音楽備忘録1638 行き過ぎた自作自演➎
今度はコピーとカバーでの功罪について論じてくとして、その最大差は頭をどれ位使うだ。
何言ってんのコピーだって難曲だったら分析に四苦八苦…そりゃそうだが、その殆どは受け身に過ぎないのよ。
それがオリジナリティ構築にどう影響するかったら、スピリットより形態模写になり易いん。
コピーならなるべくモノホンクリソツなのが目指す先だが、楽器その他も完璧に同じのを揃えた処で奏者が別人なのはどうしようもない。
折角苦労して同じ様に奏でても他人が見れば容姿等の差異のせいで、音の印象も少し釣られて違った印象になったりするん。
ではどうゆうのが最高級かってばオリジナルとは「殆ど全てが違ってる」のに、印象が「正にあの感じ」になる事なんじゃないかな。
要は外国語の翻訳の要領と近似で、状況次第で意訳が必要になるって事。
個別フレーズを単語に見立てると元ので頻発するのの中に、普段自分では全く使わないのなんかがあったりすらぁね。
それは差し詰めこっちの言語には存在しない単語同然だから、急に無理して演った処で手慣れた感じは到底出せない。
ので学習目的での完全トレースは別として、別人コピー奏者が演って同等印象になるのを選択すべきなのよ。
演奏ヲタには完全トレースが称賛されるが、それ以外の膨大な一般聴者には印象の同一性が全てなんすわ。
純粋な好きなだけの人ってフレーズ全把握なんかより、「印象の全把握」の方が多いし大切やんか。
そうしとかないと好きなレジェンドのでも、新曲に敏感に反応・察知する事が出来なくなるからねえ。
奴等は顧客を飽きさせない為に、いい意味で裏切って来たりするからさ。
その一部に普段の癖の完全封印があり、過去に奏でたフレーズは一切不使用にしたりする。
けどどんなにそうしたって音色かタッチか盛り上げ方か、何処かにその人の志向がかいま洩れるもんだ。
この志向は指向や思考にも深く関係してるから、侍や職人の世界で言えば「流儀」に精通するのこそ登り詰められる唯一の道なんだ。
そのポイントを獲得し易いのはコピーよりカバーの方で、わざとじゃない限り悲しい曲なら悲しさだけは残すじゃん。
これを言い換えるなら「曲を学ぶ」で、曲の理解度が低いままだと幾ら超絶な演奏をしても唯のナルシス君認定されて盛りを過ぎると散るんだよ。
演奏以外一切しませんと宣言した処で、結局は曲を理解する程度の「曲に対するセンス」は必須なんざます。
奏者専業でも本当のレジェンドならそれが作曲にも実際現れてて、数こそ少なくても皆無って奴はとっても少ないから調べてみそ。
まあコピーとカバーの境界なんてあって無い様なもんで、強いて挙げるなら誰かがオリジナルと全然違うのを奏でてもそのまま合奏を続行可能なのがカバーかな。
前述の通り今劣化本邦のカバー忌避は全く下らん理由に基づいてるんで、そんな幼稚な商業施策なんかに惑わされたら一生の不覚でんがな。
少なくとも悪辣プロデューサの感知が及ばん処で、こっそりやっちまえば良いのさ。
=終わり=
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