
但しⅡでそれは音程だけの話しで最初のはチョークアップさせ、次のは1フレット上を押えてそのまま出すと杜撰君としては鼻歌イメージを死守したつもりだ。

理由は至極単純で何等かの差別化を施しとかないと、ちっとも面白くないリフだったんよ。😵(スンマセン)
従兄はGuitarを一寸は弾けるんだけど、自信が持てないからってチョーキングを殆ど使わない。

でも創作ネタ用だったら酷な話しだが100に1回だけしか成功しなくても、成功したのだけ切出して「コレ演って」が可能なんだよね。
そうしなきゃ鍵盤の方がもう少し弾ける人なんで、わざわざ苦手なのを駆使して創作する意味がねえんじゃねっとね。

=つづく=

2024年12月29日 (日)

音楽備忘録1961 ’70年代Rockの浦島太郎⓰

普通の精神状態なら誰だって好き好んで貧しくなろうとは思わぬもんだが、それ位未だ続く世間のバブリー思想とは一旦決別しないと真の挑戦には厳しい。
かと言って完全に何かを諦めてはクリエイティブマインドの自死に繋がり、この並立が事をより困難にしている。

今劣化本邦の世相はそんなで大停滞を引き起してるが、昔だってそう云う面はちゃんとあったんだ。
では何処が最も異なってるかってば、妙な話しだが今より何もアテにならなかったんよ。

現代IT機器にだって確かにエラーは時々あるんだけど、ほぼアナログオンリー世界のエラー確率は桁が違ったんだ。
でどんな風に「普通」に差が生じるかってば、どんなに適性に長け堅実に事を遂行しても先ず何でも一筋縄には行かなかった処。

それが癌の手術なんかだとホトホト困ったんだが、いざなってみたら何でも大体計画通りに進めば楽勝じゃ無かったん。
実際損失とかは極力小さくなってくれないと厳しいが、儲けの方は本来儲からなくても大損しなきゃ害は無かったんだよ。

今日はより極端な2極化が進んだお陰で、本来は圧倒的多数例の中間層ってのが実感し辛くなった。
損しなきゃベターで充分な場面では助かる反面、ベストが出ないと無意味な場面でそんな風潮は障害にしかならんのどす。

直接影響を受けてないのはスポーツ記録やゲームの得点位で、それにしたって昔より数字ばかりで内容は寧ろ著しく低下したのが多い。
加えて時は金なりの精神が昔より重視されるのは結構だが、その内容の理解度に致命的な不足が増えたが為に本来の機能が働いてないんだ。

よく昔はのんびりしてたと語られるのは主に心理面であって、交通機関の所要時間を筆頭に何をするにも今より手間暇が掛かったもんだ。
から実は自由になる時間は今より全然少なく、その典型が買物可能な時間帯とかが全然違ったんすよ。

それで大きく左右されてたのが各種作業時間帯で、特に受け身で居られる物がさ。
例えば幼少時から好物のピーナツバター、当時地元駅前のスーパーにたまたま出てたSKIPPYがお気に入りになったが山梨の親戚に滞在中は当然の様に見つからない。

のを落花生と植物油と塩を摺漕ぎ・摺鉢で作ったが、俺を含め誰1人としてそれを手間となんか思って無かった。
が下手すりゃ今は直ちに思い付く人も減ってそうだし、買えば済む物にわざわざ手間暇掛けるなんてとしか思えないんじゃないかな。

実際には店が遠かったり悪天候だったりしたら却って面倒な気もするが、必要な道具と作業の種類は確かに買うだけの方に軍配が上がる。
因みにそこは本家だったから来訪者が絶えなく呑み客もあったから、ピーナツ程度は常にストックのある事が多かったん。

おっつ予防線を張らせて貰うが、DIYったって本格的なのは今回のケースには当て嵌まらないかんね。
寧ろ言われなきゃ気付かない位のプチDIYについてで、幼稚園を卒園してたら誰でも出来る位のヤツですぜ。

結局は今昔に関らずその時の条件次第で最適解は変わるもんなんだが、あまりにも普段自作に不慣れになってると作れる事すら忘れがちになるんじゃないかな。
世相はどうあれDIY精神が希薄になってれば、創作なんて困難化しても当然なのだ。

=つづく=

2024年12月28日 (土)

音楽備忘録1960 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑩

2番手はここではお馴染みThe Whoで、特に問題なのが日本でだけずっと低評価な処。
尚且つ杜撰君に違和感ありありなのが近年のは幾ら映画のお陰にしても、Queenの方が有名で価値が高いなんて誤認されてる件等ざます。

毎度乍ら決してQueen自体にケチは付けぬが、The Whoの存在が無かったら多分彼等のあのスタイルは生まれて無いんすよ。
そしてグローバル基準では英の3大Rock Bandにも挙げられてるが、日本版Wikiでそんなのだけ記載しとくから変な具合になるんだよ。

1970年頃迄の売上げや人気ではその通りだが、歴史的時系列ではTho WhoよりThe Yardbirdsにするべきなんだ。
杜撰君がそう力説するのはBeatlesとStonesから、ZepとPurpleに至る「間の発展・展開」をしたのが彼等の最大の功績と思うからだ。

又今劣化本邦では殆どGuitarの歪みの深さが、Hard Rockかどうかの判定基準になってる様だがね。
典型的なのとは音色が少し異なるものの、深さだけだったら上出BやSの作品に既にあったんよ。
一寸稚拙かも知れんがBandが常用する最大音圧こそが最初の基準で、無駄に(おっつ失礼)バカでかい音で最初に演り出したのはWhoなんだ。

それ故上記Pは初期(1期)当時殆どHard認定されてなく、実際Whoの多分⅓程度の音量しか出して無かった。
勿論音量だけがHardスタイルの全てじゃねえが、先ず爆音で演ってみないとその後の技その他を多分ああゆう風には発展させられなかっただろうからね。

当時時点で実行するのに先ず問題だったのがDrumの音量で、BはHelter Skelterで試行したらRingoが指にマメが出来たと愚痴る。(それでも端っから非常識な爆音を出してたんだが)
Creamでは人生の最後迄Gingerが無駄爆音の件をディスってて、奏者由来のアベレージ音量が大きくないと恒常的に演るのには難があるんだ。

偶然かも知れんが意欲と共にこの条件を満たしてたのがKieth Moonで、Bandの存在以上に今劣化本邦のメンバー不当低評価は致命傷ざます。
Hardなドラミングへの体格(特に身長)の影響の目測を誤ってる公算が高く、私的には和太鼓と西洋太鼓の正確な差を多くは未だ分かっとらんがな。

まあまあ良く使われる太鼓だと胴・皮・サイズの全て和のの方が大きくて、しかも設計が速度反応型には特化してねんだ。
大して洋のDrumsetは上記と比較すると1つ1つは小柄、且つここが最重要ポイントなんだがほぼ速度にしか反応しねんですよ。

その証拠に常人の2倍の数にしてるにも拘わらず、Moon先生のバスドラの印象はかなり薄いっしょ。😞
実際フレージングにもツーバサーなのに杜撰君如きの片足に完敗状態で、きっと手は滅法速いが脚が遅い極端な体質だったんじゃないかな。

わ兎も角他も含めてBand単位でHard路線を演れる条件が初めて揃ってた連中で、言うなればその資質がRock 'n' Rollから広範なRockへ展開してくのには必須だったんだ。
今ではRockもあらゆるタイプが併存してっから見落し易いのも分かるが、これがもし人類の歴史だったらアメーバからいきなり人間に進化した説なんて奇怪なのと同じなんだぜ。

=つづく=

2024年12月27日 (金)

音楽備忘録1959 楽器音色一般のイメージと実際の違い➒

番外編を経てCymbalは5回目の今回で一旦幕とするが、併せて録音・Masteringされたのと直生耳での聴こえの差にも言及しとこう。
完パケとリアルの差はって早速逆順になっちまうが、生楽器ではこれが最も顕著なんすよ。

天然現象として比較的仕方無い方は、残響込みのを残響レスとして認識してたりするヤツだ。
古い地下道や広目のホールみたいに露骨なEchoが掛かりゃ誰だって「響いてた」と感じるが、無響室以外は殆どあらゆる環境下で実際は残響ってあるんだ。

それ込みで生楽器は
音色設計されてるんで、フルコンサートGrandなんかはもし無響室で聴けたら淡泊な事この上ない。
ガンガンに響く所で明瞭度を確保しようとすりゃ至極当然の結果で、それ故響かない伝統的日本家屋等では却ってアップライトの方がムーディーになったりもするん。

一般家庭で最低限の明瞭度が確保されてからだと、カラオケのEcho等ムード作りに残響はやはり結構重要なアイテムだ。
それからすると’70年代に流行ったデッドなサウンドは異質に映るか分らんが、その後より収録Micの距離は遠かったし全く望まなくともアナログテープ・レコードには俺言い「プリ・ポストDelay現象」が必ず起きとったん。

磁気テープを巻けば隣接部の磁力の転写が起こり、レコードでは隣の溝のギザギザの影響を少なからず受けてたん。
無論極力そうならない様にはしてあったが、原理的にゼロになんか到底出来ゃしない。

それが敢えて俺言いを使った意図で、音楽的には期せずしてそんな風に作用してたんよ。
それ故Ⅱで昔は完全ノーEchoにする方が至難で、無響室でデジタル個別収録された音源で打込みで作るのとは真逆の条件になってたんだ。

それが本体とは別の共鳴部を持たないCymbalでは最も影響してて、音色的には艶の部分で被害!?が大きいん。
突如一見幼稚な脱線をさせるが、皆はCymbalの裏(チャイナ等特殊なの以外真ん中が凹んでる側)の音を耳を近付けて聴いた事はあるかな。

それはもう驚く程低音が出てて、よくそんなで離れただけでシャーンとかパシーンとか聴こえるなあって多分思うから。
を今回力説しときたかったのはCymbalって何処からでも聴き馴染んだ音が出てる訳じゃなく、各部からかなり違った色んな音が出てん。

これに残響等が空間で混じり合って、初めて皆がイメージするああ云うサウンドになってんすよ。
考え方次第じゃ残響を利用するってのも生楽器なら当然で、天然環境で殆ど残響のないのは広大な砂漠位だ。

無残響だけなら大海原もそうではあるが時に波の音が邪魔してくれるし、演者・観客共々無音で立ち泳ぎしてないと船その他から音の跳ね返りが来ちまう。
ので人が実演してる雰囲気を損ねない様わざとカットしない作品もあるが、近年だとデジバー音源との整合事情で難しい問題ではある。

↑その他の事情があるからこそOff Mic収音には弱点があるが、だからこそ極力俺言い「艶」感にはより神経質になった方が良いんじゃないかな。
中にはCymbalに艶不要と感じる人も居るか分からんが、曲が変われば今迄ニーズレスと思ってても先はどうなるが分かりませんぜ。

=つづく=

2024年12月26日 (木)

音楽備忘録1958 音楽でのアイデアの実現方法⑤

決して気休めを言う気は無いが、本当に才能ゼロの人なんてのは多分居ない。
最悪限りなくゼロに近い場合はあるだろうが、それよりどの分野にあるかの見極めが非常に重要なのだ。

音楽の場合至高なのは音楽自体に才能がある事だが、それでどんなに恵まれてても最低半分は上手く発揮しないと実績は作れない。
それに本人逝去後に初めて大評価されるなんてのも珍しくないから、先ずはアプローチの仕方が兎に角問題なんだ。

杜撰大王はその長い体験から誰にでも一寸は作曲か編曲の才があると踏んでるが、苦手な方からアクセスすると全体の調子が上がらねんですよ。
酷いケースだと作曲しなきゃいけないのに無関係な編曲のアイデアが噴出したり、編曲に迫られてたら無関係な曲メロがやたら浮かんで来て著しく集中を削いだりさ。

恐らくその主はニーズとかノルマを課されなきゃ、普段は逆の方に興味が強くてそれなりに適性があるからですわ。
それ故フレーズ1つ新開発するにしても所謂作曲力が勝ってる者は、Claptonみたいに奇抜なのよりオーソドックスな良いメロの方が多くなる。

一方編曲力が勝ってる者はBeckみたいに、これでもメロなのかみたいなのの方が量産されるらしい。
良く分かった上でなら逆張りも出来ない事ぁねえが、あまり効率を上げられないのは確実だ。

