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2020年4月

2020年4月30日 (木)

音楽備忘録267 バスドラペダルとフレージングⅫ

前回の「が」から続けるが、もしかしたらこのセンシティブさのせいでバネ弱を毛嫌いされてるのもあるかも知れない。
だとしたらと思うと益々反論したくなるが、これは普段から俺が反体制的とか反抗的だからでは無いのだ。

正直音楽や電気以外の事では自分でも怪しさ位は感知してるが、必要な音を求めた結果からこれは譲れないし譲らん方がマシと痛感させられている。
現代はたかがRockですら多方面に渡って複雑化も著しいのと、悪い意味での何でもセルフ又は自己責任論の横行が難解化促進に繋がってると考えられる。

それでも機材の種類が限られてたり応用が利かなきゃ何処かのタイミングで白日の下となりそうだが、生演奏を謳っといてClickでもループでも切り貼りでも何でもありじゃ犯人特定は困難極まり無くて当然だ。
とは言え作品を78回転SPレコードでしか発売しないなんてのは通用しないから、今じゃ豊富な本番体験から学ぶのは厳しくなったかも知れない。

本来なら本番体験に勝る学習機会は無いのであるが、仕方無いから例えば練習時の録音はスマホでもマニュアル録音レベルでやってみるとかだろうか。
閑話休題で戻ってくが俺言い「柔軟アップヒール」+バネ弱はセンシティブっても、バネ強なら許容範囲に必ず収まるとか演奏が楽になるなんてのは一切無い。

強いて言えば失態が若干バレ難いってだけで、本質的な差は全く無いのだ。
これには先ずペダル自体がニュートラル位置にある時の、その反発力たるや如何にを念頭に置いて頂きましょう。

バネの強さは例えば1cm引っ張るのにどれ位の力が要るかとかで表されるが、極論的には全く引っ張ったり押されたりしない時全てのバネは共通に張力・押圧ゼロで一切の例外無しだ。
となるとバネ弱でも一番伸ばされてるのと、バネ強でも一番縮んでる時を比べたらどんなもんだろうねえ。

そしてもしたまたま爪先が無意識に干渉してるのがそのポジションになってたりしたら、そん時ゃバネ強でも要らん影響を大きく受けてる可能性が高くなるぞ。
こうして考えりゃ柔軟アップヒールがバッチリ「嵌る」には、ペダルの他奏者の体格・筋力やその性質全部を総合しないと最適値は得られんとなる。

これには奏者に非依存の適正テンポ範囲はあるけれど、各奏者の肉体的バランス速度等も到底見逃せない。
つまり人次第で結構まちまちになってて当然で誰かのが全く参考にならんと迄は行かなくても、基本的には本人が試行錯誤で探し当てるしか無いと考えられる。(但し音にはハッキリ出てるョ)

どうしても真っ先に挑戦したい人に無理に止めたりゃせんですが、そこまで大変で何時成果が得られるか分からんなら別の方法が先の方が利口だと思うんだよね。
例に依って個人差千差万別だから適正はあろうが、それが「ベタ足」若しくは少しはそんな意識を持つってのだ。

おっとその前に親切だから「どうしても君」向けに対策を一応伝授しとくと、俺は疲れるし手と当たるから嫌だったが「Strokeは大奮発」若しくは絶対にケチらないって方法だ。
腿とか膝の上下動を見て「こんだけ上下させてんだから爪先だって足りてるだろう」って、勝手な思い込みを封印すると言い換えても良い。

上から眺めてどんなに大袈裟過ぎと思えても、もし「下が不足」だったら恥じずに盛大に脚をブンブン動かすしか無い。
極上サウンドが欲しいとなりゃどんな手法を用いたってそんなに楽になんてならなくて、楽になる場所が手法次第で変わるだけと心して貰いたい。

因みにⅡでもしそれでもStrokeをそんなに大きくしたくないと贅沢を言うなら、その1はフットボードは従前より手前目を踏んでみましょうと答える。
尤もバネが奥でギリギリやっと踏める程強いと無理だよねえ、そーすっと俺が喜ぶバネ弱に少しは再調整しなきゃなんないねぇ。😃😃😃

これを利用するとバネ弱でもその分手前を踏めば手ごたえもとい、バネ強時と同じ足ごたえは簡単に味わえちゃうねぇ。(距離的深さは違っちゃうけど😓)
これってフットボードが長目になる程人力加減巾が広く取れるっ事で、だから従兄を始めとした一部の人はやたらと長いの欲しがったりするのかな。

<つづく>

2020年4月29日 (水)

音楽備忘録266 バスドラペダルとフレージングⅪ

誤認回避と一層の理解を願って俺言い「柔軟アップヒール」奏法をもちっと掘っとくが、鍵となるのは「時差」である。
っても音が所望のタイミングになる様に加減しちゃうから、普段一々これに意識が向く人は少なさそうだ。

人の動作として自然なのは少しだけ書いたが、これには力学的効率の良さもある。
今回の比喩例は貨物列車の自動連結器であるが今時「隙間があって」騒音や衝撃が発生する大弱点があるのに、訳あってわざわざそんな前世の遺物みたいなのを使っている。

今や自動車よりは鉄道は少数で通過頻度も低いのに騒音問題で虐められてて、新幹線の顔があんなブスになったのも設計者のセンスの無さだけが原因ではないのだ。
特に貨物は昼間は旅客優先で夜中に走る事が多いのにも拘らず、裏を返せばそれだけ譲れない事情があるからなのだ。

単刀直入にバラすと「隙間が無いと発車出来ない」からで、もし隙間が無いと機関車に一度に全部の重さが掛って動き出せなくなるからだ。
そりゃもっと怪力なのを作って車輪が滑るのは数を増やしゃ少しは行けるだろうが、今の時代でそれをしたらお高くなり過ぎて収支が成り立たなくなってしまう。

し怪力には騒音が必ず付いて来て、普通の線より新幹線の方が騒音が問題になるのも超高速なせいだ。
では何で隙間があれば平気かってば慣性モーメントが利用可能となり、僅かでも時間差に依って1両ずつ順番に発進させられるのだ。

重たいヤツは動かすのも大変だが止めるのだって同じ位大変になるが、って事ぁ一旦動き出したら速度を殆ど変えないなら随分軽い力で維持出来るのだ。
そもそも電車が自動車より省エネなのはこれが最大原因で、急な動きの変化が苦手な代わり一定に近い動きは大得意だからだ。

誰でも実感できるのがモータの音で線路が急坂にでもなって無かったら、発進加速時と減速停車時等以外に聞えない事が多いでしょ。(音がしない時は実際に電流が殆ど流れて無い)
これが人体動作の場合隙間の代わりに動き出しの時差となって表れてて、支点が移動中に更にそれより先を動かそうとしたら静止時の何倍もの筋力を要す。

仮に怪力で筋力が余ってたとしても演奏では、パワーを出す方より制御する方に資源はなるべく注ぎたいよね。
因みに貨車の場合支点には飽く迄レールってれっきとした存在があるが、人足の場合持上げ中は座してたら股関節・もし立ってたら恐ろしい程遠くの反対足の爪先やカカトとなっている。

それからすれば貨車の2両目以降と膝下から先では大違いで、人間様の方は枝の枝の枝の如くとなっている。
すると静止地点から観測すると例えば何処も時速20kmで動かしたつもりでも末端へ行く程加算されてて、それを考えれば自覚より実際はかなり高速を出すんだからそりゃ草臥れる訳だ。

それ故「力を入れるのを1ヵ所限定」とする効果は絶大で、どんなタイプの人でも完全に無意識で動けば自然ともうそうなってしまうもんなのだ。
結果的に動作自体もその方が滑らかになるので安定度にも大いに貢献してくれると、ここ迄それだけだったら良い事尽くめだ。

だが時差に対する認識が余程十二分じゃないと副作用の洗礼があって、ベテラン達人の従兄ですら横から眺めてるとまるで昔の俺みたいにムラムラだ。
おいっ誰だスケベ方面に思った奴は失敬な、ってまさかそんな人居ないか。😓

気を取り直してどうして幾ら手よりゃ足が苦手ったってそんなになるかってば、時差と体感のせいで本人にはとっても感知し辛いからなのだ。
パッと見で把握可能なのはほぼ腿や膝の位置だけで、体感としては大抵は足首位置位が関の山だからだ。

しかも騒音防止の為にはなるべく爪先はフットボードとの接触が維持されたままの方が良いから、「爪先が何センチ上がったか」なんてとてもじゃ無いが一々相手にしてらんない。
けれど困った事にそれこそがペダルの動きと「現在位置」を最も支配するファクターで、しかし感知は困難と何とも意地悪なシステムとなっている。

解決の突破口は今だと「横から録画」なんてのもありはするがリアルタイム性に劣るので、ビータだけに注視するの辺りだろうか。(俺の場合は何時の間にかそうなっていた、割と近年になってからだけど…)
それだって低速な内は良いが速くなって来ると視認困難となるので、正規のビータ「反位位置」に触れたら音がするとか揺れる物でも置いといてそっちで判定した方が確実そうだ。

勿論音楽だから耳優先で判断するのが理想だが、何分太鼓は音が短いのでそれだけじゃ中々厳しい処もある。
しかも演奏音量が人耳の音量感知力が敏感な領域と乖離してるのが殆どなので、不都合の2乗となると流石に厳しい。

これが俺が「動きから入るのは危険」と思う理由で、この技を上手に使えてる人は恐らく違う基準に基づいて演っていると考える理由でもある。
特に全体としては低負荷になるバネ弱ペダルの場合はフットボードの抵抗成分が少ない、或は従順であるから影響大となる様だが…。

<つづく>

2020年4月28日 (火)

音楽備忘録265 バスドラペダルとフレージングⅩ

さて前回はバネが強くても脚上げアシストに大して貢献して無いのを検証したが、今度はこれを奏法等人間側からも見て行こう。
先にお断りぃの再確認としとくがここで推奨してるのは、バネが弱いってだけで「無い」のではないのをお忘れなく。

脚上げの補遺として前回のへ追加しとくが、これは基本的にはどんな奏法でも必須の動作だ。
単に上げなきゃ降ろせんのみならず、ペダルの構造上の事情ってのが
あるんや。

それはバネで戻す言わばパッシブアクションでニュートラルへ戻すには、原理的に一旦踏み込み時とほぼ同程度「反対側」へもビータが振られてしまう処だ。
ストッパーでも追加しとけば止められなくはないが、速さが要求されるからにはそこで大き目の衝撃音が出てしまう。

その衝撃と音をなるべく小さくするには柔らかく受け止めるのが必要となるが、柔らかい≒弾力があるとなるので今度はヘッドの方へ再度向かってしまう。
その際望まぬ再打って最悪の事態を仮に避けられても、動かした後直ちに止めるのは何れにしても難しい。

更にこれをゲル状物質等で仮に達成したとして、次にはフットボードと履物若しくは足裏との「接触の仕方」等で又同じ様な問題が再発してしまう。
人体は余程高度な訓練をクリアしてでもいない限り、気持ちとは裏腹に一度動かしたらそんなに瞬時には止められない。

それですらロボットのような訳には行かず、その代りだからこそ「達磨さんが転んだ」がゲームとして成立すると云う按配である。
そこで発想の転換宜しく「すぐに止まらなくても困らない状況」を模索した様なもんで、その結果ペダルのニュートラル位置は実は演奏時のニュートラル位置の凡そ「半分」となっているのだ。

私的にはこの2つの違いの認知が不徹底と感じられるが、これは演奏上大変重大な問題だ。
これが分かってりゃ脚上げレスで踏んだら「普通じゃ無くなる」のにすぐ気付けるが、普段奏者からは見え辛いとか高速連打時にStrokeが多少短くても平気等で誤認され易い。

又この俺言い「プリ脚上げ必須」の件はほぼ全奏法共通であり、ワイの踏み方なら要らないさなんて間違っても思ったら悲劇の始まりだ。
何れにしても「演奏時のニュートラル位置」確保の為に必要で、偶然だろうと何だろうとペダル(若しくはフットボード)がそれだけ「動ける余地」だけは与えねてやらねばならない。

ここで縄跳び時と似た動きで演れる俺言い「柔軟アップヒール連続奏法」時の分析を付記しとくが、これって足・脚に依るドリブルなんて言い換えらるかもしれない。
これの適用に関して情報不足が顕著なのでここで強調させといて貰うが、もし足・脚の動かし方のバリエーションが少なかったらハッキリ言って適す領域はかなり狭い。

似てるから縄跳びを出しはしたが異なってる部分もあって、こっちではペダル(大元の犯人はバスドラヘッドだが)の反動も利用してるからだ。
こっから得意の変態比喩をしてくと足・脚をオレオレ詐欺の電話係りとすりゃ、この場合ペダルバネと皮と受け子が何故か2人居る状態にある。

この受け子は状況次第で協力したり反発したりと微妙な関係で、バネ君の方が石頭で融通の利かないのが時に不仲になる原因だ。
この値は機械系の持つ固有定数と云うヤツで、バネ張力・可動部重量・動作抵抗等が基本的にはほぼ一定なのでそうなってしまう。

もう一方の皮からの反発力は打撃強さ次第で大きな変化量を持ってるから、これが足し算になる時は楽に・引き算となってしまう時は「普段より大変」になってしまうのだ。
これへ応じて足・脚のStrokeの最適化を図ればバランスさせられはするがこれが大問題で、動作バランスは取れても必ずしも音が何時もと同じにはならないのである。

言うなればバネ君に忖度したら皮君が一寸僻んじゃったみたいなもんで、奏者に楽でも重要なのは音の方なんだけどね。
もし同じ音が得られるならわざわざ大変な動作なんてする事ぁ無いが、どんなに楽だろうと求める音に足りないんじゃそんなの徒労なんざんす。

故に音の都合で気付いたらそうなってたは大変結構なんだけど、人が楽だからを優先させて「先ず奏法ありき」でこれを演るのは間違った用法なんで御座居。
もっと言えばしなやかな動きはギクシャクさせるより美しいし自然で楽な事が多いが、結果的になってるのはOKだが音より先に見た目だけ真似たら却って罪にもなり得るんですわ。

<つづく>

2020年4月27日 (月)

音楽備忘録264 バスドラペダルとフレージングⅨ

今回又しても適正バネ強さの検証であるが、奏法と言ってもかなり毛色の違った観点からの考察だ。
ドラムだけの範疇で充分な理解が出来ない人向けに、他の楽器系の「踏む物」とも色々比べてご覧あれ


最初はRock系でエレキのEffectorのスイッチの踏み替え等の際で、スイッチが板状になってるのだったら軟らかいゴム底の靴でも何ら問題は無い。
が金属の円筒が出てるだけので固めのだと靴底が薄いと足裏が痛くなるし、足自体はスイッチを切替えられるだけ動かしたつもりがまだ動いて無かったなんてのもある。

だからってあんまり簡単に動かせる動いちゃうスイッチだと、足をスイッチ上に構えてる時に僅かによろけただけで勝手に切替わって困ったりもする。
これと比べたらドラムだって全身を使ってるから揺れはあるけれど、ドラムスローンってしっかりした基準点があるからEffectorスイッチより敏感でも平気だよね。

そもそも「構えぇつつぅ」の位置に両者では違いもあって、エレキでは触ってても重さは掛って無い位のが正規位置だ。
対して太鼓の方は特例を除くと足は「完全に降りた状態」で良く、寧ろバスドラの不要共鳴を防止するにはこうでなくちゃ駄目な位だ。

Effectorフットスイッチの「固さ」は体格差等で最適値はかなり変動するので難しい面があるが、瞬時タイミングを取るのには「身構えられない」(上述)のはもっと困る。
となると限度は当然あるけれど動かすのに要る力は弱過ぎるよりゃ、多少切替騒音を発してでも強過ぎる方がまだマシだ。

ドラムペダルの方では特にClosed踏みを常用してるんだと、全く踏んで無い時にOpenになってたら音的によりあべこべになってしまう。
言わば足に依る「無意識ミュート」であるがこれの負担を最小にするのにも、ペダルバネの強さは強いより弱い程向いてる事になる。

或はOpenでしか演んないしミュートなんてしないよって貴方へ反論、強くったって平気その方が楽っても結局は「踏める強さ」で限界なんですよねえ。
となるともし何かの間違いで足がフットボードの奥深くへでも乗っちまったりしたら、その程度の強さじゃ人間の方で避けないとビータがヘッドに触っちゃうかも知んないよっと。

