音楽備忘録1769 肉体的グルーヴ考⓫
人が演るのに厳しい程速いのがグルーヴじゃないとは何ともご都合主義みたいだが、物理的速度だけに囚われて偏屈思考するからそうなるんだ。
やたら早いと人の鼓動との整合性や著しい聴き取り負担が生じるのが不味く、要するにそんなだと良い気分に水を差されるからなんだよ。
いきなりお下劣だがカレー好きがそれを堪能してる最中に、下痢の音なんかが聞えたらつい変にイメージがリンクしちゃってオエッってなったりするやんか。
或はレアステーキか中トロを食してる際に出血を伴う傷が目に入るとか…、悪趣味に過ぎるからもう止そう。
悪意皆無な偶然でも両者に何処か共通項が容易く見つかると、つい望まぬ想像力が勝手に発動して悩まされるパターンですわ。
テンポやリズムでこんなのを回避するには、何処かに安心出来る要素を常駐させとく必要がおま。
それにはせいぜい鼓動の½〜2,3倍速程度に抑えとかんと、自然体のままカウントするのが難しくなるさね。
さて打込み等完全機械生成の音楽では、恐らく当初はローテクのままで速度感を演出するのにテンポを極端に上げたのかな。(レコードやテープで間違えて早回した時の滑稽さとかも)
次には生演奏では不可そうな速さにして、機械の特質を使って非日常感を狙ったとか。
それも一利あったのは確かなんだが、飽く迄他の多くにそんなの無いって前提が必須なんすよ。
感覚・比較芸術たる音楽では物理速度なんて屁の河童…って程無力じゃないにしても、リスナーが楽に聴けて物理的に高速な領域はとっても限られてる。
それは大多数が遅さを感じなくなると追従困難な人が現れ、今度は充分余裕を与えりゃ全く速さを感じなくなる人が噴出するってな具合でね。
だいいち一番最初に演った人は良いが、次からはああアレと同じ速さねと慣れのせいで速度感はもう感じて貰えない。
残念乍ら21世紀以降今劣化本邦では歌詞に注力し過ぎたか生演奏を舐め過ぎたか、テンポを変えずに速度感を変えられるのを忘れた輩が多いらしいんだ。
これで一等問題なのは「肉体のテンポ」との乖離で、自然体でつい乗せられてまうリズムってのが失われた事だろう。
仮に脳内では爆速にどうにか追付けても、リアルの肉体の方はそうは行っとらんがね。
仮にⅡでそれが成立するとしたら幼稚園の掛けっこで、園児の平均速度がオリンピックメダリスト並に進化してるのが必要じゃないの。
でも現実はったら最速記録ですら、何十年経っても倍に伸びたりゃしとらんやんか。
不慣れだとコツを掴むのにそこそこ苦労させられるだろうが、先ずは「全く普通のテンポ」(♩=120)とかで速度感を可変出来るように目指すん。
或は言い換えれば「特に遅さは感じない」とか、退屈で飽きはしなそうを目指すだけでも良いんだ。
今後絶対生演奏をしないと決めたなら良いが、そうでないならこんなのが人力演奏の特権なんだ。
どんなに上手く行かなくても少しは違いを出せる筈で、万一全く同じだったらそれはそれで特殊能力保持者なのが判明したってもんよ。
=続く-
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