但し9普通があっての奇特は1だとしてもかなり際立つし、普段難解なのばかり演ってる人が突如分かり易く心地良いのを奏でたらそのインパクトは鮮烈だ。
どのみち全部マトモ・全部変態にするのは困難だし、随時頻吠えの如く「音楽は比較芸術」の原理を逸脱すれば効果は最大数%まで落ち込む事もあるのよ。

その上現代は機械やAIの進化も中々なんで、理屈的にだけ優れたものを今更人間が目指したって太刀打ち出来ない。
だがそんなのが本当に感覚的に凄いと聴こえるかってば否で、今迄かつて評判になったのの殆どは新しい聴こえの為の新技だったん。

要は感覚と技術には前者に優先権があるって寸法で、音楽的に有効化したくばこれを覆せねんですよ。
それには例えば実楽器で試行錯誤する前に、より自由度の高い鼻歌等で偶発したのの再現を目指したりするのが有用なんだ。

それとか再出手前味噌だが実際にどう演奏されてたかより、幻惑されて勘違いでもその聴こえを敢えて優先するとかがね。
1足3連使用法の最初は、Snareのゴーストノートをバスドラと聴き間違えたのから始まってん。

その段階では完全な仮定だったけど、もし将来鳴らせたら全部脚で行ってもOKかなってさ。
因みにVan Halenの始めたタッピングって音符的には「唯のトリル」で、鍵盤等ではとっくの昔に可能化してた技だ。

がGuitarでは既存の奏法ではその音階にかなり制限が掛かり、それ等は頻用されてたがぼちぼち聴者は聴き飽きてた頃だった。
聴者にとっちゃ聴き覚えのあるフレーズだったりすると、実際演奏するには超高難度であろうと知った事っちゃないのさ。

=つづく=

2024年12月25日 (水)

音楽備忘録1957 ’70年代Rockの浦島太郎⓯

つう事って今回はこっち方面の小規模商店にスポットを当ててみるが、これには今昔で相当な隔たりがある。
多分まだ完全には消滅してないんだろうが、オリジナルスキルを持った店員は見事な迄に霧散しちまった様だ。

少し以前にプロドラムショップのモリタ楽器の話しをしたが、あそこは特別にしても街の一介のレコード屋だって昔は侮れなかったんだ。
で唯昔を称賛したんじゃ不公平だから先に弱点を綴っとくと、現代の大型総合店等と比べるとやはり守備範囲自体は狭かった。

電子部品なら球屋・石屋・トランス屋・ケース屋…等と別れてて、初心者が初めての自作機の部品を集めるには少々面倒だった。
尤も東京ラジオデパート等集積してる所では中々工夫されてて、動線が予算で妥協出来ない部類から順に配置されてはいたかな。

或は誰でも即買い可能なのは入口付近に、熟慮と相談を要するのは奥の方に鎮座してたねえ。
その結果物理都合上は軽い電線類が道路に面してて、重たいトランスがどの入口からも遠目だったのは皮肉だがね。

けど殆どの客がわざわざ交通機関に乗って来てる様な状況では、なるべく最小回数で買い物を達成出来る方が有難かったのよ。
こんな時点から限られたやれる範囲での工夫は周到に凝らされてて、まるでかつては便利だった私鉄の小駅が高架化・地下化・巨大化等で改札からホーム迄の動線がやたら延長したのとは正反対だ。

さて今更ネット時代に入って久しいってのに何故店舗に拘るかったら、特に日本ではプチデータベース発信基地も兼ねてたからなのだ。
出来れば公のが望ましいが私設であっても万人が利用可能な施設みたいなのがありゃ良かったが、教育・広報関係が全く育ってない処か微かなのさえ消失し続けてる始末に御座居。

私説では明治維新で武士の誇りを捨て、昭和の敗戦で貴族の矜持を蔑ろにしたのがどうも良くなかったかね。
大金持ちしか出来ない社会貢献ってのがサッパリで、主に野球限定だが最早実効性を伴って実施中なのは大谷翔平唯一人位じゃねえのけ。

かと言って明治以降の我が国政府はどうも頼りないのが続く中、敗戦から平成の途中位迄民間のしかも小市民が兼業でその代役を担ってたんすよ。
その賛否は別として本来善意で堪えてる内に対処すべきが、日本のじゃないから(洋楽の事な)別にいいやとでもなったのかな。

それで大損するのは今後の人だから自分達が唯で教えるなんて気に食わんと思ったか、何時しか文化を知った者は伝える義務もあるのを忘れたらしい。
歴史や学問も含めこの手の情報は都合が良かろうと悪かろうとありのままに伝えなきゃ駄目で、そうしいなと現在地の座標にズレを生じるだよ。

もし悲しくも不都合だったらこれから修正してきゃ良いだけの事で、ホントは崖寸前に近付いてるのに地図に誤記載されてたらえらいこっちゃで御座居やすよ。
臭い物に蓋をするのが伝統と言う人も居るか知らんが、かつてはどうでもいい事と重要案件を皆が同じに扱ってた訳じゃねえんでっせ。

確かにアホ指導者が暴走するケースはしばしばあるが、マトモな人は何時の時代だって決してそれで良いとは思ってない筈だ。
唯一’70年代と異なるのは今は挑戦自体を簡単に諦める処で、成功確率の低い挑戦を継続する者を表の世間では蔑んでる処じゃないかな。

-続く-

2024年12月24日 (火)

音楽備忘録1956 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑨

ここから過去記事重複も厭わず、杜撰大王にとってのこのお題での不名誉!?な3大チャンピオンを順に提示してこう。
何と言われ様と絶対王はBrian Jonesで、彼が居なかったら先ずThe Rolling Stonesって格好良くてキャッチ—な名前が生まれてないのだ。

かのレジェンドBandは彼の在籍時割合が年々低下してるのもあって、若い方や歴の浅い人に存在意義が段々不明瞭になってるのは仕方無い。
Band自体はかなり今も好みの方だしその実力にも疑念の余地等無いけれど、だからって負の側面が無いでも無きゃそれを容認する気には全くなれないんだ。

さしものMick JaggerとKieth Richardsもこの件では自己肯定と保身意識に負けたか、或は皆心の底では理解してると思ったか彼の存在に対する態度は全く同意出来ない。
あそこ迄巨大な実績となれば何か少し位欠けたって影響受けない人達も今となっては居るんだろうが、客観的に評価してみると年々興味を持てる要素は減ってるんだよ。

そしてそれがかなりメンバーの動向と重なってて、オリジナル当時と最も異なるのが俺言い「ヤバい感」だ。
当時本人達がどの位狙ってたかはワシャ知らんが、ティーンを中心にウケたのは何たって↑が最大要因っすよ。

まだ知識や体験が不充分な厨2病世代にとっちゃ、従前のとは何かが違って新しい「雰囲気」が何よりの御馳走なんざます。
それが希薄化してくのが①Brianが②Ian Stewartの終ぞ正規メンバー復帰無しの逝去、③Bill Wymanの脱退とこれは已むを得なかったが④Charlie Wattsの逝去だ。

ぶっちゃけそのせいで実力低下してるんだが、なまじ他より突出してたが為にそれでもポジション維持に影響が出なかったのがは何とも言えない処だ。
確かに世間でのBrianは本人の評判が今一だしそれに特に疑念は無いが、だったら何故もっとサッサとクビにしなかったのかな。

一部で御存じの通り「彼が作って命名したBand」だったからで、ヤバい感コンセプトで軌道に乗せたからなんだよ。
その後のMickとKeithの絶大な貢献・実力は疑い様も無いが、当時の彼らにメジャーにする力があったとは到底思えない。

要するに雇い側から作曲力評価と云う形で担がれて調子に乗って、その甘言って夢から未だ完全に覚め切ってないだけなんじゃね。
或は雇い側のマネージメント不足から薬中を防げなかった瑕疵を軽減したくて、偉大な歴史の負の部分を彼の憤死と一緒に葬りたいのかな。

まあそんでも聴くだけなら大して悪影響は無いが、本気で後を継ぎたいとか学ぶのに対してだと大きな障害になるんだ。
後世に対しああ云う物を作り上げるのに必要な要素とか、欠かせないプロセスの一部が無くても平気と誤認させちゃうでしょ。

確かに恐らくBand自体への彼の貢献量は大して多くは無かったろうが、時には質(内容)の方が重要な局面になる事があるんすよ。
これが企業なんかだと創業者が軽視される事は先ず無いんだが、どうしてBandだと違うと言えるんだか。

=つづく=

2024年12月23日 (月)

音楽備忘録1955 楽器音色一般のイメージと実際の違い➑

さあ事前告知の番外編は、1980年頃国鉄池袋駅至近にあった伝説のドラムショップ「モリタ楽器」での事だ。
従兄の先導で訪問したが、それがちゃんとしたCymbal音色の人生初体感になっとん。

咥えタバコを切らさぬ一見強面風の初老の店主が営むプロショップ、当時厨2病真っ盛りの俺等は場違い感満々だった。
ので少々ビビり乍らも憧れのアレやコレに、興奮をひた隠しに(してたつもり😃)見入っていた。

暫くするとやたら丁寧な口調で店主のプチ解説が始まって、こんなクソガキにも丁寧語で接して来るのに驚いた。
がそんなのは全くの序の口で、さあ実際叩いてみようと半ば強引に薦められて大びっくり。

それから多分20分以上・10枚以上を店長の詳説付きで試奏して、しかもまだ全くDrummerじゃなかった杜撰君に迄自分で鳴らして感じてとのたまわる。
言うなればこれがCymbalの正規原体験で、結局はその時の聴感・体感が未だに不動の基準点になったんだ。

その時点ではまさかこんなに一生物になるとは露とも思ってなかったが、痒い所へ手が届く様な絶妙のアドバイスと相まってモデルタイプやブランド毎の基本がしっかり身に染み込んだだよ。
当分買えそうにないクソガキ相手にこんな懇切丁寧な応対は異例で面食らったが、今になってみると啓蒙・次世代育成の一端のつもりだったのかも知れない。

もしかしたら店主自身が過去に似た体験をしてて、それをとっても大切にしてたのかな。
出逢いは何時だろうと本当は無関係な筈だが、思春期が大抵は最も多感だ。

齢を取る程一般的には知識が増えて客観的に捉えるのは得意になってくが、その分「直感に訴える」面では段々弱まって行く。
って普段屁理屈オンパレードの杜撰大王が語るのも何だが、感性を育むには余計な理屈は邪魔なのだ。

そして実に見事に育成された結果は2人共ご覧の有様で、特に杜撰君なんてDrummerじゃなかったのに今では無理してでものPaiste信奉者に。
そんで自身への影響を事後検証してみると確かに過去名作にP使用の名演はあったが、恐らくこの体験をしてなかったら何しろ貧だからきっと2の足を踏んで妥協してたろう。

実際何度も逡巡したケースがあって、今だって貰い物ならZildjianだって併用してる。
ずっと随時であんなのやこんなのも欲しいと思っちゃいるが、迂闊に貧が散財に嵌ればいざって時に頼れる楽器は少なくなる。

そんな中で割と杜撰君が封印出来てるのは1に貧だが2に意志が特別強いからとかじゃなく、自身にとってドンぴしゃりのとまあまあのの差を痛感されられてるからだ。
上記両者普段はせいぜい倍位迄の差しか出ぬが、ここぞの場面ではそれが桁違いになる程拡大するんすよ。

それが曲やアンサンブル内での魅力ポイントな際、出来る限りの高得点にならないと誰にでもスゲーにはならないじゃん。
何しろ一般人にとって音楽なんてどうでもいい存在だから、明らかに普通より優れた音色にならないとそんなに反応して貰えんのよ。

歌物ポピュラー音楽はメロ・歌詞・サウンドの3本柱で成り立ってて、曲次第で比率こそ変化するが最後のを完全に捨てられるのは稀。
その意味で今劣化本邦J-POPの歌詞だけ頑張ってるスタイルって異常事態で、聴者側にも責任はあるが先ずこんなサウンド出たけどどうと供給側が先に提示しなきゃ話しにならねんじゃね?。

それこそ大昔に冒頭述の店主が、俺等当時クソガキに投げ掛けたみたいにさ。

=つづく=

2024年12月22日 (日)

音楽備忘録1954 音楽でのアイデアの実現方法④

前回後部の続きで実例比較に進めるが、レジェンドRock Guitaristの中で少し特殊な立ち位置なのがJeff Beckだ。
彼以外のライバル達は歌う頻度にこそ差があれ、少なくとも自分達のでは作編曲に主軸となって携わってた。