その昔は様々だった「鳴らさない時のミュート」の歴史も一寸見て行きたいんだが、近年本邦ではバスドラはOpenの方が多いらしいが…。
昔様々と記した基にはミュートの仕方が大きく関わってて、Ringo StarrがBeatlesのLive休止後にし始める迄基本的に奏者が常設ミュートをする事は殆ど無かったからだ。

人力以外で施されるとすれば楽器内臓のとか皮とリムか胴との間へフェルトの帯を挟むとか程度、且つ最大の差は主目的で演奏会場の音響に対する補正で今みたいな積極的な音色創出では無い。
んでわざわざ遠回りさせたのはその時代の方がバネ張力の平均が弱かった処で、人力ミュート時の利便性に配慮したとも取れるが今よりしなくても構わない時代で今より弱かったのには最大の注意を払うべきかと思う。

で少し戻るがこんな現行タイプのでもバネは「何とか踏める程度の強さ」しか無いんだから、足・脚の脱力のみでは大抵はビータ位置はニュートラルよりヘッドに近くなってる事だろう。
そこからもし準備動作無しで踏んじまったら、キチンと脚を自分で持上げてから踏むよりStrokeがShortして多分弱く小さい音しか出せなくなってるぞ。

となるとバネ強は脚上げアシストになるっても、せいぜい足首筋力を活用して脚上げに勢いを付ける時に僅かに貢献する程度の効能しか実際には無い。
それも余程タイミングが良かったらの話しで、テンポやフレーズ等で「踏む間隔」が一寸でも最適値からズレたらアッと言う間も無く味方から敵に変身する。

この脚上げをするのには他にもっと確実に何時も安定させられる状況があり、それは脚が上がり始める迄は常にフットボードが同じ位置にあって動かないってのだ。
支点が安定固定されてれば後は奏者の腕次第(足・脚)で、訓練さえすれば何時もほぼ思った通りの動きが保証される。

んで足が触ってたらフットボードがほぼ動かないってったら、バネがとても弱いと自然とそうなるがね。
故に科学的分析等をこうしてしてやってみても、やっぱり不要強バネなんてぇもんは百害あって一利無しなのだよ。

<つづく>

2020年4月26日 (日)

音楽備忘録263 バスドラペダルとフレージングⅧ

もうヲタ全開でドンドン行くが、続いてはSlide奏法に適したのと踏み外し難いフットボードデザインだ。
一般的には滑らなきゃ踏み外し難いと感じるもんだろうが、少なくともドラムペダルの現実に於いてはさに非ずとこれは断言しておこう。

Slide奏法で幾ら滑らせるったって意図的な分以上にツルツルでは困るが、木靴でも履てるとかフットボードが油まみれでも無きゃそんなに滑るもんでも無い。
最近はバチの方でも滑り止め全盛とお見受けしたが、なるべくなら固定摩擦係数は低目な方が良いと思っている。

もしかしたら社会の自動化・機械化の進展で、握力が必要以上に衰えてる人が多いのかも知れない。
だがバチを自由に操るには当然随時の摩擦係数調節も含まれてるしで、滑り止めはもし使うとしても必要最低限にし少なくとも練習時等は無処理でも演奏出来る様にしといた方が賢明と思う。

それはさて置きスイベル奏法では水平方向の摺動許容が要るが、それ以外の奏法では左右方向は基本的には不要だ。
なので持ってるし使ってたし評判も良かったが、俺にはYAMAHA FP-702は最適解では無かった様だ。

フットボードに掘られた溝が横向きだからで(ここではずっと溝としてるが山と解釈してもOK)、前後方向の不意な「突っ掛り」予防でガムテを貼ってた時期も長かった。
しかしこの溝の分だけでもグリップが良いから踏み外し難いかと思ったら大違いで、寧ろ溝なんて無い方がまだ良さそうだった。

その後一時期のPearlの等「溝無しフットボード」(必ずしも完全にそうでは無いのもあったが)の体験機会が訪れたが、予想に反し溝が無くても特に改善は見られなかった。
この頃の迄はフットボードデザインの内で表面の模様だけに気を取られてたのが不味かったらしいが、踏み外し予防に有効なのはどうもボードの端っこの尖り具合の方が大きい様だ。

ここ迄に出したYAMAHA・Pearlのは両方共当該箇所には斜めになってる部分があって、良く言えば誤って引っ掛けそうになったら逃げてくれる仕様と云える。
しか~ぁしかか~あ~しドラムペダルは一般的には通常時足を水平面で左右に傾けて踏んだりなんてしないし、何か履いてるのだから角が当たって痛いとか起こらない筈だからそんなの無駄っちゃ無駄なデザインだ。

因みにスイベル奏法時はカカトの左右移動があるので傾きゼロは困難だが、フットボード自体を左右に押そうとしたりはしていない。
或は意図的に爪先の親指側と小指側を交互に使ったりするのもあるが、これも「押す方向」の少なくとも理想はほぼ真下だ。

っても「角があった方が良い」ったって裁断機の刃みたいなのは論外で、刃と同方向(平行)に何かを擦らせても切れない程度の面取りはされてる必要がある。
この点で近年のツルツル系フットボードは模様は無しでも角は割としっかりある様で、恐らくこの角を付けてるお陰で模様の無い割には踏み外し難くしいていると思われる。

それと履物底材に依って踏面デザインとの相性ってのもあって、革底等摩擦係数低目のに対してはツルツルより凸凹のある方が引っ掛かる。
対してゴム底等摩擦係数の高いのだと接触面積の広さがものを言い出し、イメージに反し踏面が平滑な方が引っ掛かり易くなったりもする。

但し履物も底の凹凸の度合いや形状次第で状況変化があるので、偶然踏面デザインと凹凸具合が合致してたりするとどう頑張っても全くSlideさせられなくなるケースもある。
個人的には俺からしても古臭さも感じるし高コストになるが、楽器演奏時に足を使う場合は今でもまだ革靴が基本と思っとくのが良さそうだ。

生Pianoのペダルなんて滑れと言わんばかりの形状なので、Classic系(スタイル事情)等で無ければ滑らない靴だと安心感が「ありそう」と思ってた。
処が大抵は微調整を確実にするのにカカトを床から離せず、それだと靴底とペダル先端位置が変動してくから全く滑らなかったり突然引っ掛かったりしたら却って困るのだ。

これからすりゃ足で踏む物は滑らん方が踏み外す心配は無くなるが、楽器系の場合は滑ら無さ過ぎる不便の方が困るし大きいと考えとくと良いと思う。
それとドラムペダルではデザイン的には溝や山がもし付いてるならなるべく横方向は少なく、縦方向のだけのの方が後で余計な厄介に遭わずに済みそうとなるね。

<つづく>

2020年4月25日 (土)

音楽備忘録262 バスドラペダルとフレージングⅦ

足首踏みに対しては取敢えずはバネの過大張力を避けりゃ良いが、Slide奏法の方は近年本邦で常用者が減少傾向にあるせいか正確な情報が足りて無い様だ。
そこで勝手にここぞと思って出張って行くが、ペダルは太鼓奏法の中でも道具依存度の高いのを先ず認識されたい。

けれど大変重要なのが演奏に好都合なのが特に初対面時に好印象とは限らないのがペダルってもんで、ドラムスティックなんかと正反対に近いかもな処だ。
お馴染みの手と足一緒論で言うとバチ対ビータでは、最低でもバチの指と手首の分がペダルに支配されいるに等しい。

足だって足首も股関節も使うからこれだけだと一寸変かもだが、肩甲骨は半ばフリーだが腰はスローン上で少なくとも上下方向は殆ど動かせないのに依る。
肩甲骨を固定させず柔軟に構えてるとあわよくば(達人なら意図的に)、腕のみならず肩の重さだって活用出来るケースがある。

これからすると手よりペダルを常用する足は、人間様が調節出来る箇所が少ない事になる。
人の関節にだって独立した専用脳ミソなんて付いちゃいないが、ペダルには感覚神経は付いていないからやはり何かしらの相違はあると考えて然るべしだ。

概述重複御免で先ずはフットボードの摩擦係数から行くが、これにも設計上の奏者履物がどんな設定かから始める必要がある。
私体験からすると基本設計が概ね’80年頃を境として、それ以前のは革底・それ以降のはゴム底対応と思われる。

これが後者では溝無し模様のフットボードも出て来てるが、これを安易に滑り易いと思ってる奴が居たらそいつの頭の方が滑ってる。
ゴム底前提だとしたら接触面積が多い程滑り難くなり、例外は主に「濡れてる」時だけだ。

F1のドライ用スリックタイヤに溝が無いのはこの為で、片方がゴムの場合はその相手は平滑な程グリップ力は強くなる。
人の印象としちゃどうしたって金属のツルピカが目に入りゃ滑りそうと身構えても仕方無いが、ペダルの側から靴底を眺める想像でもしてみて頂きたい。

次に足首主体Double StrokeとSlide Doubleの各適正へ進むが、乱暴に言うと足首主体の方だったらフットボードの摩擦係数の影響は殆ど無視しても構わない。
これは俺言い柔軟アップヒールと良い勝負で、足の何処か一部がフットボードに常時触れてるケースが多いからだ。

しかも奏法上過張力バネが元々不向きで足首で無理無く踏める位なら、強い力が掛って無いから滑って踏み外すのも起き難い。
今迄接触してて滑らなかったのが滑るとしたら接触力が変化したか、僅かでも左右方向へ所謂ベクトル(方向)の傾きが生じる必要がある。

左右方向に平らであれれば滑るのはほぼ前後方向だけになり、そうすると位置はズレても足がフットボードから完全に逸脱する様な事は簡単には起ない。
強いて細密に追及するなら関節が「一番外側の端っこ」に付いてはいないので、肉体を滑らかな動作にさせるにはフットボードは前後方向への多少の滑りを許容してくれた方が良いとなる。

一方Slideの方はその名の通り滑らせられないと話しが始まらんから、特に前後方向で途中で引っ掛かる様なデザインになってるとやり難い。
こうして見るとフットボードにもし溝が掘られてるなら、横じゃ無く縦方向の方がどう使うにも適してるとなる。

尤も革底対応のへゴム底でとかその逆をしちまえばこれ以前となってしまい、どんな履物か若しくは裸足でどんな肌質かとペダルはセットで考えなきゃ意味がありませぬ。
今のご時世だとこれを一々注意喚起しなくても考えていそうなのは、例えば草履とか足袋を履くのを常としてる人位だろうか。

<づつく>

2020年4月24日 (金)

音楽備忘録261 バスドラペダルとフレージングⅥ

ミスターゴリ押しぃでも流石にここで終っちゃアベノマスクに近付いちゃうから、Speedking以外のにもちゃんと触れておこう。
とは言えずっと専業Drummerで来たでも無いから全貌把握に自信が無いので、先ずは条件みたいなのから列記してこう。

のっけからいきなり最近得意!?になっちゃった言い訳とその訳だが、体験としては緊急事態宣言が出る迄は従兄の処等で現代ペダルにも日々少しは触れている。
だが興味が全然湧かない物を覚える余力が我老脳には乏しく、正確な名称をお伝えし切れないのだ。

加えて俺にとっての残念系ペダル同士には実際かなり共通傾向もあり、分類して整理しとくニーズが俺には無い。
これと上記条件列記が図ったようにリンクして来るんだが、先ずはバネの弱くする方が残念系はあまりにも足りないのであった。

物理的にはニュートラルポジションではなるべく張力が無いのが良いが、それでいて動いた時は強く引っ張れる様にとやたらに強いバネが使われてしまった。
こうすると特別強くしたい時には良いけれど、極端なショートストロークで使わない限り張力過大から逃れ様が無い。

もし逆に弱目のバネでも大胆に引っ張っとけば強くも出来、そうしといて懸念が残るのはニュートラルポジション時の無駄引っ張り力位だろう。
しかし全可動箇所に超精密ベアリングでも奢って無い限り、少しの消耗で「動く物にはガタは付き物」現象が発生するもんだ。

すると一見無駄と思えたニュートラルポジションの張力もこれを補う作用があり、バネ自体がそんなに強く無いのと相まってこちらは心配ご無用となっている。
なので具体的程度としちゃ非怪力足首で、最低でも暫く無理無く連打出来る程度迄弱められないヤツは安倍内閣系と仕分けしとこう。

こっちの実情を無視した「セッティングのゴリ押し」があるペダルって事で、こっちが金出して買ってやって言う事訊かんとはたかが道具の癖にけしからんってね。
けれどこれを今迄知らなくてありゃーを持ってる人も、慌てて放り投げるのはまだ早い。

もし設計不備がバネ強過ぎなだけだったら、そこだけ取替えちゃえば良いのだ。
深刻で諦めなきゃなんないのは強バネにかまけて重たく作られちゃってるヤツで、しかし残念乍ら無駄強バネの付いてるペダルにはこの手のが多い。

野球界じゃイチローみたいにパワーだけに頼らない方が一番凄いのを皆もう知ってるのに、ペダルだとそれが分かんないなんて何か変なのぉと呟いとこう。
これは例えば洋太鼓(ドラムセットとか)と最低限比べられる程度に和太鼓体験してみると良いんだが、全体的な楽器自体のサイズ・重量・胴や皮の厚さとどれをとっても大人と子供みたいな差があるよ。

DrumsetやCymbalだって丈夫は良いがゴツ過ぎのが増えちゃって、薄っぺらいプラスティックフィルム(皮、ヘッド)や菜箸を逞しくした程度のバチじゃそれを充分鳴らせるだけのエネルギーが無いんだけどね。
スポーツの方でも球の大きさ重さからバランスを割り出せば、バスケより野球の方がパワーより持続性を伴ったスピードの方が欲しいでしょ。

それでもヘヴィでもバランスさせるとなりゃ和太鼓を参考にすりゃ良いが、それをやったら今度は西洋太鼓特有の技は使えなくなっちまうさ。
細かい技を多用したけりゃどっちかってば重過ぎ太過ぎのスティックは避けると思うが、ペダルにもかなりそれはそのまま適応されてると考えて然るべしだ。

念のために付記しとくがここでの足の「細かい」は、Double Stroke程度でもうそっちへ入ると考えといてね。
どっかの誰かさんみたいに3つとか4つ連打出来るなら少しは手に近付くけど、一般的には16分音符の連打辺りで最高難度になってるでしょ。

それから次回細かく掘るがSlide奏法が苦手な人、フットボードのデザインをどの位気にしてるだろうか?。
履物の方(或は足)で調整しても構わないがもしトータルの摩擦係数が不適切だったら、苦手なのはちっとも奏者のせいじゃない可能性も高い。

外見上堅牢そうで滑ら無さそうだと何かと安心感があるが、片足とフットボードだけで坂道で立ち止まったりする訳じゃあ無い

足首主導でも一定以上に連打の間隔を詰めるには、僅かでもSlideさせるしか方法が無いのだから。

これ等を総合すると「象が踏んでも壊れない」ペダルなんて必ずしも好都合では無くなり、諸事情から「その程度の強度」が相応しい物だって解釈・理解が大切だと思うんだ。
それでも単純物理的にはひ弱なペダルが心配な人へもう暫く続けて、何とかお気付きになって頂きましょうかね。

<つづく>

2020年4月23日 (木)

音楽備忘録260 バスドラペダルとフレージングⅤ

さあいよいよ推奨モデルの例示となると、またぞろ「Speedkingゴリ押し教!?」の礼拝再開か!。
なんてぜぜ絶対に誤解しないどくれよ、この直後にその訳をちゃんとバラしとくかんね。

Speedkingは俺にとっちゃウルトラセブンのウルトラアイ宜しく変身アイテムみたいな存在で、コレに依って新たなDrummer生命!?が得られたも同然だ。
せやからセコかろうと何だろうとそう簡単に皆に追付かれたくなんか無くって、自分の都合だけだったら何時までも「伝説のペダル」なだけで居てくれた方が助かるだす。

それを何故幾ら性格も齢もあるったってこうもしつこく吠えるかってば、少なくとも俺知りじゃ「奏法に対して偏りや癖が一番無い」ペダルだったから。
奏者の感触としては近年本邦だと独特はおろか下手すりゃ変態的な印象を受けるだろうけど、止められるか開けられるか・脚で踏めるか足首で踏めるか等々正反対系の奏法をやろうとしてみりゃ一目瞭然あるね。

ったって慣れてない方のは楽じゃ無いだろうが、苦手意識が無い方のに「よいこらしょ」とか「どっこいしょ」ってなるかどうかなら判別出来るだろう。
肉体にも個人差は大きいので分り難いが例えば苦手なのがたった1回で当分もう無理ってなるか、やり辛いから使わんだろうけど数回位は続けられるなんてので見分けは付けられる。

