音楽備忘録1669 何はともあれ本物に触れる必然性Ⅲ➎
今日最初は若干揺り戻し感が拭えないが、典型的なJazzのエレキGuitar音色から。
所謂ウーマントーンと別物なのは分かってたんだけどお恥ずかしい事に、今の今迄そのマイルドさの理由を杜撰大王はずっと勘違いしてたんだ。
何時もの様に苦しい言い訳を添えとけば、俺が聴き興味最高潮だった時分がRockの全盛期だったからだ。
加えて音響的に飛躍が始まった時期とも重なってて、Jazzでも既に少数のフェイバリットはあったもののじっくり聴き込む暇が無かったんだ。
当時は再生機器性能に過大な期待は寄せられず、録音音質が1年でも後になると段違いに良くなってたし。
主因が杜撰なのは認めたうえで、それらの事情もあってせいぜい「籠らせないウーマントーン」位にしか思ってなかったんだ。
のが今頃になってRock新作の地盤沈下で余裕が生まれ、再生段階でのロスがほぼ無くなった状態で聴いてみればですよ。
中域中心には相違ないが高域抑制が効いてるってよりゃ、印象と違って低域抑制がかなり効いてたんだ。
加えて重要なのがFlat弦が主役な処で、それだと元々俺言い「高域の下品な成分」は殆ど出ない。
で脳筋短絡思考ではボディの厚み≒音色の太さ・厚みなんてなってたけど、実際にはどっちかたら逆だったんだ。
センタブロックの入ってるセミアコでも、ソリッドよりゃ高域は多少大人しくなるけどさ。
そっちより低域が肥満になり難くなる方が大きくて、内部空洞の多いフルアコなら尚更だ。(但しAmpに繋がなきゃボディ厚と音色太さは比較的正比例)
そして誰にも当て嵌まる可能性のある言い訳第2弾を追加すりゃ、低域の高い方若しくは中域の低い部分は確かにフルアコが一番豊かだ。
自分で脳筋短絡思考等としてて一寸矛盾気味だが、昔の庶民がありつけた低音質・狭帯域ではあながち間違いとは言い切れのんさ。
もし生で聴く機会があったらそんなの簡単に吹っ飛んだだろうけど、当時じゃチビクソガキはタバコと酒に溢れた所へは入れて貰えんからね。
って顛末は長い時間が経過してから気付くケースの一例で、どんなに聴き古した作品でも新発見が突如訪れる事があるんよ。
んっ何だって?最初から冷静に聴き込んでりゃそんなの起きないだろって?、そりゃそこにだけ焦点を当てりゃそうだけどね。
でも往々にして何時もそんなだと、「感性だけで聴く」のが中々難しくなっちゃうんだよ。
今頃こんなのボヤくのは自身で少し演る意欲が出て来たからで、聴いて楽しめる限りに於いて必ずしも真実はどうかなんて不要なんだわ。
それが俺言い「理屈で聴き過ぎるデメリット」で、しかし体質次第じゃ超越するのが意外と難しかったりするんだ。
凄い美人だがあのホクロがどうしても気になるとか、細部が先に見えるのが常に悪い訳じゃない。
だが芸術の分野でそっちが勝っちゃうと、出逢いの感動みたいなのはどうしても希薄になって損するんだよ。
のを覆してくれるとすると、圧倒的な魅力のある作品なんじゃないかな。
やろうと思えば分析不可じゃなくも、兎に角何かでドえらい事になってたりしたならね。
-続々々-
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