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2018年12月23日 (日)

真実の音質とは⑫ 音量と音質の関係性

今しがた従兄の太鼓の先生のTwitterでVIC FIRTH SIH2の感想記事を見たが、「エイジングが進んで高域の硬さが収まって来た」に半信半疑を覚えた。
要点を先に述べると「音量の大小次第で違って聴こえる」点で、彼のは部屋聴きでのだったからだ。
従兄も古くからのオーディオファンなので一応これを知ってると思うが、注釈付きとしてない辺りに俺との認識度の差が感じられた。

音量次第で音色が違って聴こえるの自体はかなり皆知ってるだろうけど、それが及ぼす具体的な状況は案外周知されてないのではと感じている。
Guitar Amp1つをとっても宅練用のをフルアップにするのは通常不可能に近いだろうし、Studioのを物凄く小さく鳴らす機会も僅少だろう。
そーすっと普通はAmpの違いで音色が違うと思うだろうが、本当にそうかどうかには証拠不足だ。

以前から指摘してる如く音量如何で人耳の特性は変化するし、スピーカにも人耳よりは少ないがこれがあるのだ。
だからせめてそれぞれが出せる最大音量で比べたりでもしないと、先ず機械側の条件が不揃いなのだ。
それでもその音量如何に依っちゃ人耳の方はイコールコンディション未到達もあり得、これの解決には録音したのを同音量で聴いてみる必要さえあるのだ。

ある程度以上の音量が出る楽器をやってると実感出来るかと思うが、自らの楽器とオーディオでの音量感覚の比較だ。
実際には楽器の方が数倍大きくても、オーディオの方がちょっとの事でウルサく感じられたりしないか!?。
それは出てる音が違うからってのもありはするけど、最大の原因は自分が出そうとしたのか他人が出したのかなのの差だ。

汎用オーディオでは再生音量対応範囲を広げる努力が払われてるが、これの限界は案外低いし近年の大抵は小さい方がより重視されている。
本邦近況では器楽のみや外国語の歌が敬遠され気味で、これには歌詞の聴き取り易さが最優先となる。
それを満たす中に「小音量でも」も含まれるとなれば、大多数のオーディオは生での現実より明瞭度の高い音に舵を切られているのだ。

この現実乖離のある面不自然な傾向だが、しかしヘッドホンポータブルオーディオの普及には必要だった。
近くの周囲の他人に迷惑を掛けぬにはなるべく小音量で、聴く本人にはそれでも全部が聴き取れる様にする為の方法だ。
最近は「ノイズキャンセリング」も普及して来たが、これも殆どが電子式なので生より硬い音になってしまう。

馴染みのある音程楽に認識出来るからか、これがPAや楽器Ampにも及びつつある様だ。
それでも
楽器Ampで全く同じにすると不要雑音も目立ち過ぎてしまうので、他の一般用途音響機器よりは程度が軽いみたいだ。
尤も聴きたくない人の耳には楽器だろうが生の歌声だろうが、騒音公害でしかないが。

この辺で俺らしく物理的解析へと向かうが、最初はスピーカについてだ。
小音量で明瞭ってのは高反応が要求されるが、それは大音量時には過剰反応になるって事だ。
大多数の一般的スピーカは電動でも未だ純然たる機械で、性質を機械的に切替える機能を持っていない。
電気のみで出来る切替もあるが
本件については関与不可、つまり狭い範囲にしか最適化が出来ないのだ。

人耳については今迄未出の部分中心で行くが、読み取り認識的な面では視覚のそれに近いものがある。
今の俺はベリー老眼になったから論外だが、若い時でも明るさが不適切だと微小文字が読み取れない時もあった。
これは画像的に述べればコントラストの過不足で、どっちも字とその背景の区別が付き難いのから読み辛くなっている。

処が字で無く自然の景色等となると時として様相が反転し、個別の造形より全体の印象のリアルさが大事になって来る。
ここで文字は人工物・景色は天然物なのに着目すれば、例え不明瞭でも全体印象に勝ってるのの方が生肉眼と近い事となるのだ。
目も耳同様「見たいのだけ見る」機能があるので、これを抜きにしてボーっと眺めたものなら実際がこうなってる筈だ。