勿論Speedking以外にも古典系のだと、この奏法選ばずタイプはそこそこ存在している。
恐らく新しいのにも俺には手が届かない系のにはそこそこあると思われるが、一般的価格帯の現行品では真っ事残念ですがが実情だ。

ペダルに限らず楽器の進化過程で’80年前後に大きな過ちがあったと体感してるが、全体理論が疎かになって特化させ過ぎたのは不味かった。
ペダルバネ張力の過大化等はその典型で、戻りの速さに間違った求め方をしたせいだ。

商品として棚に陳列されてるペダルを一寸手で押したりすれば、すごい勢いでビュッと戻ったりしたらつい「オォ」と感じたりする。(俺でも!!)
けどそれって演奏して無い時の反応で実際踏んでる最中には、この手のタイプの程寧ろ大抵は全然違った反応を示すもんなのだ。

こう云う類のは環境が良過ぎると見逃し易くて、新幹線が作られた過程等がとても良い参考になる。
純粋な最高速度だけだったらヨーロッパではとっくの昔に記録だけは出せてたが、それならどうして実用化時期が10年以上も遅れたかに鍵がある。

それはパワーだけに頼って速さを出してたからで、重いはガタガタ揺れるはで線路がすぐに壊れちゃうからだ。
これが迂闊に嵌ると負の無限ループでよりパワフルなモータはデカく重いが、それを支えようとすりゃ他もどんどんゴツく重くなってキリが無いのだ。

それをたまたま当時はひ弱な線路しか無かった小田急線で何とかするのに、非力でも思いっ切り軽くしたらどうなのよと思い付いた奴が大昔居たのだ。
そこから全てはバランスの問題なのが発覚したが、スポーツ界ではアメリカのメジャーリーグなんかじゃかなり乗り遅れてしまっていた。

機械と違って人間は大きさや強さを自由に設計出来ないから悲劇的だったが、ドーピングであり得ない筋力を得られる迄叶わぬ夢を追ってしまったのだ。
それがバスドラペダルではっつうとペダルパワーで一番分り易いバネ力へ目が行っちまって、バネを強めりゃ多少重くなったってとっとと戻って来るさと勘違いしやがった。

重くしなきゃなんないのはもっと丈夫にしようとしたからで、確かに壊れ難い方が誰だって有難い。
しかしペダル戻り速度の主犯はバネじゃ無くぶたれた皮の反撃で、それには重いとリバウンドはその分殺されてしまうのである。

ドーピンガーメジャーリーガーに変に怪我が増えたのもこれと近似で、急反転する時等に力は薬で上がってても耐久性は幾らも上がって無い筋肉が耐えられなかったのだ。
何せ見掛け倒しも良い処で筋肥大で重く大きくなってっからね、そんなじゃ所謂パワーウェイトレシオはロクに稼げてないって。

だからってひ弱なペダルを崇拝しやしないけど、幾ら壊れなくったってロクに踏めないんじゃ道具としちゃ役立たずですわ。
なので操縦範囲拡大の為に仕方無くある程度貧弱さは容認するなんて、こっちも強度と演奏性の最適バランスのが一番偉いってこっちゃね。

<つづく>

2020年4月22日 (水)

音楽備忘録259 バスドラペダルとフレージングⅣ

近年は若年層でSlide奏法を使う人が減ってる気がして、おじちゃん淋しくてしょーがねーわ。
これって俺的には足の速度はそんなに追求しませんって言われてるみたいなもんで、手の方だとバズロールが軽視されてるのを従兄は日々嘆いて居ります。

今日日はメジャーなのであれば欲しい情報が昔より格段に手に入り易くなって、そのせいか奏力にも結構な2極化が激しく感じられる。
これは例え不完全を嫌悪し過ぎてか初級者でも挑戦し易い技が敬遠され気味だからと思え、それが冒頭の2つなんかだ。

手でも足でも綺麗で完璧なDouble Strokeにはかなりの練度が要って、最初からそれを目指すと特にタイプ的に不向きな人だったら途中で投げ出したくなるの請合いだ。
俺自身数年前から「本気」で従兄から時々教わる迄は、苦手意識の強かった物はかなり敬遠ばかりしていた。

けれど叩かなきゃならないニーズはかなり昔からあって、全くの幸運な偶然だけど手ならPush系足ならSlide系は苦にならなかったのでそれで賄っていた。
Drummerヲタ観点ではかなりまやかしっぽく思われてただろうが、楽曲全体としては一応合格ラインはクリアさせられてたと思っている。

勿論もっとしっかりした演奏の方が素晴らしいけど、Drummerにしか受けない曲や演奏をしたい要望は俺には無かったから…。😅
それと最近は何でも整然としててシャープなのばかりが人気みたいだけど、かつての達人にはわざと不器用だとか原始的なムードを醸し出したりもして上手に活用していた。

一例として汚い若しくは潰れた感じのSnareのゴーストノートを挙げとくと、わざと粒立ちを曖昧にさせ且つ後ろへ行っても弱くしないなんて独特なのがあった。
普通のでもこれでも技術的にはリバウント利用には違いないが、普通じゃ無い方のは言わば片手だけの瞬間的バズロールそのものだ。

俺が手の細かいのが苦手だからこそ!?熟知してるのは、ロールの場合だと左右の切替時が滑らかにならないので一番腐心している。
ので上記のみたいにもし片手だけで終えて良いとなると俄然元気が出て来ちゃって、是迄これを使いたいのは出て来て無いがいざ鎌倉となった日にゃ妙な自信もあるってもんだ。

実際の多くの楽曲ではそれがプレイヤナルシズムに支配されてるの以外は、テクニックが要っても一度に全部とかずっとてのは無い。
となりゃ不完全でも「出来てる処だけ」でも案外活用出来る場は多いもんで、その入り口としては苦手な相手でも一応練習試合はやっておくってのが良いだろう。

故にどうせSlide奏法なんて出来ないからそれが無理なペダルでも良いや、なんて投げ槍になっては自らの将来性を自ら殺してしまうのだ。
これは又もしかしたらかなり偏ってるかも知れない今の自分にだけ最上級の環境を与えてしまう様なもんで、より一層偏りを助長させて遂には家へ帰って来られませんでしたなんて…。

つまり今にだけ都合の良いペダルにしちまったら、先々苦手がもっと苦手になってしまうとね。
これがまだドラムスティックみたいに比較的短期消耗品なら変更機会が多いから良いが、ペダルは費用・習熟期間・更新機会がそれより格段に低いのも是非憶えといておくんなまし。

それと現代は超強力な機械アシストと何でも増し盛りの流行で、大勢は分かっちゃう不完全を世間へ晒すのを極度に危惧してる様だ。
が下手だから上手くなったら出すよって気持ちは分かるけど、出しちゃって思い切り叩かれちゃって位しないと中々巧くなれるもんでも無いんだよなぁ。

なので完全にアウトなのは出せとは言わんけど審判次第でとかリーグが違ったらセーフかも程度迄仕上がったら、兎に角物は試しで披露してみるのが先決あるね。
もし世界一上手い奴が見たり聴いたりすりゃ、どうせ2番手以降の奴のなんてショボくヘボくしかなんないんだからさ。

<つづく>

2020年4月21日 (火)

音楽備忘録258 バスドラペダルとフレージングⅢ

重複頻出の可能性も高いが年寄りはくどいものとしてご容赦願うとして、でも以前のとは一応違う観点からアプローチしてるのは分かってねっと。
モデル適正を出し惜しみしはせんけど、その前に確かめといた方が良いのがあるのでそれから。

先の事なんて分からんってのも芸術家タイプが強い程ありがちだけど、「極端に何かの奏法がやり難い」ペダルには呉々もご用心遊ばせ。
既に方向性が固まってる頑固一徹さんなら未だしも、道具の偏りのせいで道幅を狭められるとしたら損だす。

これが既に殆どの奏法に長けてたり俺みたいに基本的に欲張りだったなら良いんだけど、これから出来る様になる分はその時になってからじゃないとペダルとの個人的な相性なんてちっとも分かりまへん。
又例えばパワー重視一択だったとしてもそれへ特化し過ぎたペダルしか使わないでいると、ペダルは確かに最強でも下手すりゃ奏者の方は弱体化するかもだしそうなっても気付け難いのでがんす。

今時バーチャル全盛の中わざわざ自ら汗をかこうってんなら、目標に対して道具より奏者の適正化を尊重するのが益々有益と考えられるね。
これ等から各自にフィットして演り易いのを選ぶにしても、音や奏法では無く人の気分的若しくは第一印象的に優しい方へ寄り過ぎると後で惜しい事に恐らくなるでしょう。

しかも体験からするとSpeedkingみたいなのと仲良くなれると初めて知れるのが、「踏む準備」では無く「踏む際の労力」って概念だ。
実際踏むには当然その準備動作は必須だがこれは本来「人間側の責任」で、その後踏んだらどう鳴るかが「ペダル側の責任」な処だ。

ペダルからの脚上げアシストはあればある程楽に感じられるだろうが、健常者でアシスト無しだったら自分の脚を上げられないなんて奴は居ない筈だ。
だが踏むのが大変過ぎたら細かい操縦が困難になるから、思った様に鳴らせる確度は減ってしまう。

これからするとバネが強目じゃないと踏めないのは「踏み方間違い」と認定され、ペダル側は少なくともビータとフットボードをニュートラル位置へ戻せさえすればOKと考えなくてはいけない。
脚上げは重力に逆らうんだから降ろす方より草臥れるけど、足首動作を殆ど不使用な場合特有の視点だ。

足首から先しか使わないとなれば重力の影響は僅少となり、今迄強力な味方だと信じてたバネ力は敵に寝返るのである。
で脚で踏む方は元から重力アシストが必ず付いてるのを思い出して貰うと、それ以上に味方を増やす合理的な方法はもう残っていない。

これが足首主体の際はフレーズに依っちゃ脚落しを加算可能な場合もあるから、普段気にならない方のが実は深刻な影響を孕んでたって按配なのだ。
最も簡単に言や練度は要すが足首で踏めて脚で踏めないペダルなんて無く、脚で踏めても足首だけだと厳しいのは幾らでも存在し得るって事なり。

前のテーマ「ベーシック」の観点でこれを判定すると上記より、どっちでも踏めるタイプのペダルが基本形となる。
それ程のレベルへ未到達の方だと現時点ではニーズがかなり狭い事が殆どなんで大変気付き難いでしょうが、他の物へ置き換えて考えたら極端な特化をさせた物の「異常性」が分かるかも知れない。

例えば左へは絶対曲がれない自動車とか一方向にしか進めない電車、一瞬山手線みたいに行き止まりが無かったら内回り・外回りの各々専用車にすれば平気と思うかも知れない。
でも車庫や工場は山手線のだって行き止まりになってるから、それじゃあやっぱり不便で仕方無い。

不測の事態が生じて内回り用の電車だけ沢山故障しちゃったとか、隣の京浜東北線がピンチだから出稼ぎに行って貰おうと思ったって悪い意味での専用じゃ融通が全く利かない。
これが音楽なんて芸術性の強い世界じゃそもそもルールがあって無い様なもんで、幾ら今迄全く不要だったからってもうこの直後にはそれがどう転ぶかなんて全く不明なもんなのだ。

<つづく>

2020年4月20日 (月)

音楽備忘録257 バスドラペダルとフレージングⅡ

前回先ず各自の必須フレーズをと言ったけど、歴が浅かったりしたらまだ定められないケースもあるかも知れない。
のでその補遺として少し効率は落ちてしまうけれど、選べる場合は極力「原典」に近いペダルを強力に推奨しとく。

例え古臭かろうと部分的な性能が後発のより劣ろうとで、道具のせいで演りたくなる物へ「色を付けない」で公平に扱える様にする為だ。
従兄が大ベテランの癖に今更逡巡してる中にも含まれてると俺は見てて、少なくとも俺比では元は彼が持ってたベーシックタイプがこっちへ回って来るのが案外早かったからだ。

言うなればドラムパート内でのマルチプレイヤの悲哀とでも申しましょうか、従兄が未だ違和感が払拭仕切れて無いSpeedkingでも踏める事は踏めてしまってる。
俺自身がマルチプレイヤなせいで散漫になってる弱点は熟知してるので、遅まき乍ら50を過ぎてからは何時も真っ先に気を付けてたりして。😅

お恥ずかしいが40代迄は屁理屈を付けたり面倒臭がったりして、代用手段で色々と長らく誤魔化して凌いじゃってました御免なさい。
尤も敢えて言い訳も添えとくと音楽では全部が全部正攻法なのが最良とも限らず、苦し紛れで生まれたまやかし冷やかし技が独自の個性へ貢献してるのもあるにはあるのよ。

けれど楽曲より個人の都合が上回り過ぎたままだけだと、苦手過ぎる対象が生じたり増え過ぎになる弱みがある。
すると練習では極力基本に忠実に・本番では得意なのを多目にって辺りが妥当で、依ってペダルを練習用と本番用を分けて2つ持つつもりなら無関係に近い話しかもね。

しかし俺知りでは本番の為の練習をするには全然違ったら効能が足りないので、多くの実例では同じのでスペアがあって調子の良い方をメインで使うなんて人が多いみたいよ。
余談バリバリだが大昔だと破壊パフォーマンスの時だけしれっとした顔しといて、ちゃっかりコピーモデルで節約しちゃってたりとか…。😵

さてさて俺の場合は当初は足首踏みが天然のままでは馴染まなかったり苦手意識を持ってたので、バネが物凄く弱く出来るペダルが手に入る迄は挑戦すら幾らもしないで居た。
実際足首踏みも高頻度で常用するならその方が向いてるけれど、市中の様子を伺うと寧ろ逆な方が多かった。

飽く迄比較の問題なのを念押しした上で続けるが、「足首の方が楽」と感じるってな自力で脚全体を持上げたり膝で蹴っ飛ばすのはそれより億劫と感じてる裏返しでもある。
これがパワー要ります系では足首だけでなんか演っては居られないので、その者達には「脚上げアシスト」の強い方が楽に感じられてるんでしょうね。

尤も古典的な必要最低限のバネ力しか持って無い様なペダルだと、コツと慣れは要るけどそれをクリアしちゃえばバネ弱ペダルの方が足首でもスピードもパワーもホントは出せるんだけどね。
使い勝手・メンテナンスその他諸々古いのにはそれ特有の面倒も多いから無理には奨めないけど、もし足首でしか踏めないけどパワー欲しいなんてのが居たらこの手もあるから諦めなくても大丈夫なのよと言っとこうか。

半余談PartⅡで参考事例として従兄の近況を例示しとくと、Micや録音の事情も加味されてツーバスセットのままでワンバスで録られたのしかまだ無いざんす。
他人目には非合理の権化みたいな状況だけど、是迄に録った曲に一応偶然ツーバスのニーズが生じなかっただけってのが真実だす。

そんな日が来るかは益々不明になって来てるけど、1個しかなくて仕方無くそうしたのと選べる上で考え抜いた結果のではフレーズに何らかの違いがある可能性は否定でけまへん。
それだからか今の時点で従兄の口からツインは出てもシングルとかワンて言葉は聞えず、仮に出て来るとしたら何曲か両足で踏んだ後になってからだろう。

更に余計なオマケを付けとくと慣れと技が足りてたら別だけど、ツインペダルとツーバスは演奏上の理屈は殆ど一緒でも体験してみるとかなり別物でした。
特に打込みとか合成とかじゃ無くて生ドラムらしさに拘りがあったなら、将来的にツインも(或は「を」)使うとしてもツーバスでやっとくのをお薦めしとくよ。

その秘密!?はセッティングの習熟や最適位置もあるけれど、反動(反発力)が感覚的には別物だったから。
バネ極強のツインペダルとバネ最弱でツーバスみたいな実験をしてみたけど、これに関してはペダルより「太鼓の量」の影響が強大だったみたいでし。

<つづく>

2020年4月19日 (日)

音楽備忘録256 バスドラペダルとフレージングⅠ

東京在住な上元から外出しても幾らも稼げん😢ので活動が全て在宅化してるが、俺の稼ぎの悪さと同様以前からだが従兄の太鼓録音の進みも俺的にはすこぶる悪い。
メールだと反応が鈍く押し掛けて煽れないのでストレスが溜りつつあるが、建設的発散方法としてこれ絡みの考察を暫くやってみるとしますかね。

