音楽備忘録76 寿命 編曲耳!?編Ⅳ
今では打込みも大いに一般化したのでそれへも時間を割いとくとして、打込み氏にとっての編曲耳についてだ。
近年では音源の質が上がり音色的使い易さも考慮されてるので、生や電気も扱うのに比べれば表面的にはかなりこの面では楽と感じられるだろう。
だがその音源の多くは各楽音の一部のみを取り出した物なので、特に編曲面では人力ではあまり出ない様々な苦労を生じる元凶となっている。
例えばアンサンブルの都合で普段とは違う加減が要る時、パート分全員が揃ってる人力だったら相互に同時に調整出来る。
理論上は打込みでもそれと同等なのが出来るとなってるが、手間も然る事乍らその可否判定に使える耳の数が全く違って少なくなるのはもうどうしようもない。
しかも違うのは数だけじゃ無く音源に対する角度や距離も含まれ、仮に手間を覚悟したとしても完全に同時に行うのが不可能だ。
丁度最近の私的体験で打込みもそれを弾くのも一通りやっているが俺の総合判定としては、同じ音とかアンサンブルを作るのにその労力は手法に無関係と出ている。
但しこれは手弾き・打込みの両方が可能って前提があるので、これを取っ払えば夫々に有利な場合も出て来そうとは思った。
ここで本件に関係する部分での打込みの利点を確認しとくと、制作サイドには弾けないものも鳴らせてしまう処だろうか。
楽器が全く出来ない為に具現化不可能だった作曲の才能所持者が救われるのは喜ばしいが、既存の楽器音を用いる場合に問題が出易い。
本来なら構造的に弾けない音を迂闊に多用すると、その楽器に聴こえなくなったりするからだ。
色んな楽器を色んな弾き方をして色んな録り方をしてみると、イメージよりは音色差が意外と小さかったのがかなり多かった。
そこからコード構成音とその並び方やスケールの場合の連続の仕方とか、出せる音程・出せない音程等音色以外の要素が楽器らしさにかなり影響が大きかったのを悟らされたのだ。
なのでアブノーマル第1を標榜せん限りは弾けなくても、弾けるのと同等の知見が持てて無いと思ったよりちっとも自由にならないのである。
これは非打込み氏でも自分が弾けない物に対しては同じ事が言え、どうやって知るかってば弾けない以上ひたすら耳を傾けるしか無いんであるよ。
因みに要望と指示を受けての新曲の演奏を沢山体験してくと、同じフレーズも楽器毎の対応のさせ方が身に付いて来るもんだ。
特に音的な楽器事情に詳しくない作者からの要望には構造的に不可能なものも多く、しかしそれでいて作者のイメージに致命的な欠陥は無いなんて状況も頻出する。
こんな時に鍵となるのは作者脳内では「そんな風に聴こえた」って処で、出された指示は飽く迄イメージであって実際に弾く音とは限らないのだ。
作者サイドの実現度としては「弾ける確証のある音」が指定出来る程想定通りが可能とはなるが、明確でリアル感満載に思い付く程名曲になるとも限らないしねえ。
だがこれは専門家の力を半ば自動的に借りられる人力演奏だからで、個人単独で打込むとなると直接的なアドバイスはそのままでは受けられない。
それなら予めオブザーバーを確保しとくのも手だが、それだと今度は個人の作品に他人の意向が混入しちまう危惧も出て来る。
尤も音楽なんてどんな完全Solo体制でも、実際には大勢の他人の助力があって始めて成立してるものだ。
最近の自身で作って打込んでネットへ上げてにしても、最低でもサーバーのメンテナンス等では必ず誰かのお世話になってるんだからね。
しかし唯一ほぼ完全に自己責任な部分もあって、それがオリジナリティだ。
そしてこの独自性とか個性が実は寿命と直結していて、創作活動継続の絶対条件だ。
兎に角有名になるとかどんな短期間でも世間的に売れるのにはこれは不一致も多いので、商業主義原理では要求されぬ場合が特に近年本邦のメジャー系では多い様だ。
だがそんな雇い主側は純粋にビジネスとしてやってれば、先の事より今成果を出すのが使命だ。
先方(雇う側)は売れなくなったら首を挿げ替える手もあるので、レーベルとしての寿命はとても気にしてても誠に遺憾ながら各アーティストに対してはそんなの全く眼中に無い。
それどころか売り出す・売る実力さえ持ててれば、レーベルすら名を変え体を変えたって痛くも痒くも無いのだ。
なので音楽とかの雇うのと雇われる側の関係には、市場のセリと同じ様な捉え方が本来は必要だ。
プロスポーツ界等でも最近は年俸交渉に専門化を代理人に立てたりしてるが、それからすると本邦で一番危惧すべきは力がありつつ悪用しないマネージャーの居なくなったのが深刻かもだ。
これはプロデューサーにも同じ事が言えそうで、思い起こせばかつては世間では不知でもその筋では高名な職人さんが今よりずっと大勢居たな。
あのBeatlesですらGeorge Martin無しにあそこ迄の大ブレイクは無理だったろうが、George Martinは自身が作・編曲・演奏家且つ技師でそのどれもが超一流の人だ。
だからさしものBeatlesだって青二才耳時代もあったろうが、恐らくGeorge Martinのお陰で難を逃れられてた事だろう。
Beatlesが普通じゃなかったのはそんなだから自分達で出来なくても当面は困ら無さそうなのに、積極的に彼から学んで身に付け様としてそれを実現させた処だろう。
当初はプロデュースの重要性は多分分かって無かった筈だが、Brian Epstein以外では不遜なマネージャーに苦労されられてたからだろうか。
何れにせよ完全自給自足が出来る様になって、周辺環境に恵まれない時でもそれを乗り切れる様になったのは紛れも無い事実だ。
<つづく>
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