音での俺的代表例としてはSONY MDR-CD900STとKOSS PRO4AAの音質比較が推しだが、本件比較観点では前者は音量が小さい方・後者は大きい方へより特化されている。
どちらも実績充分な業務用なので苦手側使用でも聴き取れなくはならないが、前者は過剰演出でウルサく後者は人側が集中してないと聴き洩らす位目立たなくなってしまう。

業務用モニタなんだから聴き取り第一なので煩かろうと聴こえればと皆さん思うだろうが、それは機械面だけの都合でしかない。
プロであっても聴くのが人である以上、疲労の影響は全く無視出来ぬのだ。
1日中連続でそれなりの音量で聴く等の状況下では、疲労度は最早死活問題となって来る。
なのでせめてそんな時は後者しか使いたくない、俺はそう感じている。

これの如く近年俺が気になるのが、機械的技術のみへの偏重だ。
かつてのは技術レベル不足からの苦肉の策だったとは思うが、どんなのにも実使用面にもっと配慮がなされていた。
前出の例だと「ボーっとしてても耳に入る」だけなら楽だが、その分不要なのもみな煩いのでは疲れさせられる。
「集中してないと」の方はその負担は掛かるがそれ以外は楽となると、状況次第で割合は変動するが疲労度の大略は似た様なもんだ。

しかも大音量時には後者の特性はニュートラルとなるのを思うと、小音量がデフォでないならCD900は過労ヘッドホンと言えなくも無い。
楽器やPAでも近年の誤った明瞭化一筋には、大いに警鐘を鳴らしておきたい。
近年楽器の音の中へ古いのを持ち込むと一聴地味に感じられたりするが、録ってみればそれ程でも無いのは前に記した。

これから紐解くとある程度以上の明瞭度は必要だが、過剰となれば他楽器音を阻害するだけとなる点だ。
これは歌が不要に目立ち過ぎて伴奏が聴けなくなるのも同様で、俺言い「明瞭度競争」は最終的には音楽に死をもたらすのみと吠えとこう。
要するにキリが無いし、皆が一斉に押し駆ければ結局は区別が付かなくなっちまうだけなんだよねぇ。

バーゲンセールへ挑む恥も外聞も捨てたオバチャン達の仁義無き戦い、そんなのが必要なのは音楽ではかなり少ないと思うが如何かな。
格好良く決めたつもりのジェイポッパー、その実上記のオバチャンと何ら差異無しに見えてたら辛いんじゃないスカ。
こんなのを避けるには小音量時の為の明瞭度であっても、必要最低限に留めておくのが肝要だ。

何より精神と健康を蝕むしか無いのが大音量時の不要明瞭化で、ゼスチャーに変換して考えればどうだ。
動きが小さいと区別が付き難いから、何らかの演出的強調がある方が分り易い。
だが充分に大きなそれと分かる動きがもう出来てるなら、余計な添加物は純度を下げるだけなのだ。

この場合疲労度も音量に比例して大きくなってるから、幾ら明瞭度を上げたって疲れ過ぎたらもうマトモになんか聴けなくなるから意味が無いのだよ。
そもそもかつて大音量が流行ったのだって、バカでかい割には意外と気持ちいいぞがあったから。
Guitarを歪ませるのだって同じで、下手が闇雲にFUZZったのしかなかったらここ迄一般化しなかった。

とどのつまり音楽聴取に於ける明瞭度とは、ワサビやスパイスと似た様なもんって訳。
足りないとそれこそ物足りないが、多過ぎたら辛くてもう食べられませんって。
多過ぎだとそれを付けた元の素材の味は、ハイもう分かりませんね。
ブラック発想ではその為にわざとやってるなんて云う…。

俺体験例で挙げられるのに、Deep PurpleのMachine Headを初めて耳にした時の感想がある。
当時小学生になったばかりだったしその手のを耳にした経験も皆無だったが、「何でこんなに歪んでるのに綺麗なんだろう」と思ったものだった。
この音より後で生まれた人には、無理そうだけれど…。

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