最速因みに現況で従兄が手古摺ってるのはフレージングもだが、挑戦中のツーバスのセッティングにも再度改良希望が生じたのもあった。
その大元は多分概述だがどっかのアホと違って片足だけでは自由度が不足したからで、その時点でツインペダルよりツーバスを先に選択したのに端を発している。

当時従兄はSpeedkingの適応訓練中だったのもあってだが、それに一旦挫折した今はかなりツインペダルへ移行するか迷いが大きくなってる様だ。
ここで踏み心地や使い易さは当然重要ではあるが、それ以上に問題視しなきゃなんないのが「どうしても演りたいフレーズ」だ。

従兄と俺はこの点で丁度対照的な感じだが、他人視点だと常により多く速く踏みたい俺の方がシングルなのを不思議に思われそうだ。
だが空間・経済諸々もあるにせよSpeedkingじゃないと苦しい得意技が発生しちまって、音色・音量以外にもフレーズ的にコレじゃないと不都合なせいだ。

それが俺よりベテランの従兄が未だに定まらないのは両利きの副作用もあって、どっちでも踏めるけどどっちでも本人が満足出来る迄は出来なくて惑わされているのだ。
現実には俺だってこんな事になったのは完全な瓢箪から駒なだけで、やはり幸せな偶然とかが少しは訪れてくれる迄は難しいのかも知れない。

とは言え我々の場合は60も近くなってるのでうかうかしてる暇も無く、ここは頭で解決出来る事は全て事前に済ますしか無いだろう。
そこで再確認した方が良さそうなのが、音楽的必要度だと思ったのだ。

Double Stroke1つとっても研究から得た俺式分類では、Slide奏法内にも膝と足首の依存度差がとてつもなく大きくあった。
外見上少しでも爪先位置が移動してると人はそれはSlide Doubleと認定するが、実際には脚と足首動作が主体で2打を実現してるのが近年本邦では又増加してる様だ。

これの俺的分析結果としてはペダル踏みに対しての、膝筋力より足首筋力が優位な人が増えたからかと考えている。
因みにⅡで誤解厳禁なのがこれが絶対値より持久力の事な処で、仮にどんな怪力だったとしても3分に1回しか繰り出せんのでは最大1曲中2回程度しか使えないと非実用的だからだ。

無論テンポやフレーズ次第で最適奏法がある程度定まっちゃいるが、奏者の肉体がその理想通りであるなんてケースは先ず無い。
し、それでは個性を削ぐ部分もあって音楽的トータルではちっとも完全にはなってくれない。

この辺が各自の最適ペダルの選択に大きく関わってて、最終的には本人の感覚にしか頼れないのだ。
けれど将来展望として例えばBONZOの頭抜き3連だけは死ぬ迄に絶対マスターしたい等、方向性に依って選から漏れるペダルも出ては来る。

尤もこのケースの場合「今は・今迄は出来てない」が為に信念の揺らぎに繋がってて、どうせ無理かも知れんからとニーズから排除しちゃってる人も居そうだ。
が一面でこれは大変危険な兆候で、只でさえ苦手な上により不適切な機材へ移行しては夢も希望も自ら潰す様なもんでっせ。

具体面は次回以降に記してくが取敢えずはどうしても演れなきゃ困るとか、どうしても挑戦してみたいフレーズの洗出しをお勧めします。
万一ヘソ曲がりさんが居られましたらその場合、別に出来なきゃ出来なくって良いやを並べってて見るんでも構いませんよ。

更には俺の脳ミソは筋肉製だからフレーズは俺の体に訊いてくれなんて強者も居るかもだが、そんな人でも「やりたくなったらやれる可能性」があるのは必要でしょう。
このタイプの方は少なくともかなりのベテランになる迄は、あらゆる偶然に備えた方が良いので踏み方を選ばないペダルが最適だし要るでしょうネ。

ってもしかしてそれって、ちょっと前の俺がそうだったのかな???。

<つづく>

2020年4月18日 (土)

音楽備忘録255 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑭

極最近の情勢じゃ一般市民よりも「内閣総ベーシック喪失化」と言うべき状況だが、それでも私的には小規模が生き残れるのが必定と考えている。
資本集中に依る高効率化は否定しないが、それだと最悪奇病に対する研究等が出来なくなる可能性がある。

この点に関して特に平成以降の日本は盲状態に近く、敗戦後アメリカ模倣を始めた当初は偶然弱小中心だったから無配慮でも事足りてたのを失念してたと言え様。
これは演奏技術向上・習得時にコピーしてみるのと近似で、自分自身だけでは巧くあしらえない内は完コピした方がってのと同じメカニズムだ。

経済政策ではずっとお間抜けなこんな日本でも技術面だと昭和迄の内は手に負えぬ物に対しては、所謂「デッドコピー」(演奏でなら完コピに相当)であるとか「ライセンス生産」等基本に忠実な施策が取られていた。
今だとそんなの何だか情けないとか、某国等のパクリみたいで格好悪いと内容差も見ずに嫌悪されてそうだ。

だがパクリとこれ等には地味でも大きな差があって例えばパクリをかっぱらいとするなら、欲しいのを盗ってその場をやり過ごせたならそれで達成だ。
それがデッド君の方では金庫に1000円でも残して来たら未達成で、差し詰めお札の連番で足が着いてずっと後になってから捕まっちまうみたいなもんだ。

この2つの例示での差は継続性で、泥棒を職業として成立させるにはかっぱらいでは苦しい。
某国のパクリは21世紀には全く不似合だがそれでも彼等だって延々パクリ続けてはいなく、実質的にはパクった自体よりもライセンス料踏み倒し事案と見るのがより相応しいだろう。

そしてスタートはパクリだったのに何らかの偶然上手く行った改良で、本家を僅かでも上回れたと認識したら打って変わってパクリ元には全く見向きもしなくなる。
この某国はそもそもが技術のパクリでも金儲けの材料としてしか扱って居らず、売れる限りは本質的なクウォリティになんて無興味なのだ。

音楽で云や音楽以外の知恵で大ヒットになった様なもんで、商業的に音楽家になれりゃ芸術的には別になりたいとは思わんってスタンスだ。
資本主義社会では芸術的価値より経済面が優先されるので、例え100年後迄残る佳曲を作った者より知名度や売り上げで評価しちまう。

そして現在は幾ら美人でもこんなに音がつまらないんじゃの段階へ来てて、あんなに犯罪紛いも厭わず猪突猛進して来たのに業界規模自体がどんどんしぼんでっている。
もしこれがそのまま進行したりすると、次は幾ら美人でもそんなに性格悪いとか面白みの無い人なんじゃへ至る。

結局美人の方は何処迄行っても大巾な価値観変動が無い限り、儲け率は動いてもご利益は無くならないだろう。
だが上記文面中に後者のはもう音って字が出て来なくなってるのにお気付きだろうか、業界的にはヴィジュアル専業系になってて音楽業界としては消滅となる。

ここで冒頭の「奇病」へ戻るっつうかリンクしてくんだが、要するに持続的消費規模を意識したら今のどの大企業も致死的なメタボ状態なのだ。
世の中が巧く回転してくには今は全国民規模の休業補償が必要だが、こう云うのなら確かに大金庫からじゃないと捻出出来ない。

だが極度に低頻度・少人数…且つ極稀にしか訪れなくても、無いととても困る需要も物凄く目立たないがかなり沢山あるもんなのだ。
突飛な比喩になるが今だともっと病院が一杯あったら安心だったのにとなってるが、事が起きて無い時は「あの歯医者ったらやたらと治療期間を長引かせやがる」なんて耳にしたりもしてるよねー。

そんなの有事の際だけ変身出来る様にしときゃええやんって、実際自衛隊なんかにはそう云う制度もあって実行されている。
でもそんな非常勤隊員に超高度な練度を要する作業は求められず、どんなヤブでも医師免許はモグリとか偽物じゃありませんに辿り着くには適性が備わってた上に最低でも6~7年はほぼそれに専従して無いと無理だ。

それでも非常時等にだけ必要な存在が医者等世間に広く認識されてるのばかりならまだ良いが、実際には殆ど全く知られず非効率で養成するにも自らがそれを担うにしてももっと困難面倒なのが更にテンコ盛りで存在してるのが現実だ。
俺的にはその手のが現代における忍者と位置付けてるが、これは例えばデスクトップ型パソコンの背面に付いてる電源スイッチなんかに近いだろうか。

普段はフロントパネルのボダンでしか操作しないが、フリーズからの回復時等にはあると助かる物だ。
デスクトップタイプで昔のとか自作系のにならフロントにリセットスイッチの付いてるのもあるが、固まり方やその原因次第ではそもそもフロントパネル自体が無反応になっちまう事だってあるからね。

<つづく>

2020年4月17日 (金)

音楽備忘録254 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑬

解決策も交えながら前回の続きをもう暫し、今迄出来なかったからって出来る様になりゃ良いがな。
は真っ事ご尤もだが一部だけでもある程度以上の領域に到達出来ちゃってると、人間様には無意識下に余計なバイアスが掛っててそれが邪魔をする事が多い。

端的表現をすれば部分的でも「初心忘れました・放棄しました」ってなもんで、既に出来てる事に迄マイナスが及んではと神経質になったり新しいのを嫌ってしまったり。
例えば「Micが目障りになんなきゃ弾くのだけはバッチリなんだから」とかで、本人無自覚だがそりゃ税金は払わんが年金は貰うみたいな理不尽に陥ってる。

これの根本的解決には弾き語りと思うんじゃ無く、楽器と歌がたまたま1つづつ入ってる音楽を1人で演るって基本認識が宜しい。
或は俺みたいなマルチプレイヤだったら当初は「○○の曲を演ろう」としか思わない等々で、例え事実だったとしても間違っても得意なのと苦手なのを同時にとか意識しちゃ駄目よ。

客観視すると例えば単純な意味でのPianoの名手とは、一般的にはホントは「Pianoだけを弾くと」が名手の前か後ろに付いてるのだ。
最一般的認識では誰にでもすぐ分かる歌唱が突出して有名なのでもし弾き語りの文言を不使用とするなら、弾いても弾かなくても弾けても弾けなくても歌手となる。

上記基準で呼称してけば楽器名が出で来るのは仮に歌っても楽器より出て来る割合が少ない人に対して等となり、分類の仕方は多種多様で厳密にはかなり省略部分の多い呼称がまかり通っている。
又例え半分は既に完璧に近くても何か2つを同時にやろうとすると、単独時には分からなかった初めてが色々出て来たりもするのだ。

次に誰だって不得意若しくは不慣れな方をより練習しようとはするだろうけど、得意な方を完全に無視するのは中々難しそうだ。
次善策の急場凌ぎとしちゃ拙い歌を器楽演奏力で補おうとするだろうが、練習時に僅かでもこれが顔を覗かせる様では非常にお邪魔だ。

不得意不慣れは歌唱自体のみならず歌手耳が、大抵はかなり楽器奏者耳にレベル的に劣っている可能性が高い。
「いやいや歌自体は前から好きで聴き込んでるから…」、いえいえそうじゃ無くて「歌おうとして聴く」耳の事ですねん。

音楽の実演ってな①音出す②それを聴く③気に入らん処を変えて出してみる、このサイクルを繰り返すのが練習だ。
なので①②③のどれか1つが弱いと、その影響は無限ループ状態となってるだけにずっと付き纏うのだ。

そしてこの3つの中で一番練度が低い状態からでも向上させ易いのが②で、勿論ある程度は慣れも要ろうが取敢えずは尺度を変えたり録音したのだったら再生音量を様々に変えるのなんかは即座に実行可能だからだ。
俺言い奏者耳はリアルタイムのの方が基本形なのは未来永劫不変だが、一度に複数タスクを確実に実行可能となるのは習熟後だ。

そこで自転車の補助輪宜しく補填策として、弾くのと聴くのを録音する事で時間差攻撃化しましたって訳だ。
現代ではこれがご利益も多く一般化してるが、薬品の用法みたいに若干の副作用が生じる場合もあるので付記しとこう。

実演奏時は最少のタイムラグで或は同時進行で聴かなきゃなんないが、余りにも手ぶらで集中し易い環境下での聴き方にだけ慣れ過ぎてしまうと後で困る。
これを避けるには演ってる時にAに聴こえたのが録ったら大凡Bに聴こえるなんて、聴き比べの意識を持っとくのが良い。

「A」の方はスポーツ選手での頭の良さと近似で、残念乍ら俺はスポーツの方はかなり齢を取る迄気付けなかった。
何がってぇと体に余裕がある内は誰だってそれなりに頭は働かせられるが、スポーツで一番知恵を要するのはピンチの時だったのだ。

体が一杯一杯になっちゃったらそっちではもう今以上の対処は不可能で、それでも何とかしたかったら残ってるのは敵との知恵比べしか無い。(敵は競技次第で様々)
すると静止時のでは無く息が上がってたりした時等に、体が苦しい中でどれだけ頭を回転させられるかって事になる。

演奏・歌唱だって演ってる最中の音楽家的聴力が最終的には同じくモノを言うんだが、演者とお客さんが完全に同位置に居るのは不可能だ。
すると場所の差のせいで必ず少しは違って聴こえてたりするので、上述の仮俺言い「AB比較聴き」!?みたいな作戦も要るって寸法だ。

<つづく>

2020年4月16日 (木)

音楽備忘録253 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑫

毎度の手前味噌ではあるが概体験済みって事で、今回からEffectレスつまり所謂「生音」について多方面から論じて行きたい。
以前から従兄がTwitterで綴ってた歌唱音量案件から進めてくが、これ次第でLiveのやり方に大きな制約が生まれるのを再痛感させられた。

今従兄とは別の身内に配信Liveを演ってるのが居て、一部機材を貸与したりアドバイスをしたりしている。
のは既に以前少し触れたと思うが、基本生Pianoの生演奏で時々それに歌が加わる等のスタイルとなっている。

これが概述の通り機器事情等で収音方法が限定されてて、それでいて音響的に単一スタイルで押し切れないのが又厄介の元となってしまっている。
このライバーはClassic系出身なのもあって、自身での機材調整やセッティングの瞬時修正は決して高度とは言い難い。

なので機械力で補うのを主とするのは厳しいが、その代り普段はPA等の言わば補助機器は皆無の状態で人力で何とかするのには自然とそれなりには長けてる筈だった。
が特に専門外のポピュラー系の弾き語りの際にどうにも歌が小さくしか拾えないので、実際どの程度の声量で歌われてるのかを昨晩確認してみたのだ。

そしたら年寄り言い「現代若者の典型」で、興奮してしゃべる時より歌声の方が小さかったのだ。
Pianoは中型Grandなのでこれでは極度の近接Micにしないと歌だけを拾えないが、普段目の前とか体にMicが付いてる事が無いのでそれを嫌がられ困っている。

早出目の因みにだがポピュラー系弾き語りの達人達も大会場だとフルコンサートタイプを弾く場合もあるが、Studio Liveや録音時はほぼ全員が中型の使用がデフォルトだった。
これはオペラよりは音色的に小音量の声も使いたい場合も多く
、中型位だとPAレスでも丁度音量バランスが最適となるからが理由の様だ。

だからClassic系出身なら余計人力で解決して頂きたいケースなんだが、どうも「歌う時はカラオケで」が多いからなのか帯に短したすきに長し状態の様なのだ。
つまりPiano演奏はClassic系底辺レベルプロで居乍ら、歌はJ-POP系アマレベルって事なのね。

だったら弾くだけの時は除けるとして、歌う時はMicに噛み付くかヘッドセットを付けてくんなきゃどうしようも無いんだけどなぁ。
なのに歌う時も「弾く」から嫌なんだってさ、全く困ったもんだ。

こんなの幾ら頑張っても理論段階で不成立が確定してるので、これからしつこく教育指導しようとは思っちゃいるが…。
もし当初から俺言い「ベーシック重視」で来てたなら、こんな不具合は発生し得ないのだ。

取敢えず趣味嗜好や王道邪道の別を無視して問題点を整理してくと、主に2つが出て来る。
1つ目は従兄が長年抱えてしまってるのと同じで、セット(Not Drumsetよ)で演っとくべきものを分離してしまった為。

従兄の場合は太鼓奏者と作曲・歌唱者でジャンルが乖離してるが、その時に幾らも他者のはやらないで来てしまった処。
今回のライバーだとPianoはClassic奏者なのに歌はカラオケへ行く人で、どっちも幾ら何でも接点が少な過ぎたのだ。

