音楽備忘録65 寿命 内容編Ⅳ
録音でのClick使用ってば正確性の他どのパートからでも録れるとか、機械で鳴らしたのとリンクさせるとか色々利点があるのは確かだ。
しかし機械が理論的に刻んだのと、音楽での正確なリズムは不一致な方が多いのは概述した通りだ。
そもそもMIDIの規格がこの面では元からかなり大雑把なのもあって、余程の下手っぴじゃ無けりゃ人力でClickに合せたって全体の一致度にそんなに違いは出ないもんだ。
無論理論的安定度や最大ズレ巾は大抵機械の方が良好だが、現況機械は音楽やフレーズに合せる能力なんて幾らも持って無いからどっこいどっこいとも考えられる。
そんな状況下で達人達はどうしてるのかってえと、Clickと音楽的正解の間を取る様なタイミングで弾いている。
尤もマトモにリズムが取れない人ならClick無しじゃ聴けたもんじゃないが、達人の場合はリズムやノリはClick無しの方が好結果となる。
んでもって理論的正確に合せちまった物は体裁としてはとても整然としてっから、瞬間聴きするとこっちの方が恐らく好印象だろう。
だがその時の人耳は音楽としてより単に音として捉えてるので、段々と曲が分かって来たりすると当初の印象は敢無く反転しちまうのだ。
何せ上述の通り音楽的には最適じゃないんだから当然で、幾ら整然とさせたくても音楽的要素を満たした上で可能な範囲に留めないと意味を為さないのだ。
これが又リズム楽器としてClickがドラムマシンやリズムボックスが「聴こえてる」なら、全体としては多少妙な感じになろうとも他パートがそれに沿わせてても変にはならない。
だが「録られる人」には聴こえて「聴く人」に聴かせないんだから、「Click抜きでおかしくなってないか」へ余程注意して纏められないと音楽の流れがワープしちまうのだ。
これ等へ対処するには音楽制作のどの部分に携わるにしても音楽的知識は必須で、実は演奏する当事者から遠い立場の人程それが本来は強く要求されるもんなのである。
またこれは音質面でも更に強烈に該当してて、単に良い音と楽器○○の良い音には差異がある場合の方が多いからだ。
例えば高域の煌びやかさが売りのFender系Singlecoilやリッケンの12弦のを、もし籠らせた音色にし過ぎちゃうとその楽器で弾いた意味が薄れるでしょ。
そこ迄する位マイルドトーンが欲しいのなら幾ら違うので捏ねたって、Les Paulのウーマントーンにゃとても敵わんのやさかい。
っつう事は楽器音はわざとじゃないなら原形を保ってないと、どんなにオーディオ的にHi-Fiになっても音楽では投票無効になっちまうのだ。
より具体的に申せば音楽的Hi-Fiは例えば典型的なStratトーンなのに他のよりノイズレスだとか、明らかにLes Paulの音なのに他のより高域が伸びている等々だ。
つまり欠点が緩和されてたりプラスαがあると普通より良い様に聴こえ、StratがLes Paulに聴こえて評価されるのは意外性の部分だけとなる。
しかもこれは楽器を知ってる人にとっての話しであって知らない人にすれば、それが煌びやかさなら無理無くよりそうなってる方が高評価になるのは自明の理なのだ。
ではどうすればこの理想へ近付けるのかってば近年みたいに何でも出来る状況では、先ずは「弄り過ぎない」のに気を配るのが第一歩ではないだろうか。
音のタイミングにしても音色にしても、弄り過ぎて成功するなんて先ずあり得ないのだ。
もし弄る人が超達人なら万一ってのも考えられなくは無いが、そこ迄のスキルの持ち主が大した事の無い作品に携わってくれる事はまず期待出来ない。
出来上がった音が下らないと評価を大巾に下げる懸念があり、ホントは作品の低質のせいでも聴者にとっちゃそれが一々誰のせいかなんて知ったこっちゃないのよねぇ。
これがもし専門家へ頼むなら未だしも奏者自身が不十分なスキルで挑戦するのが愚で、そんな暇があるならもっと練習しろいって但し「頭を使って良く考えて」で御座居。
唐突だし何の意図も無いが俺は特別に音楽家として優れちゃいないし、音響屋としてもちっとも特別では無い。
素人では無いし各分野に得意なのもあるけれど、何でも完璧なんてのには多分この先も縁は無さそうだ。
それで現在取組中の曲の演奏でぶっちゃけな話し、どの程度演奏自体で賄って音響技術で賄うかのバランスで迷わされたりする事がある。
打込むか手弾きするかから始まりループを使うか止すか…、やろうと思えば一応どんな方法でも出来てはしまうので。
もしどれか1つの手法だけが他のを凌駕してたらそれで推すかもだが、どれでやっても大して違いが無い様な感じに終始している。
もう少し何とかしたいがどれでも大差無いとなると、じゃあ億劫でも仕方無いからも少し演奏自体の練習でもしてみっかへ至るのだ。
俺は今の処あまり機械らしい音楽に興味が無いので、たった1つの努力で全体が向上する方法を考えるとそれしか残って無かったのだ。
狭い視点で単に音程のズレだけとかタイミングのズレだけとか、そう云う観点でなら修正は「技あり」と思えて当然だろう。
だが一部の性悪を除けば無意識の聴者は「間違い探し」をしようってんじゃ無いんだから、面白いとか珍しいとかそっちが不足してたら他が悪く無くても仕方無いのだ。
エンターテイメントとしてはお笑いを見れば分かるが、提供者が失敗したのを受け手が喜ぶなんてのが基本だ。
その意味でノーミスで面白みが足りない物をわざわざ作っちゃうのは、最低じゃありませんの。
音楽の人工中絶ですよ、そんなんじゃ。
<つづく>
« 音楽備忘録64 寿命 内容編Ⅲ | トップページ | 音楽備忘録66 寿命 内容編Ⅴ »
コメント