流石にBeatlesは全員が全部をやってるから例外として、もう少し調査範囲を広げて眺めても大体そんな感じだ。
にも拘らずClaptonを筆頭の多数派と箇所やタイプこそ違えど、自前新開発の奏法やフレーズは寧ろ圧倒的に多い。

素人の中には「そう云う天才だったから」で片付ける向きも少なくないが、もし
作編曲へ無関心だったら到底あんな真似は出来っこないんすよ。
ではどう云う事だったのかったら、Guitarとそれ以外の楽器への興味に極端な差があったんじゃないかな。

他楽器にだって曲としてはきっと興味はあっただろうが、求める感じが得られるならどんな方法でそれを実現しようと構わない。
のがGuitarになると何時も明確なヴィジョンを持ってて、つまりGuitarで作られたり編曲でもイニシアチブがある箇所には徹底的に拘ってる。

のが結果としてクレジットが共同名義でない場合そこから漏れてただけで、順然たる雇われ演奏家とはかなり違ってたんよ。
この「順然たる」とは作曲家から委ねられた譜面等を基に編曲家がスコアを加え、それを貰った指揮者等が楽譜の忠実再現を目指す様なヤツ。

そもそも小編成(フルオケ等に対し)では大抵はスタッフにも乏しいし、各々が独自アイデアを持込まなきゃバリエーションがとても少なくなってまう。
ので半ば当然の結果なんだが、日本では数人の天才+それに気に入られた凡才の組合せが多いからだろうか。

或は天才側か雇い側の不適切なエゴが強いからか、どうも今一何処を誰が作ったかに対して鈍感だ。
この点に限っちゃ白人の契約主義は秀逸で、例えばクレジット上は同列でも各人のギャラは微細に違ってるなんてのが大いにある。

尤もそれは正直契約の場合であっちにもボッタクリ契約はあるし、かつての黒人なんかかなり目茶目茶だ。
何れにしても他パートも完璧に作編曲出来る者が参加してない限り、実質的には作編曲から完全に逃れて作品を完成させるなんて無理な相談なのだ。

それからすれば部外者はやってないと思った時だけクレジットで確認し(意外にやってた場合それが判明)、記載が無いからって作ってないと信じ込まぬ方が良いんじゃないかな。
この件で少々ブラックなStones(本人達は決してそう考えてないが)は未だしも、ホワイトなBeatlesでさえ無記載でも曲名はRingoが考案したなんてのが結構あるでよお。

この様に集めた情報の分析段階で迂闊にも実際と隔たりを作ってしまえば、その後の作業全てに打撃を与える公算大なんざます。
杜撰流の極論をするなら勘違いしてでも正しい結果に近付ける方が望ましい位で、そこは自身が評論家なのかクリエイタなのかでハッキリ分けて考えた方が良いんじゃないかな。

=つづく=

2024年12月21日 (土)

音楽備忘録1953 ’70年代Rockの浦島太郎⓮

マスゴミの劣化・情報操作がぁなんつうと陰謀論者かと疑われ兼ねないが、近年は壺の悪影響もあるが音楽関係ではそれ以上に民度の低さが招いた結果なのだ。
資本主義社会下であれば芸術ですら儲けも問題だが、所詮新自由主義みたいなのはこの分野では成り立たんのどす。

寧ろ普通はこんなやり方じゃ儲けが出ない様なのが、奇特なアイデアで少しは儲かるみたいな存在なんすよ。
近頃はめっきり貧しくなったから何だってロクに売れやしねえが、元々市場規模の極小なニッチ分野で販量で稼ごうなんてのが大甘過ぎるのだ。

どんな大ヒットEffectorを出した処で、果たして日本一売れてない国産自動車の販量を上回れるのかなあ。
過去述「杜撰で隠蔽体質だったレコード表記」の欠陥よろしく、1モデルだけじゃ売れないからこそからめ手戦法で関連商品も色々少しづつ売るべきなんだがね。

処が俺言い「量産の倫理」にスッカリ囚われちまって、コスパの良い少量生産が出来なくなっちまいやがった。
その一例として米のエレキAmpメーカMatchlessを引合いに出すが、出た当初は法外な高価格だと思ったがミントコンディションのヴィンテージと比べたらまだ夢が見られる価格設定なんだよね。

英では特定ブランドの特定モデルに限定されるも、例えばVOX AC-30の一部は整流管仕様を死守しつつモノホンのヴィンテージよりゃかなり安い。
それでも遥か彼方の杜撰君は埋もれた中古から選ぶしかないんで、変にブームになって高騰するのは不都合だ。

がそれでも「作れる内はそのものズバリの本物を作り続けるべき」と考えてて、商業上なんてチンケな理由じゃなく材料が枯渇したとかそんな理由で絶版になる危惧が常にあるからなんよ。
ヴィンテージでボロ儲けしたい奴等にゃ悪いが、希少価値も度を越せば世間から方法論自体が消失するだよ。

かなり探しても見つからなきゃ別の手を考える者が続出し、偶然遭遇しない限り「切れないカード」と思われちまうんだ。
そうなるともう極一握りのコアヲタにしか相手にされなくなって…、ですら希少情報を誰かが伝授したりそれなりに広めなきゃ一巻の終りだ。

今劣化本邦の悪習の1つとしてマニアが消失しヲタが巾を利かせてる懸案があり、重なってる部分もあるが本来は別物なのだ。
確かに「浅い一般認識」としては流行りの呼称の方が理解は早いが、当事者自身が内心迄そんなじゃアカンがな。

そうして言うなれば「劣化コピー」繰返した挙句が現況と言え、政治・経済も酷いが一番目も当てられないのが文化程度・民度の低さなんすよ。
Rock系の場合スタンダードはメジャー放送メディアでは殆ど掛からなくなって久しく、平成後半以降に生まれた者は身内等からのレクチャーが無ければこんな基本情報さえ偶発遭遇でしか得られなくなっとるやんけ。

漸くの核心で済まんが恐ろしい事にRockが今よりもっとマイナーだった’70年代の方が、この件等に関しちゃずっとマシだったのを強弁しときたい。
ネットも無く世間での認知度も格段に低かったにも拘わらず、少なくとも都市部なら小坊ですら最低限の情報は望めば自ら簡単に知れたんだ。

企業界でも日本は欧米に比べると中小零細が未だ桁違いに主流を成してるが、この件でもそっちに大いなる利点があったんだがそれは次回に。
何れにせよ杜撰君は↑の典型だったから現況は青天の霹靂並で、まさかこんな酷い状況になるとは夢にも思えなかったよ。

-続く-

2024年12月20日 (金)

音楽備忘録1952 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑧

今となっては失礼乍ら全盛期が殆ど想像出来ない程の、劣化・老害ぶりの昭和の歌謡スター沢田研二。
唐突に提示したのは日本で早期に、メジャー系で本格的Rock唱法を使ったからなんだ。

職業Rock屋として日本での始祖はほぼ間違いなく内田裕也氏だが、その曲や唱法等は杜撰君世代には是又失礼乍ら到底受容れられる様な代物じゃなかったんだ。
若い頃は単にバカにしてたが何故かってば、所謂Rockの典型的シャウトが殆ど出て来なかったからだ。

だが才能の他に大いに考慮すべきが言語の相違で、当時日本語でのシャウトったら歌間のセリフみたいなのとか極一部の演出的なのしか存在しなかったんよ。
日本のRockが正式にメジャー系に属せたのは凡そ1975年頃になってからで、その寸前にキャロルが人気を博したのがキッカケでね。

つまりそれ迄は表向き社会的には何か別のを装うしか道が無く、それには暴力的では無くとても美しく音楽的なシャウトじゃないと通用しなかったん。
当時アホガキイカレポンチの杜撰君はそんな事情は全く知らず、勝手に何だよ日本のってダサいのばっかだなあなんてずっと暫く思ってた。

処へ少しおやと思わせたのがGSが終ってからの沢田研二で、一般人が聴けば若きアイドルスターなのがRock愛好者が聴くとRock歌手に聴こえるっつうある種の離れ業を実現してたんすよ。
結局日本のRock路線は矢沢永吉の潮流の方が直接その後には繋がってるけど、「日本語でシャウト」の条件を付けたら一寸始祖とは言い難いんじゃないかな。

ってのもキャロルってヤンキー系Bandだったから、日本語自体がドノーマルのとは少し違ってたかんね。
具体的には通常不要でも巻き舌になるとか、そう云うのが少なくなかったからなぁ。

勿論それも1つの文化の具現化ではあったんだけど、純粋にRockシャウトで全ての迫力が賄えてた訳じゃねえと。
それなのに意外にも思いもしない処から、本格派Rockシャウトが聴こえて来たのよ。

因みに当時の日本でのRockへの偏見は想像を絶する程で、それ故Beatles等のスタイルの連中に対し無理矢理「グループ・サウンズ」なんて珍妙な名前が与えられたんだ。
そんじゃBandに満たない人達はっつうと当時メジャー系では非自前の伴奏が入ると、強引にRock色が薄められるのもあってかFolkなんかへ是又強制加入させられてただよ。

でGSでは伴奏にあまり注文を付けられん代わり、アイドルなんだからと曲の方を可愛らしいのしか許可しなかってん。
それ故本当は商売っ気より実力派の連中も、TV・ラジオ等ではちっともそれを発揮出来ずに居たんだ。

その結果英語のカバーは未だしも単にシャウトの機会ばかりか 、特に日本語詞でのシャウトをする場面がメジャー系には存在せんかったん。
そんな状況下でいち早く消化して自身のモノにしてたのが彼で、他に挑み続けてた者より安定度が抜群だったんだ。

して私感としては意外にソロ初期にそんなのが多く、本人としちゃ歌謡曲アイドルを容認した代償だったのかねえ。
それと門外漢にはタイガースからいきなりソロになった感があるが、実際には伝説のPYGっつうBand期が間にあった。

正確にはソロ初期と結構ダブってたんだが、Liveへ行けないか行かない外野にとっちゃ触れる機会がとても少なかった様だ。
それ故Ⅱで如何に専門外とは言え最近迄その事実を知らず、だからこそ杜撰大王なんだろうけどね。

=つづく=

2024年12月19日 (木)

音楽備忘録1951 楽器音色一般のイメージと実際の違い➐

Cymbalで4回も粘るとは何時にも増して執拗だが、自覚がある中ではそれだけ生耳聴き印象の再現に四苦八苦してっからなのだ。
価格も然る事乍らかつてからの2大ブランドの片方が、今一元気が無いのも恐らくこれが一因なんすよ。

特に今劣化本邦ではどちらさんでも公正な競争原理がより機能不全に陥ってるが、選択肢が半減すると魅力が感じられなくなる層が出現するのが問題なん。
私具体的には杜撰君はずっとZildjianよりPaisteが好みで、理由は中高域が滑らかで美しいから。

この点チョコレートでも同傾向(と勝手に思ってる)があって、ザラ目感のあるHershey(米)よりLindt(スイス)の方が好きなんだ。
わどうでもいいとしてかつて勝手に残念認定してたZのが、デジタル化後は却って生耳との印象差が少なくなったんだよ。

そう云やエレキでもずっと2強な筈のGibson系が、どうも近年はFender系の後塵を拝してたっけかね。
時代に依って流行りが偏移するのは否定しないが、対抗馬がマイナーになるとメジャーな方をたまたま気に入らなかっただけなのにエレキ自体への興味が持てなくなったりするじゃん。

ある程度迄は時代の趨勢として容認せざるを得ないが、行き過ぎたら築き上げた文化の半分を失うばかりかムーブメント全体を凋落させちまうんだがね。
わ兎も角多少濁り感はあるが逞しいZと若干貧弱で軽いがより豊富な高域と艶が美しいP、元来はどちらも捨て難い完成度だからこそ長らく共存して来てんだ。

Pの本場スイスや周辺の欧ではどうか分からんが、もう少し後者の現物に皆が直に体験出来ると良いんだけどねえ。
過去名作では今比でプアな録音の癖にPのお陰で輝いてたのも少なくなかったが、近年のではPはOn Micが苦手なのもあってその差がかなり分かり難くなってもうた。

高価なんで気に入らん人には絶対薦めたりゃせんが、ホントはそっちの方が好みの人が憂き目を見させられてんじゃないかなぁ。
生ピでもBrightなYAMAHAと対抗馬の柔かいKAWAI、幾ら明瞭度忖度時代でも昔より自由選択が困難になったのはやはり悲報でしかない。

陰口叩けば今のYってかなり劣化版Steinway & Sonsな雰囲気で、良い物を真似して悪かねえが確たる独自性では正直二番煎じなんだよね。
それに追い打ちを掛けるが如く杞憂なのが、YもKも本国より海外での方がフラットな評価が続いてる処でしてな。