結果従兄の場合は主に編曲面で・ライバーの場合は音量面で整合性を欠いちゃって、折角両方出来るのが上手に活用出来なくなっている。
個人でお試しで弾き語りするのに太鼓だと和音が出せないからそうなり難いけど、DrummerでLead Vocalの憧れの人でも居たら真似しようとしてまだ違ったのかな?。

2つ目はライバーの方にだけ適用だが、演奏システム習熟に対する不徹底である。
何て固い文言じゃ分り難いから紐解いてくと、取敢えずは可能な限り全生か全PAのどっちかだけでも良いから何でも演れる様になっとかなかったからだ。

例に依って独自の偏屈論法ではあるが大昔だったら音響機器は高価なのしか無かったから、Classic系の人は絶対的ニーズが無きゃ持てなかったり持って無かったろう。
他方で「4畳半フォーク」の人は出来一番のバラード位はグランド弾き語りにしたいと思っても、Uplightだって置くのが厳しいだろうからかなり夢の話しだったろう。

便利だったり自由な方が俺だって激奨だけど、少なくともパフォーマにとっちゃ無償の楽チンは無かったのである。
せめて「最初はこうだったんだから」とか、もっとそう思えてて普段から取組めてたらこうはならずに済んだんじゃないかな。

<つづく>

2020年4月15日 (水)

音楽備忘録252 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑪

今回は前回のピコ太郎からの流れで今話題のテレワークをお題とするが、何にでも適用出来るもんでも無いし平時に戻ったら改めて適正を考えるべきだろう。
リアル実施に問題が無いの迄バーチャル化しては益々本質を損ねるので、それには「何がリアル」かの再考が要る。

我!?音楽界ではLivehouse等の閉鎖は大問題となっちゃいるが、実は音楽界はテレワークに関してはかなり先端を行ってる方だ。
ここで現行本邦のLivehouseの業種について触れとくが、その殆どは法的には飲食業扱いとなっている。

アメリカ等と違って実際は演奏会場としての比重が重くても、劇場としての認可の大変さのせいでこんな事になっている。
それならもっと飲み物や料理が充実してて美味しく無きゃ可笑しいんだが、非実用的な法のせいで却って最低の状況を招いているのだ。

近似環境の一部を除くと諸外国より日本で不利なのが騒音問題等で、借りたビルの1室へ防音を施せばその分狭くなる。
隙間があったら音漏れするからそれを無くしと、コロナ禍が無くても元々良好な居住性とは縁遠い。

その一方で迷惑飲食店として酒場だとLivehouseより野放しなのも妙な具合で、しかし酒場も自前の建物の方が少ないのを考えると問題の根源は建築や環境基準の方にあるのが分ろう。
それでもこれ等の内極一部の性悪を除くと脆弱な規模で少しでも自前で改善しようとしてるからまだ良い方で、大企業や役所の無駄な旧態依然な接待や会議はもっと低次元だ。

その典型として今回案件での首相出席の会議が最悪の見本とは情けないが、やってますポーズの為だけにコロナが無くても会う必要も無いのをやってるのは愚の骨頂だ。
首相は医師でも宅配屋でも無いが社会運営の責任者なんだから、会議しても良い知恵が浮かばんなら寧ろ実地調査へ出向くべきだろう。

会議よりゃテレワークに不利な配信Liveを芸能者は既に演っていて、Lineすら使うのが勿体無い様な下らん会議は実際顔つき合わせてとは恥ずかしいったらありゃしない。
特に規模の大きい処程この不適切実行に依る損失は大きく、部屋・移動・スケジュール調整等と手間も経費も全くバカにならない。

何時迄もそんな非効率な事やってっから不景気から抜け出せないんだと思うが、不景気でもまだ余裕が残ってるのが災いしてる可能性大だ。
これじゃあ前回述「男子中学生のお母さん理論」のケースと完全に一致してて、それからすると無自覚でも実は引き籠りヲタより普通の正規雇用者の方が「中2病重傷者」と云う事らしいね。

残業代は出せないが会議で遅くなった分、残りの仕事を片付けてから帰ってねってか。
負の連鎖の結果なんだとしたら残業代支払いを厳正化すりゃ良いのに、それが困難なのは不要会議の無駄に何時までも気付かないで居るからか。

そんな「働いてるフリ」共に鉄槌を下したろうじゃないの、多忙は「見掛けじゃ無いのよ」ってな。
慌てて失敗したり本番前に力を浪費出来ないから、こっちは無理してでも外では割と大人しくしてるだけなんだって。

こうしてみると純粋な経済理論のみでは何でも大規模な程高効率ってぇけど、実はもうその理論が古くなってしまった可能性が高い。
昔は今みたいな世界規模の企業なんて皆無だったから小さくて大変な処へばかり目が向いてたが、いい加減で「大き過ぎる損失」ももっと考えて頂きたいもんだ。

大規模楽器メーカで辛うじて安泰だったのは最早YAMAHA位だけで、昔だとFender・最近ならGibsonがこれに依る憂き目を見ている。
自動車メーカにしても今は日産のゴーン騒動が悪目立ちしちまってるが、もうずっと昔にアメリカの所謂3大メーカが何度も破綻している。

結局一時の隆盛なんかにゃ合せず、長期視点の市場規模に合致してる範囲がその世界での最大規模だったんだよな。
偶然趣味的都合でVOXやRickenbackerみたいな怪しげな小規模の動向を知っちまったが、小さい癖にそんなに人気でも無い癖に何だか彼等は妙にしぶといお陰でこっちは助かっちゃったなもし。

<つづく>

2020年4月14日 (火)

音楽備忘録251 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑩

今回は一面でこれぞプロと感じられたので暫く経っちまったが、PPAP-2020-/PIKOTARO(ピコ太郎)って動画を好例としておこう。
曲自体は焼き直し(原版とは主に歌詞違い)だが、手洗い奨励と平和祈念がテーマとなっている。

日本ではちょくちょくするのが当り前の手洗いも、世界全域で見るとそんなに一般的では無いんだそうだ。
習慣が無ければその分思い浮かぶ機会も減りそうだから、世間全般からしたらささやかなのでも結構効果的かも知れない。

習慣化してる日本だってクドイっちゃクドイかもだが、失念防止にはやはり多少なりとも効果がありそうだ。
尤も程度は軽重で休業補償が支給される様な効果は望めないだろうが、だからって逆効果になる心配は無い。

休業補償ってば4月も1週間が過ぎて漸く風俗業等の除外再検討が始まったが、未だに自分が払った税金をそんな処へ投入するのは嫌等とほざいてるウツケ者が居るのには呆れる。
敢えて該当者を名指しで記しとくが、高須クリニックの高須克弥院長やダウタウンの松本人志等がそう思ってる様だ。

高須先生はどうか知らんが松本人志なんてかつては常人より遥かに風俗のお世話になってたのに、その点でだけでも良く簡単に裏切れたもんだ。
彼がそんな事を言ったら敢えて真逆の行動をとって戦死した、志村けんの善意が無になっちゃうよ。

は置いといて冷静沈着に休業補償案件を考察してくと、先ずは主目的をもっと頭の中で精査すべきだ。
何の為に支給すべきかってば、何しろ少しでも家の外へ出て来て集まったりしないで済ませるのが理由だ。

それには収入が日割りだったり短期変動制な人や客商売等人出が無いと稼げない業種では死活直結で、現に無能政府がグズグズしてる間に既に破綻しちまった処も少なくない。
これからすれば政府や彼等の優先順位は真逆に誤ってて、風俗従事者等には真っ先のとっくに支給して無きゃいけない。

ひねて考えりゃそれやったって医療や物流関係等は外出も伴わざるを得んので、だったらケチった方が得だとか。
或は地道且つ血の滲む労力を注いで稼いだのを、少なくとも外面的にはボロい稼ぎ方してる連中に与えたくないとか。

ってこのブログじゃねんだから、そんな下らん処で脱線事故なんか起こしてんなよッてんだ。
結局は危機感希薄だったり世情実情に距離感があるせいで勘違いしてるんだろうが、物の本質を失念せずに居られたらあんな風にはならなかった筈だ。

ピコ太郎も高須先生も松本も公的タレントとしては共通だが、物の見事に正反対の発表をしちまったもんだ。
性格や人としての品格もあろうが俺的にはこんな結果になった原因に、どれだけ自分でやってるかが影響してる様にも思われた。

別の顔等も色々持ってるとしても3人は一応音楽家(現在世間の評価順では)・医師・お笑い芸人が本業なので、現況の本業実働時間とか割合を考えてみると良い。
後者2人は少なくとも過去比較だとこれがかなり減っていて、現場が遠目≒非現実的な日常に身を置いてると言える。

その最たるのは言語道断のコラボ動画を出しちまった救い様の無いのも居たが、見事な迄に間抜けな事に働かず自宅でくつろいでるのを拡散しやがった。
当の本人は皆の在宅を願ったつもりなんだろうが、相手の星野源は場所・機材・スタッフ等あらゆる面で限られた中でそれでも弾いて歌うとしっかり「働いている」ではないか!!。

同じ芸人でもコロナに負けず少しでも笑いを届け様とお笑いタレントらによる「#ギャグつなぎ」も話題になってるが、これからすりゃ松本は差し詰め働かずに文句だけ言ってる体って事になる。
高須先生も専門は違うけれど医師には違い無くこの日常時なんだから、せめてコロナ関係の手伝い位はしててからにして頂きたいもんだ。

そう云や男子中学生の母親達が夏休み中は部活で多忙なのが望ましいと語ってたのを思い出したが、下手に自由時間があると大抵はロクでも無い悪戯を仕出かすからなんだそうだ。
ロクでも無くても後で人生勉強として意義がある場合もあるので縛り過ぎると良くないが、余計な余裕があると思考がサボって無効時間が増え気味となるのは確かだ。

普段は絶対に○○しか飲まないなんて決めてても、ホントに喉が渇けば誰でも「水をくれ」となるロジックだ。
余裕の無い生活が良いとはちっとも思わんが、全く有効活用出来なけりゃ余裕が無いのと同じになっちゃうからね。

<つづく>

2020年4月13日 (月)

音楽備忘録250 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑨

今回は自動車のアクセルとブレーキペダル踏み間違え案件を生贄とするが、私的には現行の教習システムは何とも半端になっちまったと痛感している。
私的改善案の鍵を握るのが所謂「ゴーカート」であるが、特に近年本邦の普通の子供には昔より随分と身近じゃ無くなってしまった。

それが全ての原因では無かろうが、正反対の作用をさせるペダルを踏むのが何時までも「同じ足」ってのがどうも気に入らない。
車の運転中は現存車のほぼ全てで足元は見えないし見られないしで、かなり色んな工夫がされてても今踏んだのどっちは踏んだ後にならないと間違えててもほぼ分からない。

従前の手動変速機ではペダルが3つ必要で並行して徐々に自動変速機も普及した都合で、アクセル・ブレーキの同扱い化の為かつては片足としてたのは理解出来なくは無い。
しかし自動車の自動変速機の普及としては、実は一般車よりもゴーカートの方が遥かに古かった。

それ処か目的的にも手動変速なんて考えられず、習熟を要するクラッチ操作があったら初心者が運転出来ないもんね。
それでか機械・乗り物ヲタの俺でもマニュアル車のカートには未だお目に掛れずで、これからすれば真のオートマ車の原点は乗用車じゃ無くカートなのである。

して核心としてはカートではどれもが恐らく無例外に、右足アクセル・左足ブレーキペダルと兎に角反対足になっている。
昔みたいに1つの免許で両変速機対応だったらなるべく共通性が高い方が良かったが、オートマ限定免許がこんなに多いなら安全性の為には最早マニュアル車との共通性は後回しでも良い筈なのだ。

もしオートマ限定免許がカートの練習から入ったとしたら、違う足で踏む物に対して違和感を抱く物は皆無となる。
つまりかつて当時の都合でそうしてたからって、オートマのベーシックが履き違えたままになってる様に思われるのだ。

パソコンが使える人がもっと欲しいから・英語がしゃべれる人がもっと欲しいからと、これ等はどんどん低年齢から仕込まれる様に変化して来ている。
それなのに何でもっと安全運転者を増やしたいから…にならないのか???、これじゃあアベノマスクみたいで可笑しか無いですかってな。

こんな旧態依然の横行を穿って見ると、毎度の既得権益問題が是又かなり疑わしい。
何かで後になってもっと良いのが見つかったとして、もし安全性や周囲の迷惑等に無問題なら個人の自由選択でも結構でしょう。

けれど原子力発電みたいに場合に依っちゃちっとも安上がりじゃ無いのが既に判明しちゃったのに、それだけへ妙に拘り続けるのはわざわざ新しく獲得出来た知恵を捨てるも同然だ。
もっと管理を徹底させれば平気とのたまうのも居るが、ではそれをどうやって絶対性を確保するのかの方法論が欠けたままだ。

今迄ある程度の期間無事に運用出来ちゃったからか、判定・選択基準に無意識下に偏向が生じてると考えられる。
常時と非常時の経済性は議論段階では最低でも同列であるべきで、仮に放射能汚染を無視しても現に壊れて発電出来て無いから正規の儲けは皆無になってるよね。

その分の「予定に無かった代替運用のコスト増」もほぼ論じられて無いし、こんな処にも非本気が露呈しちゃってるぞっと。
ついでだからこれももちっと掘っとくと、当初から予定して無い場合経費調達自体からして通常時より高コストとなるのが一般的だ。

真の低コストを狙ってそれを不動の物としたいならどんな低確率の事態にさえ備えといて、あり得ない程酷い目に遭ったってこの程度で済ませられるから素晴らしいとアピールすべきだ。
想定外だから仕方無いが通用するのはアマの世界の話しで、プロがそれをしちゃったら頼る処が無くなっちゃうよ。どっかの国の政府みたいにさ。

<つづく>

2020年4月12日 (日)

音楽備忘録249 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑧

今回は大昔にした私体験からの話しだが、生贄はTom Scholz作のエレキGuitar用ポータブルヘッドフォンアンプRockmanだ。
今ではVOXのamPlugを始め多種多様に出てるが、出た当時はほぼ唯一無二の存在だった。

年寄り(少なくとも若か無い)がこうおっぱじめると普通は懐古だが、ここだし俺だしでそんな方には行かないのだ。
エレキ用のポータブルヘッドフォンアンプとしてはこれが原典なのは不変だろうが、一言で云やEffectは最高でAmpとしては限り無く最低に近かった。

真空管も出力トランスも楽器用スピーカも通せないんだから仕方無いだろうが、稀代の鬼才を持ってしてもその程度が限界みたいだ。
それ以降の殆どが未体験なので断言は出来んが、上記の如く必須アイテムが3無い状態では期待する方が酷ってもんだ。

今後新真空管のNutubeでも上手く活用出来りゃ少しはマシになりそうだが、やはり当分の間は本来のGuitar Ampに比肩するすら無理そうだ。
「必須アイテムが3無い」等と称したのは考察を促す意図からで、例えば極上のエレキGuitarなのにPickupが付いて無いなんてのを無理にでも想像して貰おうって魂胆だ。

キットでも無い限りエレキを名乗ってPUレスなんて現実には勿論存在しないが、現存ポータブルヘッドフォンアンプは構造的にはそんなのに近いのだ。
環境制約や利便性の面で存在価値が減ったりゃせんですが、Pianoに置換すればデジタルのと似た様な位置付けになる。

なので買えないとか自宅で本チャンAmpを鳴らすのが無理なのはアリでも、本チャン未体験・無体験で何とかしようなんて思ったらそっちの方がもっと無理に近いのよん。
前2回の無神経Reverbの話しとの共通項として、どうもこの業界の格言みたいなのには言葉足らず若しくは部分欠損が多くていけない。

偽物若しくは代用品での練習でもハイパー達人に到達した前田憲男みたいな人も居るけれど、良く調べると本物を全く知らないとか触れた事は唯の1度も無いなんて情報は何処にも無い。
そんなイメージトレーニング主体で凄腕になれるとしたら、頻度や時間は少なくても寧ろ本物を熟知してたからってのが見落されている。

別面では何時か何処かで徹底的に味を占めちゃってたからこそ、再度の遭遇を夢見てそれ迄飽きずに萎えずに練習に明け暮れて居られたんじゃなかろうか。
雛が初めて見た人を親と思うとか三つ子の魂百までとか、何かと初期印象の刷り込みは強力なもんだ。

