音楽備忘録1600 適切な帯域制限の苦悩➄
例に依ってコアヲタとも微細な重箱の隅つつきと思われ兼ねないが、杜撰大王としては唯勝手に指図されたくないだけなのだ。
誰だって知らずに「この中からだけ選べ」なんて状況は、音楽環境としては不健全なんざます。
わさて置き現況で確実な解消策が見つかって無いから苦悩なんて題を付けてるが、特定状況下でなら抜け道は少しあるんだ。
Guitarの場合歪んでて良いなら、本体の高域は足りるだけカットしといて歪み成分は高域に一切制限を掛けないってのがね。
この手法は初期からずっとある物で、しかし音響的観点からはノイズ特性としてはとっても不利なやり方なんだ。
楽器本体のToneツマミは絞っといてる癖に、Ampでは高域を大量増幅したりするって、恰も「無い物」増やそうとしてる訳だからね。
音響的は全く非合理で現実的には雑音だけが増幅され、それ故俺は普段楽器本体のToneツマミは常時全開だ。
だが本体でのとAmpのでは、性質も内容も少し異なってるんすわ。
今迄俺が大抵↑で賄えてたのは、歪み成分が悪目立ちしない音色が割と好きだからだ。
Amp歪ませでAmpで高域に制限を掛ければ、必然的に歪み成分の高い方も削られるからね。
と同時に高周波ノイズにも巻き添えを喰らわせてやれるんだが、歪みのみの音色や質感なんかが分り難くなる欠点があるんだ。
Bassでは当初ほぼ無自覚なまま活用され出して、無歪みドノーマル時とは少し違う音色を堪能されてたね。
俺Bassは飛躍的音質向上の全盛期に遭遇する世代だったのもあって、これを最近迄は封印しちゃってたんだけどさ。
大昔の皆も俺も多くの者が「望まない歪み」と格闘されられる有様で、特に日本じゃAmpは長らくGuitar優先度高が長く続いてたし。
けど高音質化が落着いて暫く経ってみると、非合理でも独特な慣習にも捨て難い気がして来たんだ。
一寸詭弁だが非合理だからこそほぼ他では使われて無い方法で、そんなのもエレキサウンドの独自性の一部を担ってるんだ。
でToneツマミゼロ時は当然全開時よりAmpのTrebleツマミの効きは矮小化するが、全く効かなくなってはいねんだ。
事足りるかどうかは別として、本体ゼロの時こそこの違いが結構大きくてな。
中域の一番上の方はこれでしか増減が出来ず、ここへ意図的Peakを作れると如何にもな籠り感から少しは解放されるのよ。
コイツでRock系で参考にすればと思うのが、Cream時代のEric Claptonだ。
俺も当初はアホだったんで唯闇雲に高域カットしてウーマントーンだなんて喜んでたが、本家のは本体かAmpの何れかはゼロになんてしてなかったんだって。
音色の第一印象ではとてもそうは聴こえなかったんだけど、良く考えりゃだったらJazz専用Ampには調整可能なTrebleツマミは付いて無かった筈だしょ。
=つづく=
« 音楽備忘録1599 古典楽器の恐るべき隠れた実力➄ | トップページ | 音楽備忘録1601 何はともあれ本物に触れる必然性Ⅰ➎ »
「文化・芸術」カテゴリの記事
「音楽」カテゴリの記事
「ギター」カテゴリの記事
「電気」カテゴリの記事
「ベース」カテゴリの記事
« 音楽備忘録1599 古典楽器の恐るべき隠れた実力➄ | トップページ | 音楽備忘録1601 何はともあれ本物に触れる必然性Ⅰ➎ »
コメント