人気はどうあれせめて誰でも両方位は触れられる様になってないと、好みに合わなかった人は生ピ自体に興味を無くすかも知れねんだ。
本当にどれを聴いても駄目ならそれで良いが、全部を聴けなく聴けるのが極端に限定されては正確な判定すら出来ねえじゃん。

そしてそしてこの様な偏りに晒され続けてると、楽器音色の基準自体が狂って来ん。
その意味じゃ俺言い「中途半端な偽物」が最も曲者で、処が音楽供給関係者にとっちゃその辺が最好都合なのが又厄介なのだ。

等と一歩間違えりゃ完全な老害語りをしてるが、しつこく拘るにはそれなりの理由っつうか体験があったんだ。
敢えて更に余談に踏み込んで、次回はそれを自称完全版でお届けしませう。

=つづく=

2024年12月18日 (水)

音楽備忘録1950 音楽でのアイデアの実現方法③

感性面で真の天才だったらプロセスから自ずと閃くかも知れないけど、それを最大限に実用化するには結局最低限は学びが必要なのだ。
但し所謂学問的な感じとは異質なもんで、それこそ感覚的にはクイズの正解を見つけた位の極「軽い感じ」。

尤も感じが軽いだけでホントはそこがかなり分水嶺だったりするんだが、才能の無い者より自然と必要箇所だけに絞られて簡単に感じてるんだ。
我々凡才は幾ら修練を積んでもそこ迄単純化は出来ないが、あまりに逐一詳細な説明をされないとちんぷんかんぷんでは困窮させられる。

っつうのもより才能豊かな人とのコラボ機会すら失い易くなり、自ら集える相手のレベルを下げちまうだよ。
のわ誰だってなるべく簡単にすぐ分かってくれる人を優先するからで、持てる側に持てない者の心理は理解不能なんで往々にして天才は一般世間に対しては説明下手なんすよ。

と言いつつ別に持てる者を上に見てる訳じゃなく、才能豊かでも対人コミュニケーションスキルを全く向上させないと裸の王様同然になったりしちゃうん。
本来なら釣り合うレベルの人からはそのせいで敬遠され、どうにか集まってくれた連中は典型的太鼓持ちタイプだけ。

故に才能の如何に関らず、何らかの形・方法で一定以上他人に通じる様目指さなくてはならない。
要は感覚と共通言語の紐付けが必須で、それには学ぶ段階からなるべくその様な捉え方にしとく方が良い。

のコツとしては物理的・技術的にどれだけ高度かとかじゃなく、曲や演奏に対しての効果度とかに主軸を置くんざます。
この点での大魔王は今劣化本邦Classic系奏者のコンテストで、既得権益頼みのレッスンプロの巣窟と化している。

関係者には済まんが楽器演奏技術は鈍足乍ら日進月歩で、新技をフィットさせ易いのはどうしたって新し目のジャンルになる。
のわ過去に全盛を誇ったジャンルって市場は縮小するのが常で、それ故才能に溢れた作曲家も自然と減ってくもんだ。

すると仮に技能に絞ったオリンピックを標榜しようと、世界最高難度の奏者等相手にしない。
本来はそんなジャンルこそ豊かな音楽性で競うべきなんだが、それじゃあレッスンプロの儲けに直結しないから具合が悪いらしい。

まあそこ迄は仕方無いとしても海外出身者の様に「名を売る」のに利用するだけなら未だしも、誤った教育で権威だけを目指した今劣化本邦奏者の末路は実に悲惨なもんだ。
上位入賞者の何割がそれで売れたか田園調布に家が建ったかを見りゃ歴然で、運良くジャニーズにスカウトされた凡才の何百分の一しか稼げてないなんてさあ。

高級感や権威こそ損なわれずとも、そんなじゃブラック企業もおったまげーじゃないさ。
わ兎も角そんなのに気を取られてると、この件には最も不向きな自分になっちまうだよ。

例えばジミヘン・Clapton・Van Halen等一般的にはGuitaristとして有名だが、客観的功績として実は作編曲家としての方が貢献してんじゃね。
それからしても仮に才に恵まれず作編曲家としては大した実績を残せないとしても、そう云う観点でフレーズや技も考案してかない事には厳しいよ。

=つづく=

2024年12月17日 (火)

音楽備忘録1949 ’70年代Rockの浦島太郎⓭

久々で前回補遺からにするが強く弾くには違いないが、決して力任せとか雑にやって成立してた訳じゃないからね。
残ってる映像とかだと随分ワイルドに見えるのもあるけど、高度な演出若しくは今とは異なる事情で画と音が別録りされてたんだよなぁ。

この際だからいきなり「当て振り今昔史」としてプチ余談と洒落込むが、一般的ビデオが普及する迄は映像と音の同時収録は諸事情からとっても難しかったん。
加えて映像作品では画質は低いは、今比だとLiveでも必要最小限PAが主軸だったんだ。

その上人権皆無の無茶スケジュールが罷り通ってたし、フィルムじゃ同一メディアへの上書きなんて無理。
それ故今とは比較不可な程「記録」ってのは非日常的なもんで、今は常識の部分ミスしたらそこだけ取り直しなんてのが普通になったのは’80年代以降なんすよ。

本番がやたら多く録りは特別となると自然と誰だって、目覚めて途端に弾いても大体レコードと同じになる様に普段からしとくわな。
そんな状況から「しっかり弾き切る」癖が是又自然と身に付き易く、多数派がそうだから歪みもGain依存一択なんて全く考えられなかったん。

言い方を変えれば必要以上のGainを殆ど誰も欲しがって無かったとも言え、不足分をBoosterで補ってたからって勘違いしちゃ恥ずかしいで。
併用してたのは殆ど非Hi GainタイプのAmpで、その片鱗がJohn Lennon/Live Peace In Toronto 1969で
のClaptonのGuitarサウンドだ。

歪ませぬ想定のAmpに無理矢理盛大にBoostして突っ込んだっけ、球初段が飽和して妙に潰れた音になっとるがな。
石より良好とは言え球だって無理に1段だけで深歪みさせようとすると、潰れた挙句それでも止めなきゃ最後は蚊の鳴く様なちっさい音しか出なくなる。(死に掛けの球で実験済み)

何れにしても音色も安定度も求めるのには程遠くなり、すべからくリアルOverdriveではなるべく全体で歪みを追加してかんと深くなんか出来ねんですよ。
具体的には今の3段階歪ませ仕様のAmpだと、深さが中間のCrunchで一番歪ませた程度で電気的には限界なんだ。

あっそう云やあのSmoke On the Waterの冒頭からのリフもそれに次ぐ感じで、こっちは意図して潰してた可能性もそこそこあるが。
それ位今比ではプアなのしか無くて、Ampのカスタム改造が軌道に乗る以前はそんなのでHard系のも賄ってたんだ。

結局音色的歪みの深さは既にBeatles-RevolutionのJohnの程度で天井に届いてて、以降はFuzz系(潰れを許容)以外同じ深さでも音色ニュアンス違いとか継続時間の延長程度しか余地が残って無かったんすよ。
ので現実的には環境適性から最新Effectorを利用するのもやぶさかではないが、歪みの具体的なメカニズムを一度は学んどいた方が良いんすわ。

でないと最悪は今や膨大なバリエーションとなったストンプ等を単純に片っ端から試しても、どうにも各自が拘ってる箇所にフィットするのが見つけられなかったりするんだ。
それと今劣化本邦で表に出て来る情報は一部のみとなってて、困って迷惑千万な事に海外の様に歪ませの全貌が誰でも知れる状況じゃ無いんすよ。

=つづく=

2024年12月16日 (月)

音楽備忘録1948 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑦

今回は「順位がおかしい」の副題でお送りするが、今劣化本邦では歴史的意義より人気や馴染みばかりで順位が定まるらしい。
確かに個人のリアルタイム体験だとか色々加味されるのは分からんでもないが、単純に一番凄かった・偉かったのはと訊かれて私情が入り込み過ぎるのはどうも頂けませんわ。

何が最大の問題かったら歴史認識の歪曲に始まり、ひいてはその分野の普及・立場・価値等さえゆがめ兼ねないからだ。
例えば令和の今野球と言えば大谷翔平で間違いないが、時代・年代不問でとなると代表されるべき存在は長嶋茂雄っすよ。

そもそもかつてヲタ専用だった職業野球が、庶民のエンタメになったのは彼の影響だからね。
初期の偉人沢村栄治・初めて世界記録を作った王貞治だって全く無視出来ないし、今歴史を作りつつある大谷君もそりゃ本当に凄いよ。

けれどそれ以前にMLBで大活躍する事の価値を皆がもし分かって無かったら、専門記録にこそ残っても庶民の記憶になんか幾らも残らないに違いねえさ。
実際日本人メジャーリーガー真のパイオニアは村上雅則氏なのに、世間一般認識は良い処野茂英雄氏になってるじゃん。

と来た処で音楽にも有難く無いがそれはあり、特に近年気掛りなのが洋楽と過去の邦楽の立ち位置だ。
基本的に功労者って始めた人と普及させた人が先ずポイントになり、それは各個人の好き嫌いを超越した価値がある。

何せ始祖が居なけりゃそんなジャンルやスタイルが存在し得ず、次に普及させなきゃそれこそ正にポピュラーにはなって無いかんね。
処で誤認回避で語っとくと私的好みを否定するってんじゃなく、良い意味で好みと世間の評価を分けるべきだと思ってんすよ。

それが平成の内はまあ容認出来る状況だったのが、令和になって壺政府の歴史歪曲の悪影響か知らんがポピュラー音楽の歴史までおかしくなって来やがった。
のが政治案件よりとても困るのが、俺言い「行ける所迄行けなくなる」からなんよ。

音楽ではどんな大天才だろうといきなりゼロから百なんて生み出せず、せいぜい数パーセントしか進化させられねんですわ。
是又誤認回避で説明しとくと印象は劇的変化でも、内容は精査してみればそんなに大々的には変えられてないん。

寧ろ内容を総入れ替えしても聴いた感じが幾らも変わり映えしなきゃアウトで、それ故どんなに大昔のだろうと一応一通りは耳を通しとかんと危ねんだ。
勿論自身の専門や時代が果てしない程遠くなりゃ限界もあるが、表面的に導入し易いのなんかにゃ真のヒントはねえんですよ。

何しろ今の情報は誰でも容易く入手可能で、音楽だとそんなの初心者でもすぐ獲得出来るんだから。
そして重要なのは年寄りの誰もが本音では昔は良かったなんて思ってない処で、それでも挙げるとしたら何等かの重大な要素をその作品が持ってるからなんだ。

ので一番罪なのは安易に若者にウケ様として、今の流行りのなんかを平気で支持する奴な。
その結果今は劣化本邦に成り下がった訳だが、過去の日本のにも散発的ではあったが結構外すべきじゃないのがあったんよ。

等とほざきつつそれを杜撰大王がちゃんと理解したのは最近と情けないが、例えば沢田研二の一部なんか全然今よりRockしてたのがあったなぁ。
色々あって悲しいかな今は見る影も無い程豹変しちまったが、音楽作品自体はやたら流行を追っかけたの以外は人間より老化しないってのを皆忘れちゃたのかな。

=つづく=

2024年12月15日 (日)

音楽備忘録1947 楽器音色一般のイメージと実際の違い➏

Cymbal3回目は同じDrumsetの一員なのに、太鼓より把握を難易化してる理由からざます。
色々御座居ますでしょうが生との比較なので、ここは人耳の性質に焦点を当てるのだ。

要するに周波数次第で感度や耐音圧が異なってるんで、太鼓より金物の方が冷静で居られる最大音圧が低いん。
加えて指向性(この場合は音の拡散性)にも差があるから、超本格的なの以外Live PAでCymbal類に構えるMicが省略されてたりしとん。

キャパ100人程度の広さ迄は、そんなでもまあまあ普通な感じに聴こえるんだ。
そしてタイプにも依るが基本的にCymbalってOn Micとは合わない性質で、これが録るのに色々困り事を増やしてくれちゃうん。

さて現代で最も生に劣るとしたら「艶」で、Cymbalに限った事じゃないんだけどね。
私感では持続音系の楽器が余計損してる風で、現行PCM等デジタルの時分割って方式が仇と考えている。

過去述俺言い「目立つ倍音」を強調して誤魔化すっつうか補填してるんだが、アナログ時代より艶には貢献してくれなくなってもうた。
加えてなまじ超高域の損失が減ったんで、ホントはその分艶も増やしたいんだけどね。(解放感がUPする分相対的に艶が引っ込む)