チトどぎつく下(しも)いが感性直結って事で童貞・処女さんにとっての本番想像を持出させて貰うが、未体験な方が却って妄想が凄かったりするんだから上記の件だって知らなくたってと思うかも知れない。
だが実は未体験でも何らかの形で異性との接触体験は誰でも少しは持ってるもんで、かなり間接的ではあっても手掛かり皆無でイメージ出来てる訳じゃ無いんだよね。

その証拠に上述達人奏者のとは逆ロジックだがアダルト動画がお手軽になり過ぎて、モノホンの美女よか動画の画面の中とか2次元の少女の方が良いだなんて悲しい状況も…。
毎度の如く個人の趣味嗜好は不問とするが、バーチャルの方が良いとなれば新たな子供は生まれて来なくなる。

少子化が進行すると伴侶の選択肢はより減少し、自分と合う人は見つかり難くなる。
して相手探しを諦めた連中はバーチャルへ走るしか無くなるので、生物繁殖原理限定では差し詰め偽物の人間が更に増殖するんだから恐ろしい連鎖だ。

その証拠Ⅱと迄言えるかは微妙だが上記世界初のポータブルヘッドフォンアンプ作者は、環境的にはより高ニーズな筈の音楽初心者では無かった

結局一定以上の商品寿命
が得られたり普及するのは言わば本家系のばかりで、偽物・代用品でも何とか及第点を取らせるには本物に対する深い知己が要るのが結果として現われている。

<つづく>

2020年4月11日 (土)

音楽備忘録248 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑦

俺言い「せめてちゃんと確かめもしないでチープReverb安易にかけるのやめてぇ~」の、補遺を暫し続けさせとくれ。
どうして皆がそうしたがるかはこれでも一応分かってるから、それ以外努力を台無しにして欲しくない一心だ。

そこで生楽器のベーシックな音色を今一度確認して貰いたいんだが、先ずは極力演奏状態の可否を無視しとくれ。
奏者だとどうしたってどう弾けたかが気になっちゃうけど、初めて耳にするお客さんは聴く前には取り立てて興味なんか持って無いかも知れないんだからね。

例え偶然聴こえた一発だけでノックアウトされる様な場合でも、その前から鳴ってたのかどうかは大抵は殆ど記憶に残って無かったりするでしょ。
良い意味での自意識は向上に役立つけれど、自分とお客さんの聴きたい場所は一致してくれる事の方が少ない。

例えばひたすらマイルドを狙ってたとして、そうすっと演る側は先ずウルサイとかキツイ処が無いかへおもむろに耳をそばだてるだろう。
それで間違いではないけどそれだけじゃ不足があって、真のマイルドとは楽に全部が聴き取れるのにウルサイとか尖った処が無い物を指してるのだ。

もし著しく明瞭度が不足してたりしたらそりゃマイルドじゃ無く、ピンボケとか籠ってるだけってヤツですから。
それだからこそ聴き取れないのは困るってんで、現代本邦はけたたましかろうと何だろうと音色無視の明瞭度忖度が主流になってんだろうけど…(;´д`)トホホのホ。

要は好み等を排除したニュートラル耳でどう聴こえるかなんだけど、生楽器の音は他比較だと一見地味目でも随分と色んな音が入ってるもんですよ。
ここから耳チューニング話しともリンクさせられるから生Pianoを例にすると、Reverbなんて掛けなくても全然響かない部屋でも相当良く響いて居るので御座居ます。

特にダンパペダルを踏むとおびただしい数の弦が共鳴して、これはスプリングReverbのバネが弦になって更に本数が大増量したのと同じだ。
因みにスプリングReverbのバネ本数は3本位のが多く、豪華なのでも2桁になってるのに俺はお目に掛った事が無い。

俺は普段Guitar系の方が接する機会が多いからよりそれが分り易いっぽいが、その他に簡易調律で沢山鳴って響いちゃっててもターゲットの音程だけを聴こうとするから余計そう感じるのかも知れない。
実際Pianoは音程の高い方は鍵盤1つに対し弦は3本あるから、調律初期段階ではわざわざターゲット以外の2本をミュートして鳴らない様にする。

それでもGuitarで言えばナットやブリッジから外側の部分迄は、手間暇的にも一々ミュートなんてしてらんないししてるのを見た事も聴いた事も無い。
ご参考の因みにⅡでPianoは打弦ハンマ側をGuitarのブリッジ側と捉えると、昔のSteinbergerのヘッドレスタイプみたいにペグはブリッジ側となる。

とちと遅延気味だったが要するにたった1つの鍵盤を叩いただけでも、勝手に一度に沢山の弦の色んな場所が鳴り響いちゃってるのである。
但しハンマで叩いた箇所以外は共鳴する分しか鳴って無いから、叩かれた弦のよりはかなり小音量だ。

上述の如く構造的に弦のハンマで叩かれる区間以外の多くが未ミュートなので、寧ろ音響的には個別弦だけを拾うのが全く無理な状況にある。
なのにこれがどうして一般的にはあまり浸透して無いかってば、置かれた部屋の響きのせいと思われる。

要するに楽器自体が出した響きか部屋の残響かの区別が困難で、実際それなり以上に響く場所だと残響に更に弦が再度共鳴したりもしてるからね。
しかし要するにⅡである意味生Pianoは物理的残響装置内蔵型と見ても良く、Reverbを掛けなくてもその音は決して無エコー状態では無いのだ。

なので良質なReverbを上手に掛けるなら結構だが、チープなのを下手に掛けると最悪は楽器自体の残響と掛けたReverbが大喧嘩になってるのすら散見される。
その失敗時の具体的な音としては所望程高域は広がらず、低域だけ妙にボヤけてなんてなってるのが多い。

因みにⅢで若干私的だが生Pianoの超低域の使い易さとして、音程と輪郭の良好な明瞭度がある。
原因は豊富な倍音に依っているが、基音を幾らも損なわずにそうなってるのが他とは圧倒的に違っている。

尤も楽器全長が2m位以上のじゃないと充分には体感出来ないが、それでも大径バスドラムよりも基音が感知し易いのは確実な処だ。
もしそうならない場合は収音Micの性能が真っ先に怪しく、量的にバスドラより低域が少なくても周波数範囲は全然負けていないからだ。

いたいけな努力が無駄になるとは可哀想でもあるけれど、すべからくもしMicのショボさを補おうとしてチープReverbを掛けたらそれはわざわざ最低音質にしちまってるのである。
高品位音質化を図りたいならエコーより先に、高級な広帯域Micが必要だし効果絶大なんだけどねぇ。

<つづく>

2020年4月10日 (金)

音楽備忘録247 「一億総ベーシック失念化」現象!?⑥

今日の例示は最近の生配信Liveの色々から行くが、最初は馬鹿の一つ覚えでどうしようもなく貧相なReverbを「必ず掛けちゃう」件だ。
今時は顔だって電子経由のは盛ってるのが標準となっちまってるから、音だって素のままでは失礼と思ってるのかもだが…。😓

その中でも特に違和感と残念に感じるのは生楽器の生演奏をしてる御仁で、尚且つ何故か不慣れな筈のClassic系の人にこれがより多い。
俺がそれへ何をダメ出ししてるかっつうと、掛けないより著しく音質を劣化させてるからだ。

これは歌だったりすればカラオケ流行以降、ジャンル不問でReverb掛けるのが常態化している。
少しでも良く聴かせたい心理は重々承知だが、「目的の違い」をもっと考えなくてはね。

カラオケ等パーティーの1種でならプチ非日常性も大事で、自室で歌ってるのと全く一緒に聴こえてはつまらなかったりする。
なので当初は見栄で掛け始めたとしても無認識でも今の実際の大多数は、音質向上より非日常性の方に効果を発揮してると考えられる。

もし例えプチ祭りでもホントに美しく響かせたいなら残響付加装置にはそれなりの音質グレードが必要で、俺はご無沙汰なので実態が不明だがカラオケ店に依っちゃ中々のが入ってる可能性もある。
そう云うハイグレードカラオケ店へ行ってそうな人でさえ、配信になるとおやおやあんりまあってのは何とも頂けない。

敢えて暴言マン的に言っちゃうと特に素人が普及品の楽器を鳴らしてたら、多分大抵は大した音質になんてなってないだろう。
でもそれは慣れ親しんでる人にとっての事で、単に○○楽器の生の音ってだけだってそれなりに結構魅力があるもんなのだ。

今本邦ならPianoだと分かり易そうだが、ホントは生が良いけど諸事情でデジタルなんてのが典型例だ。
別表現だと幾ら飛行機の方がすぐ着けますよと言われても、恐いから電車や船の方が言いなんてパターンとか。

パフォーマ本人は気にして無くてもその楽器を持って無かったり弾けない聴き手さんからしたら、ホントの楽器で機械じゃ無く人が見てる目の前で実演してるの自体の価値も小さく無いのだ。
更にもしそのお客が電子楽器なら持ってるとか、打込みでなら音楽作ってますな人だったりしたらどうでしょう。

生音には疎くても電気・電子関係の音には詳しいから、酷い残響音なんかが付けられてた日にゃ聴くのに邪魔で仕方無い筈だ。
全員がそう云うお客ってな先ず無かろうが、同じ位全く居ないってのも滅多に無かろう。

個人主催のLiveなんだから好きにさせろよって、ええええそりゃもうご尤もの勿論で御座居ます。
只あなたの求めてるのは自分にどう聴こえるかより、お客さんの耳に意図した様に聴こえるのを望んでるんじゃないっスか。
ねえ、だってわざわざ手間暇掛けて世間に配信しようってんですから。

これが従兄に訊いてみた処Classic系の人の方が普段響く所で弾いてるし、それとは逆に普段はエコーを足したくてもそれが出来ないからやってみたくて仕方無いのではと言われた。
後はカラオケ教室とか初歩の音響技の講座とかでよく提示される、音質向上技についての一寸した誤解とか理解不足も考えられる。

「歌声には所謂エコーが不要なのでも、極薄くでもReverbを掛けとくと美しくなります」ってので、但しそれには「掛けたら必ず音色が良くなるReverbが要る」ってのが抜けてる
のが真っ事多御座んす。
これは教える側にも問題があって、その様な専門家は普段そんな使えない様なショボイReverbに遭遇する機会が無いからでしょな。

或はウチに来ないと良い音は無理よだなんてケチって、わざと技の一部を隠蔽してるだとかっつったら意地悪け?。
少しでも良くしようと色々試すのは悪か無いんだけど、今迄携わって無かった分野のへも手を広げるならそれの基礎予習位はしとかなきゃ厳しいですわ。

そんなんでどうせ大した結果が得られんのならオプションにばかり気を取られてないで、ベーシックへその分のエネルギーを注いだ方が好結果が得られそうだよね。
んで最初から単により上手に弾ける事をもし重視してたら、ちっとも気を付けて無くてもこの手の失敗はしないで済んじゃうのよね。

<つづく>

2020年4月 9日 (木)

音楽備忘録246 「一億総ベーシック失念化」現象!?➄

前回は遂に音楽との関連性が書けなくなったので流石にカテゴリーから外しといたが、少なくとも大いに関係があると俺は踏んでるからの話しだった。
それは各自の性格や好みを問わない部分での判断力等に及んでると思われたからで、無意識時には普段の日常生活での思考や習慣なんかに翻弄されてる部分もあるからだ。

何かの結果向上をさせるのに近年はその手法迄が、どれも高度化し過ぎてる嫌いがある。
これの何が不味いってば継続性や環境適応性に難があるからで、とっても特別な事を毎日死ぬ迄なんて続けられっこ無いのだ。

俺の現行グループでも皆1度はこの罠!?に嵌り、今も休業中の約1名は未だそのトンネルの中に居る様だ。
只休んでるだけでも基本的に俺はほぼ全部肩代わりしなきゃなんなくて疲れてるのに、最近半失踪状態となってて益々参っている。

だが元はと云やその御仁こそが我々内では一番の成功者で、連絡が付かぬから宅訪してみりゃ印税収入の通知書がポストに入ったままの有様だった。
それが何でこんなになったかってば、彼が生真面目に追及し過ぎて飽和したからとしか考えられない。

今日を越せなきゃ明日の来ない業種・業界だから、彼の先を気にせず今を全力って姿勢は讃えるべき点の方が多い。
しかし持続が不確実になってしまえば、それはもう一夜の花と散ってしまうかもしれない。

それ以前の段階で自身のメソッドでがんじがらめになって、俺もそれは過去に苦い思い出があった。
それがどうしてそうなったか又それから脱出困難だったかを考えたら、音楽以外の生活がどうなってたかに左右されてた様なのだ。

意識してる部分の事は良し悪し別である程度は把握出来てるもんだが、音楽を気にすればする程非音楽の部分には無頓着・非認識となっていた。
気にして無い分かって無い知らない部分からだと、もし影響があったとしても考察の段階で既に選から洩れてしまう。

壁にブチ当たった際に気分転換等が有益なのはどうやらこの辺の問題で、押しても駄目なら引いてみろの認識・認知部分版とでも言おうか。
音楽を何とかしたくて全力投入してでもそこでつまづいたり行き詰ったり、そうなりゃ誰だって余計音楽だけに意固地になるもんだ。

すると仮に頭では日常生活の改善からが脈があるかもと思っても、懸案が気になって中々進められなかったりする。
ならば敢えて音楽の中だけで道を見付ける事となるが、それは基本とか原点へ立ち返ってみる事だろう。

この時キッカケとなりそうなのが初心者に教えたりする事で、それ故奏者個人としては不調に陥っても従兄の太鼓の先生は破綻せずに済んだと見た。
ベテランになると余程気を付けてても性格にも依ろうが、低次元部分を舐めてしまったりするのが皆無なのは皆無だろう。

が軽く見てた程いざ矢面に立たされると案外焦らされるもんで、その状況が必然的に訪れると当初は厳しいけれど有難い感じだ。
思い返してみると3人の中で一番演者プロだった休業君が、音楽的に初心者レベルの人との交流が僅少だった。

かなりタップリ体験してても長い時間が経過すると、どうやら実体験だったにも拘らず「頭の中の話し」に変身しちまってる部分があった様だ。
それでは距離が遠過ぎで「昨日左で外れたから今日は右」みたく、もっと身近じゃないと足りんらしい。

これ若い人には実感し難そうな例えでスマンが、何十年振りで再訪したりすると知ってる道順を間違えたりするのと同じパターンだ。
その原因は忘れたとかミスったとかじゃ無く「景色が大巾に変わってた」で、目印にしてた看板が無くなってるのに気付かず曲がるべき所を通り過ぎちゃったなんてのだ。

古ぅ~いレパートリー曲とかだと耳に大きな変化が無ければ、人や物に依っちゃ当時のままに何時でも即座に再現出来たりもする。
だがそんな俺みたいな自信家だろうと多勢に無勢、自分以外の全てが大きく変化してたら自分が無変化でも他人には当時とは違って聴こえてたりする。

聴き手の耳の所で何時も通りにする必要があって、変わった分をこっちは再アジャストして漸くイーヴンに持込める。
それには自分の拘る部分だけじゃ無く、曲の基盤部分をしっかり見つめなくては等々。

<つづく>

2020年4月 8日 (水)

音楽備忘録245 「一億総ベーシック失念化」現象!?④

話しだけなら誰も怪我しないのでいきなり今日は脱線ネタで行くが、都会の混雑してる通勤電車での割り込み乗車についてだ。
余程長時間乗るのなら着席出来る可能性が僅かに上がるかもだが、かなりの高確率で実際にはやったら損するだけだ。

これは敢えて周囲からの批判等では無く時間や効率について絞ってくが、俺の場合急ぎたい時は真逆で「一番最後に乗る」のを狙ったりもしている。
例え途中停車駅の度にまた降りて乗っての手間があってもで、これは降車駅で降りてからが格段に楽になるからだ。

足は速い方なので誰も居ない所へ降りられれば、自分のペースで改札口迄行ける可能性が高まるから。
逆に急がない又は大荷物でも持ってて急ぎたく無い時は、降りてすぐには改札へ向かわず一呼吸わざと遅らせたりもする。

これは人並みの速度がその時の自分に不適当だった場合、階段の途中で重荷を必要以上に味わわされたりもし兼ねんからだ。
苦しい処だけサッと行って苦痛時間を減らそうとしたりが出来なくなって、かと言って立ち止まろうもんなら後ろからどやされるだろうしね。

因みに降車駅ホームが反対側の場合乗った次の停車駅だったら半ば諦めるしか無く、大抵は俺みたいに狙ってる人で良いポジションは既に満席だろう。
けど途中に降車時と同側ホームの停車駅があればその時がチャンスで、一旦降りればポジションリセットってな按配だ。

