音楽備忘録495 楽器の音程調整③
今回は生Pianoの調律っても音程合わせ限定でだが、これを中心に奏者認識について論じたい。
楽器の調整や準備の仕方は本来人夫々で良いんだけど、今自分では出来ないってだけで丸投げ一択に固定してしまうのはどうもねえ。
実際に日常的に奏者が全てを賄おうとしたら偉い事だし、適正だってあるからそんなに無理は流石に言わないですよ。
只自分がやらないからって何時迄も無頓着過ぎのままで居たりとか、出来なくて何が悪いなんて極度に開き直り過ぎちゃったらアカンねん。
今回みたいなテーマを考察する際、近頃の俺は歴史の始まりを想像してみている。
一番最初に弾き出した人って、その時自分以外にその楽器が分かる人って作った人位しか居ない。
それからすればどんな問題に面しても自分(初奏者)と製作者のたった2人で、基本的には全てを切り抜けて行くしか無い。
しかもその時点でこの2人は情報の完全共有なんて程遠い状況かも知れないし、どっちか独りしか気付かない・知らない・分からないなんて部分も恐らく沢山あった筈だ。
その状況下でもし途中で投げ出さずに続けてたとしたら、どんなに苦労しようと時間が掛ろうと何とかして克服してた訳だよね。
それからするとⅡでもしかしたら極端に非効率だったかも知れないけど、予め知ってたり出来てたりしなくても全くどうにもならないもんじゃ無さそうだよね。
そこで俺が思うのは先ずそもそも適正の見極めがそれなりに完了してるのかどうかで、全く未挑戦のままで気が向かないから「ハイ私無理」なんて断定しちゃうのを問題視してるんだ。
これには色々おっかない副作用がセットになってんだけど、まあそれに気付いて無い人の何と多い事か!!。
冒頭の俺言い「原始思考」とでも命名しとく方法で考察すると、幾ら練習してもそれを支障する様な音程ズレがあったらちゃんとは上手くなれなかったりする。
それが一面では楽で他面ではとってもヤバイのが、譜面に過依存して演奏する生Pianoなのだ。
流石にそんな酷いのは先ず無いだろうが、例えばもし全部の鍵盤のが本来より半音高くなってたとするわね。
耳も使ってたら譜面より半音分下げる音の翻訳をして弾こうと試みるだろうが、視覚だけに固執してたらそんな風な「解決可能性の芽」を自ら潰しちゃうんだ。
そんで後で私はキチンと弾いた→悪くない・楽器が悪いってそりゃそうかもだけど、元は誰のせいだろうとその場に居合わせた皆にわざわざ気持ち悪いのを我慢させる程のもんなのかってさ。
過去述の一部の音大生お嬢さん方がそうなったのも、教育が主因の人が殆どだとは思いますよ。
けれどそれでは音楽家では無く「操縦者」でしかなく、例え本人は望まぬ道へ進まされてたんだとしても苦労の大多数が水の泡になりまんねん。
奏者さん側にはお客さんには原因より現場での苦痛が辛いってのと、指導者側には結局は自際に出てた音が全てってのを是が非でも再認識して頂きたい。
それ以前に俺言い「耳育」に大きな障害をもたらす、のを指摘させといて貰いまひょか。
もし「何時簡単に狂うか分からない」のを弾いてたなら、常時大丈夫か耳で確認する癖が付いてそうだわね。
これがTromboneやSlide Guitarだったら、耳不使用で求める音程を得るのすら困難だ。
昔の軍隊ラッパなんかもバルブが一切付いて無いから習熟に依って大体の加減は体が覚えてるにしても、最終的には聴こえたのに対して微調整して行くしかない。
この点に対してPiano系の多くはとても楽なのは確かだが、完全に省けるプロセスと安易に勘違い出来る程不変な存在じゃない。
それでも既に出来上がってる物だけを扱うならまだマシだが、これから作ろうとした時には他にも色んな弊害が考えられる。
これは次回にタップリやるとして、音楽演るのに「聴かないで弾く」とか弾けると思っちゃうなんて凄いわぁ。
だいいちもしそんな調子でいて楽器は「Steinway & Sonsのフルコンサートグランドじゃ無きゃ…」なんて言っちゃったら、とっても恥ずかしいギャグになっちゃいますぜ。😅
<つづく>
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