音楽備忘録1399 ノリを育む方法⓮
これ迄色々綴って来たのは全て感覚主導にするとか養う為で、ノリや微妙なリズムタイミングを制御するにはそれが最善だからなのだ。
定量化させられた方が明確で楽なんだが、随時変動を許容するにはこっちじゃないと苦しいんよ。
聴いた感じは一定のノリでも比較芸術の真髄だから先ず相手が居るし、フレーズ次第で少しフィットさせないと却ってズレて聴こえる事があるんだわ。
ので随時変動も内容的には即応性が必須で、要するに一々計算なんかしてたら間に合わないのよ。
これが秒単位のレゾリューションだったら大抵誰でも大体はカウント出来るが、そこから細かくなってったら不可能になるっしょ。
けど何か速い遅いは結構ハッキリ掴めて、特に「相手」が誰か居たらかなり微妙な差迄分かる。
競馬やカーレースの先頭争いみたいに視覚は無いんでそれよりは劣るが、さっきのと今のではサッパリでも2つのどっちがとなりゃ少しは分かるやん。
なので相手が機械だったら割と一定するものの、今度はそれだと機械君のがベストポイントを辿ってはくれなくなる。
ここが厄介な処でこっちのノリだけが良くても曲には今一とか、アンサンブル全体では今一になったりする原因だ。
では過去述「シーケンスと生合奏」ではどう処理してたのかってば、シーケンスとのズレを許容した上でそれをなるべく目立たない箇所でにしていた様だ。
久方ぶり生贄でも又再出The WhoのBaba O’Riley、今改めてそのシーケンスと人力のを聴き比べたら次の感じになっていた。
アクセントやキメ(全員が同時に鳴らす箇所)が比較的突っ込み気味で、そこでスピード感を稼いでるのかな。
この曲ではシーケンスの音量バランスが、人側がフォルテ以上になるとほぼ聴こえなくなるバランスにしてあった。
すると何か微妙に早い気はしても、露骨にズレてるかどうかはシーケンスが聴こえないから良く分らない。
あと曲の最後部ではアッチェレランド(だんだん速く)してるが、その箇所では盛り上がる所なので完全にシーケンスを無視している。
けど曲想の関係でそれが何等おかしくなく、寧ろわざと速めたのが強調されて好都合な位になってたよ。
って事ってこれは達人が演ってる上曲想にフレーズ・音色込みでシーケンスが「合った」からそうしたんだろうが、その後の全曲で何時もシーケンスを使う様な真似はしてはいない。
ガイドリズムが例え機械でもなるべく音楽的な方が良いってのはこういう事で、でも相手が達人みたいに何でもベストフィットされられてる訳じゃ無いんだ。
かと言って達人に何時も練習パートナーをお願いするなんて到底無理なんで、「機械らしくない機械」にするしかないん。
それより古典的だが既存の作品と合わせてみるんなら、邪魔は色々入るが出された作品なら無数にある。
これ等を総合すると部分的な鍛錬には機械らしくない機械を、1曲通しで合わせるには既存作品とするのが妥協点ですかね。
初期段階では例えばずっと足りるだけ跳ね続けられるか辺りからになるんで、単調でも良いから機械らしくない機械のお世話になりませう。
>つづく<
« 音楽備忘録1398 歌のコーラス③ | トップページ | 音楽備忘録1400 適切な音楽の評価方法⑫ »
コメント