音楽備忘録1744 音楽に於けるテクニックの意味⑯
拙ブログではお馴染み前回補遺からで、何処をどう思っての例示かから行ってみよう。
併せてガチのRock好きにしてはFusionテイストが強いのに、何故受け入れに抵抗が無かったのかもね。
実はその原因を近年になる迄は把握し切れてなかったんだが、Fusion形態のでもRock技で演ってるのだったら平気だと気付いてん。
Classic・Jazz由来ので構成されてるのと何が違うってば、それは形態的に留まらない内容的なBluesフレイバーがするかどうかだ。
Bluesは性に合ってて好きでも非ヲタを自認してるんだが、それはゴリゴリのだとリズムが俺には物足りなかったからだ。
けれどそれ以外はGuitarやHammondの奏法も含めしっくり来てて、どうやらそんな要素の無いのだと興味が向かないらしい。
それがLarry CarltonはYesでLee RitenourはNoに現れてる様で、私感では技術や知識を優先するか感性や表現を優先するかの如くに感じてるんだ。(勿論後者のは飽く迄感性の為の技術と知識なんだが)
実際には多分必ずしもそうとは限らないんだろうけど、杜撰君にはそんな風に聴こえててさ。
その関連か分からんがBassパートではそんなに色んな事を盛込めないだけに、フレーズの一寸した工夫の影響が大きいんだよ。
Jan Hammer達みたいなの以外だとJoystickは、比較的お約束箇所みたいなのでしか使われない。
のを彼はニュアンス拡張或は明示の方で多く用いてて、そのせいで音源自体は無機質なSyntheに奏者固有の人格みたいなのが付与されてるんだ。(奏者固有の癖)
いやガチのテクノとかだったら機械的な方が好ましい位だが、それしか出来ないと「普通のポピュラー曲」では使えなくなっちゃうじゃん。
日本でなら近年は失念されがちな富田勲なんかも、あれだけ昔から演れたのは機械度の高い楽器でも生楽器等と渡り合えるだけの表現巾があったからなんだよ。
何しろSynthe黎明期にはボカロはおろかテクノさえまだ無く、電気楽器でさえ今みたいな市民権なんか得られてなかったんだから。
この面で今劣化本邦みたいにボカロが珍しく無くなったのは罪なもんで、機械でも楽器として使う際のコツみたいなのが希薄化した気がするんだよ。
この事ってPianoならそうでもないけど、パーカッションとかにはそれらしく奏でないと全然それと聴こえないのが未だそこそこあるんですわ。(音色より奏法に固有性がある)
皮肉なもんでロクでもない使い方をすると大凡楽器とは思えない音がする様なの程、適切に扱えると表現力MAXだったりするもんで。
Syntheやドラムマシンで言えば音色のプリセットとマニュアルの差みたいなもんで、何でも自由には本当の意味での自己責任が必ず付いて来るとな。
=続=
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