ほいでコレ生耳で実際にはフルに鳴ってんだけど、冒頭の理由で比較的目立つ倍音と艶だけが割と印象に残り易いんだよ。
思い切って超高域を捨てられれば良いんだが、そうすると過去作の艶だけ劣化版みたいになっちまうし。

の対策として現況で有効なのはMicを球コンデンサにするとか、球のMic Preにする位だ。
モデルやタイプ次第でパッと聴きじゃ僅かな効果しかないが、アンサンブルに入ってから地味乍らそこそこ相違が出るんすよ。

Cymbalだけに注聴すればほぼ変わらないんだが、他パートと比べたりレベル的に全然小さくしてないのに何か埋もれるなとかが解消するん。
それを加味すると曲中のここぞの一発だけ目立ちゃ良いんなら相も変わらず盛っときゃ良いが、ちゃんと奏でたのに変な処で存在感希薄になるのを防止出来るってな感じ。

残念乍ら所詮この程度じゃ全然足りちゃいないけど、音楽での楽器の音色って物理スペックより感性の影響が甚大なんだ。
一見後ろ向きな思考だが、それがあるからこそ低音質な過去名作が未だに一寸は「聴ける気」になれるんすよ。

その際は聴者への想像力依存度が爆上がりしちゃうけど、不足分があったなら「正しい方向へ想像可能」な余地を与えとくのが最重要なんじゃね。
この観点からだと現状の過半のは、例え欠落が数%でも↑を恐らく履き違えてんるんだ。

その行為は今売ってる音楽だけ売れりゃ良いってなもんで、実際よりCymbalの魅力を矮小化して後継・将来に大きな汚点を残しとるがね。
これは商業観点からしても愚策で、何時から音楽と楽器等の所謂「セット販売」戦略が潰えたんだろう。

=つづく=

2024年12月14日 (土)

音楽備忘録1946 音楽でのアイデアの実現方法②

失念し易いレアフレーズって正統な理由はあるんだが、殊新規開拓を試みる際には放って置いたら結構障害になるん。
の最大要因は無理な領域に没頭しちまう事で、もっと簡単に料理出来る領域が疎かになるんだよ。

手前味噌の1足3連にしても当初は決してツーバスに対抗しようとした訳じゃ無く、もう1つだけどうにかリバウンドを活用出来ないもんかと思ったん。
っても発想としてはこんなの序の口で、誰だって追加は考える。

それより一段階上のは「何処かを思い切って抜く」で、これはポピュラー系には本来必定な手法なんだ。
Beatlesの正規メジャーデビュー寸前のとデビュー後の作風が正に典型的正反対で、必ずしも後から腕が上がって凝ったのを演り出してた訳じゃねえんすよ。

ビフォーアフターでの最大差ったらインスト曲の有無で、寸前迄は演奏力や編曲力のアピールになる様なのがあったん。
のを不採用に懲りて曲の良さだけに全振りしたのがアフター期で、Love Me Doなんか俺言い「極限のダイエット編曲」を施しとったん。

まあ象徴的とは言えこれは極端な例だが、もっと些末な領域でもこの本質は変わらない。
その例として拙ブログでは随時登場のPaul Humphreyを聴けば、曲調が許せばSnareとダブってモロ被りしてさえバスドラを全部裏拍でしか踏まなかったり。

彼はJazz出身でテクには余裕があったし、誕生1935年と戦前世代にも拘らずちゃっかりSlide Doubleなんかも頻用してたってのにさ。
’70年代の時点でバスドラが多い方ではBONZO等と拮抗してるが、少ない方では全く目立たないが一枚上手を行ってたんだ。

当然↑みたいな常識破りは請負い仕事では殆どせず、リーダーアルバムで実行してたんだけどね。
それにしたってソロ作も曲中心で自作してて、Drum自体に忖度したのはせいぜいアルバムに1曲あるかないか。

この様に見世物的目立ち度は限りなく低くても、音楽的には大きな影響を与える存在に先ずは気付くのが大切なんだ。
ってかそもそも目立つのばかりを参考にしてりゃ、そんなのとっくの昔にもう大勢がチャレンジしてるっての。

稀にはそんなのからだって奇特な着想を得る者も居るだろうけど、掘り尽された金脈から砂金を採掘するのは非効率には違いない。
加えて極めて重要なのが自己の俺言い「匠スピリットの養成」に響く事で、与えられた物に何の疑問も抱かぬ様では革新は行えない。

職人もレジェンドだろうと駆け出しだろうと概知定番の作業ならそんなに大差無く熟せるが、無理難題の解決を迫られた時には歴然の差が出る。
これはレジェンドスポーツ選手その他にも共通で、単なる体力や直接の才能差なんて人間如きではタカが知れてんの。

最後にその袂を分かつのは頭(知恵・発想の柔軟性)で、テコの原理よろしく同じ力でも何処へどう掛けるか次第で結果は大巾に変わるっしょ。
それには知識も助力にはなれど感性が大問題で、演奏アイデアだけにしてもその影響が絶大なんすよ。

実現に漕ぎ着けるには実行力も大事だが、そればかりを気にして夢と云う冒険心が希薄になってはねえ。
発想自体が徐々に貧困化して行き、既存の常識に何時しか縛られちゃうんだ。

各個人には元々素質とか性質がありそれを簡単に覆せはしないが、だからこそ不適切な習慣等の影響を受けて固まっちまったら大損じゃないさ。
何れにしても創作には訓練以外の目的で、トレースは不要なのだ。

=つづく=

2024年12月13日 (金)

音楽備忘録1945 ’70年代Rockの浦島太郎⓬

さて前回の件ここ迄だと過去語りの範囲に留まっちまうから、深掘り第2弾として杜撰大王が痛感させられた体験談をば。
例に依って偶然と幸運が大きく、但し当時としては不幸中の幸いが多かったんだけどね。

自称俺言い「常貧」の立場としては、エレキAmpは長く何にでも使えるのが良い。
その時点で判明してたのは①Bass練習にも使える②Liveにも利用可能と、是又たまたま歴早期段階で悟ってしまった③オールチューブと云うものだった。

となれば当然それなりの出費は覚悟しなきゃなんないが、流行りや新製品であるより実利オンリーで中古「不人気」廉価品の中からチョイスしたんすよ。
その結果回路方式的には少し旧式で最大出力に劣る物となり、整流管ってのがあって他のより5W程劣る代物となったん。

当時1980年頃の日本ってエレキAmpではモアパワー全盛で、それにはかつてのエレキブーム当時やGS時代の非力さが多分影響してるんだ。
海外での実情に疎い者が多かったからか、Hard系等にはあまりにも非力なのが標準でね。

最大音量ばかりか「Ampを歪ませる」のが中々浸透せず、’70年代一杯は「音が割れてるから音量下げろ」「Ampが壊れるから止めろ」なんて輩がしつこく残存していた。
実際国産の多くでは非対応設計のも少なくなく、杜撰君も所持してた石のBass Ampは珍しく新品にも拘わらずそれが祟って早逝させてたさね。

尤も当時感覚・認識では「今にも壊れそうな音色」だからこそRock向きと感じてて、本場ではそんなの’60年代には皆が気付いててとっくに対策されてたんだがね。
そんなだった状況の実体験が無いと今では俄かに信じ難いだろうが、その結果多くの国内Rockは音色的にも本場より魅力の劣るのが多かったんだ。

その他に歌詞の乗せ方の稚拙さ等もあって杜撰君はより洋楽信者と化してったが、もしそれ等弱点が無かったら違ってたかも知れないって位だ。
等と上からっぽく弾劾出来る様になったのは’80年代半ばを過ぎてからで、どうにもおかしいとは感じてたが入手した中古球Ampで一通り捏ね繰り回しを終える迄は今一確証が持てなかったよ。

この件で日本は環境的に狭小故の騒音案件のハンデは大きく、継続的実体験をし辛いのは苦しい処ではある。
だが知ってて普段は妥協するのと知らずに甘受するその差は歴然で、それがプレイに直結してるのはもっと重視せんとアカンがな。

そんな中で杜撰流第1の発見は歪みの浅さで、聴いた印象程AmpのGainは上げてないっつうのだ。
少々表現に窮するが聴いた印象に嘘は無く、しかしGuitar本体のボリウムには触れず弱く弾いた箇所の歪みが随分と軽い。

のわフルピッキングして足りない分だけGainを上げといて、今の平均的常識よりかなり強く弾いてたからだ。
’90年代以降はEffectorの進化・充実で少しの音色変化でも切替で得るのが常套手段化してるが、少なくとも録音じゃ表現巾を優先してそんな真似を当時はしてなかったからさ。

この方法の利点は上記の如く表現巾が広くなる他、全体への影響としてローノイズ・高音質になる事ざんす。
感度が低くなる分周辺雑音は拾い難くなるし、楽器の位置修正等で出る雑音も小さくなるんすよ。

=つづく=

2024年12月12日 (木)

音楽備忘録1944 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑥

再び国内過去レジェンドの話しになるが、Rockに拘るとある傾向があったのに最近気付いた。
のが独断と偏見に満ちてるかも知れないが、不純物の少ない存在がとても少なかった件だ。

杜撰大王がここで言う不純物とは非Rock的要素の事で、私的にはそれが原因で手放しでは没入出来なかったんだ。
具体的には他ジャンル臭が強すぎる等で、広義のPopsとしてなら人次第では許容範囲内にあったんだけどね。

少々身勝手な基準だろうけどRockに飢えてる者に他の要素の方が多目になったら、ガッカリさせられちゃうんだよ。
普段ならジャンル不問でなるべく曲の水準が高いと喜べるが、旨い肉を食べたくて焼肉屋に行ったら今日のお薦めは刺身と告げられる様な感覚っつうか。(流石に現実でそんなの先ず無いだろうけど)

別で比喩るなら最高に気に入るデザインの服だったが、どうにもサイズの合うのが無かったみたいなさ。
勢いついでで早々のプチ余談に突入するが、杜撰君って唯のチビに非ずリーチ・肩巾・首の太さが全く標準値とちゃいましてな。

だから大抵の場合↑が苦しいのを我慢するか、やたら着丈が余るのを我慢するかの選択に迫られてん。
これ見た目だけだったら未だしも実用上の諸問題があって、例えばある上着では前ファスナーの最下部が綻びちゃってんだ。

どうしてそうなったったら座るのに腰を曲げた時、余剰長さのお陰で変な方向に引っ張られるからなんだよ。
見てくれを無視してもこう云う不便はどうにもならず、かと言って全部オーダーメイドにするなんて貧で無理だし…。

音楽でも同じようなケースが起きてて、歌謡曲・流行歌としてなら聴け無かないし一定の評価を与えられるんだけどね。
っつう処で唐突に実例へ進めると「ハイエナ」って曲は最高の出来栄えだが、パンタ氏率いる頭脳警察自体は全面的に支持出来ないとか。

この時期のRock系では折角歌詞レベルがかなり高いのに、日本語とか歌詞を大事にし過ぎたかメロやサウンドが全然Rockじゃないのも盛大にあってね。
結果インスト系の一部にしか大丈夫なのが見つからなかったが、今度はJazzとかFusionが乱入して来る有様で。

Char先生曰く彼のメジャーデビュー頃はまだ日本にRock市場は存在せず…ってのが、正にこう云う事だったんでしょうな。
故に’70年代中は国産Rockってぇと、私感ではJohnny,Louis&CharかせいぜいYMO以外空席でんがな。(飽く迄Rock成分が他を上回ってる条件でよ)

未だそれは継続中ではあるものの、J-POP等に収まるには平成以前から続く他ジャンルと紛らわしいのは今は受容れられなくなりつつある。
それもあって日本の過去のRock系の「今でも使える箇所」迄継承が円滑に行ってないと感じてて、何より過去名作より到達点が稚拙なままに留まってるのがどうにも頂けない。

多分これを打破するにはサンプル収集の方法に問題があり、面倒でもアーティスト単位じゃなく曲単位で攻めると良いんじゃないかな。(この老害自身がちっとも全貌把握に至ってない😓)
是迄色々紹介して来た外タレ(又死語け!?)にしても割が良いだけで、杜撰君には神同然のBeatlesですらその全てを取り込んでる訳じゃねんだ。

=つづく=

2024年12月11日 (水)

