音楽備忘録1847 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➋
続いてはメカ低感高奏法が音楽に、具体的にはどんな効果があるのかざんす。
歌で言うならコブシやそれに準ずるの等で、演歌や各国の民謡等では胸に付けた名札みたいなのに近い。
歌手の場合各人の声色だって当然個性と直結してはいるが、それだけで通用するのは「誰とも似てない声」の持ち主限定だ。
が現実には人間と犬の声ならハッキリ違う代わり、同族同士ならそんなに極端に異なるのはほぼ存在しない。
にも拘らず似てないと感じる例もあるのは、例えば声と体躯の組合せが正反対だったり片方は標準語・もう片方は方言でしかしゃべらなかったりするからだ。
前者は声量・息継ぎ間隔・強さ等に大抵は差異を生じるし、後者は外国語でも良いがそもそも発音が一々違ってたりするからね。
もしその方言さんが標準語もしゃべってくれたら、あら実はあの人と声がクリソツだったのねと分かるんだろうけどさ。
こんなの(使い方)が一般的には声色より音色巾の狭い楽器なんかじゃ、もっと重要な個人特定要素になって来るですよ。
でこの個人ってのは単にパーソナリティの特定なんかより、表現自体の特徴により影響があるねん。
全く同じ旋律でも何処にコブシ(装飾音)が入るかで、聴いた感じは時に別物になったりする。
因みに世間では常時・杜撰大王でも普段は装飾音と表現してるが、マクロ視点に立てば旋律自体が異なっている。
唯これ等は時間的に物凄く短いとか、同じ様に料理する人が少数か居ないので便宜上旋律と装飾音に分類してるに過ぎないんだ。
この辺がどの程度感覚で捉えるか理屈で捉えるかの差で、あらゆる聴き方されるのを優先するならどんな些細な相違もホントは許しちゃ駄目なのよ。
けれど必ずしも誰でもは真似出来なかったり、それが個人のアイデンティティだったりするから妥協してんの。
但しその「妥協の仕方」が凄く問題で、何処かに不足が生じたらそれを最善の方法で補っとかんとね。
それでも聴き専ヲタにしてみれば、実際気に入ったのとは違うんだから違うんだけどさ。
んで明白だから聴き専ヲタとしただけで、ド素人の一見さんだって敏感な人だと雰囲気の僅かな差を感知する人も居るんすよ。
そうして色々限定されると実数こそ小さくなるが、少なくとも雰囲気を最優先にするなら決して無視は出来ねんだ。
だが理屈を優先する世情もあってある程度迄は仕方無いものの、今劣化本邦みたいに流石にガン無視は無いと思うのよね。
しかもそれが奇妙なのは、過去にはほぼ雰囲気のみのなんかが地域的な独自主流だったからだ。
或は長らくそうして来たのが飽きられたのかも分からんが、西欧と比べると譜面で分かる様に向うの方が論理化は遥かに優性だったからねえ。
もしかしたら戦死で相対的にセンスの無い奴が増えて、って勝ちたきゃ能力・感覚共に優れる方から戦地へ送り出すべ。
今劣化本邦では敗戦の負の遺産についてちゃんと検証してないか、してても壺の都合でお蔵入りさせてるか知らんけど。
文化程度も戻らずこんなで平然としてたら、さぞかし外国から見たら蔑まれる材料になってんだろうよ。
-続く-
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