音楽備忘録1850 打倒閉塞感➒
さて前回のは不要に深刻になって思考停止に陥ったりするのを避ける為だが、凡人が常に冷静さを保つのは中々に厳しいものがある。
音楽でも経験値が高まれば本番時の緊張等には対応可になって来るが、その分お客さん不在時の色々は却って訓練が遅れちまう様なんだ。
又ピンチに怒ったり不機嫌になるのは周囲に誰か居たら難儀だが、それを表に出さないとか出せない性分の人の方が事態は深刻になり勝ちだ。
何時だってよく考えるのは大事だが、脳内で行き詰ったら俺言い「脳外」に活路を見出すしかない。
処が試行錯誤をするにも何等のアイデアや意欲が必要で、頭が飽和してると手も止まりがちになってまう。
その打開策の1つとして「遊び」若しくはそんなマインドが好適で、決して最初からは成果を求めない処に鍵があるんだ。
普段は良い事尽くめの真面目思考も、時に軽薄さに屈する場合がこんな時。
目的に対して大抵は遊びは余計だが、あんまり石頭で徹底徹尾排除してると息詰りを招いたりするのさ。
かと言って心持ちが散漫になり過ぎたら非効率になるから、中々加減するのは難しいんだけどね。
そこで再考の余地の出て来るのが「真面目の内容」で、軽薄とか表面上の不真面目を先に否定しちまうとね。
実際他人からどう思われるか等も何かと気になるもんだが、ある程度の外野の初期誤解はスルーすべきなんだよ。
それが真の意味での目的へ一直線ってなもんで、嫌みになったらスマンがサラリーマン社会の一般認識とは大いに異なる点なんだ。
現行今劣化本邦の教育基本方針が↑なんで、亜流だろうと頑なに嫌って様と大抵ほぼ誰もが思考的には影響を受けちゃってんだ。
ので闇雲に何でも反体制だなんてのだったら取敢えずは回避出来るが、全共闘でもあるまいし今時そんなのは流行ってないからねえ。
つまり一面で真面目とか勉強熱心な人程↑の弊害も重く、東大生程壺に騙され易い傾向があったなんてのも既成の理屈で考えちゃうからだ。
そんな時独立性・一部客観性のあるのが感性や野生で、最初は違和感の有無に着目する。
勿論理論的裏付けの無いのが多いからハズレになる方が多いが、さりとて狭義の理論だけで思考する方が失敗時のリスクは全然大きいんすよ。
ってのも狭義の枠外に矛盾点があったら、考え方を変えない限りそこに到達出来ないでしょ。
別の言い方をすりゃ最初からスマートに行こうとし過ぎるのの弱点で、それは既存のマニュアルへの過依存にも通じるものがあるねん。
誰かの後追いしかしてない内なら既に充分なマニュアルも存在してる可能性が高いが、僅かでも前人未到の箇所があったらそこに限れば自身が成功してからじゃないとそもそもマニュアルなんて作れないじゃん。
結局は外面の真面目さと内面のそれは別物で、評価を急ぐのも又よろしくないんだ。
壺に従って滅亡するか多大なリスクがあっても正義を貫くか、なんつうと如何にも大袈裟だがこんなのでもその影響はしっかりあるんざます。
=つづく=
« 音楽備忘録1849 J-POPでの無駄な苛烈サウンドに異議あり⓰ | トップページ | 音楽備忘録1851 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➌ »
「文化・芸術」カテゴリの記事
「音楽」カテゴリの記事
「録音」カテゴリの記事
« 音楽備忘録1849 J-POPでの無駄な苛烈サウンドに異議あり⓰ | トップページ | 音楽備忘録1851 メカニクス的に低難度だが感覚的に高難度な奏法への不等蔑視問題➌ »
コメント