音楽備忘録1684 音楽に於けるテクニックの意味①
拙ブログでは再三に渡り俺言い「映えテク忖度警報」を発令してるが、だからって僅かでも使ったり盛ったりしちゃ駄目なんて思って無いさ。
人間は煩悩の塊 今風に例示するなら承認欲求とか、そんなのがある限りは清濁併せ呑みで行くしかない。
但し「程度」とか↑の割合っつうのが問題だし、物には普遍的な優先順位ってのがあるんだよ。
先ずは嘘・音楽芸能的にはハッタリから考察してくが、ここで取り上げるのは宣伝効果としてどうなのかだ。
ネットが普及して以降本来は音が勝負の音楽も、視覚の影響が大きくなり過ぎてしまった。
聴いて判断するには最低でも数秒・モノ次第じゃ最後迄数分掛かるが、百聞は一見に如かずの通り見る方が早い。
無論それだけで音楽は内容が分かる筈もないが、「試聴する価値がありそうかどうか」には多少なりとも効果はある。
ので近年は以前よりゃかなり映えテクは大人しくなったが、試聴して貰えた場合&Liveでの目玉の1つとしては相変わらず有効だ。
けれども映えテクが本領発揮するのは飽く迄楽曲を始め、他の部分が事足りてたらなんだよね。
前々から他項で概述の様に、先ずは映えテクの登場する箇所迄耳を向けといて貰えないと何にもならんやろ。
ならばいきなり映えテクから始まる曲を量産すれば…って、それも一利はあるものの楽曲に大巾な制限が掛かってしまう。
更にはそんなのばかり続けてると、最悪奴等の曲が良いのは頭だけなんて悪印象を植付けちまう。
つまり便利そうな映えテクにはそこそこ大きく多種のリスクがあり、実際にはかなり使い方が難しいんだ。
尚且つ元の目的が目的なだけに、音楽的貢献があるのは映えテク中ほんの一握り。
寧ろ「使い所」に精通するとインパクトさえ十分なら、演奏難度の高さなんてどうでも良いんすわ。
但しそうは言っても音楽的に僅かでも何等の貢献があるヤツか、最低でも足を引っ張る様じゃあきまへん。
私感に過ぎんがどうもこの辺りが、’70年代頃迄のこけおどしと今劣化本邦のは質が違っちゃってんだよなぁ。
又音楽演奏中(歌唱だけの人も含む)のダンスにしても、音楽がメインならそれに加担するのじゃないとアカンですよ。
本職ダンサーと比べりゃ幾ら頑張ったって所詮はミュージシャン、良い線は行っても到底敵いっこねえっての。
マトモな神経の持ち主だったら音楽の方を最低でも半分以上優先するから、もうその時点で負けが決定しとん。
但しⅡでこっちには音楽理解度の深さ等の専業ダンサーには無い強みがあり、音とダンスのコンビネーションで立向えば一縷の望みもあるってもんだ。
それ故バレエピアニスト等一部の特殊分野では、音楽単体自体より如何にダンスへフィットされられるかで評価される。
車のエンジンに例えるなら映えテクもダンスもターボみたいな存在で、エンジン本体が存在しなきゃ唯の風車に成り下がるんでぃ。
一寸考えりゃ極基本的な構造なのだが当たり前過ぎたのか、何時の頃からか失念してる方が多数派になっとるぞい。
-続-
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