音楽備忘録246 「一億総ベーシック失念化」現象!?➄
前回は遂に音楽との関連性が書けなくなったので流石にカテゴリーから外しといたが、少なくとも大いに関係があると俺は踏んでるからの話しだった。
それは各自の性格や好みを問わない部分での判断力等に及んでると思われたからで、無意識時には普段の日常生活での思考や習慣なんかに翻弄されてる部分もあるからだ。
何かの結果向上をさせるのに近年はその手法迄が、どれも高度化し過ぎてる嫌いがある。
これの何が不味いってば継続性や環境適応性に難があるからで、とっても特別な事を毎日死ぬ迄なんて続けられっこ無いのだ。
俺の現行グループでも皆1度はこの罠!?に嵌り、今も休業中の約1名は未だそのトンネルの中に居る様だ。
只休んでるだけでも基本的に俺はほぼ全部肩代わりしなきゃなんなくて疲れてるのに、最近半失踪状態となってて益々参っている。
だが元はと云やその御仁こそが我々内では一番の成功者で、連絡が付かぬから宅訪してみりゃ印税収入の通知書がポストに入ったままの有様だった。
それが何でこんなになったかってば、彼が生真面目に追及し過ぎて飽和したからとしか考えられない。
今日を越せなきゃ明日の来ない業種・業界だから、彼の先を気にせず今を全力って姿勢は讃えるべき点の方が多い。
しかし持続が不確実になってしまえば、それはもう一夜の花と散ってしまうかもしれない。
それ以前の段階で自身のメソッドでがんじがらめになって、俺もそれは過去に苦い思い出があった。
それがどうしてそうなったか又それから脱出困難だったかを考えたら、音楽以外の生活がどうなってたかに左右されてた様なのだ。
意識してる部分の事は良し悪し別である程度は把握出来てるもんだが、音楽を気にすればする程非音楽の部分には無頓着・非認識となっていた。
気にして無い分かって無い知らない部分からだと、もし影響があったとしても考察の段階で既に選から洩れてしまう。
壁にブチ当たった際に気分転換等が有益なのはどうやらこの辺の問題で、押しても駄目なら引いてみろの認識・認知部分版とでも言おうか。
音楽を何とかしたくて全力投入してでもそこでつまづいたり行き詰ったり、そうなりゃ誰だって余計音楽だけに意固地になるもんだ。
すると仮に頭では日常生活の改善からが脈があるかもと思っても、懸案が気になって中々進められなかったりする。
ならば敢えて音楽の中だけで道を見付ける事となるが、それは基本とか原点へ立ち返ってみる事だろう。
この時キッカケとなりそうなのが初心者に教えたりする事で、それ故奏者個人としては不調に陥っても従兄の太鼓の先生は破綻せずに済んだと見た。
ベテランになると余程気を付けてても性格にも依ろうが、低次元部分を舐めてしまったりするのが皆無なのは皆無だろう。
が軽く見てた程いざ矢面に立たされると案外焦らされるもんで、その状況が必然的に訪れると当初は厳しいけれど有難い感じだ。
思い返してみると3人の中で一番演者プロだった休業君が、音楽的に初心者レベルの人との交流が僅少だった。
かなりタップリ体験してても長い時間が経過すると、どうやら実体験だったにも拘らず「頭の中の話し」に変身しちまってる部分があった様だ。
それでは距離が遠過ぎで「昨日左で外れたから今日は右」みたく、もっと身近じゃないと足りんらしい。
これ若い人には実感し難そうな例えでスマンが、何十年振りで再訪したりすると知ってる道順を間違えたりするのと同じパターンだ。
その原因は忘れたとかミスったとかじゃ無く「景色が大巾に変わってた」で、目印にしてた看板が無くなってるのに気付かず曲がるべき所を通り過ぎちゃったなんてのだ。
古ぅ~いレパートリー曲とかだと耳に大きな変化が無ければ、人や物に依っちゃ当時のままに何時でも即座に再現出来たりもする。
だがそんな俺みたいな自信家だろうと多勢に無勢、自分以外の全てが大きく変化してたら自分が無変化でも他人には当時とは違って聴こえてたりする。
聴き手の耳の所で何時も通りにする必要があって、変わった分をこっちは再アジャストして漸くイーヴンに持込める。
それには自分の拘る部分だけじゃ無く、曲の基盤部分をしっかり見つめなくては等々。
<つづく>
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