音楽備忘録1070 Rockでのポピュラリティとオリジナリティの問題⑪
今日は前回後部の撮り鉄問題を生贄に、脱線宣言をした上で外からこのテーマを見てみませう。
って宣言すりゃ何しても許されるもんじゃないだろうが、この2つにはある特有の共通性があるんずら。
掘れば今の鉄道の多くは電車だから電気もだとか、線路にもメディアにも容量の制限があるとか…。
一方公共性等では真逆に近いのも少なくないがそれは置いといて、かつてより俺言い「双方向通信では無くなった」ってのがキーワードだ。
鉄道で昭和の途中位迄は場所次第じゃ線路に柵すら無くても珍しくは無く、鉄道側と世間の境界線は実質的には民意に依って築かれてた側面もあった。
21世紀以降の人にこれの分かり易い例示をするなら、路面電車とかだったら少しはイメージが湧くのかな。
空間に余裕がありゃ今は路面電車だって柵とか分離帯が付けられてるが、江ノ電で狭い商店街を通る様な所じゃせいぜい道路に線を引いとく位で精一杯だからね。
勿論それでは民意ったって良心依存だから、不届き者や錯誤者に対しては明らかに今の方が安全だけどさ。
続きを差し置いて一旦音楽の方特にリアルパフォーマンスで比べると、ドサ回りとかパーティーバンドってのは随分と減ったよ。
環境変化や諸事情から、両者共必然性もあっての結果ではあるんだが。
鉄道の方では気の利いた会社にはご意見ご要望チャンネルみたいなのが用意されてたりゃするものの、大昔みたいに現場で当事者同士が直接話しをするのは殆ど不可能化してるんだよねえ。
音楽でも未だドサ回りを継続してる様な大御所に対し、歴が浅い連中の方がそんな体験がほぼ無いんじゃさ。
確かに狭隘・小規模なLive会場なら声は楽に届く距離ではあるが、↑では時々ある様な世間話とか井戸端会議レベルみたいなやり取りはムード的に出難いんじゃないかな。
要するに顧客の忌憚無い生の声が聴けなくなってて、こう云うのは間にビジネスライクな忖度野郎が挟まると最悪なんすわ。
プチ乱暴だが既存の方向性や手段で売行きが過去比じゃ劣化してんだから、時代が変ったから仕方無いとかばっか言ってないで少しは冒険しなきゃしゃーないのにさ。
中間管理職や経済的経営だけに従事してる音楽の内容に対しては言わば余所者が、顧客ニーズより自己保身を優先して判断下しちゃってんだから。
撮り鉄方面でも直接のコミュニケーションが取り辛くなった結果は、先ずヲタの側が現業の事情が分からなくなって無視する様になったと感じられる。
例えば同じ危険にしても内容や心理的影響は多岐に渡るんで、読み易い簡潔な文言にすれば当事者の気持の伝わりに欠落が多くなる。
かと言って文章で細密にやれば極力支払いを逃れようとしてる保険の約定みたいになって、身勝手な印象を与えちまう。
それがもし現場での生の肉声だったら景色や声色等のパラメータが具体化してるんで、かつての俺みたいに誤認が晴れたりする事もあると思うんだ。
何れにしてもこの様な分断は意識・認識の共有やポピュラリティには致命傷で、例え少々偏屈なRockの人でもあの純烈に本気で対抗してドサ回りする気概位は無いとそりゃ難しいでせうな。
他方オリジナリティに執着するなら売れるかどうかは殆ど無視して、全く売れなくても続けられる環境を構築するのが良いだろう。
それ位覚悟したってどれ位独自のを編み出せるかは未知数で、どっちかだけを水準に乗せるのだってとても大変なんだ。
誰だって知名度も個性も両方欲しがる方が自然だが、片方だけでも至難なのに取組み方からして足りないのだらけじゃ宝くじより当たる確率は天文学的に低くなって当然なんすよ。
インターネットの普及で調べるのは飛躍的に向上してるが、情報の取捨選択が発信者主導じゃないからねえ。
こっちが思ってたのよりもっと別のを相手は先に訴えたかったとか、リアルコミュニケーションだったら相手がダメ出ししてくれたりして切り抜けられるのがネットではとても難しいかんね。
<つづく>
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