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2019年10月13日 (日)

音楽備忘録67 寿命 内容編Ⅵ

必ずしも自分の取り組み方を正当化する気は毛頭無いが、基礎技術は兎も角その先の技術をどの段階から取り組むべきかの体験からの持論だ。
本邦世間一般の音楽教室等ではひたすら技術指導に邁進してる様だが、何を一番やりたい・実現したいのかに依ってはその方法は非常に宜しくないのである。

日本ではプロと言うと変な序列が巾を利かせてて、メジャーなのもあればマイナーな「レッスンプロ」なんてのがある。
幾らもググってすら無いがこのレッスンプロは和製英語の様で、1つだけ見つかったアメリカのはどうやら「教えるのに対して特別なスキルを持った者」を称しててこっちのとは全く意味が違うみたいだった。

本邦では従兄なんかが自虐も込めて「しがないレッスンプロ」を自称したりしてるが、深く考えれば自分が弾ける様になるより人に教える方が本当は遥かに難しく大変な筈なのだ。
しかし残念乍ら今本邦では自らのパフォーマンスが評価されるのだけが上等で、それ以外のはオマケみたいな間違った序列が未だに横行してるのは嘆かわしいもんだ。

そしてこれの弊害と思しきのが「教え方」で、それは直接指導に限らず教本等でも同傾向がとても強いのが現状だ。
企業的教育の発想では例えば習い始めて1週間後には16分音符が弾ける様になった等、順次表面に成果が表れるのが望ましいのは分かるけんどもよっと…。

だがそれでは楽器が弾ける様には成れても、必ずしも「音楽が出来る」様にはちっとも成らないって裏が必ず付いて来ちゃうのだ。
これを真摯に考察すれば自分の分は自己責任だし自ら取組み方を変えられもするが、人に対して不適切な教育を施す程無責任で罪深い事は無いんだがね。

それには指導者が単なる有名なミュージシャンなんかより教えるのに関しては遥かに優れている必要があり、そんな側面があったからこそ昔は単に教えられる人が少なかっただけじゃ無く先生=尊敬だったんだと思うのだ。
これはちょっとだけ考えれば必ず気付けると思うんだが、その分野で一番最初に先生になった人にとっての人的周辺環境を想像してみなはれ。

自分唯独りしか分かって無い事を説明したり、誰かに理解して貰うだけでも滅茶苦茶困難でしょ。
余程上手なデモンストレーションでも見せられないと、最悪は詐欺師か狼少年扱いされるんだから。
では楽器が上手いより音楽が良いと思われたかったらどうなるかっつうと、本邦では無視されがちな「もう1つの基礎技術」へ目を向けねばどうしようもない。

それは物理的技術では無くそれこそ音楽的技術とでも称するべき物で、「誰でも弾ける」のを「誰とも違って良い感じに奏でられる」様な類の部分だ。
突詰めると単なる速弾きなんかより遥かに難しいんだが、それ故下手に物理的技術を先に持っているとついそっちへ流されてしまうんよ。
演奏技術を物理面から判定するなら数学みたいに答えが単一になってくれるが、音楽面から判定するとケースバイケースで答えが無数に有るんでねぇ。

しかし原点に立ち返り聴者感覚を熟考すれば、気持ち良いとか面白いのの方が唯凄いのより強力なのは論を待たない処だ。
なので速弾きにしても曲を盛り上げる効果が無ければ単なる「ひけらかし」にしかならず、最低でも「使い方」も同時に持てて無ければ音楽的には全く無効なのだ。

先に「企業的」なんて書いたのはそれ式なら誰にでも成果が明瞭って事なんだが、音楽は勝手好き好き趣味習慣で千差万別なのから逃げちゃ駄目なんですよ。
で現況では普通の所で習っててプロになれた人でも俺言い「もう1つ」は殆ど教えて貰えないので、結局肝心なこの部分は殆ど皆独学で賄ってるんだわさ。

んでもって独学だろうと然るべき人から教えを乞うにせよ、音楽を出来る様になれる唯一の方法は感性と結果に対する試行錯誤なのだ。
求める音を出し易い方法等の知識は無いよりあった方が良いけれど、それが役立つのは「今よりどうしたい」かが演者内部で明確になってからなのだ。

非音楽的技術は一発芸としての価値は残るが、それを披露して評価されるのは主にお客様1人あたり初回限定である。
後にどっかで役立つ可能性も無くは無いが非効率で、それよりも演りたくなったらそれを順にマスターしてった方が高効率だし目標もブレ難いってもんだ。

そして本人に明確な目的が無く獲得した技術は得てして完成度に難があり、自らのニーズへ試行錯誤主体で来た場合は例え上手な奏者とは思われなくても表現としての目標は大抵は達成される。
故に各自の必要性に迫られ即した練習じゃないと、技術レベルが高くてもそのスキルの寿命は思いの外短いのだ。

今回は(常時!?)クドク釘刺しさせて頂くが、各種スケールやオルタネイトピッキング等は応用範囲の広いテクだ。
なのでそれをマスターするの自体は良い事だがテク先行で身に付けると、必要な表情を充分出せず仕舞いとなったりフレージングに頼り過ぎとなる危惧がある。

例の如く個人差千差万別なので断言迄は出来ないが体験からすると、技巧的に色々操るのより人に通用する自分流の表現を会得する方が大変だし時間が掛る。
して一寸マゾ臭くなるがもし技巧皆無だったら表現に全力を注ぐ以外道が無い訳で、それ位追い詰められないと手間暇掛るものへ粘り強く継続的に挑むのは難しいと思われる。

音楽的には不足があるままでも技巧を持ってると既に「楽器は弾ける人」であるから、どうしたって「一応もう弾けてるんだから」と追及力が弱まってしまうのが多い。
楽器が何の為に存在するかを顧みれば「音楽を奏でる為」なのだから、奏者内部意識としてはホントは楽器じゃ無く「音楽が弾ける人」を目指さなきゃ仕方無いんじゃないかナァ?。

<つづく>

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