整列乗車1つとっても気付き難いかも知れんが何も鉄道側の都合だけじゃ無く、あらゆる点からしてその方が「まだマシ」だから推奨されてんですわね。
もし割り込み乗車が裏技と誤認してるなら可哀想で、大勢居るとペースの急変は混乱を招いて大抵は乗降時間が延びてしまう。

何だかんだで急いてるから割り込もうなんて思い付くんだろうから、遅くならずに済む方法じゃないと意味が無いですねん。
人情として「急く気持ち」は俺には相当良く分るけど(おやぁせっかちかぁ???いえ単なるスピード狂)、ラッシュ時はどうやっても普段より遅いって基本を忘れちゃっとるんですがな。

ものにも依るけどこれと逆なのが煽り運転案件で、基本的な「真の解決策」は各車夫々が望む速度を極力実現させる事なのだ。
抜かさせたり抜かしたりは不可能な場合もあるし、特に抜かさせる場合は自分に不要だと横着するのが近年では大多数の様だ。

しかし交通ってのは交わる・交えるって漢字が入ってる通り、自分以外の他者が存在してる状況を示している。
目的地も速度も何も自分と違う奴が居て当然の状況であるから、最低でも自分と他者の都合を同程度に考えてなきゃおかしいのだ。

こんなに混んでんだから抜いたって幾らも早くなんか着かないさとか、例えそれが事実であっても個人だけの考えに過ぎない。
普段ゆっくり安全運転の人でも例えば産まれそうとかもう漏れそうとか、喫緊の危機に瀕しても全く無変化で居られるなら耐久レースへ出たら常勝出来ますわよってね。

こんな風に僅かでも立場が入れ替わる可能性は払拭し辛いのだから、速いのが来たら抜かさせる・遅いのが居たら抜かさせて貰おう等とお互い全員が思ってるのが本来は公道運転モラルってもんじゃないのかな。
例え相手が速度超過であろうとアンタが交通警官じゃ無いんだったら、下手にブロックしたって事故率を上げるだけで良い事無いよ。

只でさえお互い譲り合ってもタイミングが悪いと巧く交わせなかったりしてて、だからってテキトーで良いやなんて思ってたらそりゃ事故発生装置でんがな。
いや事故ってな起こそうとして無くて起きるのを指すヤツだから、衝突破壊製造機とでも呼ぶべきか。

それと免許所持が許容出来る範囲のミスなら素人は謝る事を恥じる必要なんて無く、謝んない≒故意に繋がる事ももっと周知させたいもんだ。
本邦現政権が休業補償と抱き合わせずに緊急事態宣言を出したからってそんな失態になんか惑わされず、事故にならなかった限りで謝られたら当然許すのをセットでね。

素人同士なら程度差があったってお互い様だし、玄人対素人であったら尚の事玄人は素人へ譲歩するのが当り前。
技術の足りぬ者に幾ら腹を立てたって埒が開く訳も無く、耐えるのは辛いけどそんなのこそ公道上運転の最も「お仕事」の場所だろうから。

それから近年はネトウヨの変な悪影響か不要に騒ぐのが増殖中の様だが、現実の道路の運転はネットとは別次元の世界だ。
普段ネットでは極ネトウヨだったとしても、そんなのは路上では全く通用しないんだがねえ…。

<つづく>

2020年4月 7日 (火)

音楽備忘録244 「一億総ベーシック失念化」現象!?③

折角だからついででチューニング話しの続きをしちまうが、機械依存で合せると他にも沢山弱点がある。
当り前過ぎるけど出音が短過ぎたり倍音過多だったりして、打楽器系ではメータを使うのはまんず無理だが
や。

当り前過ぎるのにわざわざ出したのは、耳でだったら少し慣れればかなり音程が分かったりもするからだ。
BeatlesのRingoのSnareには曲のキー(調)にチューニングしてるのも多かったが、楽器もしっかりハモってますってコーラスグループの心意気みたいなのが感じられる。

これを実践した効果としてはSnareの悪目立ち防止が感じられたが、原始的ではあるがその曲固有のSnareサウンドって点でも意味があったと思う。
尚Snareの目立たせ度に関しては従兄と俺は意見が対立してて、もしかしたら担当が太鼓中心であるか無いかが影響してるかも知れない。

編曲家の観点としては曲次第で太鼓の配役は自由でありたいし、Snare以外のの方が目立って欲しい事もある。
尤も実際に演ってみて問題が無きゃ好みの範疇かもだが、何れにしても太鼓の音程が比較的簡単に把握出来無いとそもそも話がここへは到達しない。
或は最悪録音時に気付けずに、完成後に発見(発聴!?)して後の祭りなんてのも…。

脱線と言えば数ヶ月前に出したBluepopsって曲のLead Guitar、チョーキングが一寸上がり切って無い処があったね。
そうじゃないので出せて無いんじゃ意義が下がっちゃうけど、それだってホントはもっとと気付けてた方が次は少し多分恐らくきっと…少しはマシになる予定!?。

これは関係があるから持ち出してて、楽器チューニング以外にもコーラスでとれだけハモれるか等にも直結だ。
上記例で云や腕に問題が残ってるが、分かっちゃいるから改善の見込みはある。
が耳の段階でもし挫折してたら、今の俺より遥かに上手に弾けても変なチョーキングから脱せない可能性が高いのだ。

それとPianoの簡易調律をする様になって気付いたのは、幾ら耳を鍛えても純粋な音程の高低判定だけでは幾らも微調整は出来ないって事だ。
これはPianoよりずっと前から弦楽器を扱ってたのもあったと思うが、音源部が生の楽器では鳴らす毎に微妙な音程差が出たりするのを事前に知ってたからだ。

エレキGuitarではチョーキングやアーミングのせいで、少なくともこれ等を派手にやった直後は弦位置はまだニュートラルへ戻って無いのも多い。
しかし楽器とその調整がマトモになってる物であれば、暫く他の弾き方を続けた後にはチューニングで設定した位置へ戻ってたりするもんだ。

チョーキングとかが無いからPianoでは全然ズレないかと思ってたらそうでも無く、強く弾いた直後だけ少し低目になる等の現象が実際には起きていた。
この点は太鼓等でも特にローピッチにしてると良くありがちで、しかし機械過信して今聴こえたのに疑念が持てなくなってたら聴き逃してるであろう。

こんな風なんでメータが凄い精度を獲得しても楽器の方に気紛れが残ってる限り、実用的に音程が合った状態を作るには1に耳で2に手が結局は必要なのだ。
デジタル音源のを除いてどうせ人力が必要なんなら、それをなるべく簡単にこなせた方がチューニングは楽になる。

これはメータを使うなってんじゃ無く何処をどうだったら使えるのか、その用途範囲を正しく認識するとも言い換えられ様。
そしてこれがお題へ帰結してくんだが古典的でも耳で合せるのを常若しくは主としていたなら、一々考えを巡らせたりしなくても割と自然に身に付くのである。

近年は科学分析に何でも頼り過ぎな傾向が強いが、定量的な回答が得やすいからより便利に感じられてるのかも知れない。
だがそれなら素人が簡単に理解できる様な範囲だけでは足りない場合も多く、研究者は概知でもそれを実証する為だけの実験にも時間と手間を惜しんでいない。

ここで研究者等と称したのは客前で実演しない分析だけをする人を想定しての事で、前述の如く演奏時にも耳の影響は大きいから尚更だ。
して究極は曲に応じて下がってる時が多いのには敢えて少し高目に等、耳主体にしてればより最適チューンが可能にもなり得るのだ。

<つづく>

2020年4月 6日 (月)

音楽備忘録243 「一億総ベーシック失念化」現象!?②

道具過依存危惧とはマルチEffectorの乱用も含まれはするが、もし真っ先にこれが思い浮かぶ様なら既にステージ3とか4の病気に掛かってるとも言える。
今回のお題は楽器のチューニング(音程合わせ)で、これこそが第一段階に他ならないのだ。

そしてこれが第一段階である為には「耳で合せる」のが必定で、もしチューニングメータが無いと合わせられなくなってたらステージ2と少し重症化しているのである。
先ず理論段階で想定されるのが音律の平均律と純正率の問題で、並のチューニングメータには平均律モードしか無い処。(因みにそれしかないなら一々表記なんてされてないのが殆ど)

これは特に単音楽器や歌のコーラスの場合平均律だとキチンとハモってくれず、しかし本番演奏中にメータを睨めっこし乍ら音程調整してる奴なんて居ないだろう。
尤も極初心者で「正しくハモった音の感じ」(響き)を知らないと調整のしようが無いが、ある程度経験を積んでたら全く無意識下に誰でも感覚で合わせてる筈だ。

それにも拘らずチューニングとなるとメータだけで終らせる奴を時々見掛けるが、メータに余程の高精細モードでも付いて無きゃそれでは道半ばの合い具合しか得られてないのよ。
加えてお間抜けをやらかす一例として持参のじゃ無く、例えば会場に設置されてるPiano等の調律の基準が何Hzになってるかを未確認のままにしてる人とか。

極最近の事情に疎いのが毎度杜撰ではあるが、明るめの音色狙いで基準周波数を442とか443Hzとしてる場所が「お外!?」(自宅以外のそれよりは公的な空間)では多いのだ。
俺個人は特定目的が無い限り余計な色付けは要らんので440Hz基準でやっててって、宅のエレピがたまたまそうなってたから変えるのが大変なだけってばええそうかもねっと。😅

昔のチューニングメータは基準周波数は440Hz固定だったから、それだと禁断の裏技でも使わないとこんな場合はもう使えない。
が今のは大抵基準周波数可変機能が付いてるからそうはならんが、それには先ず常設楽器の周波数にアジャストさせるのが必要だ。

んが多忙で忘れちゃったりデジタルピアノだからと油断して勝手に合ってると思い込んだり、理屈(機械・道具)に頼るんならせめて考えられる全ての確認は面倒でも怠るべきじゃない。
又例えばGuitarだけのBandだから不要と決込むのも残念で、予定に無かった急遽飛び入りのPianoなんてなれば対応に時間が掛っちまうか諦めるかとか。

と散々ほざきつつPianoの簡易調律にすらチューニングメータを常用する俺だが、その利用目的は是非知っといて貰いたい。
特にPianoみたいに調整箇所が膨大となると勘違いを誘発し易く、自分の音感が戸惑った際の修正策としての位置付けなのだ。

だから調律初期段階では大枠はメータを使って合せるが、それだけだと幾ら頑張ってもちっとも綺麗にはならない。
加えて所持メータの仕様事情もあるかもだが、メータ表示に頼るとどう頑張っても幾らも合わせられなかった。

なのでチューニングメータを使うってもメータの方じゃ無く、殆どの場合は電子音叉機能の発振音の方ばかりを使っている。
この方が発振音(基準音)とPianoを同時に鳴らした時、その「うねり」を無くす様に合わせた方が簡単に精度が得られたからだ。

これには次の原因も想定されるが生楽器専用の高級機だったら未だしも、メータの表示精度もだがそれ以上に搭載Micの性能に不安がある。
発振音だってアナログ式だったらこの手の用途にゃ頼りに出来んが、デジタルで得られた周波数だったら余程酷いのじゃ無い限り誤差なんて出ないからね。

ってな事ってメータ使ったって結局は「耳でしか合わせて無い」訳で、しかし自耳を過信してる訳でも無い。
単にやってみたら耳頼みの方がまだ音程が合ったし合せ易かっただけの話しで、とどのつまりはお客さんは音を聴くのであってチューニングメータを眺めて楽しむんじゃ無いからってなもんですかね。

<つづく>

2020年4月 5日 (日)

音楽備忘録242 「一億総ベーシック失念化」現象!?①

派手なお題目なんか唱えちゃって随分音楽から遠そうかもだが、かなり深い関連性を孕んでるから俺なんかが提唱してるのだ。
俺自身だって気付けてないだけで怪しい処が多分沢山あるだろうが、極限に少しは近い環境に居るせいで否応なしに正解を得られてる側面もある。

生命維持の原理からは苦しい奴程正しきを知るのは理に適ってるが、こう云う末端のマイナーな存在は社会的影響力に乏しいのが皮肉っちゃ皮肉か。
自覚が無くてもそれなりに恵まれてたり幸せだと余裕も出て来て、しかしなまじ余裕があるが為に大事な処を見落したり忘れたりし易くなる。

これは今はボヤいてる俺だって状況次第で陥りそうで、故にマトモに暮らせてると普段の生活の中からこう云うのを学んだり知ったりするのは難しそうだ。
だが音楽やスポーツ等で「意のままになるかならんか」へ着目すれば、境遇からの相違はかなり縮小されるし減らせるのだ。

この面で普段は社会的な実用性の低い所謂文化的なものの存在価値は侮れず、かつての上級国民が率先して勤しんだ理由と思われる。
人間偉くなる程叱られなくなって普段はその方が快適だが、大きな過ちに気付き損ねた際の外部からの通知はどんどん無くなってしまう。

利口な偉人がやたらと妙に低姿勢だったりするのはこれを熟知してるからで、しかし余程「もっと知りたい」欲が強くでも無いと中々そうはなれないもんだ。
それと私的にこの件で注視してるのは態度より内部心理で、形から入るタイプの人には大変だろうが本音のみとしないと実現が困難だ。

気持ち的に横柄であるより真摯な方が好ましくはあるが、どんな悪態を付き捲って様と唯一点の真実さえ理解出来りゃこの件では良いしそこが核心なのだ。
幾ら丁寧に相手の意見を訊いても本件で問題なのはそれをどう評価・判定するかの部分で、ここに余計な偏向があったりすると「しっかり訊き入れたつもりが充分な反映が為されて無い」となったりするのだ。

さて最近頻出の「偏向」だなんてブラウン管の角度じゃあるまいし、何故そんな語を用いてるかってば本人無意識下になってしまってる部分に限定したかったからだ。
例えば俺はRockだから丁寧語なんて使うかよなんて、自覚があって演出してるなら根っこは案外ニュートラルを維持出来る。

恐いのは例え軽度でも全く気付かず知らずに寄ってたり曲がっちゃってたりする場合で、それが原理原則等の基準点だったら影響範囲は計り知れない程広いのだ。
この辺から参考実例へ進んでくが、最初は建設関係等での水平だとか一直線を確実にゲットする方法だ。

水平に関しては水準器若しくは水平器を用いるのが今は一般的だが、多少精度は落ちても転がり易い球体(液体の滴含む)で代用するのも可能だ。
直線に関しては平民では長い定規等だが古典的な墨壺+凧糸の如く、紐に張力を与えると直線が得られる。

この内後者は定規が届かない長さでは第一候補で、更に遠く(長く)なれば測量の基本の遠くから眺めて3点が一直線上に並ぶ様にする等だ。
「届く限り」は何かを単にあてるだけの方が簡単だが、単一平面じゃ無い場合は垂直方向の高低差の影響が出てしまう。

職人さんが色んな物を銃で狙いを定めるみたいにして眺めて確かめるのはこのせいで、半端に道具を使うより僅かな歪みも簡単に見つけられるらだ。
大掛かりな最新計測装置でも使う以外では未だにこんなのが最も精度を得易いのは少し意外かもだが、こっちの「視点次第」で手ぶらな方が高精度ってのが現実だ。

道具に依存し過ぎると恐いのの1例だが、では音楽ではこれは何に値するか。
を次回に記すとしよう。

<つづく>

2020年4月 4日 (土)

音楽備忘録241 この際だから政治と絡めて音楽を考察しちゃおう⑯

こっちのお題もコロナみたいにしつこいってんでも無いが、従兄のTwitterで知って「♯SaveOurSpace」に珍しく署名なんかした。
サラリーマンに対し音楽家等は数的比率が低いのと票田に結びつかんからの暴挙だろうが、やはり客商売だからと大人し過ぎたのも一因にあろう。

ここで非音楽家諸君に再確認願いたいのは例え低頻度でも、自分達が何らかの宣伝をぶつ際に音楽のお世話になってる処だ。
音楽が民衆にとって必ずしも常時必須じゃ無いのは論を待たぬが、だったらコマソンなんて絶対に使うなよである。
更にタレントを起用してしゃべらせるのも無しで、宣伝文句も文筆家等に依頼したらアカンでえ。

対してこっち芸術系
サイドとしても若干の手緩さを覚えるのは、「自粛と補償セットじゃなくちゃ」だ。
俺的にはこの際一歩踏み込んでコロナ終息迄は「禁止期間中の分は補償しろ」であるのが望ましいと考えていて、政府の負担は増えるがもっと良いのは例えば全員に金出してやるからその間は閉じ籠ってろだ。