音楽備忘録1943 楽器音色一般のイメージと実際の違い➎

Cymbalの2回目具体面に進む前に、世間でもっとレアな楽器との関係に少し触れとこう。
それ等に関しちゃ生もデジバーもへったくれも無く、殆ど誰も実態を知らないのよりゃCymbal如きは恵まれてる。

がそれだからこそ偽物の方が信憑性があるなんて不幸な事で、前回末記のモノホンを偽物の方へ安易に寄せるなんてと感じとん。
この考えの元の1つに初めてデジタルPCMを聴いた際の印象ってのがあって、私的願望・妄想に反し結構大人しい音なんだと感じたのがあんねん。

今に至ればアナログの方が小汚くても逞しい音が出せるのを知ったが、当時は色々欠落させられるから録ると生より迫力を損ねるんだとばかり思ってたのよ。
その根拠の1つにダイナミックレンジの雲泥の差っつうのがあって、要するに最小音と最大音の落差が取れる程普通に考えりゃそれこそダイナミックになる筈だべ。

で実際ある程度はそうなんだが唯の音じゃなく音楽となると、当時思ってた程は音響ダイナミックレンジが迫力や強弱表現には直結してなかったん。
この件での杜撰君最大の見落しポイントは、人間ってかなり音色の変化でそれを感じてた事。

ってのは単に聴けるかどうか
音量の最小・最大と、音楽として身構えずに聴けるかの巾がかなり違ってたんすよ。
後者は聴取環境で増減はあるものの、常人・凡人の耳はそんなに激変するのには着いて行かれへんの。

具体的には大人しくしてないと聴き取り辛い場合は所謂聞き耳を立てた感じになり、一寸大き過ぎと感じた時ゃ不意のそれ以上のに耐えられる様にわざと聴覚を鈍らせといたりさ。
そんな癖っつうか性質があるから標準的Cymbalみたいに日常からすると爆音になるヤツは、そもそも生で聴いても余程環境条件が適切じゃないと音色を正確に把握出来てねんですわ。

杜撰大王とは言え自身の失敗として過去に聴いた屈強な感じのが、実際は割と普通ので賄われてたってのがあった。
これはCymbalのみならず太鼓の方でもで、どうやら叩き方・鳴らし方・微妙なタイミング等が主因でそんな風に聴こえてたらしいん。

ここでのそれはEQとかコンプとかそんなのより、奏でた時点での原音の事でっせ。
構造が単純な楽器程奏で方での音色差って大きく…あっ、但し何かピンポイントの用途に特化させたのは除くけどね。

そうでなくとも極端な性質を持たされたヤツって全く応用が利かんが、全数オールハンドメイドのから厳選でもしない限りは楽器の持つ音色+奏者の持つ音色で個性が成立してるわな。
上記後者には楽器の出せる音色の範囲が狭いと各自の個性が乗せられず、それってまあ無理に良く云や誰でも得られる音にはなってくれっけどさ。

でももうほんの少しだけマイルドにとかシャープにとかの加減が無効化され、それが単独なら未だしもアンサンブル内に入ると致命傷になったりするんだ。
そりゃ他が全部打込みで何時も同じ音源しか使わんなら、まだ時間を掛けてベストコンビを追求するのも可能かも知れないけどね。

それが人間って苦節云十年よりか楽に今すぐ手に入らんかと思いがちで、しかしそれって一生何でも全て「臨時」で過ごしてく様なもんなのよ。
それはラッキーもすぐ暗転、平和もすぐ戦争になっても平気ならもう何も言わんが…。

=つづく=

2024年12月10日 (火)

音楽備忘録1942 音楽でのアイデアの実現方法①

何時にも増して身の程知らずの大胆なテーマだが、最終的には当たって砕けて花と散るしかない。
って言うと終わっちまうが、ギャンブル性を排除するのは不可能ざんす。

けれど世の中には俺言い「容認されたギャンブル」っつうのは沢山あって、依存症になっちゃ大変だがそれさえ避けられれば問題視されてないのも少なくない。
勿論その線引きは人次第で千差万別で、杜撰君は未だ愛煙家だがそれを否定する人も昨今は増えたね。

だが音楽で個人レベルでなら騒音公害とかにならない限りは、少なくとも他人に直接的な害は与えねんだ。
タバコだと期せずして煙があらぬ方向へ漂っちまったり、それより遥かに多数派にして深刻且つ最悪なのが泥酔だ。

呑んべえ殿に徹底的に釘を刺しときたいのは、感覚・神経・判断力とも酔うと無自覚で劣化するからだ。
いやこれだけ皆が呑んでるんだから…確かにそうだが、子供以外にもドクターストップで呑めない人だって幾らでも居るんだよ。

のでもし呑みたいなら最低でも嫌煙権ならぬ俺言い「嫌呑権」的発想を持てないと、必ず誰かに想定以上の害を与えるから十二分に気を付けておくんなまし。
音楽だって徒労とか時間を逸失する恐れはあるけど、他のに比べたら遥かにローリスク。

それ故取れ高にさえ固執しなきゃ善良なギャンブル!?なんだけど、そうは言っても何時も全く当てずっぽうじゃ幾ら何でも分が悪い。
アイデアは無尽蔵なだけにそれを可能化する方法もキリがないものの、だからって全く何の手掛かりも無いって訳じゃねえんすよ。

そこでその1は「既存のの発展形を模索する」で精査した事無いから正確性に自信は無いが、新案の大凡7~9割はルーツを辿ればこれなんじゃないかな。
それじゃあ今一つまらんと嘆く事なかれ、理屈では進歩が僅かでも用途・使用法を鑑みると革新的だったりするのだ。

今劣化本邦ではかなり下火な3拍子系のシャッフル、4拍子より1拍減っただけで従前若しくは杜撰大王様以外にはリズムバリエーションが一寸乏しかった。
のがお得意の1足3連が使えれば、劇的に選択肢が増えるんだよん。

今更だが例としてメリットを羅列してけば片足しか使わないから、バスドラの為に犠牲にしなきゃなんないのが格段に少ねんですよ。
これこそがツインペダルやツーバスの弱点でバスドラにかまけてる最中だと、例えたった1音だけHi-Hatのオープンを入れたくても入れらんない。

って事ぁ敢えて1足3連の欠点を暴露すれば、↑みたいなのを別にしたくない時ゃわざわざ苦労して片足で3つも鳴らなくたってエエねん。
これは片足で4つ以上鳴らすのも同様で、何かしらの必然性があるか持たせられなきゃ宝の持ち腐れになるだよ。

そう考えてくと意外や意外、然も無いフレーズを沢山知りその意義を先ず見いだせないとさ。
その内容は例に依って次回以降送りとするが、当初はアホみたいにシンプルな中からの考察がお勧めなんだ。

それと一旦リセットして既成概念を捨てるのもとても重要で、こっちはあまり使われてないが実現可能なフレーズがあったのを想い出させる。
これは無いから使えないとの思い込み原因の1つになってて、使用法自体の範囲をも狭めてんだ。

=つづく=

2024年12月 9日 (月)

音楽備忘録1941 ’70年代Rockの浦島太郎⓫

今回は「標準的な楽器で色んな音色を奏でる」を副題に据えるが、私感ではコレ結構大事なのよね。
少なくともそれを経ないでジャンル特化させたつもりでも、ツールは兎も角奏者の方がそれじゃ成り切れてねんですよ。

’70年代当時だって最終的にはカスタマイズを加えて各ジャンルに特化させてってるけど、後にレジェンド奏者となった殆どは登場時点では殆どそんな真似してなかったのだ。
その意味する処が奏者にとっちゃ影響大で、楽器より主に扱い方で特徴的な音色を出してた訳さね。

さて実はもうこの時期楽器類はジャンル特化型が出始めてたのにどうして↑(人力依存)が断然主流だったかってば、スキル習得にはそれなりに時間が掛かるからだ。
つまりは取組み始めた時は特化型楽器未登場だったんで、求める音色は弾き方・扱い方で得るものって認識しか無かったんよ。

確かに一時的に○○風にしたい時ゃ特化型の他打込み音源なんて狡い位簡単で良いが、音色だけでジャンルが決定するなら大昔のFuzzだって全部Metalの先祖だ。
音色だって重要素にゃ違いねえが、少なくとも同等な位使い方や表現方法にも左右されんねん。

なのでリアルタイム体験不可の世代が後年聴いたら、何でこの程度の軽い歪みのがHard系なんてされてたんだろうと思っても不思議じゃない。
だがそれは表面的な事象だけで判断するからで、音楽的内容の過激さ等からしたら今のMetalの方が全然緩かったりするんすよ。

特に今劣化本邦じゃどんな音楽過激派でも、裏金議員を皆殺し血祭りに上げろなんてのが全然出て来やしてねえじゃん。
幾ら何とかコードがあるにしたって生活苦に我慢し切れなくなって、せめて罰が当たってざまあ見ろ程度のが1つ位は出そうなもんだがね。

まあそれは兎も角道具依存の音色って外す心配こそ無いけど、ジャンル特有の演奏力養成に大きな障害になってんすよ。
しっかり弾き切らなくても平気となると、肝心な時の音の存在感や通り・抜けが足りなくなるん。

差し詰め日米プロ野球の相違みたいなもんで、常に馬鹿力に頼るのはアホだが同じ位要領だけに頼るのも愚なんすわ。
野球に限らずパワーとテクは状況に応じて使い分けたり比率を変えるべきもんで、獲得可能な範囲のパワー迄放棄するなんてな愚の骨頂。

Classic系は未だしも今劣化本邦ポピュラー系では勘違いしてる奴がかなり多く、電気楽器も「半分は生」なのを忘れてるんだよ。
幾らエレキの威力が絶大に感じても、音量は兎も角音色の質には大きく影響があるのだ。

それで一寸罪なのが最初からフルに弾いた感じが出せるEffectorで、実際は似て非なる物なのに騙されてる人が多いん。
そりゃ背景が絶好の環境だったらそんなに差は出ないが、苦境になる程元が「どう弾いてるか」の差が拡大するねん。

の実用上の弊害としては最低限のバランス時に全部聴き取れるかとか、埋もれないで済んでるか等に現れるんよ。
つまり機器依存でエエ加減に弾いたのだと、そんな際レベルを大き目にしなきゃなんなくなるん。

それが単独主役時なら良いが、アンサンブル内では少々迷惑な存在に成り下がってしまうんだ。
或はちっともそんな意識は無いのに、ナルシスGuitaristと濡れ衣を着せられるかも知れねえよ。

=つづく=

2024年12月 8日 (日)

音楽備忘録1940 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ⑤

過去のアーティストのパフォーマンス程残された記録に実力が現れ難い件、具体例を幾つか掲げてもうちょい掘ってみよう。
前回はその原因の内無茶苦茶なスケジュールとコンディションだけ提示したが、他にも数多の原因のお陰で必ずしもベストパフォーマンスが記録に残せてないケースがあったんだ。

最初に現在迄で最も上手かったのは恐らくBeatlesと敢えて半ば断言しとくが、飽く迄「総合得点」観点で見た場合だ。
只それですら証拠が残ってて判明してる分限定で、内容が素晴らしくてもあまりウケ無かったのなんかには録音機会が少くて確証が持てないのが幾らでもおま。

Recordingにしても予算や人材供給の都合次第で、一体何%本人or本人達のニーズが達成されてたか分かりゃしない。
それ故人気やウケが今一だった人は、例えば本人の作品より誰か有名人のLiveへ飛び入りしたのなんかの方が信憑性があったりもするんじゃないかな。

今だって録音技師等のレベル差は残ってるが、取敢えずデジタルならクリッピングにさえ気を付けとけば事後処理でどうにでもなる。
因みにクリッピングとは過大入力で「音波波形の頂点が頭打ち」する事で、アナログだって歪ませないに越した事は無いがそれだと雑音が目立ったりダイナミックレンジが足りなかったり…。

戻ってそれより機材差が顕著で超高額なのを筆頭に、可搬性・操作に必要な人員等数多の制約があったんだ。
のに対し今だと最小はノートPCとUSBインターフェイスさえありゃ、開幕寸前にポチっとしときゃ技師レスでさえ録れちまう。

加えてLiveやSession時のデフォルト環境もあり、今みたいに全部にMicを構えといてPAを常用してなんか居なかったからねえ。
ので普段よりMicが林立してたり様子の違うのが、パフォーマンス全発揮を阻害してる可能性もあった。

そんな中一般認識ではZEPよりPurpleの方が整った演奏の記録が残ってるが、ブートレッグ等へも耳を向けると少なくとも腕前に大差は無かったのが知れるだろう。
又Hard系の中での最大のウリに両者は少し違いがあって、前者は観客の反応(盛上がり)が後者はインプロビセーションの秀逸さを優先してた様だ。

