音楽備忘録1585 何はともあれ本物に触れる必然性Ⅰ➊
この項パートⅠでは「生耳聴き」を取上げるが、それに依って現況の限界や理想を知れる。
生Drumのミュートやコンプリミッタ掛けって、大元は録っても生耳に近付けたくて始まったんだ。
Beatlesの居たイギリスって日本よりは空間余裕があるけど、米露中の田舎と比べたら自宅でDrumをぶっ叩くのは厳しい。
だいいち普通に歌物曲を個人が聴く際は、殆どの場合で生より遥かに小さい音量になっちまう。
Liveを中止した彼等にとって、各個人宅で「何時もの感じ」に聴こえるのは半ば死活問題だったんだ。
だからってこのレコードは近所迷惑顧みず生演奏並の爆音でお掛け下さい…、なんてな無理だよね。
例え迷惑をシカトした処で当時はまだ家庭用オーディオは管球式の方が多い等、そもそも生Drum並の爆音が出せない。(100Wに届いてたAmpは音響でスタジオモニタ用・楽器はビートルマニアのせいで漸く…)
そこで小音量でも同等に聴こえる様、色々試行錯誤してったんだ。
さてこの音量差は先ずは迫力を損ねるが、それだけじゃなかったんだ。
生なら誰にでも聴こえてた少な目な低音や余韻が、最大音量が下がると聴こえなくなってたんだ。
今のデジタルのみたいにノイズフリーには程遠いし、ダイナミックレンジだって人耳より遥かに狭かったからねえ。
その後発展して新規サウンドにも繋がっては行ったが、ご家庭小音量でも生感覚を再現するのが先決だったのよ。
マルチMicのOnセッティングその源はステレオ対応から始まってて、今風に言うなら生のバーチャル再現の第一歩ですわ。
生舞台なら「どれを叩いたか」見えるけど、音だけだと見えない分分からない。
だから現行の音の普通の配置だって、生演奏時の舞台配置が基本になってんの。
にも拘らずBeatles初期はトラック数と掛けたいEchoの都合等から、泣く泣く伴奏と歌で左右に泣き別れなんてのがあったっしょ。
今聴けば却って斬新だったり面白かったりもするし、Liveより先に音源を公開すればもしかしたら変態配置で演る奴等かも知れないとも思える。
が昔は公衆に何か発表しようとしたら必ずLiveが先で、デジタルで宅録したのをネットに挙げてなんて全く無かったし。
普及メディアがほぼレコードのみじゃ、個人が自宅でプレスするなんて途方も無い。
モノラルなら諦めも付こうが、折角ステレオになって自分が「見たのと違って」たら混乱するっつうの。
それからアブノーマルな世界観にしても不動のノーマルが先に無いと、明確な差別化が図れないよ。
単に自分勝手でウチ等はこうってんなら出来なかないけど、一般人でその勝手君達の感覚が理解出来るのは良くて極僅かだ。
学校の音楽の授業で本日はEric Claptonさんに来て貰いました…、なんてもしか英本国では稀にあるかも知れないけどね。
殆どの地域で無理な他、ちゃんとした再生装置で原版を聴くのすら実現が難しいからねえ。
そもそもクラシックのピアノですらホロビッツの名作をとか、合唱だってそんなのをロクに聴かせずにやってみそってバカなのバカじゃないの。
せいぜいやっと最近高校の野球部へイチローが直接教えに来たり、物凄くゆっくりと徐々に僅かには変り始めてるんだがね。
-続-
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