芸能界にも最近の狂った大手の暴挙みたいなしょーもない輩も混在してるので、ルールが自粛だと抜け駆けする奴が出る可能性があるしそれを罰せない。
万一そんなウツケ者のせいで大流行しちまえば共倒れし兼ねず、皆死んじまえば補償が保障された処で何の役にも立たないのでね。

私的にはどちらさんも何とも緩すぎて歯痒くて仕方無いが、だからと言って俺は何でも辛口志向ってんでも決して無いのだ。
初期段階で一寸大胆なのは「もし足りなかったらどーすんの」と思ってるからで、充分足りてるのが確認取れ次第順次緩めて行けば良いのだ。

例えば6万円ありゃ足りると思ってて5万5千円だったら、5千円のお釣りを貰うだけだ。
それがもし5万円と予測してたら不足分は借金となるが、そうなると利子の分余計に費用が掛かり借金割合が多い程コストは割高となる。

誰だって初期投資額を抑えたいし用意するのも大変なのは分かるが、短期視点を優先すりゃトータル拠出額は際限無く膨らんじまうケースも多い。
そりゃ中には借入れなけりゃ買えない物だってあるけれど、だからって利子に無頓着ではいられない。

本邦政府の負債がここ迄になった原因が正にこれで、それこそ正に「人の振り見て我が振り直せ」であるぞなもし。
それでも政府なら人がしょっちゅうコロコロ変わるし、勝手に新法をこしらえて抜け道が作れる。

が責任が唯一の個人のみにある場合、最低でも死ぬ迄に全て清算出来る範囲に収めとかないとならない。
そうしとかないと後の世代にツケが回り俺自身不幸にもこれを体験しちまったが、それを許せてもある意味先祖の面目は丸潰れだ。

人の場合評価や倫理を無視するなら迷惑でもそれもあり得る道だが、音楽等芸術系だと作品は作者死後以降も残る物だからそんな道は無い。
因みにここでの作品の負債とは製作費等では無く、作品自体の内部に残留してるものを指している。

追求し過ぎて身動き取れなくなっても駄目だからそんなに神経質に拘る必要は無いが、方法論の時点で大巾な間違いがあってはその後の苦労は水の泡。
それ故必定では無い場合の録音時Click使用等におもむろに抵抗・反対を唱えてる訳で、この手の件に危機感が薄い様ならそれは危険な兆候なのだ。

仮にClick無しでは上手く録れなかったとしてもキチンと試して於けば、その時点では無いと無理なのがハッキリ分かるとある種のDataが確実に採取出来る。
そうして明確化が図れて無いと「この曲だけは絶対の自信があるから」なんて欲が出たりして、大事な局面で気紛れで使わずに失敗する可能性が残ってしまう。

なので一寸シュールだが例え悪結果が出たとしても、実証実験は怠ら無い方が後に差が出る可能性がとても高いのよ。
私的には現況本邦は俺言い「一億総ベーシック失念化」現象に蝕まれてると痛感してるが、次回からそれを色々例示して行こう。

<つづく>

2020年4月 3日 (金)

音楽備忘録240 この際だから政治と絡めて音楽を考察しちゃおう⑮

潜在意識を封印して他分野等と正直に比較するのは、勇気も要るし弱点や欠点も見せつけられたりするからちょいと厳しさも伴うかも。
なので差し迫ったニーズに駆られないと躊躇しがちだが、かと言って後回しにし過ぎればガラパゴス化必至だ。

本来なら規模の大きい処からとっとと何とかして頂きたいのは山々だが、大きい処の方がマージンも多く用意出来るもんだから遅くなる。
だから俺みたいな弱小は世間がどうあろうとそんなのに構ってる余裕は無く、苦しい代わりに早く真実を知れたり原理には詳しくなれてるのかも知れない。

俺は一部には徹底した拘りもあるものの全体に対しては、実は性格的にもそんなに普段は探求心に長けては居ない口だ。
しかしお尻に火が付いては直ちに消そうとする訳で、こんな余裕の少ない状況は決して他人に勧められたもんじゃ無い。

だが俺より余裕が大きい筈の大勢が嘆いているのを目にすると、もっと持ててる幸せを実感出来てたならと残念に感じられる。
それには数値的な比較が困難な物に対して、やはり実際に並べて比べて見る事は必要だと考えられる。

全くけしからんのは承知の上で例示すると、例えばかなり不謹慎な隣の芝生は青く見えるだ。
充分納得して結婚してても並の男なら、隣に我妻より美人の新婚さんが引っ越して来たら心穏やかでは居られなくなったりする。

実際には幾らそわそわしたって人妻で新婚さんなんだから、真っ当に行ったらチャンスゼロだ。
だいいち浮付いてるのが奥さんにバレればフライパンか何かが降って来るだけで、良い事なんて何ひとつ無いにも拘わらずである。

呉々も正当化論法では無いのを事前に念押ししとくが、要は美人と云う基準には絶対値を持たせ難いのが根底にあるからだろう。
人にも依るだろうが身近にどれ位の美人が現われる可能性があるか、それが熟知出来てたらそんなには心乱されずに済みそうだ。

しかし面食い男性でもそこ迄事前に徹底検証してる者は僅少なのが実情だから(そもそも困難だし限界もありそう…)、いざその時に後になってからみっともなく慌ててしまうのである。
男の夢的理想では離婚して略奪婚と云った処だろうが、現実には子供やその後の問題等で絵に描いた餅が関の山だ。

この様な低確率だとか予測困難なものに対して、大抵は準備不充分になるのは仕方無いだろう。
但し無準備で居るならそれに対する覚悟みたいなのが本当は必要で、具体的イメージが困難でももっと運が悪かったらどんだけ大変かも知れぬなんて心構えは必要だ。

現総理は仕事に対しては真に無責任極まりないが、家庭に対してはどうかを考えるとある構造的構図が見えて来る。
それは実質的には関係が破綻してる様にも伺える奥さんに対してで、こちらでは打って変わって過保護を続けている様だ。

死人が出たのに頑なに再調査を拒む裏に、自身の保身は勿論含まれてるが奥さんの立場がとても気になる処だ。
あんな思いやりが不足してるオッサンが何でとも思うが、要は他に責任担当者が居ないのが根底にある気がするのだ。

全く間違っちゃいるが仕事の方は現行法では、辞めてしまえば全責任は負わされない。
しかし奥さんにとっての旦那が他に現れぬ限り(つまり離婚して再婚等)、専業主婦かそれに近い奥さんに何か起きればその殆ど
は旦那のせいとなる。

我々みたいな個人事業主が参考にすべきはこの部分で、全体的にはほぼ反面教師でしか無い。
けれどそんなイカれた奴ですら条件・状況次第で自然と対応に差が出てる訳で、彼程の権力があっても時に権限が足を引っ張る事があるらしい。

最高責任者になると自由に判断・選択出来る代わり、間違えてもその時点でそれを教えてくれる者はもう居ないに等しい。
今回のマスク配布の件ではほぼ全員からバカにされて居り、それでも間違いを認めるのが後からじゃ恥ずかしくてもうどうにも出来ないと云う体たらくである。(それでも全ての面で恥を忍んで早期に修正すべきだが😓)

これが芸術系で個人の作品だったりすれば、基本的には常に作者個人の責任となる。
特に音楽では「そこだけ聴いたら間違い」に思えても、続きを聴いたら「それで良かった」とか「わざとだったのね」も多いから厄介だ。

<つづく>

2020年4月 2日 (木)

音楽備忘録239 この際だから政治と絡めて音楽を考察しちゃおう⑭

俺は新興宗教は嫌いだなぁ~んてったらいきなり喧嘩吹っ掛けるみたいで物騒だが、無条件で嫌っては居ない。
他人に対して余計なバイアス(偏向)が掛って無けりゃ一切不問だが、普通の話しが普通に通じなかったりすると疑惑をつい抱いてしまう。

これが政治に関しても同様でまだ世界最悪では無いが、現行本邦政府みたいに無理を通して道理を引込める様な事をしでかされると不信以外にも心理的実害が多い。
限度を越しても他政党よりゃマシそうって理由で信任するのは、既に正しい判断力を喪失してる表れなのだ。

ここ迄「程度が酷く」無けりゃそれも分かるしちったぁ許せるが、これでは殺されても過失(失敗しただけ)だから犯人は無罪放免と言われてるも同然だ。
そしてそうなっちまう原因として考えられるのは洗脳等しか無く、酒か薬か金かはたまた悪魔の誘惑か等は夫々様々だが感覚を狂わさせてる点では一緒だ。

これの音楽作品の具体極例としてオウム真理教で売られてたシンセミュージックを槍玉とするが、申し訳無いが音楽的には環境音楽を真似た「単なる音の羅列」で無価値であった。
俺はこれに興味がある処か忌避してたんだが、当時近所の電柱にやたらと無断でポスターが貼られてたので冷やかし半分で聴いてみたのだった。(決して購入した訳じゃ無いですぜ!!)

お経とか讃美歌みたいに、宗教由来でも音楽的にも優れた物は実在している。
なので全てに適用可能とは言い難いが音楽の出来栄えと宗教内でのその評価の正誤で、宗教自体がマトモかどうかの判断の一助にもなりそうと考えられる。

もし他人が聴いてちっとも素晴らしく無くても「好き」と言うなら無問題だが、何故この素晴らしさが分からないか等と言出す様だったらかなりの重症だ。
尤も音楽を好みとグレードを別々に判定出来るだけのスキルが無いと正しい判断は付けられないが、マトモな音楽家を目指すなら最低必須条項ではある。

今のJ-POPに「耳が飼い慣らされ」過ぎてたりすると「不要過音圧」に鈍感になったりするが、これは音楽が比較に依って成立してる部分が多いのに気付ければ明日の為のその1となる。
この件を政治で対比させると例えば貯金しても幾らも利息が付かない政策を延々押し進めてるのと同じで、ある程度やって効果が薄けりゃ本来なら「次の手」に移行するのが得策なのだ。

この様な過ちを何時までも続けられる無神経の原因は、どれだけ間違ってるかが認識出来ないからだろう。
今の時代は音楽でも国でも他所へ様子が簡単に知れる状況にあるから、内部だけを見て判断するのは正に井の中の蛙の極致となっている。

おバカな政権は情報操作や遮断に依って不都合の隠蔽を計ろうとしてるが、それがある程度機能するのは現代本邦のお人好しが多数派を占めてる場合位だ。
それだって端っからは疑わないってだけで、何時までもおかしいのが続けば何れメッキは剥がれる。

それでも政治家には任期があるのでその間誤魔化せりゃ良いのかも知れんが、音楽の方では任期だなんて期間限定が付いて来ちゃ困るのだ。
ほぼ全ての作品は聴くより作るのに何倍もの時間が掛るので、最低でも製作期間と同程度は評価が持続しないと成立しない。

もしこれが崩れるとお客にとって興味の対象となる物に「時間的ブランク」が発生し、その間に他のミュージシャンや楽曲へ浮気されたりこの人終了の烙印を押されるかも知んない。
又これが正規雇用者の場合期間が近年短縮傾向にあるとは云え、それなりの長さがあるせいで鈍化し過ぎてる様に感じられる。

これの最悪例としては全ての原因がこれにある訳じゃ無いが、定年退職したら途端に熟年離婚なんてのも…。
俺がそんな旦那衆に残念に思うのは、期限が当初から分かってるのにって処だ。

今日が不成立なら明日が来ないのは確かだが、何時頃から次の段階やシステムへの移行が必要かは既に分かってた。
厳しい環境下で今のじゃ無い分に割ける余裕は僅少だろうが、せめてある程度迄なら「先送りが出来る幸せ」をもっと噛締められてたならどうなんだろか。

水商売系等ホントのその日暮らしでは将来予測は困難で、仮に備えようとしてもやれる事はとても限定されている。
自営だったら自分以外の原因で運転資金が途絶しても、不足になったらその時点で即強制閉店なんだから。

<つづく>

2020年4月 1日 (水)

音楽備忘録238 この際だから政治と絡めて音楽を考察しちゃおう⑬

音楽も密やかな個人の趣味だけに限定して携われば、変な戒厳令みたいなのが発令されぬ限り政治からそんなに大きな影響は受けないかも知れない。
けどアマであってもLivehouseのチケ代とか、僅かでも商業等と関りが出てくれば世情からの影響は必ずあるのだ。

それ処か金銭授受をしない路上Liveを演るにしても、場所や時間帯等が各自治体の条例に依ってコントロールされている。
最近になって本邦でも利口な音楽家の一部は政治的発言が復活してるのは良い傾向だが、末端の者がどんな箇所で影響を受けてるかの記述は僅少だった。

本シリーズはなるべくそれを提示したいと思って書いてるが、俺の浅学と能力不足でどうも中々上手く記せてない気がして来た。
そこで悪戯に回を重ねるよりも外堀から埋めてみるのを思い付き、非音楽家の正規雇用者なら影響を回避出来てる可能性のある部分について見て行こう。

本邦での正規雇用の代表格として所謂サラリーマンを例示してくと、先ず年金と健康保険の負担割合の違い等が誰にでも認知されてるだろう。
正規雇用組は厚生年金・社会保険なので給与から天引きされてるから、悪く言や払いたく無くてもむしられてるが良く言や納入漏れの心配は無い。

しかし非正規組の国民年金・国民健康保険は自主納付で、期限に遅れれば延滞割増しまで請求される。
失念回避の為だけなら自動引き落としにしとく手もあるが、残高不足でアウトってケースも出て来る。

そして最大の違いは月給制と違って生活費等が足りなくても払わなきゃなんない処で、生活費等の方を優先すりゃ今度は延滞割増しの洗礼を浴びちまう。
正規組も実際には会社が半分負担してるとは云え、非正規の「多く払ってる」側にペナルティが大きいのは経済理念からしたら異常だ。

特に経営規模が小さい場合事業資金の運用事情に依っては、年単位では収められる様にしていても時間的な融通巾が現状ではとても充分とは言い難いのにも拘らずだ。
最近みたいに終身雇用が崩壊しては会社の庇護も期間限定だが、少なくとも正規雇用契約締結中はこの件に対して無配慮・無関心でも督促状なんかが普通は来ないのだけは確かだ。

自営の方が自由が多いんだからなんてのは全くの詭弁で、それなら望む者にはどんな低待遇でも非ブラックな正規雇用先が用意されてる前提条件が無いとね。
こんなのは誤った数の倫理が作用して正論みたいに見えてるだけで、サラリーマンの悲哀の愚痴として受け止めてあげるならだけ微笑ましい。

が道徳観念としてまで真に受ければ「間違ってる」んだからロクな事は無く、多数派の心証を是認するのと現実の構造を理解・把握するのは分離しとく必要がある。
職業音楽家としては個人事業主が多数派を占めるかと思われるが、それは経営から絶対に逃れられないのも意味している。

企業であれば社長であっても「雇われ」の場合もあり、クビになったりはしても問題解決を完遂する義務は負っていない。
しかし自身が唯一の経営者であれば大きな失敗は少なくとも一旦廃業程度は必至だが、大企業になる程経営に携わる人数割合は通常少ないしその経営サイドですら各人担当箇所は限定的なのが多い。

なので他意でサラリーマンを卑下するつもりは毛頭無いが、立場上彼等は事業の全貌把握は個人事業主よりし辛い状況下にある。
専門外があるのとその認識がちゃんとあれば無問題だが、長年知らなくても暮らして来れちゃったりするとスッカリ忘れちまってる輩も多い。

これは本来は存亡問題にも繋がってるから重要だがここでは敢えてそれは置いといて、兎に角こっちはそんなお目出たい連中を相手にしてられる様な余裕は無いのだ。
そしてこれ等の影響で最も懸念されるのは、どっちの立場でも含まれるが「感覚のブレやズレ」なのである。

概述だが例えば必須じゃ無くても何の疑問も持たずに録音=Click使用とか、選択や判断に余計な偏りが無意識の内に生じたりしている。
ミスやヨレ等に依る出来栄え次第とは言え、経済理論からだと必須じゃ無いのを用いるのは浪費に他ならない。

これが自腹経費でなんて言われりゃ何でも目一杯ケチろうとする癖に、音楽と言われた途端に浪費と感じないなんて全く滑稽だ。
柔軟性やマージンを取っとくのは勿論大事だが、何らかの実質的な基準に基づけてれば変テコな判断ミスは減らせてクウォリティアップに繋がるの請合いだ。

<つづく>

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