のでⅡでLive盤発売に際し、前者は演者のパフォーマンスがベストでは無かった可能性が濃厚だ。
のに対しⅡで後者も何時もアドリブが完遂してた訳じゃ無いのに、不出来なのは公式盤として決して出さなかったかんね。

又演奏のテクレベルの差は象徴的なのだと誰にも分かり易いが、それに惑わされて過去の者・物を低く見るのは浅はかだ。
鳴らすのに一苦労・臨んだ表現にするのに一苦労・所望音色を得るのがとってもセンシティブ…等、あらゆる面で今とは段違いの環境下でのパフォーマンスだったんだよ。

現代EffectorでのFuzzサウンドって初心者でも難なく出せるけど、初期のヤツはゲインが不充分だったり足りたと思ったら今度は途端にグジャグジャに潰れちまったり…。
杜撰大王は貧もあってジミヘンの使ってたの自体は未体験だが、電気的には同じ回路の自作模造品でこっ酷い目に遭っただよ。

-続く-

2024年12月 7日 (土)

音楽備忘録1939 楽器音色一般のイメージと実際の違い➍

続いてはDrumsetの内先ずはCymbalについてだが、私的には録るのに悪戦苦闘がずっと継続している。
当初はマイキングにだって問題多々だったが、Micも含め何より貧機材との闘いだった。

厳密には高域だけ拾えりゃ良いってもんじゃないが、そこが必要なだけ拾えん事にゃ話が始まんない。
だがアナログテープ時代は何しろ高域が苦手で、録ると削れてそれを再生すると又削れてだから到底無補償なんかじゃやってけなかった。

そこから編み出されたのが過去述目立つ倍音の死守で、実際には守り切れなんかしないからEQで事前盛りをしてやる事となる。
んが上記2点が解消してもまだ問題があって、それが生耳聴きで最適化された音色や指向特性ざんす。

’70~’80年代の一時期にレコーディング専用と銘打ったモデルもあったが、当時の主流録音システムに合わせた物だから今じゃ大してそうなってくんない。
結局現時点迄で生耳聴きの音色を犠牲にしたのなんか出ておらず、PAを通したり録音を経ると違う音になってまうん。

まあ普段一般庶民にとっちゃそんなに詳しく知れる必要も無いのが救いではあるが、生演奏の盆踊り等の祭・チンドン屋等が生活から遠のいたのは残念だ。
ラッパにしたってそうなんだけどチャルメラを色んなシチュエーションでリアル体験してるかどうかって、基本楽器音色情報案件としてはかなり深刻化してんすよ。

その1は爆音に不慣れだと音色印象は音量次第で左右されるで、同じラッパでも豆腐屋のと屋台ラーメンのじゃだいぶ印象が違った。
昭和生活だと夕刻は干してた洗濯物や布団の取り込みをしてたから、家の開口部の何処かが開いてる場合が多かった。

のに対し夜間帯がメインのチャルメラの方は気密性が低かったにせよ、雨戸迄びっちり閉じられてたかんね。
それに対応させたか私感に過ぎんが、眼前だとチャルメラの方が倍位の音量を出してた覚えがあるねん。

尤も背景雑音が夜間の方が圧倒的に少ないんで定かじゃないが、これ等程度の最大音量なら聴く距離でそんなに音色印象は変わらない。
チンドン屋にしても同様だが、やぐらの上のデカい和太鼓となると俄然話しは違って来る。

適度に離れれば一部を除き全体の音色が把握可能だが、眼前でドォンと演られるとその音圧が一般人耳では飽和して今一釈然としなくなる。
但しローエンドに関しては逆で、物凄い振動としてその圧を嫌でも体感させられる。

でCymbalへ戻るとストリート用小径の以外常人には爆音のばかりなので、一定以上の距離が取れないと音色の素性が理解し辛い。
処が離れれば周囲雑音や残響の影響が大抵加わるから、昔じゃなくても元々正確に把握する機会は少なかったん。

それプラス生楽器は奏者の腕と楽器の質でも大きく左右されるんで、これ等が劣ると本来の音色が得られてないケースがあるん。
そこへデジタル音源なんかが普及してそっちの方が良さげに聴こえりゃ、そちらを基準としてしまうん。

更にはそれ等音源でさえウケ狙いで耳慣れた(完パケに入ってる加工済みの音)方を主に登用するもんだから、差し詰め無理が通れば道理が引っ込む状態に陥ってんすよ。
そうこうする内今度はリアルCymbal自体の音色味付けが変な方向へ行き出して、何が何だか訳が分からなくなってるのが現況なんじゃないかな。

=つづく=

2024年12月 6日 (金)

音楽備忘録1938 エレキBassのCreamyな音色の魅力⓱

この項ラストは、「エレキBassは誰にでも少しはCreamyさが要求される」をお送りしよう。
当節明瞭度と高音質は必須条件ではあるが、それだけに気を取られるとBassってロクな結果にならないんすよ。

さて現行音響システムでの各楽器の高音質化は、大凡1990年代には完了している。
但し↑はオーディオ的聴点からのであって、実際のアンサンブルでは却ってマイナスになったのも少なくなかった。

過去述重複も含めそれは単体音とアンサンブル内での相違に、配慮が足りなかったか或は単体音に過忖度したからざんす。
それをやってまあまあ成功した少数例もあるにはあって、一部FusionやSmooth Jazz等の作品だ。

その基本条件は既存の音色に全く拘らず、全パート音響聴点で最高音質を目指したもの。
を暴論気味端的表現をすれば変にケバくなろうと存在感が薄まろうと、一般聴者の典型的イメージから掛離れた音色になろうとお構いなしに徹底した感じ。

それであまりアンサンブルに違和感の出ないのが↑で、尚且つ肉声不在のインスト物であればどうにかって状況だった。
近年だとボカロ作品でオールバーチャル(つまり全打込み
)等が近似で、言うなれば全て2次元で統一されてるから「そう云うもん」として受容れられるっつう按配だ。

が生歌(肉声)が入るだけでもうそのバランスは崩壊が始まり、アンサンブルの何処かでオーソドックスな音色ニーズがあるとどうにも分離感が酷くなっちまう。
今では慣れや世相もあって違和感を覚える者が減った様だが、デジタルサンプリングの普及期にはそれ故わざとHi-Fiより存在感やアンサンブル内での馴染み良さを優先したのもあったでよお。

流石に当時よりPA音質が向上したから今じゃそれ等はニッチ用途にしか使えなくなったが、「音色の整合性」はほぼ永遠の課題なのだ。
手前味噌では過去にエレキGuitarのクリーンカッティングだけLine録りとか演ったが、極論するとアンサンブル内で別にエレキGuitarに聴こえなくても構わない等特定条件に恵まれてた場合に限る。

他の殆どの過去作でも斬新さだけが欲しい等で特定パート限定での利用に留まってて、それがBassの場合は最も希少例になる事が多いのよ。
以前述の如くエレキBassってContrabass+Celloの他兼務な立場のが多く、音域等の都合で両方の音色イメージを常に含ませとかんとならんのよ。

生ピだったら音色不変で途中での音楽内容的用途変更は幾らでもアリだけど、しかし実際には意図的に低音域だけ強目に弾く等で対処してるケースも少なくない。
が1ステージ通してずっとなんて事ぁ無く多くて数曲だけとか、主に録音時にMic位置をズラすのと併せて実施する等やはりこの手の裏技はたまにしか使えねんだ。

プチ余談としてあのHöfnerのバイオリンベースにはSolo/Rhythmなんてヘンテコな音色切替SWが付いてるが、少なくとも杜撰君には実用的じゃなかったよ。
又別の手にPUを切替えるなんてのもあるが、同じエレキでもGuitarとアンサンブル内での用途が違うんでそんなには使えない。

大体「伴奏の途中の任意の箇所」でニーズが生じるし、うわものと違い切替時に音が途切れたりするのも不味い。
これ等を総合するとより汎用性の高い音色設定が望まれ、特に音色都合でのフレーズの自由度も考慮するとね。

=終わり=

2024年12月 5日 (木)

音楽備忘録1937 ’70年代Rockの浦島太郎➓

前回から発声の件をぼやき出したが、単なる老害発言とは違う証拠として今の方が優れる点を先に指摘しとこう。
音程・リズムに対しての一般平均はかなり良くなり、完全な音痴の人以外は大凡聴くに堪え得る様になった。

’70年代って日本は昭和の真っ只中で、その頃はドラえもんのジャイアンみたいなのは別に珍しくなんかなかったんだ。
最も味って点に限ったら本当はアリだったんだが、耳の肥えてる者以外には歌ってる内容がそんなじゃ皆に良くは分からなかった。

多分その後のカラオケの普及が↑な欠点は殲滅させたんだろうが、一般ピーポーは別に歌が上手くなんかなくても全然構わないのをちょっち忘れてやしないかな。
そりゃ上手に越した事ぁねえが、一般平均より下手だと減点みたいな心理は全くどうかと思うさね。

私的に問題を感じるのは少し位上手でも所詮「素人にしては」で、幾ら音程・リズム等が良くても所謂「歌声」になってないのは食えんですわ。
又カラオケ等のお陰で一般論としては皆がMic慣れしたが、ちゃんと理解した上でそこそこに扱えてる人は寧ろ減ったね。

これはMicの昔より性能・扱い易さの向上も功罪相半ばってなもんで、最近は口を近付け過ぎたからって音割れ(歪み)するのなんて滅多にねえや。
のが1990年頃迄のではそんなのが多数あって、又1980年頃迄は無指向性のもかなり多かった。

↑の影響で安全圏を保ちたきゃあまりMicに近接出来んが、そうなると今比平均での低感度とか無指向性での周囲雑音の混入にも配慮しなきゃなんない。
差し詰めカメラのフィルム時代と今のスマホ主流時代の差みたいな感じで、一般人にとっちゃMicは常に助力になる様な存在じゃなかったん。

尤もMicの原理・基本構造は今でも何等変わって無く、フル活用したきゃ必須スキルにも差は全然無いんだけどね。
だが「一応使えりゃ良い」素人となると、知識・慣れの他かなりハードルが段違いだったんだ。

で発声・唱法がそのままだったらMic関連の進化は、涙がちょちょ切れる程有難かったんだがね。
中々どうして世間一般は開発者の思惑通りには行かんもんで、Mic関連が良くなった分歌う方を手抜きしてレベル低下を引き起こしちまった。

尤もⅡで自ら人前で歌いたがったりしないならそれでも良いんだけど、末端でも歌手の端くれを自認する奴がそんなじゃアカンがな。
これが前回述の理由でそれじゃあ勝手に聴かせたいのに、聴者に負担を強いてるやおまへんか。

んなじゃ音程・リズムでは良くなってても、それって無自覚な内にニュータイプのジャイアン登場ってなもんだぞ。
確かに気持ち悪い音を垂れ流すよりゃマシだろうけど、もし強制的に聞き耳を立てさせ様としてたらそれだって罪ですぜ。

近年はメジャーPops系のLiveへ一般人は二の足を踏み、ヲタだけが執拗に足を運ぶなんてのはこのせいもあるんじゃないかな。
過去みたいな万人ウケヒットが出難くなってるのは何もネタ切れとかばっかじゃなく、こんなのも一因だとしたら実にアホらしい自殺行為でんがな。

=つづく=

2024年12月 4日 (水)

音楽備忘録1936 過小評価で忘れられつつある人々Ⅱ④

さてさて3回経過した処で本日の生贄発表のその前に、アーティスト情報自体に関してのお話しおば。
言い訳と真相半々になるが、聴き専やガチヲタさんならもっと早期に全貌を把握してる人は居るよ。

けど演ってもいる立場となるとスペックなんかより音自体の聴き込みに忙しく、今でこそネットで即座に見られるが以前は大きな書店とか図書館にでも出向かなきゃならなかった。
閲覧の実時間はせいぜい数分程度の案件だって、往復と目的の本を探すので中々時間を取られたんよ。

その間もし出掛けずに聴き続けたら何回聴けるかと考えると、真似したり再現したりしようとしてたらスペックどうこう考えてる暇が馬鹿らしくなるねん。
そんな事からネット前夜時代に惚れてマイブームを迎えた連中のって、スペック関係はかなり遅れて知ったんだ。

