音楽備忘録519 パートのリズム調節⑪
前回最後の続きから行くが、じゃあメンツに恵まれなかったらそんなに我慢ばっかしなきゃなんないのかだ。
一面ではその通りで、それが嫌で他パートにも触手を伸ばすなんてケースもある。
尤も「だったら俺に貸してみろ」はまだ良いケースで、万一自分の要望が間違ってたらそれを実体験で知れるからね。
最悪なのは他パートに対して知りもせず良く訊きもせず、他所では「そんな感じ」のが実現してるのになんて決め付ける奴だ。
これには2つの大きな瑕疵があって1つ目は伝え方、2つ目は思い通りにならない原因がホントに相手にあるのかどうかだ。
1つ目は専門外なんだったら「こう弾け・ああ叩け」じゃ無く、「誰それの何々(曲名)みたいにして」って言わないのが悪い。
時に演り方自体を指示してるのを耳目にする事もあろうが、それは相手が「何々風にする術を知らなかった」場合にヒントを出してるだけだかんね。
2つ目が最も恥をかき兼ねないパターンで仮に相手の方が影響が大きかったとしても、手伝ってくれとか協力依頼をするんでも充分なんだから。
こんなん言っといて俺はどっちかってばすぐ熱くなる方だし、強い表現を使いたがる口ではある。
なのでギリギリで命令にならずお願いだったとしても、相手が受ける精神的負担は命令したのと大差無い可能性が高い。
それでもホントに命じちゃうかどうかでは、最終的には結果に大きな違いが出るのだ。
状況次第でもあるけれど、やはり多くの場合全員が同じビジョンを持てるかどうかが重大だ。
と言っても他人の心の内部を直接比較なんて出来ないから、同じったって実際は「つもり」位に思っとく方が良いかも。
けどたればこそ意識する度合いが同程度だとか、せめて外から判別可能な部分位はなるべく揃えときたいものだ。
それには受け身だけでは大抵足りず、各自が自ら進んで取り組む様な状況が相応しい。
更にこれを具体化するには頭を使うのがたった1人では駄目で、程度差は度外視しても良いから全員が少しは皆考えている事が鍵になって来る。
ピッタリ揃うのだけへ拘れば、それはもう全てを独りで賄うのが一番だ。
俺が何でも演る様になったのも、元は個人の理想を具体化してみたかったのが発端だった。
今でもそれを破棄しちゃ居ないが、揃う代わりの弱点てのが演ってみてからコンニチハした。
それはウッカリ何かを失念した際、それが最後迄絶対に修正・補填されない処だ。
しかも誰でも気付けそうな些細なのが多く、しかし大事故には繋がらないからこそ見落とし易い。
総体的には些細なんだからダメージは少ないが、なまじ「ピッタリ」なだけにそんなのでもやたらと目立って足を引っ張られるのだ。
結局は曲等のニーズ次第で個人で攻めるかチームで行くか選ぶのが良いだろうが、全箇所のタイミングが完全に揃ってる方が良いなんてのは滅多に無い様だ。
普通誰だってズレない様に気を付けるしそれで間違って無いが、揃ってるのが他の何より最高なら今時生演奏なんて必要最低限になって無きゃおかしいよね。
勿論全く全部がずっとバラバラじゃ訳分かんなくて駄目だけど、揃う以外にも重要なファクタがある証しが未だの人力アンサンブルなのだ。
それが例えばパートに依って若干ノリが違うとかで、これは特にポピュラリティや親和性に対して効力が大きい。
例えばⅡで民謡風なら誰でも受容れられるが、本格的過ぎたら合わない人には辛いとかだ。
聴き込んで行くと各自の波長から乖離し過ぎてなきゃ本物の方が味わい深いが、いきなりだと面喰ってトラウマになったりもする。
日本人って外国語ってだけで極度に尻込みしたりするけど、それでもそれがまだ英語だったらイエスノーとかアイラブユー位は大抵誰でも一応分かるよね。
それからすると他国の人は勇敢ではあるが、彼等だって何1つ知ってるのが無かったら流石に戸惑うだろうから。
<つづく>
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