音楽備忘録585 残響考Ⅱ
では純粋に前回の続きから行かせて頂くが、先ずはエコーの掛け方が下手化した原因の考察だ。
私的には幼少時より「普通より響く場所」への興味が薄れたのに現れてて、それって結局デジリバとかで何時でもどうとでもすぐに出来そうになったりしてるからなんじゃないかとかさ。
その昔俺が幼かった頃って、「機械のエコーのある家」なんて記念物もんだったさ。
当時はカラオケ店すら無かったしで、あるとしたらステレオオーディオラー(一体型ステレオのにそんな呼称があった)にバネのが入ってる程度で御の字だった。
だから気分良く歌える場は家庭内だったらタイル貼りの風呂場位しか無く、希少だったが故大人も子供も「良い響き」のある場所に対しての興味が断然今より強かった気がするんだ。
例えば今だって絶滅迄しちゃ居らんだろうけど、公園に置かれた土管に向かって「アー」で楽しめる時間は大巾に短くなってるんじない?。(大の大人がそんなんしてたら通報されちゃうが)
これって「各個人毎に興味のある響き」の感性が鈍ってるのに繋がってそうで、「アイツん家の玄関で録れたら」とかそんなセリフを耳にしなくなって久しい。
従兄も前から考えてたかも知れないが、今回俺言い「階段バーブ」をやってみろと言ったのは元は次善・若しくは苦肉の策からだった。
専門家の立場からすると従兄の録音環境では、残響の多過ぎるのがずっと気になってたからだ。
その更に元になったのが大昔に宅で彼のを3点録りしたヤツで、後掛けデジリバで酷く苦労したからだった。
その時俺の曲はこっちの意向でマルチで録って、彼の曲は完全に同一メンバー・同一グループの作品だが当時の彼の趣味で3点にした物だ。
太鼓自体がチープなのだったのも災いしたんだろうけど、兎も角にも困窮したのよ。(プチ失礼:当時の従兄の予備器、メインのは彼の実家に)
宅は物凄くデッドにも拘わらずそんなだったから、かなり長い事太鼓のOff Micには私的に懲りちゃっててねぇ。
それをもっと響く処でなんて絶対後で苦労するから嫌がったんだけど、でも確かに太鼓をより自然な感じで録るには近過ぎない方が良いのは最近分かっちゃった。
ならば「響きも同時に録っちゃう」しか考えられず、響くなら響かせちまえホトトギスとなったのである。
図々しい私欲としては宅じゃそんなの無理だったしで、録り方自体を場所に対して最適化させるって作戦だ。
それでメールで珍しく頻繁なやり取りをしてて気づいたのが、どんな多残響の場所でもそんなに左右ばかりに広がる処は滅多に無さそうな処だ。
つまりもしやたら巾広で奥行きの浅いホールがあったとして、それじゃあお客さんの首が疲れて仕方無い。
し席の場所次第で音に差が付き易いし、これは狭隘Livehouseで例えばメインPAの片方の至近になっちゃったのなんかでもそう。
目の前のが爆音過ぎて、反対チャンネルのが全然聴こえない。
それだと音的にステレオになってる分は半分しか聴こえないんだから割引してくれんのかよで、でも実際は舞台が近いんだから高くて当然でしょって…。
故に残響に限定すれば兎に角近い所と遠い所の差が小さい程「似てる音」が聴けるけど、残響はオマケで生音の方がメインディッシュだからねえ。
となるとリアルの究極チープとすればホントに土管でもある程度長いのが最低条件な訳で、そうすると左右感はエコーよりPanpotの方が主役なんだよね。
只折角思いっ切り左右に振っといたのが狭くなると勿体無いし、好みからしても折角ならなるべくワイドな方がに捉われ過ぎたか。
けれど特別な空間の演出が不要なのだったら、ソースはステレオなのにエコーが完全モノラルじゃ変かもってだけだったんだよね。
これって一種のステレオ過依存症なのかな!?。
<続く>
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