↑な体験も含めて再考するとレコード(メディア)付属のデータ以外は、当座聴くのには不要な情報なんすよ。
他人からしたらこんなゴッツイ奴が繊細でメロウなの演ってるのが面白いとか思ったりもすっけど、演者がどんな奴か不問で気に入って欲しくて非公表にしてたかも知れねんだ。

その意味でジャニー喜多川辺りに端を発した「容姿で聴く」とかってな全く邪道で、そりゃ音が同じだったら容姿や経歴も華麗な方が夢が沢山見られるけどさ。
音が圏外だったら美人だろうとブスだろうと無関係で、AKB商法でも握手券欲しさに何枚もCD買って貰ってもその分余計に沢山聴いてくれる訳じゃねんだから。

なので最近俺言い「音楽タレント」なる呼称を新開発して、杜撰君内では分けて考えてんだ。
ビジネスとして成立してる以上はそこは認めるべきたが、音楽とか芸術の端くれとてしては辛辣だがハッキリ言って無価値ざます。

強いて云やそのビジネス手法が芸術的ってなもんで、ロクに売れる筈の無い物から膨大な利益を生み出したんだから…と毒を吐いとくか。😓
そんなこんなで漸くの本題のお出ましだが、今日は個人単位じゃなく「真の腕前」についてでやんす。

正味な話し微に入り細に入り完璧を目指した人・作品については今の人の方が完成度は高いが、その手合いって音楽演者の場合だとガンプラの神製作者みたいなもんなのだ。
既存の曲だけを演りゃ良いなら幾らでも練習出来るし、それが既に古典になってたら公開迄の時間も自由になる。

がポピュラー系≒流行歌(実際どの位成功するかは別)と捉えると、最低でも季節物っつうか最高では公開するタイミングが殆どピンポイントになったりもする。
つまり前者を漬物とか煮込み料理と例えるなら、後者は刺身とか生もの料理に価する。

尚且つ即興要素の強いのだと俺言い「専門の練習」をしとくのは不可能で、そりゃあ勿論下ごしらえだけなら徹底しとけるけどね。
そして最も考慮すべきが演者のコンディションやスケジュールで、誰だって酷い2日酔いや睡眠不足だったりしたら本領発揮は困難になるっしょ。

今だって劣悪マネージャは居なくなった訳じゃねえが、口パクや当て振りの可否が過去よりゃだいぶ自由になってるさね。
等々の裏事情から古物程実力の発揮度が懐疑的で、単純に今手元にあるソースのクウォリティを真に受けらんねんだ。

-続く-

2024年12月 3日 (火)

音楽備忘録1935 楽器音色一般のイメージと実際の違い➌

Piano2回目は前回後部の続き、構造的観点も含めて考察してみよう。
物理的構造に対し意外な音色を醸し出すケースが無い訳じゃないが、かと言って生ピの場合はアコギと明確な差別化は必須だ。

宅に来たGrandをまじまじ眺めて思ったのが、板厚・サイズこそかなり違うが想像以上にアコギと近似だった事だ。
無論発音方法は全然異なるが、響板(弦の下部)なんか材質や木目やその向き色合い迄クリソツやんけ。
にも拘らずアコギでもClassicに使えるのは、金属弦の所謂Folkタイプじゃなくガットタイプじゃないとマッチしない。

のが生ピは前者の方に圧倒的に近く、それでいてClassicに最適と逆転現象みたいになってる。
発音方法の相違が最大要因には違いないが、音色がアコギより丸みがありながら倍音の帯域巾・量共に圧倒してるのは直接は関係ない。

っつうのもアコギでブリッジスレスレをピック弾きすりゃ出るには出るが、それでもまだ生ピに全然敵わないじゃないすか。
だが普段この事実に気付き難いのは、生ピは録るとこれを拾い切れてないからなんじゃないかな。

さてこの無尽蔵な倍音は普段左程目立ちはしてないが、DrumやCymbalと共にそのお陰でほぼジャンルレスになってると思っている。
アンサンブルの相手が変われば「被る帯域」も変化してくが、上記2種は殆どの組合せで「被ってない帯域の倍音」があると見た。

それがあるとどんな組合せになっても入ってるか入ってないかが明確に分かり、その貢献度は必ずしも高くは無いがアンサンブル全体の音色を左右はする。
楽器の出す周波数帯域って広狭どちらにも夫々良さがあって、広い方はコンビの相手を選ばず狭い方は散漫にならず相手の邪魔になり難い。

上記後者から敢えて帯域制限を掛けたり特定帯域を強調するのが始まったが、本来こう云うのは例外的使用法なんすよ。
それの行き過ぎとデジピの席捲での副作用が、生よりデジピの方が「ピアノの音色」現象を起こしてんじゃないかな。

加えてClassic系ですら悪流行から使えればPA常用なんてする様になったから、聴覚的には生の音を直に一般庶民が聴ける機会が激減しちっただよ。
尤も私感ではCongaよりゃ遥かにマシで、自身で触れてみっと記憶より遥かに深く重い低域成分を実際は豊富に醸し出してんだ。

音色にだって演出を加えて悪いって事ぁねえが、それが意味を為してたのは原典があってこそ。
同調圧力国家日本では心理的に「赤信号、皆で渡れば…」は分かるけど、目立つ何処かに本来の音色を残しとかなきゃわざわざ演出したってそれが無効化するねん。

杜撰大王だってBrightな音色への魅力は今でもあるけど、山の様に沢山聴いて来て記憶に残ってるのはそんなのじゃなかったよ。
それがBeatlesのに入ってるPianoで、加工度の高いのは記憶にはあっても生ピの引出しには入ってない。

何処へ行ったかと探したら「唯のキーボード」で今ではほぼ懐かしさだけのSolina(ストリングアンサンブル)とか、黎明期のチープな電子Organとかに紛れ込んでやんの。
強いて擁護すりゃピアノ系(減衰音)の音色が欲しかっただけで、全く生ピ固有の長所が要らん時はそれでも良いかも知れんがね。

=つづく=

2024年12月 2日 (月)

音楽備忘録1934 エレキBassのCreamyな音色の魅力⓰

エレキPUの複数並列接続で独特な音色になるのは、主にお馴染みインピーダンスと共振の様子が変わるのに依る。
ののこのテーマとの関係は純粋な音色だけじゃ無しに、寧ろ硬さや響きに大きな変容があるからなんだ。

杜撰大王はリッケン真党!?なんで先ずそれで語ったが、原因は多少違えど他のタイプだってPUを複数使えば同傾向になってるんだ。
Bassの場合ミックスポジションだと先ず例外無く硬目になり、ひいてはそのせいで高音程域が細くなったりしている。

確かにレンジの広さやリッチさではミックスの方が有利だが、音程の高低で若干音色の俺言い「分離現象」は避けられねんだ。
っつうか実際は低い側も硬質化してんだけどそっちは明瞭度や音程の聴き取り易さに対し、元が少々軟弱過ぎるから寧ろ好都合だったりする。

処でGuitarではあまりそうは感じられないのは、求められる音色の違いと音域が1オクターヴ高いからだ。
物理的には要するに「共振ポイント」がほぼオクターヴ上へシフトしてるんで、音域守備範囲の途中で変容してないのさ。

典型例はStratoの所謂ハーフトーンで、最もダイエット効果!?があるのは低音側じゃん。(上が痩せても下がもっと痩せるからバランスする)
未だシングルPUのプレベタイプや所謂PJタイプ(フロントはプレベのままでリアにPUを追加)が使われてるのに、杜撰君はこれもあると考えている。

因みに前後の出力が近い時だけ共振の変容は現れ、どっちかの楽器本体ボリウムを絞るか絞れればこの現象は起こらない。
但し折角ミックスポジションにした固有音色の特徴は殆ど損なわれ、シングルポジション+お情け程度の音色変化となる。

又少し前にFender系と一纏めに綴ったのは元々音色が柔らか目だからで、しかしその中で比べるとジャズベの高音程弦はミックスポジ時は結構痩せる。
故にリッケン等程では無いだけで、拘ったら近似傾向が問題化する事もそこそこあるのだ。

近年はこの問題より音色のリッチさを優先してミックスポジが頻用されてっけど、オクターヴ上フレーズの衰退とどちらが先だったか杜撰大王としては甚だ疑わしい。
Line収録や非球Amp経由が増加・デフォ化する内に、高音程弦だけ音色が痩せてったかんね。

確固たる理由が無くば古臭い音で録りたいとは思わなく、それが徐々に進行してったせいで新たな弱点の発見が遅れたんじゃないかな。
何しろ杜撰大王だから他人事ってよりそんなのの典型を体験して、あんまりいい加減だったから却って早目に気付けたのかなぁ。

これとは別に年々自身で問題化してたのが、望まずに弦がフレット等に接触した際に発する雑音だ。
下手に完全排除すると弦楽器らしさを損ねるけど、過大だと不要にギスギスするし音程感が目立たなくなって困る。

結局エレキBassにとっての超高域って単体音色としては閉塞感こそ完全解消出来るけど、アンサンブル内ではマスクされて殆ど効果がねえんすよ。
これとフレージングの自由度等を天秤に掛けてみると、少なくとも杜撰君的には後者の方を優先した方がお得かと。

=つづく=

2024年12月 1日 (日)

音楽備忘録1933 ’70年代Rockの浦島太郎➒

杜撰大王は現時点迄ではカルチャーにとっちゃ栄光の’70年代と思ってっけど、その後で一番悪い方へ変わっちまったのの1つに歌唱力がある。
と溢せば皆上手くなったのにと多分異論噴出だろうが、上辺のテクじゃなく基礎力の方が酷く劣化したんすよ。

今劣化本邦って宗教に寛容な代わり無関心だが、一面でこれが悪影響してんのかな。
個人の主義はどうでも自由だが、国にちゃんとした宗教があるとさ。

式典とかで皆賛美歌とか歌うニーズがあり、その際大抵は体裁気にして他人に聴こえない様小声なんかで歌うと大目玉を喰らう。
「誰もが互いに聴こえる様に歌う」事自体が賛美だったりし、音程感やリズムの良し悪しは賛美には直接は関係ねんですよ。

今劣化本邦でだって元旦とかなら、誰でもお互い最低あけおめ程度は言い合うべ。
何等かの理由で恥ずかしがったりはあるだろうけど兎に角「反応する」のが重要で、はっきりしなかったら折角勇気を出して挨拶したのにシカトされたみたいな状況になるやんか。

要するに歌うって行為には意思表示≒コミュニケーションの役割もあって、極論すりゃメガホンで全員に伝わる様に指示出すのなんかに近い要素も内包しとん。
でこれを実践するのには歌としての発声が必須で、しゃべり声との最大差は声が「遠鳴り」してくれる事。

殆どの場合声量(音量)や音域も違って来るのは当然だが、実はそれより声色や指向特性の影響の方が断然大きいんすよ。
歌唱発声の基本には例外時以外先ず軟口蓋(喉の入り口部)を持ち上げ、次に口自体を大き目に開けるのが鉄則となっている。

これをすると一般会話時より声帯から口の出口迄の経路での干渉が低減するんで、 音声の指向軸から外れても明瞭度が落ち難くなる等色々な違いがあるねん。
これは歌に限らず大勢を相手に話す際にも有用で眼前の数名には唾ぺっぺな上喧しいが、両端や奥の者には何言ってるか分からんなんてのを最小化出来んの。

って事はご想像の通り普段からOperaみたいな発声しか出来ん奴は、内緒話しに不向きですぐ周りに洩れてバレたりしてるっしょ。
要するに全然歌手なんかじゃなくても状況に応じ発声を最適化させるニーズって、殆どどんな人にも本来は必須スキルなんすよ。

なのにあべこべになってんのが普段は体裁やら何やら気にして声量を抑えてるのに、徒党を組んで大興奮したり泥酔した時だけ羞恥心が吹っ飛んで絶叫する様な奴等。
昨今は大きい歌声(日本以外では至って普通扱い)に慣れてない人に配慮したりとか、個人でのストレス発散のニーズは確かにあるけどさ。

悪い意味で習慣化定着してっと、自身のLive歌唱ですら俺言い「しゃべり声」になって聴き辛いったらありゃしない。
上述した如く声量に関しちゃ今はネ申PAのお陰で何とかなっても、声色や発音が他人に聴いて貰う向けにちっともなってねんですよ。

唯でさえ歌詞主軸の潮流に勝手に乗ってるってのに、それを聴き取る徒労が聴衆依存って一体何様なのってな。
恐らくその大多数は傲慢では無く見落としの結果なんだろうけど、折角の内容が伝わり難いのはどっちのせいだろうと誰にも損だ。

=つづく=

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